複合的本質
【単純本質は、必然的にか偶然的にか結合される。単純本質と、これらの混合または複合のほかに、われらは何ものをも理解できない。複合的と呼ばれる本質は、経験することによってか、または、われわれ自身が複合することによって認識される。この複合は、衝動によるか、推測によるか、または演繹による。(ルネ・デカルト(1596-1650))】認識するわれわれ
認識さるべき物自身
おのずからしてわれらに明らかであるもの
2.私は存在する
人間精神が何であるか。
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
身体は何であるか。
身体は精神によっていかに形成されるか。
5.私(精神)のなかに見出されるもの
いかにしてあるものが他のものから認識せられるか
単純なる事物の概念
(単純本質、すべてそれ自身によって知られるもの)
(悟性が、事物を直感し認識する能力によって知られるもの)
単純なる事物の概念から複合せられた概念
(悟性が、肯定あるいは否定の判断を下すところの能力によって知られるもの)
単純本質の必然的結合
(例)形と延長は、必然的に結合されている。
(例)運動と持続、時間は、必然的に結合されている。
単純本質の偶然的結合
経験によって知られる複合的本質
感覚によって知覚するすべてのもの
他人から聴くところのすべてのもの
一般に悟性に現れる一切のもの
悟性が複合した複合的本質
衝動により得られた複合的本質
推測により得られた複合的本質
演繹により得られた複合的本質
各々の物からいかなる事柄が演繹されるか
「第四にわれわれのいうところは、これら単純物相互の結合は必然的(necessaria)であるか偶然的(contingens)であるかだ、ということである。必然的というのは、或るものが他のものの概念の中に或る不判明な仕方で含まれていて、従って、それらが互いに他から離れていると判断する時はそれらのいずれも判明に把握しえない、という場合である。そういうふうに、形は延長と結合されており、運動は持続に、或いは時間に、結合されている、等。」(中略)
「第五にわれわれのいうところは、これら単純本質及びそれら相互の或る混合または複合のほかに、われらは何ものをも理解できないことである。」(中略)
「第六にわれわれのいうところは、複合的と呼ばれる本質がわれわれに認識されるのは、われらがそのいかなるものなるかを経験することによってか、またはそれをわれわれ自身が複合することによってか、いずれかである。われらが経験するものとは、われわれが感覚によって知覚するすべてのもの、他人から聴くところのすべてのもの、及び一般にわれらの悟性に現れる一切のもの――外から来るものであろうと悟性自身の反省的直感から生ずるものであろうと――である。」(中略)
「第七にわれわれのいうところは、この複合が三様になされうることである。すなわち、衝動によるか、推測によるか、または演繹によるか。事物についての自己の判断を、衝動によって複合(構成)するとは、何らかの理由によって承服したのでなく、ただ、或いはより高き力により或いは自己の自由により或いは想像の傾向によって決定せられて、或る事を信ぜしめられるに至ることである。これらの中、第一のものは決して欺くことがなく、第二は稀に、第三はほとんど常に欺く。しかし第一のものも、方法的には考察できぬから、ここでは論ずる限りではない。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、pp.82-86、[野田又夫・1974])
(索引:複合概念、概念の結合、複合的本質)
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
2.私は存在する
3.私でないものが、存在する
4.精神と身体
5.私(精神)のなかに見出されるもの
(出典:wikipedia) |
「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」 (ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964]) |
ルネ・デカルト(1596-1650)
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