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2022年1月5日水曜日

柔らかい慣例主義は、国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うということを慣例と考えることによって、純一性としての法の観念に近づく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

柔らかい慣例主義は、国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うということを慣例と考えることによって、純一性としての法の観念に近づく。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.1.7) 国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うという慣例
 (a) 国家の強制を最善の仕方で正当化するような法観念に従うこと
  柔らかい慣例主義者は、裁判官がどのような法観念であれ国家の強制を最善の仕方で 正当化するような法観念に従わなければならない、という慣例を見出すこともあるだろう。
 (b)何が最善の正当化なのか
  他の柔らかい慣例主義者は、より具体的な観念のう ちでどれが強制の最善なる正当化を提供するかについて異なった見解を採ることがあり、それゆえ、問題とされている抽象的な慣例の黙示的外延についても異なった見解を採ることになる だろう。


「しかし、憲法が基本法であるという合意さえ存在しないと想定してみよう。柔らかい慣例主義者は、もっと抽象的な合意を更に捜し求めることができるだろう。例として、私が第3章 で提示した示唆が正しいものと仮定しよう。つまり、法の窮極的な存在理由は個人や集団に対 する国家の強制を許可し正当化することにある、という暗黙ではあるが広汎な見解の一致が存 在する、という示唆が正しいとしよう。この極度に抽象的な合意の中に、柔らかい慣例主義者 は次のような慣例を、すなわち、裁判官はどのような法観念であれ国家の強制を最善の仕方で 正当化するような法観念に従わなければならない、という慣例を見出すこともあるだろう。そして更に彼は、前記の規準に照らして最善とされた何らかの観念を宣言する過程を踏んだうえ で、この抽象的な慣例が、その黙示的な外延の中に次の命題を含んでいることを主張しうるだ ろう。つまり、先例で提示された事実と現在の事案における事実との間に道徳的原理に関して 何らの相違も存在しないときには、先例は従われねばならない、という命題である。そして更 に彼は、ほんの少しばかり息をきらしながら、他人がどう考えようと、法はマクローリン夫人 に損害賠償を保証している、と言明するに至る。同じように柔らかい慣例主義を採用する他の 法律家や裁判官が、この見解に同意しないこともあるだろう。彼らは、より具体的な観念のう ちでどれが強制の最善なる正当化を提供するかについて異なった見解を採ることがあり、それ ゆえ、問題とされている抽象的な慣例の黙示的外延についても異なった見解を採ることになる だろう。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の2種類の 形態,未来社(1995),pp.207-208,小林公(訳))



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


厳格な慣例主義は、法における「欠缺」を主張せざるをえない。これを避けるために慣例主義は、抽象的な慣例、法的慣例の黙示的外延という概念を用いて、より一般的な論証を展開するだろう。また、憲法を抽象的な慣例とみなして、より包括的な論証を展開するだろう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

柔らか い慣例主義

厳格な慣例主義は、法における「欠缺」を主張せざるをえない。これを避けるために慣例主義は、抽象的な慣例、法的慣例の黙示的外延という概念を用いて、より一般的な論証を展開するだろう。また、憲法を抽象的な慣例とみなして、より包括的な論証を展開するだろう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.1.6)柔らか い慣例主義
 (a)厳格な慣例主義は、法における「欠缺」(gap)を主張せざるをえない。
 (b)抽象的な慣例
  彼は、生起するかもしれないあらゆる事例を判決できるような仕方で、立法と先例の抽象的な慣例を解釈する 正しい方法が存在することを、それ相当の論 拠をもって主張することができる。
 (c) 法的慣例の黙示的外延
  彼は、法的慣例の黙示的外延にこれらの命題が含まれることを理由に当の命題を主張 する。すなわち、彼の法観念においてはこれらの命題が法であることを彼は主張し、それゆ え、法における欠缺というものを否定する。
 (d)抽象的な慣例としての憲法
  例えば、憲法が基本法であるという合意が人々の間で存在しているならば、この合意が抽象的な慣例を提供していると主張し、この慣例が黙示的な外延のなかに、憲法の最善なる解釈が要求するならば制定法は効力あるものとして適用されねばならないという命題が含まれる、と主張するか もしれない。


