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2018年12月3日月曜日

公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

対象の存在ということ

【公理系の無矛盾性とは異なる、ある「対象」の「存在」の概念が有意味と思われ、その存在は、構成的な定義により示されると思われる。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1')(2.3')追加記載

(1)公理系が無矛盾なら、それは「真」であり、定義されたものは「存在」すると言い得る、(2)概念は、概念の諸関係によってのみ論理的に定義され得る。(3)公理系は、論理構造が同じ無数の体系に適用可能である。(ダフィット・ヒルベルト(1862-1943))
(1)任意に措定された公理から、いかなる矛盾も帰結しないならば、公理は「真」である。
 (1.1)公理が「真」であることから、「矛盾しない」ということが証明されるわけではない。
 (1.2)このとき、公理によって定義されたものは「存在」すると言ってよい。
(2)公理の構成全体が、完全な定義を与える。
 (2.1)概念は、他の概念に対するその関係によってのみ論理的に確定し得る。この関係を、定式化したものが公理である。このようにして、公理は概念を定義している。
 (2.2)従って、ある公理系に別の公理を追加すれば、追加前の公理を構成していた概念も変化することになる。
 (2.3)公理の構成要素の個別に、構成的に定義する必要はない。
(3)公理系は、必然的な相互関係を伴った諸概念の骨組とか図式といったものであり、特定の「基本要素」を前提とするものではない。いかなる公理系も、無限に多くの体系に対して適用できる。

(1')公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。「そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たない」と思われる。
(2.3')公理の諸性質を全部満たすような「対象」を、実際に構成してみることが必要と思われる。そして、構成されたものは、確かに「存在」している。

 「命題
『一.Aは叡智的存在である。
 二.Aは遍在する。
 三.Aは全能である』。
がそのすべての帰結を加えても互いに矛盾しないことを知っているとしましょう。このことから我々は、全能で、遍在する、叡智的存在が存在すると推論できるでしょうか? 私には、それは納得が行きません。その原理は大体こうなるでしょう。
 もし命題
 『Aは性質Φを持つ』
 『Aは性質Ψを持つ』
 『Aは性質Χを持つ』
が(Aが何であろうと)一般的に、すべての帰結を加えても互いに矛盾しないとすれば、これらの性質Φ、Ψ、Χを全部持つような対象が存在する。この原理は私には納得が行かず、そして恐らくまた、仮に真だとしても役に立たないでしょう。ここでは、当該の諸性質を全部持つような対象を挙げるという以外に、無矛盾性を証明する手段があるでしょうか? しかし、もしこのような対象が得られるとすれば、最初に無矛盾性[を証明する]という回り道をして、こうした対象が存在することを示す必要はなくなります。
 一般命題が矛盾を含むとすれば、それに包摂される特殊命題はどれもまた矛盾を含みます。したがって、後者の無矛盾性から一般命題の無矛盾性を推論するのは可能ですが、しかし逆は不可能です。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『フレーゲ=ヒルベルト往復書簡』書簡五 一九〇〇年一月六日 75、フレーゲ著作集6、pp.82-83、三平正明)
(索引:公理系,存在する対象,無矛盾性)

