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2022年3月2日水曜日

現行制度の改善提案に対して、それは理想論であって現実は違うという批判がなされる。現実に可能な制度が現行のものだけだという批判は、人類史における事実に反している。単純で小規模な社会では可能だが現在は不可能だという批判も、我々の技術や社会的可能性の過小評価だし、未来を閉ざす不条理な批判だ。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

何が現実的な解決なのか

現行制度の改善提案に対して、それは理想論であって現実は違うという批判がなされる。現実に可能な制度が現行のものだけだという批判は、人類史における事実に反している。単純で小規模な社会では可能だが現在は不可能だという批判も、我々の技術や社会的可能性の過小評価だし、未来を閉ざす不条理な批判だ。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




 「人類学者として、わたしはこのような議論に、終始、対応している。
  疑う人:きみはじぶんのユートピアの夢を好きなように夢想すればいい。でもぼく は、現実にうまく作動する政治的ないし経済的システムの話をしてるんだ。それに、いまのこ の世界が現実にただひとつの選択肢であることは、経験が語ってるだろう。
わたし:ぼくたちのこの、制限代表制政府――あるいは企業資本主義――という特殊 な形態が唯一の可能な政治的あるいは経済的システムだって? そんなことはないって、経験 が語ってるよ。もし人類史をみるならば、何百いや何千という異なった政治的・経済的システ ムがあることがわかる。それらの多くは、ぼくらの社会とは、いっさい似てないよ。
疑う人:そりゃそうだろう。でもきみのいっているのは、単純で小規模な社会と か、単純なテクノロジー的基盤の社会じゃないか。ぼくのいっているのは、近代的で複雑でテ クノロジー的に進歩した社会のことさ。だからきみの反例は、意味がないんだ。
わたし:ちょっと待って。テクノロジー的進歩が、ぼくらの社会的可能性を制約し ているっていってるの? ふつうそれとは逆に考えられてるとおもうんだけど。
  しかし、もしあなたがここで折れて、とても多様な経済システムがかつてはあっていまと変 わらないほど活気あるものだったとしても、近代的産業テクノロジーはもはやそのような多様 性のありえない単一の世界を形成してしまったのだ、と認めたとしよう。だとしても、ありう るどんな未来のテクノロジーの体制においても、それでもいまの経済体制が可能な唯 一の体制であるなどと、いったいだれが本気で議論できるのだろうか? そうした主張が不条 理であることは自明である。そもそも、いったいどうやってわたしたちはそれを確証できると いうのか?」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,2 空飛ぶ自動車と利潤率の傾向的低下,pp.205-206,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳)) 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








権力は人を怠け者に仕立てる。それは制度化された怠惰の諸形態と化しているのである。この計算された無知を克服して、想像力への束縛を解き放ち、不可能なことが 全く不可能ではないと自覚できるには、どうすれば良いのか。社会理論には果たすべき役割があるのではないか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

制度化された怠惰の克服

権力は人を怠け者に仕立てる。それは制度化された怠惰の諸形態と化しているのである。この計算された無知を克服して、想像力への束縛を解き放ち、不可能なことが 全く不可能ではないと自覚できるには、どうすれば良いのか。社会理論には果たすべき役割があるのではないか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「権力はひとを怠け者に仕立てる。ここまでの構造的暴力についての理論的議論があきらか にした点があるとすれば、このことである。すなわち、権力や特権をそなえた状況にある者 は、しばしば重責を背負っていると感じているものであるが、しかし、大部分の場合におい て、権力とは、ひとがそれについて考える必要の《ない》もの、知る必要の《ない》もの、行 う必要の《ない》ものにかかわっているのである。官僚制やこの種の権力を、少なくともある 程度は民主化することもできる。だが取り除くことはできない。それは制度化された怠惰の諸 形態と化しているのである。革命的変化は、想像力への束縛を解き放つ高揚、不可能なことが まったく不可能ではないという突然の自覚の高揚をふくむものであろう。だが、それはまた、ほ とんどの人びとが、この根深く習慣化された怠惰の一部を克服し、こうした諸現実を確固たる ものにすべき、長い時間をかけて解釈(想像力の)労働に関与しはじめねばならない、という ことをも意味している。 わたしはこの20年間のほとんどを、社会理論がこの過程にいかに貢献できるかについて考察 することに費やしてきた。強調してきたように、社会理論はそれ自体、一種の根本的な単純化 であり、計算された無知の形態、そして、それ以外のやり方ではみえないパターンをあきらか にするよう仕組まれた一連の方向指示器を設定する方法とみなすことができよう。  それゆえ、わたしの試みてきたことは、別の仕方でみることを可能にする一連の方向指示器 の設定なのである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.143-144,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田 和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







2022年3月1日火曜日

研究は本来つねにオープンソースで共生的なものである。このことはもはや、企業部門で働く科学者たちには当てはまらない。知的コモンズの囲い込みは促進され、大企業が、その経済効果への恐れから不都合な発見を買い上げ封殺してしまうといった事例まで存在する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

経営管理主義の専制、研究結果の私有化

研究は本来つねにオープンソースで共生的なものである。このことはもはや、企業部門で働く科学者たちには当てはまらない。知的コモンズの囲い込みは促進され、大企業が、その経済効果への恐れから不都合な発見を買い上げ封殺してしまうといった事例まで存在する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




