ラベル 均衡したルール理論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 均衡したルール理論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年6月2日火曜日

規範性とは何かについては,(a)期待や憤慨の感情説,(b)集合的合意,共同意図説,(c)合理的正当化説など種々あり合意がないが,規範性とは切り離して制度の機能の記述が必要だ. その一例が,均衡したルール理論である.(フランチェスコ・グァラ(1970-))

均衡したルール理論

【規範性とは何かについては,(a)期待や憤慨の感情説,(b)集合的合意,共同意図説,(c)合理的正当化説など種々あり合意がないが,規範性とは切り離して制度の機能の記述が必要だ. その一例が,均衡したルール理論である.(フランチェスコ・グァラ(1970-))】

(1)規範性とは何かに関する諸仮説
 (a)期待や憤慨の感情説
  規範性は、相互の期待や、私たちの期待が裏切られたときに経験する憤慨の感情の観点から分析できる。
 (b)集合的合意、共同意図説
  規範性は、集合的合意あるいは共同意図というような、より強い概念を必要とする。
 (c)合理的正当化説
  規範性は、合理的論証によって行為を正当化する可能性にかかわる。
(2)均衡したルール理論
 (a)制度の理論を、特定の規範性の理論に依存させないで記述すること。
 (b)規範性を機能によって特徴づける。
 (c)このアプローチは、いかなる実質的かつ規範的な制度評価も可能にしない。たとえば、独裁制と民主制、資本主義と社会主義、単婚制と複婚制といったように、悪い制度から良い制度を見わけることを可能にしない。
 (d)上記のような判断は、社会的存在論よりもむしろ倫理の領域に属するものであり、これら二つの研究を分けたままにするのに好都合である。

 「ここで次のことに注意してもらいたい。この戦略に従うことで、統一理論は、規範性を表現するフォーマルな道具しか提供しないことになるが、規範性の性質についてや、規範性はどこから生じるかということについては中立的な立場にとどまるということだ。そして、私はまさにそうあるべきと考える。規範性は現代哲学における至極厄介な問題の一つであり、制度の理論をそれに関する特定の説明に依存させることは馬鹿げているだろう。哲学者と社会科学者のなかには、規範性は、相互の期待や、私たちの期待が裏切られたときに経験する憤慨の感情の観点から分析できると信じる学者がいる。他の学者たちは、規範性は集合的合意あるいは共同意図というような、より強い概念を必要とすると考えている。また、規範性は情動に依存すると主張する哲学者と社会科学者もいるし、さらには、規範性は合理的論証によって行為を正当化する可能性にかかわると信じている学者もいる。
 これらの説明のどれが満足できる仕方で規範性を説明することができるか否かは、明確な回答のない論点であり、私はここでそれを解決しようとは思っていない。実際、色々な説明の中から一つを選択することは、あまり賢明ではないかもしれない。もし規範性が制度にとって重要ならば、規範性が異なる形態をとることはありうる話だ。アナロジーとして、生命体が生存にとって重要な目標を実現しようと試みるさまざまな仕方のことを考えてみよう。獲物の存在を知覚することが捕食者にとって重要であれば、捕食者はその課題を達成するのに二つ以上のやり方を持っている可能性が高い(たとえば、視覚・聴覚・嗅覚だ)。同様に、規範性にはおそらく、さまざまな源泉があり、かつ多面性があるのだろう。このことは、二つ以上の説明が正しい可能性が高いということを意味している。
 だから、規範性とは何かを問う代わりに、規範性がなすことは何か、すなわち規範性の機能は何かを問うことにしたい。これは、本書の底流にある、広い意味での機能主義的な制度の概念化と軌を一にするけれども、この戦略を採ることで、一部の読者は否応なく不満を抱くことになるだろう。理由の一つは、このアプローチが、いかなる実質的かつ規範的な制度評価も可能にしないからである。たとえば、独裁制と民主制、資本主義と社会主義、単婚制と複婚制といったように、悪い制度から良い制度を見わけることを可能にしない。私自身の見解は、この類の判断は社会的存在論よりもむしろ倫理の領域に属するもので、これら二つの研究を分けたままにするのに好都合であるというものだ。これに同意してくれない哲学者がいて、より頑健な制度の理論を構築しようと努めているが、私の見解では結果は入り混じっている。」
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第6章 規範性,pp.120-121,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:均衡したルール理論)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
フランチェスコ・グァラ/Home Page
検索(francesco guala)
検索(フランチェスコ・グァラ)
フランチェスコ・グァラの関連書籍(amazon)

均衡が存在しないタカ-ハト・ゲームは,外的ルールの導入によって効率的な状態に遷移する. これを相関均衡というが,このルールを含むより大きなゲームの均衡状態として記述可能である(制度の均衡したルール理論).(フランチェスコ・グァラ(1970-))

均衡したルールの理論

【均衡が存在しないタカ-ハト・ゲームは,外的ルールの導入によって効率的な状態に遷移する. これを相関均衡というが,このルールを含むより大きなゲームの均衡状態として記述可能である(制度の均衡したルール理論).(フランチェスコ・グァラ(1970-))】

