2021年12月3日金曜日

自然科学における法則が破ることのできない普遍的なものであるのに対して、人間や社会に関する法則は、もし存在するとしてもそうではない。それは、人間が社会を作り、変えていくことができるからである。では、科学的方法は使えないのか?(カール・ポパー(1902-1994))

人間や社会に関する法則とは?

自然科学における法則が破ることのできない普遍的なものであるのに対して、人間や社会に関する法則は、もし存在するとしてもそうではない。それは、人間が社会を作り、変えていくことができるからである。では、科学的方法は使えないのか?(カール・ポパー(1902-1994))


 「1 一般化
 歴史主義は以下のように主張する。
 自然科学で一般化が可能で、実際にうまく一般化できるのは、自然に全般的な一様性 (斉一性)があるからである。つまり一般化は、同様の条件の下では同様のことが起こるとい う観察に基づく。観察というよりも想定といったほうがいいかもしれない。空間と時間を通じ て常に妥当するとみなされるこの原理が、物理学の方法の根底にある。  この原理を社会学で役立てることは、当然できない。「同様の状況」は、歴史上ひとつの時 代にしか生じない。別の時代まで同様の状況が持続するということはない。したがって社会に は、長期的な一般化を基礎づけられるような一様性は存在しない。あるとすれば、《ごくささ いな規則性》にすぎない。たとえば、〈人間は常に集団で暮らす〉とか、〈物質には有限なも のと無限なもの(空気など)があり、有限な物質のみが市場価値、つまり交換価値を持つ〉と いうような、わかりきった自明の規則性でしかない。  この限界に目をつむり、社会的一様性を一般化しようとする方法論は、その規則性が永続す ることを暗黙のうちに仮定している。物理学の一般化の方法を社会科学も採用できるとするこ の素朴な考え方からは、誤った、そして人を誤らせる危険な社会学理論が生じる。そのような 理論は、社会が発展するということを否定する。社会が重大な変化を起こすということも否定 する。社会の発展というものがあったとしても、それが社会生活の根本的な規則性に影響を及 ぼしうるということを否定する。
   歴史主義者は、こうした誤った理論の背後には弁明的な目的が隠れているものだと力説する ことが多い。たしかに不変の社会法則という仮定は、弁明のためには援用しやすいものであ る。  
 不変の社会法則という仮定は、さしあたり、不快なことや望ましくないことについて、 〈それは不変の自然法則により決まっていることだから受け入れねばならない〉という議論と して現れてくるかもしれない。例を挙げれば、経済学の「厳然たる法則」が、賃金交渉に法制 度が介入することの無益さを証明するものとして引き合いに出されることがある。  永続性を仮定することの弁明的誤用のもうひとつの例は、運命は避けがたいものだという雰 囲気を育むことである。現在あるものは永久にあり、できごとの流れに影響を与えようとする などとんでもないことで、その流れを評価しようとするだけでもおかしなことだ、という雰囲 気である。自然の法則に反論することはできず、法則を捨て去ろうと努めるならば、悲惨な事 態を招きかねないということになる。  これらの主張は、保守的で、弁明的で、ときには宿命論的でさえある。社会学でも自然主義 的方法を援用すべきであるという要請には、こうした主張が必然的に伴う。
 これに対して歴史主義は、社会の一様性は自然科学でいう一様性とは大きく異なると主張す る。     
 社会の一様性は、時代により変化する。その変化をもたらす力は《人間の》活動であ る。社会の一様性は自然の法則ではなく、人間により作られたものである。人間の自然な性質 に基づいていると言うことはできるかもしれない。しかしそれは、人間の自然な性質が社会の 一様性を変化させ、おそらくは制御する力をもつからにほかならない。  それゆえ、ものごとは良くなったり悪くなったりする。活動によりものごとを改変しようと しても無益なことだとは、必ずしも言えない。
  歴史主義が持つこうした傾向は、能動的であることに使命感を抱く人々の目に魅力的に映 る。能動的であるとは、現状を不可避のものとして受け入れることを良しとせず、特に人間の 営みに介入することである。能動性に傾き、あらゆる自己満足を忌避する傾向を、「能動主 義」(アクティビズム)と呼んでいいだろう。  歴史主義と能動主義との関係については第17章と第18章でさらに詳しく述べるが、ここでは 有名な歴史主義者、マルクスのよく知られた警句を引いておこう。この言葉は「能動主義的」 態度を見事に表現している。
   「哲学者は世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。しかし問題は、世界を変えるこ とである。」」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,1 一般化,pp.26-30,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