(a)研究は本来つねにオープンソースで共生的なもの
 イギリスの経済学者であるデイヴィッド・ハーヴィーが最近、述 べているように、「オープンソース」での研究は、決して目新しいものではない。学者による研究は、研究者たちが資料や研究結果を共有するという意味では、つねにオープンソースで あった。なるほど、たしかに競争はある。しかしそれは、かれが巧みに表現しているように、 「共生的」なものである。
(b)研究成果の私有化
 このことがもはや、企業部門で働く科学者たちには当てはまらないことは明らかであ る。彼らの調査結果はがっちりとガードされている。アカデミーや研究施設それ自身の内部 への企業エートスの浸透によって、公的な資金を獲得している研究者にすら、自らの調査 結果を個人資産のように扱うがごとき態度がますます拡大している。
(c)知的コモンズの囲い込み
 公刊物は減少している。 公刊されている調査結果がどんどんアクセス困難なものになって知的コモンズの囲い込みがさ らに促進される、そのような動きに大学出版局も追随している。
(d)自己利益に不都合な発見の買い上げ、封殺
 私有化の形態にはあらゆる種類のものがある。大企業が、その経済効果への恐れから、不都合な発見を単純に買い上げ、封殺してしまうといった事例にいたるまで。こうし たことは、どれもよく知られている。
(e)即時的な成果の要求
 より淫靡なやり口もある。すなわち、とりわけ即時的な成果の見込みがないとき、わずかでも冒険的だったり突飛だったりするような何事もその実行の阻止をくわだてる、経営管理的エートスのありようである。



 「自然科学においては、経営管理主義(managerialism)の専制に、忍びよる研究結果の 私有化がつけ加わるだろう。イギリスの経済学者であるデイヴィッド・ハーヴィーが最近、述 べているように、「オープンソース」での研究は、決して目新しいものではない。学者による 研究は、研究者たちが資料や研究結果を共有するという意味では、つねにオープンソースで あった。なるほど、たしかに競争はある。しかしそれは、かれが巧みに表現しているように、 「共生的」なものである。」(中略)  「このことがもはや、企業部門で働く科学者たちにはあてはまらないことはあきらかであ る。かれらの調査結果はがっちりとガードされている。アカデミーや研究施設それ自身の内部 への企業エートスの浸透によって、公的な資金を獲得している研究者にすら、みずからの調査 結果を個人資産のように扱うがごとき態度がますます拡大している。公刊物は減少している。 公刊されている調査結果がどんどんアクセス困難なものになって知的コモンズの囲い込みがさ らに促進される、そのような動きに大学出版局も追随している。その結果、共生的でオープン ソースの競争は、古典的な市場競争にはるかに類似したものに、ますます横滑りをしているの である。  私有化[民営化]の形態にはあらゆる種類のものがある。大企業が、その経済効果へのおそ れから、不都合な発見を単純に買い上げ、封殺してしまうといった事例にいたるまで。こうし たことは、どれもよく知られている。それとは別に、より淫靡なやり口もある。すなわち、とりわけ即時的な成果の見込みがないとき、わずかでも冒険的だったり突飛だったりするような なにごとのもその実行の阻止をくわだてる、経営管理的エートスのありようである。奇妙なこ とに、インターネットもここでは厄介の種となりうる。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,2 空飛ぶ自動車と利潤率 の傾向的低下,pp.194-196,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳)) 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








アカデミアが、変わり者、図抜けた頭脳、浮世離れのための避難所であっ た時代が存在した。もはやそうではない。そこは今や、プロの自分売り込み人の領域である。研究よりも助成金の申請書、自分の関心や重要な科学的諸問題よりも無難なもの、独創的なアイデアよりも実利的なものが優先される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

科学的創造性の破壊

アカデミアが、変わり者、図抜けた頭脳、浮世離れのための避難所であっ た時代が存在した。もはやそうではない。そこは今や、プロの自分売り込み人の領域である。研究よりも助成金の申請書、自分の関心や重要な科学的諸問題よりも無難なもの、独創的なアイデアよりも実利的なものが優先される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「アカデミアが、変わり者、図抜けた頭脳、浮世離れのための、社会のなかの避難所であっ た時代が存在した。もはやそうではない。そこはいまや、プロのじぶん売り込み人の領域であ る。変わり者、図抜けた頭脳、浮世離れにとって、いまや社会のなかには、いっさいの居場所 がない。  いまだたいてい最小の経費で個人によって研究のおこなわれる社会科学の領域においてすら そうなのだから、物理学者にとって状況がどのように劣悪なものであるか、想像するしかな い。実際、ある物理学者は、諸科学の分野に進路を考えている学生に次のような警告を発して いる。だれか別の人間の小間使いとしてたいてい10年ほど疲弊したあと、ようやく脱出したと おもったら、今度はじぶんの一番のアイデアにあらゆる方向からケチをつけられると覚悟した まえ、と。  『きみは、研究よりも[助成金の]申請書を書くことに、多くの時間を割くことになるだろ う。もっと悪いことに、その申請書を審査するのはきみの競争相手だから、きみはじぶんの関 心のまますすむことはできず、きみの努力と才能を、重要な科学的諸問題を解決するよりは、 批判を予測しかわすことについやさなければならない......オリジナルなアイデアのあるところ申 請書は却下される、これが鉄則なのだ。なんとなれば、そんなアイデアはまだうまく使えるか どうか判明していないから、だ。』  なぜいまだ転送装置とか反重力シューズとかが実現していないかという問いに、これがおお よそ答えてくれている。もし、あなたが科学的創造性を最大化させたいならば、図抜けた頭脳 を探し出し、その頭のなかにあるアイデアを追求するのに必要な資源を与え、それからしばら く放っておく、というのが常識の命ずるところだ。大方、たぶん、なにも成果があがらないだろう。だが、一つか二つ、なにかまったく予期されなかった発見があがるということもありう る。もし、あなたが予期せざるブレイクスルーの可能性をほとんど壊滅させたい[最小化させ たい]と望むなら、このおなじ人間たちに、次のようにいえばよい。たがいに競争しながら、 きみたちが達成するであろう発見が確実であることを、わたしに説得したまえ、そのための時 間はおしむな、さもなくば資金の獲得は望めまい、と。  およそ、これがいまのシステムである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,2 空飛ぶ自動車と利潤率 の傾向的低下,pp.193-194,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






