2018年6月22日金曜日

固有名の意義とは? 固有名の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

固有名の意義、固有名の意味

【固有名の意義とは? 固有名の意味とは?(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

記号   ⇔ 記号の意義   ⇔ 記号の意味

固有名    記号によって    記号によって
       表現された     表示された
       対象の様態     特定の対象

宵の明星 ⇔ 太陽が沈んだ後、⇔(金星)
       西の空にどの星
       よりも先に、一
       番明るく輝いて
       いる星。

明けの明星⇔ 太陽が昇る前に、⇔(金星)
       東の空にどの星
       よりも後まで、
       一番明るく輝い
       ている星。

金星   ⇔ 太陽系で、太陽 ⇔(金星)
       に近い法から二
       番目の惑星。

 「例えば、a,b,cが、それぞれ三角形の各頂点とその対辺の中点とを結ぶ線分であるとしよう。このとき、aとbとの交点は、bとcとの交点と同一である。したがって、我々は同一の点に対して二つの異なる表記を得たことになる。そして、この二つの名前、すなわち、「aとbとの交点」と「bとcとの交点」という二つの名前は、また同時に、表示されたものの与えられる様態をも示す(deuten)ゆえに、この文には、実質的(wirklich)な認識が含まれることになる。
 従って、記号(名前、語結合(Wörterverbindung)、文字)に結び付くものとして、その記号によって表示されたもの、すなわち、記号の意味(Bedeutung)と呼ぶことのできるものに加えて、記号の意義(Sinn)と私が名づけたいものを考慮するべきである。そして、表示されたものの与えられる様態は、その記号の意義の中に含まれることになる。この考え方に従うならば、上述の例に関しては、「aとbとの交点」という表現の意味と「bとcとの交点」という表現の意味とは同一であるが、この二つの表現の意義は異なることになる。同様に、「宵の明星」と「明けの明星」の意味は同一であるが、それらの表現の意義は同一ではないということになるであろう。
 以上の議論の脈絡から明らかになることは、まず私がここで「記号(Zeichen)」や「名前(Name)」として理解しているものが固有名(Eigenname)の役割を果たす何らかの表記手段であるということと、それゆえに、その記号法の意味は特定の対象(Gegenstand)(ただし、この語を最も広い意味において理解するとして)であり、他の論文でさらに詳しく検討するはずの概念(Begriff)や関係(Beziehung)ではないということである。また、一つの個別的な対象を表示する記号が、複数の語、あるいは、その他の記号から構成されているということもありうる。したがって、簡単のためにそのような機能を果たす表記を一括して固有名と名づけることが許されるであろう。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』26-27、フレーゲ著作集4、pp.72-73、土屋俊)
(索引:記号、固有名、対象、固有名の意味、固有名の意義)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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モリナ主義への反論。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

モリナ主義への反論

【モリナ主義への反論。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
モリナ主義の「中知」  (再掲)
(c) この宇宙において、ある一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象。神にとっては、直視の知と叡智の知との間の「中知」、人間は自由意志の行使により、これを知る。すなわち、ある一定の条件が現実化すると、人間はその状況では「自由」に為し、しかもその自由意志には「誤用」もあり得る。

(d) 人間の自由意志がそこで発現するという、ある一定の条件が現実化するにしても、この条件の成就自体がやはり、この宇宙の法則によって支配されているだけでなく、この条件において人間の自由意志がいかにして発現するかについても、法則に支配されているはずであり、「行為を条件から切り離そうとしても、それはできないことであろう。」
(e) モリナ主義者は、条件から切り離された純粋な自由意志、すなわち「人間の良き資質」そのものが、この宇宙の原理・法則でもあり得ると考えたが、これは全宇宙を支配する統一的な法則という点から、満足できるものではない。
(f) ある人は、中知は単純叡智の知に包含されるべきだと考えた。

中知は単純叡智  (再掲)
(a) この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。

 「四一―――私はこの論争の詳細には立ち入らない。一つの典型的な例を示すだけで十分である。聖アウグスティヌスや彼の初期の弟子たちはこのような考え方をよしとはしなかっただろうが、幾人かの古代の人たちはモリナの考えに極めて近かったと思われる。トマス主義者や聖アウグスティヌスの弟子と呼ばれた人々(しかし論敵はこの人たちをヤンセン主義者と呼んでいた)はこの教説を哲学的にも神学的にも論駁した。ある人は、中知は単純叡智の知に包含されるべきだと考えた。しかし主要な反論はこの知の基礎に向けられている。というのも、ケイラの人々がしようとしたことを知るために神はいかなる基礎を有しているのだろうか。一回の偶然かつ自由な行為は、それが神の決意やそれに依存した原因により先定されたものと考えられない限りは、それだけでは確実な原理を与え得るものを含みはしない。それゆえ、現実的に自由な行為の内に見出される困難は条件的に自由な行為の内にも見出せることであろう。つまり、神がこの条件的に自由な行為を認識するのは、その行為の原因を条件とするとき、また事物の第一原因たる神の決意を条件とするときに限られるであろう。そのため、ある偶然的事象を原因の認識から独立した仕方で認識しようとして行為を条件から切り離そうとしても、それはできないことであろう。したがって、すべては神の決意の先定へと還元すべきだということになろう。そしてそれゆえ、(言うところの)中知は無用の長物となり果てるであろう。聖アウグスティヌスに近いと自認している神学者たちは、モリナ主義者の考え方に基づくと人間の良き資質の内に神の恩寵の源泉を見出すことになるだろうとも考えたが、しかしそのような考え方は神の栄光に反するし聖パウロの教説にも反すると判断した。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第一部]四一、ライプニッツ著作集6、p.152、[佐々木能章・1990])
(索引:自由意志、モリナ主義、モリナ主義への反論)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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