一般に、ある一つの情報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響をオイディプス効果と名付けたい。予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれない。このため、社会的予測は極めて難しくなる。(カール・ポパー(1902-1994))

オイディプス効果

一般に、ある一つの情報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響をオイディプス効果と名付けたい。予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれない。このため、社会的予測は極めて難しくなる。(カール・ポパー(1902-1994))



「後に歴史主義の親自然主義的見解を考察する中で明らかにするが、歴史主義は科学の務め の一つとして将来の予測ということを掲げ、その重要性を強調する傾向がある(この点につい ては私も完全に同意する。ただし、社会科学の任務の中に《歴史的予言》が含まれるとは考え 《ない》。しかし同時に歴史主義は、社会的予測はきわめて困難な作業にならざるをえないと 論じる。その理由は、社会の構造が複雑であるということだけでなく、予測と予測されること がらとが相互に関係することから、特別に複雑な状況が生じるからである。  予測が、予測されたことがらに影響を及ぼすことがあるという発想は非常に古くからあっ た。伝説のオイディプス王は知らずに父親を殺したが、これはオイディプスが父親を殺すとい う予言の結果だった。その予言ゆえに父親はオイディプスを捨てたのである。私は、この伝説 に基づいて、予測が予測されたことがらに及ぼす影響(より一般化するなら、「ある一つの情 報が、その情報が言及する状況に及ぼす影響」)を「オイディプス効果」と名付けたいと思 う。その予測は、予測したことがらの実現を促すかもしれないし、妨げるかもしれないが、い ずれの場合もオイディプス効果である。  歴史主義者は最近、この種の効果が社会科学にもあるのではないかと指摘するようになった。それにより正確な予測が難しくなり、客観性が損なわれるだろうというのである。
   社会科学の発展により、あらゆる社会的事象を科学的に《正確に》予測できるようにな ると仮定すると、非常におかしな帰結が生じ、それゆえこの仮定は純粋に論理的に棄却でき る。なぜなら、もし新種の科学的社会予測カレンダーが作られて世に知られるようになったと したら(そのようなものがあるとしたら原理的に誰にでも作れるはずなので、長く秘密にして おくことは不可能)、その予測を覆そうとする動きが必ず起こるからである。  たとえば、ある銘柄の株価が3日間上昇して、それから落ちると予測されたなら、市場参加 者は全員3日目に売りに出て、その日のうちに株価は暴落し、予測は外れる。つまり、社会的 なできごとに関して正確で詳細な予測カレンダーを作るという発想自体、自己矛盾なのであ る。したがって、社会科学的に《正確で詳細な》予測をすることは不可能である。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,5 正確な予測の不可能性,pp.37-38,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







本質主義は、理論的モデルを具体的事物と誤認している。社会現象の解明においても、自然科学と同じような方法論的唯名論が科学的方法である。すなわち、社会学的モデルを、個人に関してその態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築していく(方法論的個人主義)等の方法が必要だ。(カール・ポパー(1902-1994))

方法論的個人主義

本質主義は、理論的モデルを具体的事物と誤認している。社会現象の解明においても、自然科学と同じような方法論的唯名論が科学的方法である。すなわち、社会学的モデルを、個人に関してその態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築していく(方法論的個人主義)等の方法が必要だ。(カール・ポパー(1902-1994))



「自分が仮説や理論を操作していることに気づかず、それゆえに理論的モデルを具体的事物 と誤認することは珍しくない。これは非常に一般的な誤りである。モデルがこのように使われ ることが多いという事実が、方法論的本質主義の見解を説明し、それにより方法論的本質主義 を無効にする(第10節参照)。説明するというのは、モデルというのがその性格上抽象的また は理論的であるため、私たちはそれを観察可能な変化するできごとのうちに、あるいはその背後に、一種の永続的な亡霊として、つまり本質として見ているような感覚をもちやすいからである。また、無効にするというのは、社会理論の課題は、社会学的モデルを記述的または唯名論的な観点から、つまり《個人に関して》その態度や期待や人間関係の観点から慎重に構築し、分析することにあるからである。社会理論の課題をこのように見る主張は、「方法論的個人主義」と呼んでいいだろう。
 自然科学と社会科学の方法の単一性については、ハイエク教授の「科学主義と社会の研究」から二つの部分を抜き出して分析してみればよくわかる。この分析により、両者の単一性を擁護できるだろう。まず、ハイエク教授はこのように書いている。