ネオリベラリズムとは、経済的要求に対して政治的要求を体系的に優先させた形態の資本主義である。それは、今あるものとは根本的に異なるであろう避けがたい救済的な未来への可能性を閉じて、資本主義が唯一可能な経済システムであるような見せ掛けを形成するための非生産的な装置を、重要な要素として含む。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

ネオリベラリズム

ネオリベラリズムとは、経済的要求に対して政治的要求を体系的に優先させた形態の資本主義である。それは、今あるものとは根本的に異なるであろう避けがたい救済的な未来への可能性を閉じて、資本主義が唯一可能な経済システムであるような見せ掛けを形成するための非生産的な装置を、重要な要素として含む。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


「ネオリベラリズムの墓碑銘を歴史学者が書き記すとして、経済的要求に対して政治的要求 を体系的に優先させた形態の資本主義であった、という結論は避けられまい。すなわち、資本 主義が唯一可能な経済システムであるような《みせかけ》を形成するであろう行動様式と、資 本主義より活力のある長期的経済システムとしての《存在》にしようとする行動様式のあいだ の選択肢を前にして、ネオリベラリズムはつねに前者を選んできたのである。雇用の安定性を 突き崩しながら労働時間を上昇させるといったやり方が、より生産力ある(いわんや、イノ ベーティヴであったり、献身的であったりする)労働力を形成するであろうか? 実状はこの 正反対といってよいだろう。純粋に経済的観点からすれば、労働市場のネオリベラル改革の帰 結は、ほとんど確実にネガティヴなものである。1980年代と90年代の、世界のほとんどあら ゆる地域での、経済成長率の全般的な低率が、この印象を高める傾向にある。ところが、労働 を脱政治化することにかけては、それはめざましい成功を収めてきたのである。軍隊、警察、 民間セキュリティ・サーヴィスの急成長についても、おなじことがいえる。それらはまったく 不生産的である。つまり、資源の浪費以外のなにものでもない。資本主義のイデオロギー的勝 利を保障するべく形成された装置の重量それ自体が、みずからの重みで当の資本主義を沈没さ せてしまうかもしれない。それも十分にありうるのだ。しかし、労せずしてわかるように、こ れらの装置は、まちがいなくネオリベラルのプロジェクトの重要な一部なのである。世界を支 配する者たちの究極の要請が、いまあるものとは根本的に異なるであろう避けがたい救済的な未来への感覚の可能性を窒息させることにある、とするならば。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,2 空飛ぶ自動車と利潤率 の傾向的低下,pp.185-186,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳)) 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







人間は、自分の仲間に想像上で同一化するのみならず、その結果として、互いの歓びや哀しみを自ずから感じる傾向がある。この同じ仕組みが、構造的暴力の犠牲者に、受益者が犠牲者たちを気 遣うよりもはるかに多く、受益者を気遣うようにさせる。不平等な諸関係を維持する最大の力が、この想像力の構造である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

共感的同一化

人間は、自分の仲間に想像上で同一化するのみならず、その結果として、互いの歓びや哀しみを自ずから感じる傾向がある。この同じ仕組みが、構造的暴力の犠牲者に、受益者が犠牲者たちを気 遣うよりもはるかに多く、受益者を気遣うようにさせる。不平等な諸関係を維持する最大の力が、この想像力の構造である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)共感的同一化(アダム・スミス『道徳感情論』)
 人間というものは、ふつう、自分の仲間に想像上で同一化するのみならず、その結果として、互いの歓びや哀しみを自ずから感じてしまう傾向があ る。
(b)同一化の対象、仲間か支配者か
 しかしながら、貧民は、あまりにいつも惨めな状況にあるため、普通であれば共感力の 豊かな観察者も、端的に圧倒されてしまい、そうとは気づくことなく、彼らの存在を視界か ら抹消してしまうよう余儀なくされる。
(c)偏りのある想像力の構造
 その結果、社会的階梯の底辺に位置する者が、多大なる時間をかけて、頂点にある者たちに見えているものを想像したり、心から気にかけたりする のに対し、その逆はほとんど起きないのである。  




「第二の要素は、共感的同一化の結果として生まれるパターンである。興味深いことだが、 「共感疲れ」といま呼ばれている現象を、はじめて観察したのは『道徳感情論』のアダム・ス ミスであった。かれによれば、人間というものは、ふつう、自分の仲間に想像上で同一化す るのみならず、その結果として、たがいの歓びや哀しみをおのずから感じてしまう傾向があ る。しかしながら、貧民は、あまりにいつも惨めな状況にあるため、ふつうであれば共感力の 豊かな観察者も、端的に圧倒されてしまい、そうとは気づくことなく、かれらの存在を視界か ら抹消してしまうよう余儀なくされる。その結果、社会的階梯の底辺に位置する者が、多大なる時間をかけて、頂点にある者たちにみえているものを想像したり、心から気にかけたりする のに対し、その逆はほとんど起きないのである。  主人と召使いであろうと、男性と女性であろうと、雇用者と被雇用者であろうと、富者と貧 民であろうと、構造的不平等――構造的暴力とここで呼んできたもの――は、例外なく、高度に偏 りのある想像力の構造を形成してしまう。おもうに、想像力は共感をともなう傾向がある、と するスミスは正しい。だから、構造的暴力の犠牲者は、構造的暴力の受益者が犠牲者たちを気 遣うよりもはるかに多く、受益者を気遣う傾向があるのである。暴力そのものに次いで、こう した[不平等な]諸関係を維持する単一の最大の力が、これ[この想像力の構造]であろ う。」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.101-102,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田 和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








支配の諸関係の内部で、当該の社会的諸関係がどのように実際には作動しているのかは、実質的に従属した人々がどのように考え、行動しているかで理解できる。召使は自分を雇っている家庭の事情について事細かに知っているものだが、その逆はほとんどあり得ないのである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

