2018年10月22日月曜日

「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

外的視点、内的視点

【「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
 「さらに、ルールの「内的」側面および「外的」側面から以下のような対比をしてみると、これによって法だけでなくどんな社会の構造の理解にとっても、何がこの区別を非常に重要にしているかが明らかにされるであろう。社会集団に一定の行為のルールがあるという事実は、密接に関係しているが異なった多くの種類の主張をなす機会を与えている。というのは、ルールにかかわる場合として、自分自身はルールを受けいれないような単なる観察者の場合か、あるいは行為の指針としてルールを受けいれ用いる集団の一員の場合かがありうるからである。そして、これらをそれぞれ「外的視点」、「内的視点」と呼ぶことにしよう。外的視点からの陳述にはそれ自体さまざまな種類がある。なぜならば、観察者は彼自身ルールを受けいれないでいながら、集団がそれを受けいれていることをのべ、そうして《彼ら》が内的視点に立ってどのようなしかたでルールにかかわるかに外側から言及するだろうからである。しかし、ルールが、たとえばチェスやクリケットのようなゲームのルールまたは道徳のルールや法のルールのように、どんなものであっても、われわれはもし望むなら集団の内的視点に外側からさえ言及しない観察者という立場もとりうるのである。このような観察者は、部分的にはルールへの一致が見られる観察可能な行動の規則性、そしてそれに続くルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰という形での規則性を記録するだけで満足する。その後、外的観察者は観察された規則性をもとにして、逸脱と敵対的な反作用を関連づけ、そして集団の正常な行動からの逸脱は敵対的な反作用や処罰にあうかもしれない可能性をかなりの成功度で予測し、その可能性を算定できるだろう。そのような知識によって集団について多くの事が明らかにされるだけでなく、観察者はその知識なしに集団のなかで生活しようとすればおそらくこうむるだろう不快な結果を避けて生活できるだろう。
 しかし、もし観察者がこの極端な外的視点を本当に固執して、ルールを受けいれている集団の構成員がどのように彼ら自身の規則だった行動を見ているかについてまったく説明しないならば、彼らの生活についての彼の記述は決してルールに関するものでありえないし、したがってルールに依拠している責務や義務の概念に関するものでありえない。そうではなくて、彼の記述は行為の観察可能な規則性、予測、蓋然性、しるしに関するものであろう。そのような観察者にとっては、集団の一員が正常な行為から逸脱したことは、敵対的な反作用がおそらく生じるだろうというしるしであってそれ以上のものでないだろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.98-99,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:外的視点,内的視点)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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