(1)制度に対する均衡アプローチ
 (1.1)走行ゲーム
  走行ゲームでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。選択によって利益は変わらない。(規律の役割)
 (1.2)両性の闘い
  両性の闘いでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。しかし、異なる選択は両者に異なる利益を与え、利害対立がある。(全体的視点の役割)
 (1.3)ハイ&ロウ
  ハイ&ロウでは、協力しさえすれば利益を得る。異なる選択をすると利益が失われるため、協力は均衡状態である。異なる選択で協力が維持できれば、利益を増やせる可能性があるが、劣位の均衡に閉じ込められる場合もある。(より良い均衡の認知)
 (1.4)鹿狩り
  鹿狩りでは、相手に優位で必ず利益がある選択肢と、相手に劣位でリスクのある選択肢とが天秤にかけられる。各選択肢の期待値は等しい。優位な均衡は、両者がリスクを取る選択であるが、劣位の均衡に閉じ込められやすい。より良い均衡に遷移するためには、非協力リスクと相対的劣位の負担を乗りこえる相手への信頼が必要となる。(信頼の役割、非協力のリスクの許容度、相対的優位性の観点)
 (1.5)囚人のジレンマ
  囚人のジレンマでは、相手に優位で期待値も大きい裏切りと、相手に劣位で期待値も小さい協力とが天秤にかけられる。それでもなお、全体にとって優位な均衡は、両者が協力する選択である。協力のためには、非協力リスクと相手に対する劣位の負担を乗りこえる相手への信頼が必要となる。(信頼の役割、非協力のリスクの許容度、相対的優位性の観点)

(2)制度に対するルール・アプローチ
 (2.1)タカ-ハト・ゲーム
  タカ-ハト・ゲームでは、相手に劣位ではあるが必ず利益があるハトの選択肢と、相手に優位でリスクのあるタカの選択肢とが天秤にかけられる。各選択肢の期待値は等しい。両者がタカの選択をすると、全体にとって最も不利な結果を招くため躊躇される。しかし、両者がハトの選択をしている状態は、タカの選択を魅力的にするため、均衡状態は存在しない。
  (a)顕著な解が存在していない。
  (b)彼らの唯一の選択肢は、ランダムに選択することである。
  (c)彼らの期待利得は、争いの的になっている土地に放牧しないことで得られる利得の(1,1)よりも大きくならない。
 (2.2)相関均衡
  (a)振付師はコインを投げ、公に告知する。表がでたら「ヌアー族が放牧する」、裏がでたら「ディンカ族が放牧する」。コイン投げの結果を、両者の共通知識とする。両プレーヤーが、相手プレーヤーがこの戦略に従うことに自信をもっているならば、コインを公的に投げることで双方の利得が上がる。儀式の結果を有効活用して、彼らは常に効率的な結果にコーディネートするだろう。
  (b)外的ルール
   条件付き戦略(ルール)は、このゲームの部分ではない。それが、外部から与えられたルールである。
(3)社会的制度の均衡したルール(rules-in-equilibrium)の理論
 ゲームGの相関均衡とは、新しい戦略の追加でGを拡張して得られる、より大きなゲームG*のナッシュ均衡である。新しい戦略は元々のゲームにはない外的事象の生起に条件付けて、行為を指示する。つまり、それは「XならばYをする」という言明のかたちをとる。ここでXは相関装置の性質である。