想像的同一化

支配の諸関係の内部で、当該の社会的諸関係がどのように実際には作動しているのかは、実質的に従属した人々がどのように考え、行動しているかで理解できる。召使は自分を雇っている家庭の事情について事細かに知っているものだが、その逆はほとんどあり得ないのである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「解釈労働の一般理論を発展することは可能だろうか? わたしたちはたぶん、ここには、結合してはいるが形式的には区別する必要のある、二つの重要な要素があることを認識するこ とからはじめねばならない。第一の要素は、知の形式としての想像的同一化の過程である。す なわち、支配の諸関係の内部では、当該の社会的諸関係がどのように実際には作動しているの かを理解する作業は、実質的に従属した人々に一般的にはゆだねられている、という事実であ る。たとえば、食堂のキッチンで働いたことのある者ならば周知のことがある。盛大なヘマが あって、怒った支配人が顔を出し、状況を把握しようとしたとして、かれがこまごまと調査を することはないし、あわてて事態を説明しようとする従業員の話をまじめに聞こうとすら、た いていはしないということである。全員を黙らせ、適当にストーリーをこしらえ、即座の判断 をくだす、という可能性の方がはるかに高いのだ。「ジョー、おまえはこんなしくじりはしな いな。マーク、おまえだな、おまえは新入りだしな。二度とやったら、今度はクビだぞ」。ミ スの再発を防ぐべく、真の原因を探り出す作業は、人を雇用したり解雇したりする力をもたな い人間がやることになる。同様のことは、たいてい、持続する関係のうちに起きるものであ る。たとえば、だれもが知っていることだが、召使はじぶんを雇っている家庭の事情について 事細かに知っているものだが、その逆はほとんどありえない。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.100-101,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田 和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







2022年2月28日月曜日

西洋の知的伝統として、創造的だが混沌をはらんだ衝動、欲望、感情を制御するのが理性とされてきた。ヒュー ムは、合理性は規範や価値とは区別され、理性は目的・価値の手段と明確に述べた。官僚制は手段である。目的は何か。市場は事実なのか。ある価値が合理性を僭称しているのではないか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

合理性の観念をめぐって

西洋の知的伝統として、創造的だが混沌をはらんだ衝動、欲望、感情を制御するのが理性とされてきた。ヒュー ムは、合理性は規範や価値とは区別され、理性は目的・価値の手段と明確に述べた。官僚制は手段である。目的は何か。市場は事実なのか。ある価値が合理性を僭称しているのではないか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「西洋の知的伝統の傾向として、人間の理性の力は、なによりもまず、わたしたちの低劣な 衝動を制約する方法とみなされてきた。この想定はすでにプラトンやアリストテレスのうちに みいだしうるが、魂についての古典理論がキリスト教やイスラームに応用されたとき、きわ だって強化された。そう、わたしたちはだれも創造性と想像力の力能を有しているのとおなじ く、動物じみた欲動と感情を抱えている。しかし、これらの衝動は[総じて]究極的には混沌 としたものであり反社会的なものである。個人においてであろうが政治的共同体においてであ ろうが、理性とは、わたしたちの低劣な本性を、それがカオスや相互破壊にいたりつくすこと のないようたえずチェックし、その潜在的に暴力的なエネルギーを抑圧し、水路づけし、封じ 込めるものである。それはモラルの力なのである。政治的共同体とか合理的秩序の場を意味す る、ポリス polis[都市国家]という言葉が、たとえば、「礼儀正しさ(politeness)」 や「警察(polis)」とおなじ語源を共有しているのは、このためである。その結果、また、 この伝統にはつねにある感覚が潜伏することになった。わたしたちの創造性にかかわるもろも ろの力能には、少なくともどこかしら、悪魔的ななにかがあるにちがいない、と。  ここまで述べてきたような、官僚制ポピュリズムの登場は、このような合理性の観念の――あ たらしい理念への――完全な反転である。そのあたらしい理念については、デヴィッド・ヒュー ムによる要約がもっともよく知られている。「理性は感情の奴隷であり、奴隷でのみなければ ならない」。この観点からすれば、合理性はモラリティとはなんの関係もない。それは純粋に 技術的事象である。道具であり、機会であり、それ自身は合理的に評価することはできな諸目 標を、最大に効果的に達成する方法を推論する手段なのである。理性は、わたしたちになにを 望むべきかを指示することはできない。それが指示することができるのは、ただ、わたしたち の望むものを獲得する最良の方法のみである。  どちらの見方にせよ、理性はいずれにしても、創造性、欲望、ないし感情の外部にある。か たや、そうした感情を制約するように作用し、かたや、促進するように働く、という点で異な るわけだ。  この論理をもっとも遠くまでつきつめたのが、経済学というあたらしい学問分野であるとい えよう。しかしその論理の根は、市場のみならず、少なくともそれと同程度には、官僚制にあ る(そして想起しなければならないのは、ほとんどの経済学者があれこれの大規模な官僚組織 のお雇いであるということであり、これまでもつねにそうであったことである)、手段と目的 のあいだ、事実と価値のあいだに厳密な区別をつけることができるという発想そのものが、官 僚制的心性の産物なのである。というのも、官僚制とは、ことをなす手段を、それがなんのた めになされたのかということから完全に切り離されたものとして扱う、最初のそしてただひと つの社会的制度だからである。このようにして、官僚制は事実上、長期にわたって、世界人口 の少なくとも大多数の日常意識に埋め込まれてきたのだ。  しかし同時に、合理性についてのもっと古い考え方が、完全に消え去ったわけではない。反 対に、この二つの考え方は、ほとんど完全に矛盾するにもかかわらず――たえず摩擦を起こしつつではあるものの――共存している。その結果、わたしたちの合理性についての観念そのものが 奇妙にも一貫性を欠いたものとなったのである。この言葉の意味がいったいどのようなものと 想定されているのか、まったくもってあきらかではない。ときにそれは手段である。ときにそ れは目的である。ときにそれはモラリティとはなんの関係もない。ときにそれは正しいこと、 善であることの本質そのものである。ときにそれは問題解決の方法である。そきにそれは、す べてのありうる問題への解決そのものである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,3 規則のユートピア、あ るいは、つまるところ、なぜわたしたちは官僚制を愛しているのか,pp.232-233,以文社 (2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳))