   物理学者が社会科学的問題を自分の分野からの類推で理解しようとするなら、次のような世 界を想像せざるをえないだろう。そこでは原子〔個々の人間〕の内部を直接観察して知ること ができるが、多くの材料を集めて実験をすることはできず、ごくわずかな原子の相互作用を限 られた期間しか観察できない。物理学者は、さまざまな種類の原子についての知識から、原子 が集まって大きな単位となるような、さまざまな仕方でモデルを構築できるだろう。そしてこ れらのモデルを、より複雑な現象をそこに観察できるようないくつかの事例のすべての特徴 を、ますます厳密に再現できるようにしていくこともできるだろう。しかし、物理学者はマク ロの世界の法則を、ミクロの世界について自分が持っている知識から引き出すのであり、その 法則は常に「演繹的」なものになる。複雑な状況のデータについての知識が限られているた め、その法則から個々の状況の結果を正確に予測することはほとんどできない。また、対照実 験により法則を確認することもできない。もっとも、自説によればありえないはずのできごと を観察したときには、その法則は《反証》されるのではあるが。」

 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,29 方法の単一性,pp.220-222,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)









例えば電子とは何か。物理学では、現象を記述する諸法則とモデルの便宜的な名称として、この言葉を使用する(方法論的唯名論)。これに対して社会科学では、定量的方法の困難さもあり、対象の本質を言葉で定義する(本質主義)。しかし、本質とは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))

方法論的唯名論と本質主義

例えば電子とは何か。物理学では、現象を記述する諸法則とモデルの便宜的な名称として、この言葉を使用する(方法論的唯名論)。これに対して社会科学では、定量的方法の困難さもあり、対象の本質を言葉で定義する(本質主義)。しかし、本質とは何なのか。(カール・ポパー(1902-1994))