「厳格な慣例主義は、法における「欠缺」(gap)を主張せざるをえない。法の欠缺は、制 定法が漠然としていたり多義的であったり、他の点で難点のある場合は、そして、制定法をい かに解釈すべきかを解決してくれる更なる慣例が存在しない場合には常に、新しい法を形成す べく、法を離れて司法的な裁量を行使するよう要求するのである。また、一連の先例の効力範 囲が不確かで、その効力について法律家の見解が対立する場合も同様である。しかし、柔らか い慣例主義者は、このような事例において何らかの欠缺を認める必要はない。彼は、生起する かもしれないあらゆる事例を判決できるような仕方で、立法と先例の抽象的な慣例を解釈する 正しい方法――たとえこれが異論の余地あるものであっても――が存在することを、それ相当の論 拠をもって主張することができるのである。例えば彼は、慣例を具体的に正しく特定化するこ とにより、法によってスネイル・ダーターが救われる(ないし見棄てられる)べきこと、ある いは、マクローリン夫人に損害賠償を認めるべき(あるいは拒否すべき)ことを主張できる。このとき彼は、法的慣例の黙示的外延にこれらの命題が含まれることを理由に当の命題を主張 する。すなわち、彼の法観念においてはこれらの命題が法であることを彼は主張し、それゆ え、法における欠缺というものを否定するのである。  確かに、たとえ法律家たちがこのような抽象的な慣例について見解を異にしたとしても、ま た、制定法が法を形成すること、ないしは先例が後の判決に対して何らかの影響を及ぼすこと を多くの法律家が仮に否定したとしても、柔らかい慣例主義の立場をとる者は、法の欠缺が存 在することを否認することができるだろう。わずかな想像力を用いることによって柔らかい慣 例主義者は、すべての人々が容認するような更にもっと抽象的な何らかの命題を考案すること ができるであろうし、これによって、スネイル・ダーターについて一つの法命題を妥当なもの と認めうるような仕方で、この抽象的な命題を一層詳細なものにしていくことができるかもし れない。例えば、憲法が基本法であるという合意が人々の間で存在しているならば、この合意 が抽象的な慣例を提供していると主張し、この慣例が黙示的な外延のなかに、次のような命題 が、すなわち、たとえ多くの法律家がそれを否定していても憲法の最善なる解釈が要求するな らば制定法は効力あるものとして適用されねばならないという命題が含まれる、と主張するか もしれない。このようにして彼は、先と同様に、この中間的な命題から出発して、スネイル・ ダーターについて何らかの具体的な結論へと更に議論を進めていくこともできるだろう。」 

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の2種類の 形態,未来社(1995),pp.206-207,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

慣例が存在しない難解な事例の解決において、慣例主義はいかに決定すべきかという問題がある。立法府が慣例によって採用するだろう決定、国民全体の意志と思われる決定、そうでなければ裁判官の裁量による新しい法の創造である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

慣例が存在しない難解な事例の解決において、慣例主義はいかに決定すべきかという問題がある。立法府が慣例によって採用するだろう決定、国民全体の意志と思われる決定、そうでなければ裁判官の裁量による新しい法の創造である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))



(6.1.5)慣例主義による難解な事例への対応
 慣例が尽きているハード・ケイスを裁判官はい かにして判決すべきか。
 (a)裁判官は裁量を行使して新しい法を創り出さねばならない。そして、彼はこの後で、新しい 法を遡及的に訴訟当事者に適用することになる。
 (b)裁判官は、自己自身の政治的道徳的信念を可能なかぎり持ち出さないような仕方で、そして、慣例によって立法権を認 められた制度上の機関を最大限に尊重するような仕方で判決を下さなければならない。
 (c)これが見あたらない場合には、国民全体の意志 を最もよく表わしていると彼が信じるルールを選択すべきである。