官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]

デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)








官僚制は支配者にとって不可欠であるだけでなく、非統治者にとっても利点がある。それは現金取引に似ており、魂がない。他面では、それらはともに単純で予測可能、そして少なくとも特定の文脈内部では、万人を多かれ少なかれ同等に扱う。また、複雑で疲弊を招くような解釈労働も不要である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

非人格的な官僚制の利点

官僚制は支配者にとって不可欠であるだけでなく、非統治者にとっても利点がある。それは現金取引に似ており、魂がない。他面では、それらはともに単純で予測可能、そして少なくとも特定の文脈内部では、万人を多かれ少なかれ同等に扱う。また、複雑で疲弊を招くような解釈労働も不要である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))





(a)非人格的な官僚制的諸関係は現金取引に似ている
 官僚制的手続きの放つ魅力についてのもっともシンプルな説明は、その非人格性によるものである。 冷血で非人格的な官僚制的諸関係は、現金取引にそっくりであり、ともに似たような利点と欠 点をもっている。
(b)魂がないが予測可能で平等である
 官僚制にも現金取引にも魂がない。他面では、それらはともに単純で予測可能、そして少なくとも特定の文脈内部では、万人を多かれ少なかれ同等に扱う。官僚制は、複雑で疲弊を招くような解釈労働を、どちらの側にも求めることはない。



「二番目にありうる説明は、官僚制は支配者にとって不可欠であるだけでなく、官僚制に よって管理される者たちにとってもまごくことなき魅力がある、というものである。官僚制の 効率性についてのヴェーバーによる奇妙な称賛について、ここで同意する必要はない。官僚制 的手続きの放つ魅力についてのもっともシンプルな説明は、その非人格性によるものである。 冷血で非人格的な官僚制的諸関係は、現金取引にそっくりであり、ともに似たような利点と欠 点をもっている。一面では、それらはともに魂がない。他面では、それらはともに単純で予測 可能、そして少なくとも特定の文脈内部では、万人を多かれ少なかれ同等に扱う。いずれにせ よ、万物が魂であるような世界で暮らしたいと、だれが望むであろうか? 官僚制は、本書の 第1章でえがきだしたような、複雑で疲弊を招くような解釈労働を、どちらの側にも求めるこ とはない。あるいは、少なくとも、官僚制はそのような人間関係の可能性だけは提示している のである。たとえば、じぶんのお金をカウンターにおけば、それだけでじぶんの服装をレジ係 がどうみているか、おもいわずらう必要はないし、写真付きのIDカードを提示すれば、どうし て同性愛をテーマとした18世紀のブリテンの詩をどうしても読みたいのか説明する必要もな い。これが魅力のひとつであることは、まちがいない。実際、この問題をじっくりと考えてみ るならば、たとえわたしたちがユートピア的な共同体社会を設立しえたとしても、非人格的 (あえていえば官僚制的)制度がいっさい不要となる、などということを想像することはむず かしい。それは、まさに以上の理由からなのである。ひとつ、はっきりとした事例をあげてみ よう。どうしても必要な臓器移植のため、非人格的抽選システムや順番待ちリストにやきもき することは疎外や苦悩の種であろう。だが、比較的良好の心臓や腎臓のかぎられたプールを配 分する方法として、これ以上に非人格的ではない方法を想像することも困難なのである。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,3 規則のユートピア、あ るいは、つまるところ、なぜわたしたちは官僚制を愛しているのか,pp.215-216,以文社 (2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






官僚制は、重大な情報へのアクセスを独占し、「職務上の秘密」として知識や意図を秘匿することによって非統治者からの批判を回避し、優位性を高める。官僚制が議会に対立する場合、議会が自分自身の手段を用いて利害関係者たちから専門的知識を得ようとするあらゆる企てに対し挑戦する。(マックス・ヴェーバー(1864-1920))

官僚制は知識や意図を秘匿する

官僚制は、重大な情報へのアクセスを独占し、「職務上の秘密」として知識や意図を秘匿することによって非統治者からの批判を回避し、優位性を高める。官僚制が議会に対立する場合、議会が自分自身の手段を用いて利害関係者たちから専門的知識を得ようとするあらゆる企てに対し挑戦する。(マックス・ヴェーバー(1864-1920))
























(a)知識や意図の秘密保持によって批判を回避し優位性を高める
 いかなる官僚制も、その知識や意図の秘密保持という手段によってかような職業的ヴェテランの優越性をいっそう高めようとする。官僚制的行政は、その傾向からすれば、つねに、公開禁止をもってする行政である。官僚制はできるだけその知識と行為を批判からかくまうものである......。
(b)「職務上の秘密」の熱狂的な擁護
  この「職務上の秘密」という概念は官僚制独自の発明にかかるもので、事の性質上それの許される領域外では、純即物的に首肯しがたいこの態度ほど、官僚制が熱狂的に擁護するものは他にない。
(c)権力本能からする議会への対抗
 官僚制が議会に対立するばあい、それは、確実な権力本能から、議会が自分自身の手段(......)を用いて利害関係者たちから専門的知識を得ようとするあらゆる企てに対 し挑戦する......。