「自然科学の分野で方法論的唯名論が支配的であることは、ほとんどの人が認めるはずであ る。たとえば、物理学は原子の本質や光の本質を問うことはなく、ただこれらの言葉を物理的 観察を説明し記述するために利用し、重要かつ複雑な物理構造の名称として用いているだけで ある。  生物学でも事情は同じである。哲学者は生物学者に対して、「生命とは何か」「進化とは何 か」といった問いの回答を求めるかもしれないし、生物学者の中にもときにはその要求に応え ようとする者が出てくる。しかし、科学としての生物学は全体としてそのような問題には対応 することなく、物理学にごく近い説明や記述の方法を採用している。  そうすると当然、社会科学の分野でも、方法論的自然主義者は唯名論を支持し、反自然主義 者は本質主義を支持することが予想される。ところが実際には、社会科学ではどうやら本質主 義が支配的なのである。しかも、それに対する積極的な反論は存在しない。本質主義の立場は 以下のように論じる。 
 《自然科学の方法が基本的に唯名論的であるのに対して、社会科学は方法論的に本質主 義を採用せざるをえない》。社会科学の任務は、国家、経済活動、社会集団など社会学的実体 を理解し、説明することであり、それは、それらの実体の本質を見抜くことによってのみ成し 遂げられる。重要な社会学的実体には必ずそれを指示する普遍名辞が前提として存在し、自然 科学で行なわれて成果を上げているように自由に新しい言葉を導入しても、意味がない。社会 科学の任務は、これらの実体を明確かつ適切に、すなわち本質的な部分と偶有的な部分を区別 して記述することだが、そのためには本質の知識が必要とされる。「国家とは何か」や「市民とは何か」(アリストテレスは『政治学』の中でこれらを根本問題と考えている)、あるいは 「信用とは何か」、「英国国教会教徒と分離派教徒(つまり教会とその分派)の本質的な違い は何か」といった問いは、完全に正当な問いであるのみならず、まさにそれに答えるために社 会学理論が構築されるような種類の問いなのである。
 歴史主義者はそれぞれ、形而上学的問題に対する姿勢や、自然科学の方法論に関する考え方 で互いに異なるが、社会科学の方法論に関する限りでは、唯名論より本質主義に傾くことは明 らかである。実際、私の知る歴史主義者はひとり残らず本質主義的態度を取る。しかし、その 理由が歴史主義が持つ一般的な反自然主義的傾向のみによるものか、あるいは本質主義の方法 を支持せざるをえないような特殊の歴史主義的議論が存在するのかという点は、考察に値す る。  第一に、社会科学で定量的方法を用いることに反対する議論は、明らかにこの問題に関連す る。社会的できごとの定性的性格を強調することと、(単なる記述ではない)直感的理解を強 調することは、本質主義にきわめて近い態度である。  しかし、もっと歴史主義に典型的で、すでに読者にはお馴染みになっている考え方の傾向に 沿った議論がある(偶然ではあるが、アリストテレスは、まさにこの議論により、プラトンは 最初の本質論を発展させたと指摘している)。  歴史主義は変化の重要性を強調する。すべての変化には、変化する何かが存在しなければな らないと、歴史主義者は論じるだろう。  
 不変のものが何もないとしても、変化について語るためには、〈変化したもの〉を同定 できなければならない。  物理学においてはこれは比較的容易である。たとえば力学においてあらゆる変化は物体の運 動、すなわち空間-時間的変化である。しかし、主に社会制度を考察対象とする社会学におい ては、変化した後の制度を同定することは容易ではないため、困難は大きい。記述的な意味の みで言うなら、変化《前》の社会制度を変化《後》の制度と同一と見なすことは不可能であ る。記述的な観点では、両者はまったくの別物かもしれない。  たとえば英国における現在の政治制度を自然主義的に記述するとしたら、4世紀前の制度と は完全に異なるものとして提示しなければならないかもしれない。しかし私たちは、《行政 府》がある限り、大きく変わっていようともそれは《本質的に》同じものだと言うことができ る。現代社会でその制度が果たす機能は、かつての制度が果たしていた機能と《本質的に》同 じである。両者の特徴を記述すればほとんど同じところは残っていないにもかかわらず、《本 質的》同一性は保たれており、一つの制度の形が変化したと見ることができる。社会科学にお いては、不変の本質を想定することなしに、つまり方法論的本質主義に沿うことなしに、変化 や発展を語ることはできないのである。  不況、インフレーション、デフレーションといった社会学的な用語のいくつかが、もともと 純粋に唯名論的に導入されたことは、言うまでもなく明らかである。しかしそうだとしても、 これらの用語はすでに唯名論的な性格を持ち合せていない。社会状況が変化すると、遠からず 社会科学者たちの間で、ある現象が本当にインフレーションであるかどうかを巡って意見の食 い違いが生じるのである。こうして、厳密を期すために、インフレーションの本質的な性質 (あるいは本質的な意味)を探究する必要が出てくるであろう。  したがって、いかなる社会的実体についても、「その《本質》に関する限り、ほかの何らか の場所、ほかの何らかの形で存在するかもしれないし、同様に実際には変わらないまま変化す るかもしれないし、実際の変化とは違う仕方で変化するかもしれない」(フッサール)と言う ことができる。起こりうる変化の幅は、アプリオリには限定されない。社会的実体がどのよう な種類の変化を受けて、なお同じでありつづけられるかは、けっしてわからない。ある観点か らは本質的に異なる現象が、別の観点からは本質的に同一であるということもあるかもしれな い。

 右に展開してきた歴史主義者の議論からは、以下の結論が導ける。 

 社会の発展をそのまま記述することは不可能である。あるいは、社会学的記述は単なる 唯名論的意味での記述ではありえない、と言った方がいいかもしれない。社会学的記述が本質 抜きではありえないとしたら、社会の発展の理論はなおさら本質を無視しては成り立たない。 社会的なある時代の特徴を、その時代の緊張状態やそこに内在する傾向やトレンドとともに確 認し、説明するという課題に対しては、唯名論的手法により一切の対処の努力が許されないと いうことは、誰も否定できないからである。

 したがって、方法論的本質主義の基には、プラトンを実際に形而上学的本質主義に導いた議 論と同じ歴史主義的議論があると言うことができる。つまり、変化する事物だけでは合理的記 述は不可能だというヘラクレイトス的議論である。 