「慣例主義の消極的主張はまた別の仕方においても、一般に支持された前記の理念に仕えるものと考えられる。しかし、これについては、慣例が尽きているハード・ケイスを裁判官はい かにして判決すべきか、という点に関し一連の主張を付加する必要がある。既に述べたよう に、慣例主義の見解によれば、マクローリン事件のような事例においては法は存在せず、従っ て裁判官は裁量を行使して新しい法を創り出さねばならない。そして、彼はこの後で、新しい 法を遡及的に訴訟当事者に適用することになる。しかし、状況をこのように説明しても、更な る条件として次のように定める余地は充分に残されている。すなわち、裁判官は自己自身の政治的道徳的信念を可能なかぎり持ち出さないような仕方で、そして、慣例によって立法権を認 められた制度上の機関を最大限に尊重するような仕方で判決を下さなければならない、という 条件である。慣例主義が主張するように、裁判官がこのような状況において新しい法を創造す ることが明らかにされたからには、彼は、そのときに権限を有する立法府が選択するであろう と彼自身が信じるルールを選択すべきであり、これが見あたらない場合には、国民全体の意志 を最もよく表わしていると彼が信じるルールを選択すべきである、と考えることは一応正当な ものと思われる。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の説得力, 未来社(1995),pp.197-198,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



慣例主義は、期待保護の理念に基づき、先例と類似している事例について慣例に合致しているかどうかで決定する。法的論証とは、慣例による論証である。たとえ、より公正で賢明と思われる判断に気づいても、その適用には消極的である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義

慣例主義は、期待保護の理念に基づき、先例と類似している事例について慣例に合致しているかどうかで決定する。法的論証とは、慣例による論証である。たとえ、より公正で賢明と思われる判断に気づいても、その適用には消極的である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


慣例主義
(a)期待保護の理念
 過去の政治的決定が強制を正当化するのは、強制が行使される機会を、裁判官が異なるに応じて異なった仕方で下されるような新たな政治道徳上の判断 に依らしめるのではなく、あらゆる人々が知ることのできる明瞭な事実に依らしめることによって、これらの政治的決定が、公正な忠告を人々に与えているからである。
(b)法的な論証とは慣例による論証
 裁判官は自らが判決することを、慣例がこれを強いるがゆえに 自分はそう判決するのだ、といった仕方で立証できないのであれば、彼は自分の判決のために 法的な根拠を援用することができない。
(c)先例と類似している事例
 慣例が要求す るのは、新たな事例が慣例事案に関して先例と類似しているかぎりにおいてのみ先例に従わな ければならないということである。
(d)より公正、より賢明への消極主義
 当該決定をどのように解釈すべきかに関する慣例によって、その決定の内容が確定したならば、裁判官は、たとえ別の決定のほうがより公正であったとか賢明であったとか考える場合でさえ、当の決定を尊重しなければならない。


「慣例主義であれ純一性としての法であれ、あらゆる積極的な法観念の中核は、なぜ過去の 政治的決定が現在の権利を確定するのか、という問いに対する返答の中に存する。ある法観念 が法的権利と他の形態の権利との間に、そして法的論証と他の形態の論証との間に設ける区別 を見ることによって、我々は、政治的決定が国家の強制に対して提供すると当の観念が見なし ている正当化の性格と限界を理解することができる。慣例主義は、この問題に対して一つの明 らかに魅力ある回答を与えている。過去の政治的決定が強制を正当化するのは、強制が行使さ れる機会を、裁判官が異なるに応じて異なった仕方で下されるような新たな政治道徳上の判断 に依らしめるのではなく、あらゆる人々が知ることのできる明瞭な事実に依らしめることによって、これらの政治的決定が公正な忠告を人々に与えているからであり、それゆえ逆にこの ような場合にのみ、過去の政治的決定は強制を正当化することになる。これは、期待保護の理念である。慣例主義が解釈に引き続く段階で提示する二つの主張のうち、第一の主張が明らか にこの理念に仕えるものである。慣例により許可された集団がひとたび明瞭な決定を下し、更 に、当該決定をどのように解釈すべきかに関する慣例によってその決定の内容が確定したなら ば、裁判官は、たとえ別の決定のほうがより公正であったとか賢明であったとか考える場合で さえ、当の決定を尊重しなければならないと第一の主張は唱えるのである。  慣例主義の第二の消極的主張もまた期待保護の理念に仕えるか否かは、それほど明白ではな い。しかし、これを肯定するそれなりに正当な根拠を示すことができるだろう。消極的主張は 次のように唱える。すなわち、裁判官は自らが判決することを、慣例がこれを強いるがゆえに 自分はそう判決するのだ、といった仕方で立証できないのであれば、彼は自分の判決のために 法的な根拠を援用することができない。というのも、過去の政治的決定は、慣例が指示する権利義務以外の権利義務を生み出しうる、という考え方をすれば、前記の理念は無効にされてし まうからである、と。例えば、マクローリン事件において訴訟当事者のどちらを勝たせるかに つき慣例が返答を指示していないことが明らかであると想定しよう。すなわち、慣例が要求す るのは、新たな事例が慣例事案に関して先例と類似しているかぎりにおいてのみ先例に従わな ければならない、ということであるが、いま、事故の現場に居合わせなかった人の情緒的損害 に対し損害賠償が認められるべきか否かについていかなる過去の事例も判決を下していないと しよう。このとき、ある裁判官が「純一性としての法」のスタイルに従って、先例が損害賠償 への権利を確立していることを宣言し、このような仕方で先例を読むことが、振り返ってみて 当該先例を道徳的により適正なものにすることをその理由として挙げたとしよう。これは、広 汎に支持された上述の理念の見地からすると危険なことである。道徳的な原理のようなもの が、慣例を反映してはいない根拠によって、ただそれが道徳的にみて説得力があるという理由 だけで法の一部となりうることが一度受け容れられてしまうと、たとえある種の原理が慣例により是認されたことと矛盾する場合でも、当の原理はその道徳的な説得力のゆえに法の一部とされる、という一層脅威ある見解に門戸を開けてしまうことになるからである。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第4章 慣例主義,慣例主義の説得力, 未来社(1995),pp.194-196,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