「官僚制たるもの、いったん形成されるや、権力行使につとめる人間にはかれがなにをしよ うとしているのかにかかわらず、ただちに必要不可欠のものになるであろう。[官僚制を通し て権力行使する]その主要な方法は、つねに重大な情報へのアクセスを独占することによるも のである。この点について、ヴェーバーは、長い引用に値する。  『いかなる官僚制も、その知識や意図の秘密保持という手段によってかような職業的ヴェテ ランの優越性をいっそう高めようとする。官僚制的行政は、その傾向からすれば、つねに、公 開禁止をもってする行政である。官僚制はできるだけその知識と行為を批判からかくまうもの である......。  この「職務上の秘密」という概念は官僚制独自の発明にかかるもので、事の性質上それのゆ るされる領域外では、純即物的に首肯しがたいこの態度ほど、官僚制が熱狂的に擁護するもの はほかにない。官僚制が議会に対立するばあい、それは、確実な権力本能から、議会が自分自 身の手段(......)を用いて利害関係者たちから専門的知識をえようとするあらゆるくわだてに対 し挑戦する......。』」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,3 規則のユートピア、あ るいは、つまるところ、なぜわたしたちは官僚制を愛しているのか,p.213,以文社(2017),酒 井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月25日金曜日

二つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

不平等を支える構造的暴力

二つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「ここでぜひとも重要な条件をひとつ導入する必要がある。ここではすべてが諸力の均衡に かかっているということだ。二者が相対的に平等である暴力の競合に関与している場合――たと えば、対立する軍隊を率いる将軍のような――、かれらがたがいの頭の中身を調べようと努力す るのは当然である。そうする必要がもはやなくなるとしたら、それは、一方の側が物理的危害 を与える能力において圧倒的に有利であるときのみである。しかしこれは、きわめて深遠なる 効果をもたらす。というのも、それが意味しているのは、暴力のもっとも固有の効果、すなわ ち、「解釈労働」の必要を除去する力能がもっとも顕著なものになるのは、暴力それ自体が もっともみえにくいようなとき、めざましい物理的暴力行為の起きる可能性としてはもっとも 低いときであるということである。わたしが先に、実力の脅威によって究極的に支えられた体 系的不平等の状況、として規定した「構造的暴力」とは、まさにこうした事態である。このた めに、構造的暴力の状況は、例外なく、きわだって不均衡な、想像力による同一化の構造を生 み出してしまうのである。  これらの効果は、不平等の構造がきわだって深く内面化された形態をとる場合、しばしば もっとも可視となるのである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.97-98,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]






デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

予測可能な結果を得る手段としての暴力

物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「なるほど、だれかに障害を加えたり、だれかを殺害したりすることによって与えることの できる効果は、きわめて限定されている。しかし、それらは十分に現実的である。そして、決 定的なことには、その効果がどのようなものであるのかが前もって正確に予測可能なのであ る。それ以外のいかなる行為の形態も、共有された意味や了解に訴えることなしには、いかな る予測可能な効果もいっさいうることはできない。さらにいえば、暴力の脅威で他者に影響を 与えようとする試みが、あるレベルの共有された了解を必要とするにしても、それはまったく 最小限のものである。ほとんどの人間の関係は――それが長期の友人のあいだであろうと敵同士 のあいだであろうと、とりわけ継続中のそれは――、とんでもなく複雑なものであり、歴史と意 味を濃密にはらんでいるものである。それを維持するには、想像力とか世界を他者の観点から みる終わりのない努力といった、恒常的でたいてい繊細な作業を必要とする。先に「解釈労 働」として述べたものはこれである。物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、こうし たすべてを省略することを可能にする。それははるかに単純で図式的であるような関係を可能 にするのである(「この線をふみ超えたら撃つぞ」とか「もう一言でもいってみろ、刑務所に ぶちこむぞ」とか)。もちろん、このために、暴力はひんぱんに愚か者に好まれる武器となる のである。暴力は愚か者の切り札であるとすらいえるかもしれない。というのも(そしてこれ は人間存在の悲劇のひとつであることはたしかだが)、それが知的な対応のもっとも困難であ る愚かさの一形態だからである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.96-97,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







暴力行為がコミュニケーション行為でもあるということは、間違いない。しかし、およそ人間の行為ならば、いかなる形態であってもコミュニケーション行為でもある。暴力について本当に重要なことは、この行為形態のみが、コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす可能性を提供することである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴力行為の特徴付け

暴力行為がコミュニケーション行為でもあるということは、間違いない。しかし、およそ人間の行為ならば、いかなる形態であってもコミュニケーション行為でもある。暴力について本当に重要なことは、この行為形態のみが、コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす可能性を提供することである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

(a)暴力行為の特徴付け
 暴力は、自分が何も理解していな い人間の行為に、相対的に予測可能な諸効果をもたらすであろうなにごとかを施すことを可能 にする、ただひとつの方法である。
(b)解釈労働の必要性
 他者の行為に影響を及ぼそうとする暴力以外の方法の大部分では、他者が何者であるのか、その他者はあなたを何者とみなしているのか、この状況から彼らはなにを欲しているのか、かれの嫌悪、好みなどについて、少なくとも、何がしかの考えをもつ必要がある。



「これらのポイントをひとつずつとりあげてみよう。暴力行為が一般的にいってコミュニ ケーション行為でもある、ということは、正しいのだろうか? 正しいのは、まちがいない。 しかし、このことは、人間の行為ならば、いかなる形態にもおおよそあてはまる。暴力につい て本当に重要なことは、おそらく、コミュニカティヴであること《なしに》社会的諸効果をも たらす可能性を提供することのできる、ただひとつの人間の行為の形態である、という点にあ るように、わたしにはおもわれる。より正確にいえば、暴力は、じぶんがなにも理解していな い人間の行為に、相対的に予測可能な諸効果をもたあすであろうなにごとかを施すことを可能 にする、ただひとつの方法である、ということだ。他者の行為に影響を及ぼそうとするそれ以 外の方法の大部分では、その他者が何者であるのか、その他者はあなたを何者とみなしている のか、この状況からかれらはなにを欲しているのか、かれの嫌悪、好みなどについて、少なく とも、なにがしかの考えをもつ必要がある。ところが、かれらの頭を殴り飛ばしてみよう、こ うしたすべてが不要になる。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.95-96,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







企業による利潤のうちの益々大きな割合が、レント取得という形をとるようになる。規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、益々洗練し複雑なものになっていく。同時に、利潤は還流し、専門家、企業官僚幹部の養成のため投入され、ブルシットジョブが増殖する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