 科学や知識は、前提として、変化せずにそれ自体と同一であり続ける何ものか、すなわち本質を必要とする。  こうして見ると、《歴史》、すなわち変化の記述と、《本質》、すなわち変化の中で不変を 保つものとは、相関的な概念であると思われる。しかしこの相関には別の面もある。ある意味 で本質は変化を前提とし、それにより歴史を前提としているということである。なぜなら、事 物が変化するときに同一のまま変化しない原理が本質(あるいはイデア、形相、本質、実体) であるとするなら、その事物が被る変化こそが、事物の異なる側面、あるいは可能性を、した がってその本質を明るみに出すからである。つまり、本質とは事物に内在する可能性の総和、 または源泉と解釈することができ、変化(あるいは運動)とは、事物の本質の潜在的可能性の 現実化、具現化と解釈できる(この説はアリストテレスに由来する)。したがって、事物、す なわちその不変の本質は、《変化を通して》のみ知ることができると言える。  たとえば、あるものが金でできているかどうかを知りたければ、叩いたり、化学的に検査し たりして、つまりそれを変化させて潜在的可能性を引き出さなければならない。同様に、人間 の本質――性格――は、その本質が人生の展開の中で現われてくるときにのみ知ることができる。 この原理を社会学に適用すると、以下のような結論が導かれる。ある社会集団の本質、すなわ ち本当の性格は、その歴史を通じてのみ自ら現われ、知られることができる。  しかし、社会集団がその歴史を通じてのみ知られうるとしたら、その集団を記述する概念は 歴史的概念でなければならない。実際、日本《国家》であるとかイタリア《国民》、アーリア 《民族》といった社会学的概念は、歴史研究に基づいた概念であるとしか考えられない。社会 《階級》についても同じことが言える。たとえば《ブルジョワ》というのは、歴史によっての み――産業革命により権力を得て、地主を押しのけ、プロレタリアートと闘っている階級として ――定義される概念である。  

 本質主義は、変化する事物の中で同一性を見出せるのは本質あってのことであるという根拠 に基づいて考えられたものかもしれないが、結局は、社会科学は歴史的方法を採用しなければ ならないとする見解、言い換えれば歴史主義を支える最も強力な議論の一部を用意するものと なったのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,10 本質主義と唯名論,pp.61-65,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳)) 

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良




カール・ポパー
(1902-1994)







特定の出来事の因果的説明は、初期状態を仮定して、それと法則とからその出来事を演繹することで足りる。しかし、ある規則性の因果的説明には、主張されている規則性が成立する、ある種類の状況を特徴付ける条件自体も、一般法則から演繹する必要がある。(カール・ポパー(1902-1994))

規則性の因果的説明とは何か

特定の出来事の因果的説明は、初期状態を仮定して、それと法則とからその出来事を演繹することで足りる。しかし、ある規則性の因果的説明には、主張されている規則性が成立する、ある種類の状況を特徴付ける条件自体も、一般法則から演繹する必要がある。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)特定の出来事の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)《特定的初期条件》
 これは、単称言明である。正確には、条件ではなく、状態である。原因と呼ばれる。
 (c)ある《特定の出来事》を、(a)と(b)とから演繹できるとき、因果的説明がなされたことになる。説明された特定の出来事は、結果と呼ばれる。

(2)規則性の因果的説明
 (a)《普遍法則》
 (b)ある種類の状況を特徴付ける条件
 (c)ある規則性
 (a)と(b)とから規則性を演繹できても、不十分である。規則性の因果的説明とは、主張されているその規則性が当てはまる条件(b)を含む法則を、すでに独立に検証、確認された普遍法則から演繹することにある。