慣例主義、プラグマティズム法学、純一性としての法

法律家や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを、最善の 仕方で解釈している法観念は以下のいずれだろうか。(1)法の予測可能性のために、過去の政治的決定に合致した論証のみ認める、(2)過去にこだわらず最善と思われる論証を認める、(3) 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していく論証を認める。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6)法の3つの観念
(6.1)慣例主義(conventionalism)
 過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が、予測可能性と、この拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きる。
(6.2)プラグマティズム法学(legal pragmatism)
 裁判官は過去との整合性それ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきである。
(6.3)純一性としての法(law as integrity)
 過去の政治的決定を正当化する諸原理を、より普遍的に適用していくことで、市民の間に一種の 平等が生み出されていく。そして、この平等は市民の共同体をより真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。


 「第一に、法と強制の間に想定された結合関係はそもそも正当化されうるだろうか。公権力 は過去の政治的決定「に由来する」権利や責任に合致したやり方でのみ行使されるべきだ、と 要求することに何か意味があるのだろうか。第二に、もしこのことに意味があるとすれば、そ れは何か。第三に、「に由来する」という言葉をどのように理解すれば――過去の決定との整合 性をどのように観念すれば――前記の「意味」に最も善く奉仕することになるのか。法観念がこ の第三の問いに対してどんな解答を与えるかによって、当の観念が承認する具体的な法的権利 や責任が確定する。  以下に続く数章で我々は相互に対立し合う三つの法観念を区別し、これら三つの観念を、前 記の一連の問題に対する解答として考察するだろう。これら三つの法観念は私が前記のモデル に従って慎重に構成したものであり、それぞれ我々の法実務についての三つの抽象的な解釈を 示している。ある意味でこれらの観念は新奇なものと言えるかもしれない。これらの観念は、 私が第1章で説明した法理学の様々な「学派」に正確に対応しているわけではない。むしろ、 最初に考察される二つの観念に関しては、そのいずれについても、私の説明と精確に一致する ようなかたちで当の観念を擁護するような法哲学者は一人もいないだろう。しかし各々の法観 念は、たとえこれらが意味論的な主張ではなく今や解釈的な主張として再構成されていても、 法哲学の文献に顕著にみられるテーマや理念を充分に捉えており、私が提示する三つの観念の 間の議論のほうが、法哲学の文献によくみられる陳腐な論争より一層啓発的である。私はこれ ら三つの観念を「慣例主義」(conventionalism)、「プラグマティズム法学」(legal pragmatism)、そして「純一性としての法」(law as integrity)と呼ぶことにした い。後で私は、これらの観念のうち最初のものは、当初は一般市民の法理解を表現しているよ うに見えても、最も説得力のない観念であること、そして、第二の観念のほうがより有力な観 念であり、この観念は我々の議論の舞台を政治哲学をも含めるような仕方で拡張することに よってのみ論駁されうること、そして更に、第三の観念が万事を考慮したうえで最善の解釈と 言えること、すなわち、法律家や法学教師や裁判官の現実の行動と彼らの発言の多くを最善の 仕方で解釈しているのは第三の観念であることを論ずるだろう。  法に関する我々の「概念的」な記述が提起する第一の問いに対し、慣例主義は肯定的な解答 を与えている。