社会的慣行と規範的ルールの関係
【規範的ルールは、社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。社会的慣行とルールが、別の行動様式の正当な根拠であると主張され得るような期待が形成されているとき、一つの規範的ルールが存在している。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】規範的ルールは、ある社会的慣行の解釈であり、一つの規範的判断である。
(1)従って、正当化される規範的ルールは、社会的慣行と同じ内容を持つとは限らない。
(2)ある社会的慣行が存在したとしても、その慣行がそのまま規範的ルールとして受け容れられるわけではない。ある人が、当の社会的慣行を無意義なものと考えていれば、この社会的慣行が何らかの義務や規範的な行動規準を正当化するなどとは考えないだろう。
(3)ある社会的慣行は、規範的ルールを正当化するために援用される。
(4)元の社会的慣行とは別のある行動様式が形成され、この行動様式の正当性の根拠が、元の社会的慣行と規範的ルールであると主張され得るような期待が形成される。
規範的ルール
│↑↑
│││解釈、規範的判断
││└社会的慣行a
│└─社会的慣行b
└─→別の行動様式c
「規範的判断がしばしば社会的慣行を、当の判断根拠の本質的要素とみなしていることは確かであり、慣習的道徳の本質的特徴もこの点に存することは既に述べた。しかし社会的ルール理論は、両者の関係を誤解しているのである。この理論は社会的慣行がそれのみでルールを「構成」し、このルールを規範的判断が受け容れるものと考えている。ところが実際は、社会的慣行は規範的判断が提示するルールを「正当化」するために援用されるにすぎない。教会で帽子を脱ぐ慣行が存在する事実は、このような趣旨の規範的ルールの主張を正当化するが、これは、当の慣行がそれ自体で、規範的判断により提示され是認されるルールを構成するからではなく、違反となるような行動様式が慣行から形成され、教会で帽子を脱ぐ義務やこの義務を示す規範的ルールの主張の正当根拠となるような期待が、慣行から生ずるからなのである。
社会的ルール理論の誤りは、ある社会的慣行が、この慣行の存在を根拠として個人が主張するルールと何らかの意味で同一の「内容」を有する、という見解に由来する。しかし慣行は単にルールを正当化するにすぎないことを認めれば、このようにして正当化されるルールが慣行と同じ内容をもつこともあればもたないこともあるし、慣行に含まれるほどの内容をもたないことも、またそれ以上の内容をもつこともありうることになる。社会的慣行と規範的主張の関係をこのような仕方で把握すれば、我々は社会的ルール理論が苦心して説明しようとすることを難なく説明できるだろう。ある社会的慣行を無意義なものとか愚かで無礼なものとか考える人は、何らかの義務や規範的な行動規準がこの慣行により正当化されることは原理的にでさえありえない、と考えるだろう。この場合彼は、当の慣行は彼に対し義務を課するがこの義務を彼は拒絶する、とは言わず、当の慣行は他人がどう考えていようと、そもそもいかなる義務をも彼に課さない、と主張するだろう。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,1 社会的ルール,木鐸社(2003),p.65,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:社会的慣行,規範的ルール)
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(出典:wikipedia)
 「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
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 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
 「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」 


 
 「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。 
 
 
 


 
 