「ある《特定のできごと》を因果的に説明するということは、そのできごとを叙述する言明 を二種類の前提から演繹することを意味する。二種類というのは、《普遍法則》と、単称言 明、つまり特定の言明である。この特定の言明は、《特定的初期条件》と呼べるだろう。」 (中略)  「このように二種類の要素、二種類の言明があり、両者が合わさって完全な因果的説明が成 立する。すなわち《自然法則の性格を持つ普遍言明と問題になっている具体的事例に関係す る、「初期条件」と呼ばれる特定的言明》である。  これで、普遍法則から初期条件の助けを借りて、特定的言明「この糸は切れる」を演繹する ことができる。この結論を、特定的《予測》と呼ぶこともできるだろう。初期条件(より正確 に言うなら、その条件により記述される状況)は通常、問題のできごとの《原因》として語ら れ、予測(あるいはその予測により記述されるできごと)は結果として語られる。たとえば1 ポンドにしか耐えられない糸に2ポンドの重りをつるすことが原因であり、糸が切れることが 結果であると言う。  当然、こうした因果的説明は、普遍法則が十分に検証され、裏づけられ、かつ、その原因、 すなわち初期条件を裏づける独立した証拠が存在する場合にのみ、科学的に認められる。」 (中略)  「普遍法則により記述される《規則性》の因果的説明は、特定のできごとの因果的説明の場 合とは少々異なる。一見したところ状況は似ていて、問題の法則は二つの要素から演繹される はずだと思えるかもしれない。すなわち、(1)それより一般的ないくつかの法則と、(2)初期条件に対応する特定の条件(ただしそれは単称的では《なく》、ある《種類》の状況を条件づ けている)である。しかし規則性の因果的説明は、そのようにはならない。なぜなら、(2)の 特定の条件は、まさに説明しようとしている法則の定式化の中に明示的に述べられなければな らないことだからである。そうでなければ、この法則は単純に(1)と矛盾する(たとえば ニュートンの理論を使ってあらゆる惑星が楕円軌道で運動することを説明しようとする場合、 その妥当性を主張できる条件を、当の法則の定式化の中で、まず明示的に述べなければならな い。おそらく次のような形である。「複数の惑星が、相互の引力が非常に小さくなる程度に互 いに十分に離れた状態で、それらの惑星より非常に重い太陽の周囲を回っているなら、《その ときは》各惑星は太陽を焦点の一つとする楕円に近い軌道を運動する」)。言い換えると、そ こで説明しようとしている自然法則の定式化は、それが妥当するすべての条件を組み込んでい なければならないのである。そうでなければ、その法則を普遍的に(ミルの言葉遣いでは無条 件に)主張することはできない。したがって、規則性の因果的説明とは、(主張されているそ の規則性が当てはまる条件を含む)法則を、すでに独立に検証、確認された、より一般的な一 群の法則から演繹することのうちにある。」
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,28 還元の法則、因果的説明、予測と予言,pp.202-206,日経BPクラシックスシリーズ(2013), 岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良


カール・ポパー
(1902-1994)










進化の法則はあり得るのだろうか。「その答えはノーであるに違いないと私は信じている」。生命の進化、あるいは人間社会の進化は、あらゆる因果関係の連鎖によって織り合わされているとはいえ、プロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明に過ぎない。(カール・ポパー(1902-1994))

進化の法則はあるのか

進化の法則はあり得るのだろうか。「その答えはノーであるに違いないと私は信じている」。生命の進化、あるいは人間社会の進化は、あらゆる因果関係の連鎖によって織り合わされているとはいえ、プロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明に過ぎない。(カール・ポパー(1902-1994))



「しかし、進化の《法則》というものはありうるのだろうか。T・H・ハクスリーは「科学 が、遅かれ早かれ、有機的形態の進化の法則に傾倒するということを疑う哲学者は、まともな 哲学者ではありえない。その法則とは、古今を問わずあらゆる有機的形態がそのつなぎ目であ るような巨大な因果の鎖という不変の秩序である」と書いているが、このときハクスリーが意 図していた意味での科学的法則というものは、果たして存在しうるのだろうか。  その答えは「ノー」であるに違いないと私は信じている。私の考えでは、進化の中に「不変 の秩序」という法則を探し求めることは、生物学であろうと社会学であろうと、科学的方法の 範囲には収まりえないのである。私にとって理由は非常に単純だ。地上の生命の進化、あるい は人間社会の進化は、類例のない歴史的プロセスである。そのようなプロセスは、あらゆる種 類の因果法則、たとえば力学的法則や化学的法則、遺伝と分離の、あるいは自然選択の法則な どに従って進むと想定していいだろう。しかしそのプロセスの記述は法則ではなく、単称的な歴史的言明にすぎない。  普遍法則は、ハクスリーの言葉を借りるなら、不変の秩序に関わる、すなわち、特定の種類 のすべてのプロセスに関わる主張をなす。たしかに、単一の事例の観察をきっかけに普遍法則 の定式化に向かうということがあってはならない理由はないし、運が良ければそれで真理にた どり着くことがありえないと断じる理由もない。しかし、このようなあり方で(あるいはどの ようなあり方であれ)定式化された法則を科学でまともに取り上げるには、その前に新たな事 例で《検証》しなければならないことは明らかである。しかし、類例のない一回だけのプロセ スを観察しているかぎり、普遍的仮説を検証することも、科学的に認められる自然法則を見つ け出すことも期待できない。類例のない一回だけのプロセスの観察は、未来の展開の予測には 役立たない。《一匹の》芋虫の成長を細心の注意を払って観察しても、それが蝶へと変態する ことを予測する助けにはならないのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,27 進化の法則は存在するか:法則とトレンド,pp.180-182,日経BPクラシックスシリーズ (2013),岩坂彰(訳)