レント取得、ブルシットジョブの増殖

企業による利潤のうちの益々大きな割合が、レント取得という形をとるようになる。規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、益々洗練し複雑なものになっていく。同時に、利潤は還流し、専門家、企業官僚幹部の養成のため投入され、ブルシットジョブが増殖する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)金融化とレント取得
 金融化の過程とは、企業による利潤のうちのますます大きな割合が、あれやこれやのレント取得という形をとるということである。
(b)強制力に担保された規則や規制の増殖
 規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、ますます 洗練し複雑なものになっていくのである。実際、あまりに遍在しているために、もはや私たちは自分が脅威にさらされていると認めないほどである。
(c)レント取得による利潤の還流とブルシットジョブの増殖
 同時に、レント取得による利潤のいくぶんかはリサイクルされ、専門家階級の選抜や事務処理専門の企業官僚新幹部の養成のため、投入されている。ここ数十年、一見して無意味で不要不急の仕事、戦略ヴィジョン・コーディネーター、人的資源コンサルタント、リーガル・アナリストなどなどの「クソしょうもない仕事」が、これらの職に就いている人間ですら事業にはなんの貢献もしていないと日頃ひそかに考えているにも かかわらず、増殖し続けている。



「現代にふさわしい官僚制の批判は、これらのより糸――金融化、暴力、テクノロジー、公的 なものと私的なものの融合――が、いかにたがいに織り合わされ、独立した単一の網の目を形成 しているのかを示さなければならないだろう。金融化の過程とは、企業による利潤のうちのま すます大きな割合が、あれやこれやのレント取得というかたちをとるということである。つき つめるなら、これはさしずめ合法化されたユスリといったところである。それゆえ、それにあ いともなって、規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、ますます 洗練し複雑なものになっていくのである。実際、あまりに遍在しているために、もはやわたし たちはじぶんが脅威にさらされていると認めないほどである。そうではない世界がどのような ものか、想像すらできないからである。それと同時に、レント取得による利潤のいくぶんかは リサイクルされ、専門家階級の選抜や事務処理専門の企業官僚新幹部の養成のため、投入され ている。わたしがべつのところで述べた現象を促進している要因は、これである。すなわち、 ここ数十年、一見して無意味で不要不急の仕事――戦略ヴィジョン・コーディネーター、人的資 源コンサルタント、リーガル・アナリストなどなどの「クソしょうもない仕事」――が、これら の職に就いている人間ですら事業にはなんの貢献もしていないと日頃ひそかに考えているにも かかわらず、増殖しつづけているという現象である。結局、これは1970年代、80年代に、企 業官僚制が金融システムの拡大に呑み込まれるにつれてはじまった階級的再結合の基本的論理 の延長にほかならない。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,p.59,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳)) 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







2022年2月24日木曜日

この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

合理的・技術的手段と目的、価値

この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配の最も深遠なる遺産とは、合理的・技術的手段と、それが奉仕する根本的には不合理な目的の間の直感的分裂を、あたかも常識であるかのように見せかけてきたことにある。何らかの実現手段と、それとは別の自由な価値、または実現手段が価値を主張してくる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)不合理な目的と合理的・技術的手段との分裂
 公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率的手段を見出すことのできる自らの能力に、誇りをおぼえている。その目標が、文化的繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。
(b)何らかの実現手段と、別の自由な目的
 人間は、豊かになるため市場に足を向け、そのための最も効率的な計算をすると想定されている。だが、いったん貨幣を手にしたら、それを使って何をしようがかまわないとも想定されている。
(c)自由な目的と、その実現手段
 ほとんどの時代や地域で、人の振る舞う方法は、その人の本質の根本的表現であると見做されている。すなわち、目的があって、それを実現するための手段と行為がある。
(d)何らかの実現手段が価値を主張する
 二つの領域、すなわち技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他方の領域に侵入を試み始めるかのようにみえる。合理性ないし効率性はそれ自体価値である、それらは究極の価値ですらある、我々は「合理的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間が現れるのだ。
(e)実現手段から切り離された目的
 その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間も現れる。しかし、こうした運動はすべて、自らが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのである。



「この200年間にわたる官僚制的組織形態による支配のもっとも深遠なる遺産とは、合理 的・技術的手段とそれが奉仕する根本的には不合理な目的のあいだの直感的分裂を、あたかも 常識であるかのようにみせかけてきたことにある。まず国家レベルでこのことはいえる。そこ で公務員たちは、自国を支配者たちがたまたま夢想した国家目標の追求のため、もっとも効率 的手段をみいだすことのできるみずからの能力に、誇りをおぼえている。その目標が、文化的 繁栄であろうが、帝国主義的征服であろうが、真に平等な社会秩序の追求であろうが、あるい は聖書の定める掟の字義通りの適用であろうが、かまわないのである。それとおなじことが個 人レベルでもあてはまる。そこでは、人間は、豊かになるため市場に足をむけ、そのための もっとも効率的な計算をすると想定されている。だが、いったん貨幣を手にしたら、マンショ ンを買おうが、レースカーを買おうが、消えたUFOの探索費用にあてようが、あるいは、子ど もに気前よくばらまこうが、それを使ってなにをしようがかまわないとも想定されている。こ うしたことはあまりに自明視されているので、これまで歴史的に存在してきたほとんどの人間 社会では、そうした分裂が考えられもしなかったことなど、想起するのもむずかしい。ほとん どの時代や地域で、ひとのふるまう方法[ひとのとる手段]は、そのひとの本質[目的]の根 本的表現であるとみなされているのである。しかし、このように二つの領域――技術的に限定さ れる能力の領域と究極の価値の領域――に世界が分裂したそのとき、どちらの領域も必然的に他 方の領域に侵入を試みはじめるかのようにみえる。合理性ないし効率性はそれ自体価値であ る、それらは究極の価値ですらある、われわれは(それがなにを意味していようと)「合理 的」社会を構築せねばならぬ、と宣言する人間があらわれるのだ。その一方で、生活は芸術 に、さもなくば宗教にならねばならない、と主張する人間もあらわれる。しかし、こうした運 動はすべて、みずからが克服すると宣言する、当の分裂そのものを前提としているのであ る。」