 「相関均衡
 コンヴェンションはどのような種類の均衡になるのだろうか。二つのナッシュ均衡が存在するにもかかわらず、どちらも放牧ゲームのコンヴェンションではない。結果として、コンヴェンションはコーディネーション・ゲームの単なるナッシュ均衡ではありえないことになる。ピーター・ヴァンダーシュラアフ(vanderschraaf 1995)は、ルイスのいうコンヴェンションが相関均衡であることを示している。この解概念は、1970年代にロバート・オーマンによって始めて研究されたものである。相関均衡は本章で提示する統一理論において重要な役割を果たすことになるので、その特徴を直感的に理解しておくことが重要である。数学的なフォーマル・モデルは少し複雑になるから、ここでは数学的でない説明をする。興味のある読者は、テクニカルな文献で詳細を追っていただきたい。
 相関均衡のアイデアを掴むためには、仮説的なコンヴェンション以前のシナリオから出発することが有用である。ディンカ族とヌアー族は放牧ゲームをプレーしようとしているが、(仮説により)顕著な解が存在していないと仮定しよう。そのような状況においては、彼らの唯一の選択肢はランダムに選択することである。ヌアー族はコインを投げて、表がでたら彼らはGを選択し、裏がでたらNGを選択する。ディンカ族も同じことをすることに決め、自分たちのコインを投げる。彼らが異なる結果を得る確率を合わせれば、効率的な解の一つに収束する確率は50%となる。残念なことに、彼らの期待利得は、争いの的になっている土地に放牧しないことで得られる利得の(1,1)よりも大きくならない。
 この例におけるコインは《別々に、私的に》投げられている。その代わりに、コイン投げが《単一》かつ《公的な》事象であったとしたら、何らかの違いが生じるだろうか。ここで新しい人物を導入しよう。ハーバート・ギンタスに従って、私は彼を「振付師」と呼ぶことにする(Gintis 2009)。振付師はコインを投げ、公に告知する。表がでたら「ヌアー族が放牧する」、裏がでたら「ディンカ族が放牧する」。二人のプレーヤーはコイン投げの儀式を見ていて、相手もまたそれを見ることができることを知っている。さらに、彼らは、両者ともに同じ儀式を見ている、ということを相手が知っていることを知っている(等々)。つまり、コイン投げの結果は共通知識である。
 このような環境においては、振付師のアドバイスに従うことが妥当であるように思われる。言い換えると、各プレーヤーはコイン投げの結果に基づいて行動を条件づけ、以下のような明確な戦略に従うのである。「振付師がGというのであればGを選択し、そうでなければNGを選択する」。両プレーヤーが、相手プレーヤーがこの戦略に従うことに自信をもっているならば、コインを公的に投げることで双方の利得が上がる。儀式の結果を有効活用して、彼らは常に効率的な結果にコーディネートするだろう。
 このような種類の解が相関均衡である。ゲームGの相関均衡とは、新しい戦略の追加でGを拡張して得られる、より大きなゲームG*のナッシュ均衡である。新しい戦略は元々のゲームにはない外的事象の生起に条件付けて、行為を指示する。つまり、それは「XならばYをする」という言明のかたちをとる。ここでXは相関装置の性質である。ヴァンダーシュラアフが示したように、ルイスのコンヴェンションは、コーディネーション・ゲームにおける以前の選択を活用した相関均衡である。言い換えると、コイン投げがプレーの歴史に置き換えられている。」
 「もう一度強調しておく価値があることは、もとの行列(図4・2)のナッシュ均衡に注目していたならば、これら二つの見解を取り持つことが不可能だったであろうということである。条件付き戦略(ルール)はこのゲームの部分ですらないし、そうなりえないのである。もとのゲームのなかには、北/南という相関装置が存在しないからである。したがって、相関戦略を、ダグラス・ノースの精神に従って、もとのゲームでのコーディネーションの達成に役立つ外的ルールとみなすことは正しい。しかしコンヴェンションは、もとのゲームのナッシュ均衡ではない。それはもとのゲームの相関均衡、つまり拡張されたゲームのナッシュ均衡である。制度に対するルール・アプローチと均衡アプローチとの間にある対照は、おそらく、異なる均衡概念のこうした区別を正しく理解しそこなっていることによるものであろう。しかし、相関均衡を導入すれば、どちらのアプローチも支持されるのである。つまり、私たちは社会的存在論の統合的見方を達成したのである。私たちはそれを、社会的制度の均衡したルール(rules-in-equilibrium)の理論と呼ぶことにしたい。」
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,第1部 統一,第4章 相関,pp.79-81,85,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))
(索引:均衡したルール理論,均衡理論,ルール理論)

制度とは何か──社会科学のための制度論


(出典:Google Scholar
フランチェスコ・グァラ(1970-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「第11章 依存性
 多くの哲学者たちは、社会的な種類は存在論的に私たちの表象に依存すると主張してきた。この存在論的依存性テーゼが真であるならば、このテーゼで社会科学と自然科学の区分が設けられるだろう。しかもそれは、社会的な種類についての反実在論と不可謬主義をも含意するだろう。つまり、社会的な種類は機能的推論を支えるものとはならず、この種類は、関連する共同体のメンバーたちによって、直接的かつ無謬的に知られることになるだろう。
 第12章 実在論
 しかし、存在論的依存性のテーゼは誤りである。どんな社会的な種類にしても、人々がその種類の正しい理論を持っていることと独立に存在するかもしれないのだ。」(中略)「制度の本性はその機能によって決まるのであって、人々が抱く考えによって決まるのではない。結果として、私たちは社会的な種類に関して実在論者であり可謬主義者であるはずだ。
 第13章 意味
 制度的用語の意味は、人々が従うルールによって決まる。しかし、そのルールが満足いくものでなかったらどうだろう。私たちは、制度の本性を変えずにルールを変えることができるだろうか。」(中略)「サリー・ハスランガーは、制度の同一化に関する規範的考察を導入することで、この立場に挑んでいる。
 第14章 改革
 残念ながら、ハスランガーのアプローチは実在論と不整合的である。私が主張するのは、タイプとトークンを区別することで、実在論と改革主義を救うことができるということだ。制度トークンはコーディネーション問題の特殊的な解である一方で、制度タイプは制度の機能によって、すなわちそれが解決する戦略的問題の種類によって同定される。」(後略)
(フランチェスコ・グァラ(1970-),『制度とは何か』,要旨付き目次,慶應義塾大学出版会(2018),瀧澤弘和,水野孝之(訳))

フランチェスコ・グァラ(1970-)
フランチェスコ・グァラ/Home Page
検索(francesco guala)
検索(フランチェスコ・グァラ)
フランチェスコ・グァラの関連書籍(amazon)

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2