慣例主義は、法と法的権利の理念を是認する。更に第二の問いに対する解答と して慣例主義は、法による強制の趣旨が――すなわち、過去の政治的決定に合致した仕方でのみ 権力が行使されるべきことを我々が要求する理由が――予測可能性に尽きること、そしてまた、 予測可能性という拘束条件がもたらす手続上の公正に尽きることを主張する。――もっとも、 我々が後に見るように、法とこれらの価値(予測可能性や手続上の公正)との間の正確な関係 については、慣例主義者の間でも見解の分かれるところであるが――。次に、第三の問いに対す る解答として慣例主義は、我々が要求すべき過去の決定との整合性がとる形態に関し、厳密に 限定された説明を与えている。すなわち、権利や責任が過去の決定に由来すると言えるのは、 これらが過去の決定の中に明瞭に含まれているか、法職にある人々の全体が慣例的に重要視して いる方法ないし技術によって明瞭なものとされうる場合に限られる。慣例主義によれば、政治 道徳は、過去に対してこれ以上の敬意を払うよう要求することはない。それゆえ、慣例の効力 が尽きた場合、裁判官は何らかの完全に前向きな判決の根拠を捜し出さなければならない。  法概念に関して私が示唆した観点からすると、プラグマティズム法学は懐疑的な法観念であ る。私が右で挙げた第一の問いに対して、それは否定的な解答を提示する。すなわち、裁 判官の判決は過去に下された他の政治的決定と合致したものでなければならず、訴訟当事者に はこの種の合致を要求する何らかの権利があると想定され、判決はこのような権利によって チェックされねばならない、といった要請を行うことによって共同体に何か真の利益が生まれ るという考え方をそれは否認する。プラグマティズム法学は、我々の法実務に関してこのよう な要請とは非常に異なった解釈を与えている。この立場によると、裁判官は過去との整合性―― これがいかなる形態の整合性であれ――をそれ自体において価値あるものと見なすことなく、共 同体の将来にとって最善であると彼らに思われる判決であればどんな判決でも現に下しており、またそうすべきなのである。従って厳密に言うとプラグマティストは、法概念に関する私 の説明で展開されているような法や法的権利の観念を拒絶していることになる。もっとも、 我々が後で見るように、人々があたかも何らかの法的権利を有している「かのように」裁判官 が時として行動すべきことを、戦略上の理由が要求するのであるが。  純一性としての法は、慣例主義と同様に、法および法的権利を心底から受け容れている。し かし、第二の問いに対してそれは慣例主義とは非常に異なった解答を与えている。純一性とし ての法が想定するところによれば、法の拘束は、単に予測可能性や手続上の公正をもたらした り、その他何らかの道具的な仕方で社会の利益になるのではなく、むしろ、市民の間に一種の 平等を生み出すことによって社会の利益になるのである。そして、この平等は市民の共同体を より真正なものにし、共同体が政治権力を行使するとき、この権力行使の道徳的正当化を更に 促進することになる。第三の問いに対して純一性の立場が与える解答も――すなわち、法が要求 する過去の政治的決定との整合性とはどのような性格の整合性か、という点に関する説明も―― 前記のことと呼応して、慣例主義が与える解答とは異なっている。その主張によれば、権利と 責任が過去の決定に由来し、したがって法的なものと見なされるのは、単にそれらが過去の決 定の中に存在する場合だけに限られない。当の明示的な決定を正当化する際に前提とされてい るような個人的及び政治的な道徳から権利や責任が導出される場合も、これらを過去の決定に 由来する法的権利ないし法的責任と見なすべきである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第3章 法理学再論,法概念と法観念, 未来社(1995),pp.160-163,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




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