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)









社会的・経済的・政治的な現象においても、事実や真理の探究には自然科学と同じ科学的方法が必要である。社会的現象の歴史性と新奇性は事実であるが、科学的な仮説の全てが法則ではない。医学的な診断や進化論は単称言明であるが科学的な仮説である。(カール・ポパー(1902-1994))

単称言明である仮説

社会的・経済的・政治的な現象においても、事実や真理の探究には自然科学と同じ科学的方法が必要である。社会的現象の歴史性と新奇性は事実であるが、科学的な仮説の全てが法則ではない。医学的な診断や進化論は単称言明であるが科学的な仮説である。(カール・ポパー(1902-1994))



(a)医学的 な当座の診断は、普遍法則の性質は持たず、単称的で歴史的性格のものだが、これを仮説と表 現することはまったく正しい。
(b)進化論の仮説が普遍的自然法則ではなく、地上の多くの動植物の祖先に関する歴史的な特称(より正確に言うなら単称)言明である。

「進化論の仮説が普遍的自然法則ではなく、地上の多くの動植物の祖先に関する歴史的な特 称(より正確に言うなら単称)言明であるという事実は、「仮説」という用語が普遍的自然法 則の資格を特徴づけるために頻繁に使われるせいで、いくぶんわかりにくくなっている。しか し、仮説という言葉は別の意味でもよく使われることを忘れてはならない。たとえば、医学的 な当座の診断は、普遍法則の性質は持たず、単称的で歴史的性格のものだが、これを仮説と表 現することはまったく正しい。言い換えると、すべての自然法則が仮説であるという事実に 引っぱられて、すべての仮説が法則であるわけではないという事実から目を逸らせてはならな い。とくに歴史的な仮説となれば、それは基本的に全称言明ではなく、個々のできごとや多く のできごとについての単称言明なのである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第4章 親自然主義的な見解への批判,27 進化の法則は存在するか:法則とトレンド,pp.179-180,日経BPクラシックスシリーズ (2013),岩坂彰(訳))

【中古】歴史主義の貧困 社会科学の方法と実践 カール R.ポパー、 久野 収; 市井 三郎 状態良



カール・ポパー
(1902-1994)









自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。しかし社会には歴史があり、全ての出来事には新奇性があるため、科学的な方法が使えないのではないかという主張がある。これは事実だろうか。(カール・ポパー(1902-1994))

歴史に由来する出来事の新奇性

自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。しかし社会には歴史があり、全ての出来事には新奇性があるため、科学的な方法が使えないのではないかという主張がある。これは事実だろうか。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)自然科学における典型的な実験では、人為的な実験環境を準備し、理想的な条件の元で現象を再現させる。
(b)しかし社会には歴史があり、同じ条件での反復は不可能で、全ての出来事は1回だけしか起こらないかもしれない(新奇性)。
(c)社会現象の解明に、科学的な方法は使えるのだろうか。

