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2019年4月2日火曜日

4.(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサム道徳論の限界を超える

【(a)行為の望ましさは、外面的利害だけでなく、感情や意志の陶冶にもかかわる、(b)理性に基づく道徳的判断を推進する諸動機は、快・不快と利害に関する欲求だけでなく、自らの精神のあり方を対象とする諸感情を含む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)、(b.4)追記。
(2.5.1)~(2.5.3)追記。
(3.2.1)、(3.2.2)追記。


(1)人間が持つ欲求、感情、傾向性
 (a)有害なものを避け、幸福を願う欲求
 (b)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情
  (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
  (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
  (b.3)共感
  (b.4)一般的博愛:義務の感情や個人的利害からではなく、誰でもが抱く博愛の感情
  (b.5)愛することへの愛:同情的な支持を必要とすること。
    また賞賛、崇敬する対象を必要とすること。
  (b.6)良心の感情:是認したり非難したりする感情
  (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
  (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
  (b.9)芸術家の情熱である美への愛
  (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
  (b.11)運動や活動、行為への愛
(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
(3)ミルの考え
 (3.1) 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)だけでなく、その他の欲求や感情(b)も、何が望ましいのかに関する理性による判断の要素ともなり得るし、経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機の一つともなっている。
  (3.2.1)何が望ましいのかに関する理性による判断:道徳は2つの部分から構成されている。
   (i)人間の外面的な行為の規制に関するもの。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の世俗的利益に対してどのような影響を及ぼすか。
   (ii)自己教育:人間が自分で自分の感情や意志を鍛練すること。
    ある行為が、私たち自身や他の人々の感情や欲求に対してどのような影響を及ぼすか。
  (3.2.2)経験や理論に基づく理性による判断を推進させている人間の諸動機。
   (i)自己涵養への願望のようなもの。
   (ii)自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情。
   (再掲)
    (b.1)完全性への欲求:あらゆる理想的目的をそれ自体として追求すること
    (b.2)あらゆる事物における秩序、適合、調和や、それらが目的にかなっていることへの愛
    (b.7)個人の尊厳:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる高揚の感情
    (b.8)廉恥心:他者の意見とは無関係に、自分自身について感じる堕落の感情
    (b.10)私たちの意思を実現させる力への愛
    (b.11)運動や活動、行為への愛

 「共感はベンサムが私欲によらない動機として認めていた唯一のものであるが、それはある限定的な場合を除けば有徳な行為を保証するものとしては不十分なものであると彼は思っていた。

他のあらゆる感情と同じように、個人的愛情は第三者に危害をもたらしがちであり、したがってつねに抑制される必要があるということを彼はよく理解していた。

人類全体に作用する動機と考えられている一般的博愛については、それが義務の感情と切り離されたときに現われる本当の価値を評価し、あらゆる感情のなかでもっとも弱くもっとも不安定なものとした。

人類が影響を受け、彼らを善に導くかもしれない一つの動機として、個人的利益だけが残された。したがって、ベンサムの世界観は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている集合体というものであり、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことは3つの源泉――法律、宗教および世論――から生じる希望と恐怖によって防止されなければならないというものである。

人間の行為を拘束するものとみなされたこれらの3つの力に対して、彼は《強制力》(sanction)という名称を与えた。すなわち、法律の与える賞罰によって作用する政治的強制力、宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する宗教的強制力、彼が特徴的に《道徳的》強制力とも呼んでいる、私たちの同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する《民衆的》強制力である。


 このようなものが世界についてのベンサムの見解である。これから私たちは、弁明しようという精神でも非難しようという精神でもなく、冷静に評価しようという精神をもって、人間本性や人間の生についてのこのような見方がどの程度まで通用するのか――すなわち、それは道徳においてどれほどのことを成し遂げるのか、また、政治・社会哲学においてどれほどのことを成し遂げるのか、さらに、個人にとってどのように役に立ち、社会にとってどのように役に立つのか――を検討することになる。

 これは個人の行為については、世俗的な慎慮と表面的な誠実さや慈愛についてもっとも明白な指示をいくつか示すこと以上には何の役にも立たないだろう。

個人の性格形成に際して助けになろうとしないような、また自己涵養への願望のようなもの、さらにはそのような能力と言ってもよいだろうが、そのようなものが人間本性に存在していることを認識しないような倫理学体系のもつ欠陥については詳述する必要はない。

そして、仮に認識していたとしても、自らの精神のあり方を直接の対象とするあらゆる精神的感情を含めた、人間が抱きうる精神的感情の約半数の存在を見落としているために、人間のこの重要な義務にとってほとんど助力を与えることができていないようなものについても同様である。

 道徳は2つの部分から構成されている。そのひとつは自己教育、すなわち人間が自分で自分の感情や意志を鍛練することである。この領域はベンサムの体系においては空白である。

もうひとつの同等の部分は、人間の外面的な行為の規制に関するものであるが、第一のものがなければ、まったく不十分で不完全なものであるに違いない。

というのも、ある行為が私たち、あるいは他の人々の感情や欲求を規定する際にどのような影響を及ぼすかということを問題の一部として考慮しないとしたら、ある行為が私たち自身、あるいは他の人々の世俗的利益に対してどのような仕方で多くの影響を与えるかを、私たちはどのようにして判断できるだろうか。

ベンサムの原理に立脚している道徳論者も、殺すなかれ、放火するなかれ、盗むなかれという程度のことには到達できるだろう。

しかし、人間の行為のより微妙な違いを規定したり、この世界の状況に影響を及ぼすこととはまったく別に、性格の深みに影響するような人間の生についての事実――たとえば、男女間の関係、家族一般の関係、その他の何らかの親密な社会的・共感的関係など――に対して、より重要な道徳性を認める能力があるだろうか。

これらの問題の道徳性は、ベンサムがその適格な判定者でもなく、彼が決して考慮することのなかったような事柄を考察することに左右されるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.130-132,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳論,自らの精神のあり方を対象とする諸感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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