2018年11月3日土曜日

規範的ルールは、社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。社会的慣行とルールが、別の行動様式の正当な根拠であると主張され得るような期待が形成されているとき、一つの規範的ルールが存在している。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

社会的慣行と規範的ルールの関係

【規範的ルールは、社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。社会的慣行とルールが、別の行動様式の正当な根拠であると主張され得るような期待が形成されているとき、一つの規範的ルールが存在している。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 規範的ルールは、ある社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。
(1)従って、正当化される規範的ルールは、社会的慣行と同じ内容を持つとは限らない。
(2)ある社会的慣行が存在したとしても、その慣行がそのまま規範的ルールとして受け容れられるわけではない。ある人が、当の社会的慣行を無意義なものと考えていれば、この社会的慣行が何らかの義務や規範的な行動規準を正当化するなどとは考えないだろう。
(3)ある社会的慣行は、規範的ルールを正当化するために援用される。
(4)元の社会的慣行とは別のある行動様式が形成され、この行動様式の正当性の根拠が、元の社会的慣行と規範的ルールであると主張され得るような期待が形成される。

規範的ルール
 │↑↑
 │││解釈、規範的判断
 ││└社会的慣行a
 │└─社会的慣行b
 └─→別の行動様式c

 「規範的判断がしばしば社会的慣行を、当の判断根拠の本質的要素とみなしていることは確かであり、慣習的道徳の本質的特徴もこの点に存することは既に述べた。しかし社会的ルール理論は、両者の関係を誤解しているのである。この理論は社会的慣行がそれのみでルールを「構成」し、このルールを規範的判断が受け容れるものと考えている。ところが実際は、社会的慣行は規範的判断が提示するルールを「正当化」するために援用されるにすぎない。教会で帽子を脱ぐ慣行が存在する事実は、このような趣旨の規範的ルールの主張を正当化するが、これは、当の慣行がそれ自体で、規範的判断により提示され是認されるルールを構成するからではなく、違反となるような行動様式が慣行から形成され、教会で帽子を脱ぐ義務やこの義務を示す規範的ルールの主張の正当根拠となるような期待が、慣行から生ずるからなのである。
 社会的ルール理論の誤りは、ある社会的慣行が、この慣行の存在を根拠として個人が主張するルールと何らかの意味で同一の「内容」を有する、という見解に由来する。しかし慣行は単にルールを正当化するにすぎないことを認めれば、このようにして正当化されるルールが慣行と同じ内容をもつこともあればもたないこともあるし、慣行に含まれるほどの内容をもたないことも、またそれ以上の内容をもつこともありうることになる。社会的慣行と規範的主張の関係をこのような仕方で把握すれば、我々は社会的ルール理論が苦心して説明しようとすることを難なく説明できるだろう。ある社会的慣行を無意義なものとか愚かで無礼なものとか考える人は、何らかの義務や規範的な行動規準がこの慣行により正当化されることは原理的にでさえありえない、と考えるだろう。この場合彼は、当の慣行は彼に対し義務を課するがこの義務を彼は拒絶する、とは言わず、当の慣行は他人がどう考えていようと、そもそもいかなる義務をも彼に課さない、と主張するだろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,1 社会的ルール,木鐸社(2003),p.65,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:社会的慣行,規範的ルール)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

行為遂行的文、行為遂行的発言

【適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】
 「(例a)「そうします。(I do.)(すなわち、私はこの女性を、私の法律上婚姻関係にある妻と認めます。)」――ただし、結婚式の進行の中で言われた場合。
(例b)「私は、この船を『エリザベス女王号』と命名する。(I name this ship the Queen Elizabeth.)」――ただし、船首に瓶をたたきつけながら言われた場合。
(例c)「私は、私の時計を弟に遺産として与える。(I give and bequeach my watch to my brother.)」――ただし、遺言状の中に記された場合。
(例d)「私はあなたと、明日雨が降る方に6ペンス賭ける。(I bet you sixpence it will rain tomorrow.)
 以上の例においては、それぞれの文を述べる(もちろん適当な状況のもとにおいて)ことは、私がかくかくと述べている際に私が行うと述べられているその当のことを実際に行なっているという私の行為を記述することではなく、また、その当の行為を私が行なっているということを陳述しているのでもないということは明白なことであろう。そこでは、その文を口に出して言うことは、当の行為を実際に行なうことにほかならないのである。また、これらの発言のどれをとっても、それらは真でもなければ偽でもない。私はこのことを自明のことであると主張し、それについて議論することはしない。それはあたかも「畜生」(damn)という間投詞が真でも偽でもないのとまったく等しく議論を要しないことであろう。この発言はあるいは、「何ごとかを伝達するために使われている」といえるかもしれない。しかし、このことは当面問題にしていることとはまったく関係のないことである。要するに、船を命名するということは、(適当な状況において)「私はかくかくしかじかと命名する」という言葉を言うことと《同じ》ことであり、また、戸籍役人や聖職者などの前で「そうします」と言う時に、私は、結婚という事件を報告しているのではなく、その事件に当事者として参与しているのである。
 さて、今ここで考えられた種類の文ないし発言を何と名づけるべきであろうか。私としては、それらを行為遂行的文(performative sentence)ないし、行為遂行的発言(performative utterance)、あるいは、簡単に「遂行文」ないし「遂行的発言」(performative)と呼ぶことを提案したい。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第1講 序論――行為遂行的発言とは何か,ⅱ行為遂行的発言の予備的分離,pp.10-12,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:行為遂行的文,行為遂行的発言)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