「右の議論は一考に値する。右に述べたように、歴史主義は、大規模な社会実験を全く同じ 条件の下で繰り返すことは不可能だと断じる。二度目の実験の環境条件は、その前に実験が行 なわれているという事実の影響を被らざるをえないからである。この議論の基には、社会とい うのは、生物と同じように、ある種の記憶を有しているという考え方が存在する。私たちが通 常「歴史」と呼ぶものの記憶である。  生物学では、生物のライフヒストリーについて語ることができる。生物は過去のできごとに より特定の条件づけを受けている。できごとが繰り返されると、それを経験する生物にとって 新奇性が失われ、できごとは習慣的な色合いを帯びる。しかし、だからこそ、その経験は元の 経験とは同じでは《ない》。繰り返しという経験は《新しい》のである。それゆえ、観察して いるできごとが繰り返されるということは、観察者にとって新奇な体験が現れたことに対応す ると言える。それは新しい習慣を形成する。そのため、繰り返しは新しい習慣的条件を生み出 す。  したがって、ある生物個体に一定の実験を繰り返す際の内的、外的条件の総計は、真の意味 での反復と呼べるほど常に同じとは言えない。たとえ外的条件を完全に同じにしたところで、 それと関係する生物の内的条件は新しい。生物は経験から学んでしまっている。  歴史主義によれば、社会にも同じことが言える。社会も経験をするからである。社会は自身 の歴史を持つ。  
 社会は自身の歴史の〈部分的〉繰り返しから学ぶ。ゆっくりとしか学ばないかもしれな いが、過去により部分的に条件づけられている限り、学ぶことに疑いの余地はない。社会生活 において伝統と、伝統的忠誠と敵意、信用と不信が重要な役割を果たすのは、この学習を通じ てこそである。  ゆえに、社会の歴史の中で、本当の繰り返しは不可能である。つまり、本質的に新しい性質 のできごとが起こると考えざるをえないということだ。歴史は繰り返すかもしれないが、同じ レベルでは繰り返さない。とくにできごとが歴史的に重要で、その影響が社会に長く残るよう な場合は、繰り返しにはならない。  物理学が記述する世界においては、本質的に真に新しいことは何も起こりえない。新しい原 動機は発明されるかもしれないが、それを分析すれば、必ず既知の要素の組み替えと見ること ができる。物理学における新しさとは、配置または組み合わせの新しさにすぎない。  これとは逆に、社会的な新しさとは、生物学的な新しさのように、本質的な種類の新しさで ある。それは本当の新しさであり、配置の新奇性に還元できるものではない。社会生活におい ては、新しい配置の中の古い要素は、けっして同じ古い要素ではないからである。厳密な反復 が不可能な状態では、常に本当の新奇性が現れてくる。  互いに本質的に異なる歴史の新段階、あるいは新時代の発展について考察する際に、右のこ とは重要な意味を持つと考えられている。本当に新しい時代の出現以上に偉大な瞬間はない。しかし社会生活におけるその非常に重要 な側面を、私たちが物理学で新奇性を説明するときに従う議論の筋、つまり、既知の要素の組 み替えという議論に沿って追究することはできない。仮に物理学の通常の方法が社会に適用可 能だったとしても、社会の最も重要な特徴である《時代が区分されること》と《新奇性の出 現》に適用することはできない。ひとたび社会の新しさの意味をつかんだなら、〈物理学の通 常の方法を社会学的問題に適用することで社会的発展の問題の理解を深められる〉という考え は、捨てざるをえなくなる。  社会的な新しさにはほかの側面もある。ここまで、社会で起こる物事、社会生活における一 つ一つのできごとはすべて、ある意味で新しいと言えるということを見てきた。ほかのできご とと同種であると分類できたり、ある面で類似していたりすることはあるかもしれないが、社 会のできごとは常にきわめて厳密な意味で独特である。  ここから、社会学的な説明に関する限り、物理学とははっきりと異なる状況が生じる。社会 生活を分析することで、特定のできごとの生じ方や生じた理由を発見し、それを直感的に理解 できるかもしれないと考えることは、たしかにできる。その《原因と作用》、つまりそのでき ごとを引き起こした力と、ほかのできごとへの影響は明確に理解できるだろうという考え方で ある。しかしその場合でも、そのような因果関係の一般的記述として使えるような《一般法 則》を定式化することはできないだろう。というのは、発見した特定の力を用いて正確に説明 できるような社会学的状況はただ一回しか起こらないだろうからである。そのような力は独特 なものである可能性が高い。それはその特性の社会状況において一度しか生じず、二度と繰り 返さないかもしれない。
(カール・ポパー(1902-1994),『歴史主義の貧困』,第1章 歴史主義の反自然主義的な見 解,3 新奇性,pp.32-35,日経BPクラシックスシリーズ(2013),岩坂彰(訳))

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カール・ポパー
(1902-1994)







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