フレーゲ著作集〈6〉書簡集・付「日記」


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2017年12月28日木曜日

06.私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

存在そのもの

【私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 仮に、完全な物体の観念が得られたとしても、それが知性の虚構により複合されたものである限り、それが必然的に存在するかどうかは、わからない。また、明晰かつ判明に存在することが知られているわれわれの精神が、これら物体と、おそらくは、どれほど必然的に相互に結合しているかに気づくにせよ、有限であるわれわれの精神は、通常はそれらの完全性を分離してでなければ考察することがなく、その全体が、必然的に存在するかどうかは、やはり、わからない。これら物体の観念や、知性が虚構したようなものではない、存在するということが、そのものの真で不変な本質に属するようなものが、存在する。
 「残るところは独り小前提のみですが、そこにおいて困難が小さくはないことを私は認めます。なぜならば、まず、われわれはそれ以外のすべてのものにおいては存在本質から区別することにあまりにも慣れているので、十分にわれわれは、存在が他の事物の本質によりはいっそう神の本質に属するのはどういうふうにしてなのであるか、に気づくことがない、からであり、つぎには、或る事物の真で不変な本質に属するものを、知性の虚構によってでなければ本質に帰せしめられることのないものから、区別しないでいるために、十分にわれわれは存在が神の本質に属することに気づきはするにもせよ、それでもそのことからわれわれは、神が存在するとは結論しない、からで、それというのも、われわれは、神の本質が不変で真であるか、われわれによって虚構されたものにすぎないか、を知らないからなのです。」(中略)
 「しかしながら、この困難の第一の部分を除き去るためには、可能的存在必然的存在との間が区別されなければならない」。(中略)
 「次に、困難の他の部分を除き去るためには、真なる不変の本性を含んでいなくて、単に虚構され、知性によって複合された本性のみを含んでいる観念は、その同じ知性によって分割されうるということ、それも単に抽象〔あるいは思惟の制限〕によってだけではなくて、明晰かつ判明な作用によっても分割されうるということ、に気づかなければなりません。」(中略)
 「しかし私が、この上もなく完全な物体の観念のうちには存在が含まれる、と考察するとしたとしても、それというのもつまり単に知性のうちにのみあるよりは事物と知性の両方の中にある方がいっそう大きな完全性であるからですが、そのことからは私には、そのこの上もなく完全な物体が存在すると結論することはできず、ただ単に存在しうると結論することができるだけなのです。」(中略)
 「今しかしわれわれが、物体についてではなくて、結局のところそれがどのようなものであれ、同時に存在しうるすべての完全性をもつ事物について問うとするならば、存在がそれら完全性の中に数えられるべきかどうかについて、なるほど一見したところではわれわれは疑いをもちもするでしょう。なぜならば、有限であるわれわれの精神は、通常はそれらの完全性を分離してでなければ考察することがないのですから、おそらくは、どれほど必然的にそられが相互に結合しているかに、直ちに気づくことはないでしょうから。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察 第一答弁』デカルト著作集[二]、pp.143-145、[宮内久光・1993])

デカルト著作集(全4巻)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2017年12月26日火曜日

哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自明的なこと

【哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している。】
 「哲学者たちは、最も単純で自明的なことを、論理学的な定義によって、説明しようと試みた点で誤りを犯している、というのは、そうすることによって、それらを不明ならしめたからである。そして私が『我思惟す故に我あり』という命題が、誰でも正しい順序で哲学する人の出会う、最初のまた最確実な命題であると言ったとき、その故に、私はその前に『思惟とは何か』『存在とは何か』『確実性とは何か』、さらに同じく『思惟するものが存在しないことはあり得ない』等のことを、知らねばならぬことを否定はしなかった。しかしそれらは最も単純な概念であり、それらだけでは存在する事物を知らせはしないので、従って数え立てる必要を認めなかったのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』第一部 一〇、p.41、[桂寿一・1964])

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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02.私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。(ルネ・デカルト(1596-1650))

我思う故に我あり

【私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。】
 偽なるものに同意しないように用心する「私」が、確かに存在する。この私の存在も、疑うことができる。しかし、疑うことが、また確かに、私が存在していることを示す。このようにして、私があるものであると、私が考えるであろう間は、確かに私は何ものかとして存在する。私は存在する。
 「私は、世界のうちにまったく何物も、何等の天も、何等の地も、何等の精神も、何等の身体も、存しないと私を説得したのであった。従ってまた私は存しないと説得したのではなかろうか。否、実に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計画的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存している。しからば、彼が私を欺くのならば、疑いなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考えるであろう間は、彼は決して私が何ものでもないようにすることはできないであろう。かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、『私は有る、私は存在する』、という命題は、私がこれを言表するたび毎に、あるいはこれを精神によって把握するたび毎に、必然的に真である、として立てられねばならぬ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察二、p.38、[三木清・1949])
(索引:我思う故に我あり、コギト・エルゴ・スム)

省察 (岩波文庫 青 613-2)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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