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.54-56,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]




デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






個人の自由の保護には、規則に縛られた組織が必要である。官僚制国家は、個人の自由のために正当化され、現在のシステムも、消費を介した個人の自己実現のためとされている。しかし、合理的な効率性が貢献する真の目的は何なのか、また個人の自由はシステムの枠内のみで追求されるものなのか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

規則に縛られた組織と個人の自由

個人の自由の保護には、規則に縛られた組織が必要である。官僚制国家は、個人の自由のために正当化され、現在のシステムも、消費を介した個人の自己実現のためとされている。しかし、合理的な効率性が貢献する真の目的は何なのか、また個人の自由はシステムの枠内のみで追求されるものなのか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)諸個人の自由と規則に縛られた組織との関係についての楽観的な見方
 19世紀、官僚制国家の権威主義的手段は、個人の財産の保護と個人の自由のために正当化された。官僚制的資本主義がアメリカ合衆国に現れたとき、同じように消費主義的基礎に基づいて正当化された。非人格的で規則に縛られた組織と、絶対的に自由な自己表現のあいだには、つねに相乗効果があると想定されていた。
(b)消費を介した個人の自由な自己実現
 市場と官僚制が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。市場も官僚制も、個人の自由、そして消費を介した個人の自己実現のためにある、と述べた。
(c)目的と目標の隠蔽手段としての合理性
 合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際には何のためのものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と、想定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。


「いいかえれば、合理的な効率性について語ることは、その効率性が実際にはなんのための ものかを語ることを回避する手段と化している。つまり、人間行動の究極の目的(ends)と想 定されている究極的には不合理な目標(aims)について語ることの回避である。市場と官僚制 が究極的にはおなじ言葉を語るもうひとつの場所がここである。市場も官僚制も、個人の自 由、そして消費を介した個人の自己実現のためにある、と述べた。ヘーゲルやゲーテのような 19世紀プロシアの官僚制国家の支持者にとって、その権威主義的手段が正当化されうるのは、 みずからの財産が絶対的に保護されていること、それゆえみずからの住居ではなんでも意のま まに自由にできることが市民に許容されているがゆえであった。意のままに自由にできるとい うことの意味するところが、芸術、宗教、情事、哲学的思弁などを追求することであろうが、 あるいはたんに、どのビールを飲むか、どんな音楽を聴くか、どんな服装を着るかをじぶんで 決定することであろうと。官僚制的資本主義がアメリカ合衆国にあらわれたとき、おなじよう に消費主義的基礎にもとづいて正当化された。労働者だって、もっと種類があって、もっと安 価に家庭むけ商品が買えるのなら、労働条件の[労働者自身による]統制を放棄して当然だろ う、と、このように要求を正当化できるのである。非人格的で規則に縛られた組織――公的領域 であろうと生産領域であろうと――と、クラブやカフェ、台所、家族旅行における絶対的に自由 な自己表現のあいだには、つねに相乗効果があると想定されていた(最初はもちろんこの自由 は世帯の家父長に限定されていたが、しだいに、少なくとも原則的には万人に拡がった)。」 

(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.53-54,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

効率性や合理性、技術的有効性とは

政治は、究極的には価値にかかわるものである。しかし、巨大な官僚制システムを構成する人びとが、その価値が本当には何なのかを認めることはほとんどない。彼らは、自らの行動を効率性や合理性、技術的有効性のもとに正当化するが、投資家の利潤の保障という目的は隠蔽される。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「グローバル・ジャスティス運動が教えてくれるひとつのことがらは、政治は究極的には価 値にかかわるものであること、とはいえ、巨大な官僚制システムを構成する人びとがその価値 が本当にはなんなのかを認めることはほとんどない、ということである。このことは、現代の カーネギーたちにもあてはまる。ふつう、かれらは――20世紀の変わり目の泥棒男爵とおなじよ うに――、みずからの行動を効率性や「合理性」のもとに正当化するだろう。しかし、実際に は、こうした言葉はつねに、故意にあいまいにされている、あるいは無意味なものにされてい ることがわかる。「合理的」人間とは、基本的な論理の結合をなすことができ、現実を錯乱し ていない仕方で評価できるような人間を指す。いいかえれば、イカれていない人間のことであ る。みずからの政治を合理性に基礎づけると宣言する者は、みな――そしてこれは右翼にも左翼 にもあてはまるのだが――じぶんに同意しない人間は正気ではないと宣言しているのであり、こ れはひとが取りうるもっとも傲慢なポジションである。さもなくば、かられは、「合理性」を 「技術的有効性」とおなじ意味で用いることで、じぶんたちが《いかにして》物事に取り組ん でいるのかのみを語る。というのも、じぶんたちが究極的に取り組んでいるのは《なにか》に ついて語ることを望まないからである。このようなやり口にかけて、新古典派経済学は悪名高 い。国政選挙に投票するのは「不合理」である(個人の投票者が見込みうる利益よりも、その 努力の方が高くつくがゆえに)と、経済学者が証明しようと試みるとき、かららがこのような 物言いをするのは、「市民的参加や政治的理念、共通善それ自体には価値をおかない者、か つ、公共の事業を個人的利得の観点からしか考えない者にとってのみ不合理である」とはいい たくないためである。投票を通してみずからの政治的理想を促進させるべく最良の方法を合理 的に計算する、といったことが不可能である、とみなす理由はまったく存在しない。しかし、 くだんの経済学者たちの想定によるならば、このような道筋をとる者はだれしもイカれている ということになるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,pp.52-53,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹 (訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






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