自然権批判
政治的論議や社会的諸制度の批判の場にお いて、非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的になるか、もしくは、総じて無意味ないし瑣末なものになる。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(a)もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のであり、いかなる例外も、あるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは危険なほど無政府主義的になる。不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、確立された法を「無効」にし、法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するようなものと理解されることになる。
(b)逆に、一 般的な例外を承認するならばたとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針となる。
 「ベンサムの第二の批判は、政治的論議や確立された法および社会的諸制度の批判の場にお いて非実定法的な自然権の観念を用いることは、政府のいかなる権力の行使とも両立しえず、 それゆえに危険なほど無政府主義的であるにちがいないか、もしくは、総じて無意味ないし瑣 末なものであるだろう、というものである。もし人びとの主張する自然権が形式上絶対的なも のでありいかなる例外もあるいは他の価値との妥協も認めないとすれば、それは前者であろ う。ある何らかの確立された法に対して強い反発感情を抱く人びとは、不可譲の権利という客 観的に響く言葉を用いることによって、このような感情を何かより以上のものとして、つまり 確立された法を「無効」にし法が行なったり要求したりしうることに対して限界を画するよう な、何か確立された法に優位するものの要求として表わすことができるであろう。そうする代 わりに、自然権が形式上絶対的なものとして表わされず(フランス「人権宣言」のように)一 般的な例外を承認するならば――たとえば、法が許容する場合を除いて、いわゆる自然的自由権 はけっして奪われることのない何物かであると提唱されるならば――、自然権は立法者とその服 従者のどちらにとっても、「瑣末で」無意味な指針なのである。かくして、新しいアメリカ諸 州のいくつかでは、憲法上、明文によって自然的自由が宣言されたにもかかわらず、それは奴 隷所有者の奴隷を所有する権利に影響を与えないとされたことで、自然権は瑣末なものとなっ たのである。このように、自然権は、政府の権力行使が常に自由や所有に対する何らかの制限 を伴っているがゆえに、整序だった政府と両立しえないか、それとも瑣末で空虚で役立たない かのどちらかである、とベンサムは結論づけたのである。」
 (ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利 主義と自然権,pp.214-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))
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 「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。 
 
 
 


 
 