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15.在るべき法の由来:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示によるか、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【在るべき法の由来:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示によるか、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)在るべき法は、主観主義的、相対主義的、非認知的なものであるという考え。
 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 (1.1)ある哲学は、価値言明が感覚や感情や態度などの主観的選好の表現であると考えた。
 (1.2)ある哲学は、価値言明というものは、ある個別具体的なケースが、行為の一般的な原則や方針の下に包摂されることを示すものであると考えた。そして、この一般的な原則や方針は、人間に対して何かしら一種の普遍的な命令として直感されるようなものとして理解された。
 (1.3)ある哲学は、価値言明というものが、ある特定の目的を促進するものであると理解する。そして、私たちは、その目的のために何が適切な手段であるかを合理的に議論したり発見したりできる。しかし、目指される目的自体は、意志の命令あるいは感情や選好や態度の表現であるとされる。
(2)在るべき法には、何らかの普遍的な根拠があるという考え。
 しかし、人間の感覚や感情、態度の主観的選好は何に由来するのか。何かしら命令的なものとして与えられる一般的な原則や方針は、何に由来するのか。目指されるものとして感知される目的は、何に由来するのか。
 (2.1)道徳原則は、功利に関する実証可能な命題である。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (2.2)究極的な道徳原則は、啓示によって、またその指標としての功利を通して知ることができる。(ジョン・オースティン(1790-1859))
(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4)在るべき法は、(3)の意味で、ある社会における社会的ルールの存在の事実の有無として客観的に論証可能なものであり、その社会の内においては相対主義的なものではない。ただし、異なる社会は、異なるルールを持ち得る。この意味では、相対的なものである。しかし、人類全体において認められる社会的ルールは、事実上、普遍的なものとなる。それでもなお、これら普遍的な諸ルールが、自然を支配している諸法則に、いかに由来しているのかと問うことができる。(未来のための哲学講座)

 「「法実証主義」に対して強く抵抗している人びとに最も反感を持たせていると思われるものを、結論を述べるにあたって考察しないならば、片手落ちであろう。

在る法と在るべき法との区別の強調は、道徳的判断、道徳的区別、また、「価値」のまさに本質に関しての「主観主義的」「相対主義的」ないし「非認知的」な理論と呼ばれるものに基礎を置き、それを必要としている、と受け取られるかもしれない。

もちろん、功利主義者たち自身は、彼らの道徳哲学が私たちからみていかに不十分なものであるにせよ、(ケルゼンのような後の実証主義者とは異なり)そのような理論を支持していない。

オースティンは究極的な道徳原則は、啓示によってそして功利という「インデックス」を通して知ることのできる神の命令であると考えていたし、ベンサムは道徳原則を功利に関する実証可能な命題であると考えていた。

しかるに、私の考えるところでは(証明はできないのだが)、在る法と在るべき法との区別の主張は、「実証主義」という一般的題目の下で、ある道徳理論、すなわち、何が起こっているのかという言明(「事実の言明」)はどうあるべきかという言明(「価値言明」)とは根本的に異なるカテゴリーないしタイプに属するという道徳理論と混同された。

したがって、この混同の源を取り除いておく方がよいと思う。

 このタイプの道徳理論は、現在さまざまなものが存在している。

ある理論によれば、在るべきこと、なされるべきことについての判断は、「感覚」や「感情」や「態度」の、また、「主観的選好」の表現であるか、または、それらを本質的要素として含んでいる。

別の理論によれば、そのような判断は、感覚や感情や態度の表現であるとともに他人にそれらを共有するように命令するものである。

また別の理論によれば、そのような判断は、行為の一般的な原則や方針の下に、ある個別具体的なケースが包摂されることを示すものである。

この原則や方針というのは、判断者が自ら「選択」し、「遵守すると決心」し、そして、それ自体何が起こっているかという認識ではなく、判断者自身も含めたすべての人へ向けられた一般的「定言命令」ないし命令とでもいうべきものである。

これら各説が共通して主張しているのは、なされるべきことについての判断は、「非認知的」要素を含んでいるので、事実の言明のように合理的な方法で議論、論証することはできず、また、事実の言明から導かれることを示すこともできず、なすべきことについての判断を事実の言明と結合したところから導かれるにすぎない、ということである。

このような理論に依拠するならば、たとえば、ある行為は悪いということを証明しようとすると、その行為は行為者が自己満足のためだけに故意に苦痛を加えるものであることを示すだけでは足らない。

そういう実証可能な「認知的」な事実の言明に、そのような状況の下での苦痛を加える行為は悪い、なすべきではないという原則、それ自体は実証可能でも「認知的」でもない一般的な原則を付け加えてはじめて、その行為が悪いということを示すことができる。

在るものと在るべきものとのこの一般的な区別に加えて、手段についての言明と道徳的目的についての言明との間でもそれに平行する厳格な区別がなされる。

私たちは、何かが与えられた目的にとって適切な手段であるかを、合理的に発見したり議論したりできるが、しかし、目的というものは、合理的に発見したり議論したりできるものではない。

それは、「意志の命令」であり、「感情」や「選好」や「態度」の表現であるとされる。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.90-91,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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