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2019年11月19日火曜日

4.消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由

【消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)消極的自由
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。


 「自由という言葉(わたしは freedom も liberty も同じ意味で用いる)の政治的な意味の第一は――わたくしはこれを「消極的」negative な意味と名づけるのだが――、次のような問いに対する答えのなかに含まれているものである。

その問いとはつまり、「主体――一個人あるいは個人の集団――が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている、あるいは放任されているべき範囲はどのようなものであるか」。

第二の意味――これをわたくしは「積極的」positive な意味と名づける――は、次のような問い、つまり「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。

この二つの問いは、それへの解答は重複することがあるにしても、それぞれ明らかに区別されるちがった問いなのである。

 「消極的」自由の観念

 ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だといわれる。

この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。

もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができる。

しかしながら、強制とは、することのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。

強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。

あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。

このことは、「経済的自由」とか、その反対の「経済的隷従」とかいう最近の用語法からも引き出せる。

もしあるひとがたいへん貧乏であって、法律的になんら禁じられていないもの――たとえば一塊のパンとか世界旅行とか法廷への依頼とか――を手に入れたり、やったりできないときには、そのひとはそれがかれに法律によって禁じられているときと同じように、それを手に入れたりやったりする自由がないのだ、とまことにもっともらしく主張されている。

もしもわたくしの貧乏が一種の病気のようなもので、これによってわたくしが、ちょうど跛で走れないというのと同じく、パンを買ったり世界旅行の費用を支払ったり、あるいは訴訟を審理させたりすることができないというのであるならば、このできない状態は決して自由の欠如と呼ばれない、ましてや政治的自由の欠如とは呼ばれないのはもちろんのことであろう。

自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ、自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられるからなのである。

いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。

手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているという(たんに貧乏のことをいうのではなくて)のは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。

さらにいえば、自分が不正ないし不公平と考えている特定の社会のしくみによって窮乏状態におかれているのだと信ずる場合に、この経済的隷従とか抑圧とかが口にされるわけである。

「事物の自然はわれわれを怒らせたり狂乱させはしない。ただ悪意のみがそうさせるのだ」と、ルソーはいっている。

抑圧であるかどうかの規準は、わたくしの願望をうちくだくのに直接・間接に他の人間によって演じられると考えられるその役割にある。

この意味において自由であるとは、他人によって干渉されないということだ。

 干渉を受けない範囲が広くなるにつれて、わたくしの自由も拡大されるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,pp.9-12,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由,消極的自由,故意の干渉や妨害,放任,物理的制約,身体的制約,病気や障害)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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