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2021年11月11日木曜日

42.感情のコンテンツはつねに身体を参照し(身体性)、その状態が望ましいか、望ましくないか、中立かを明示する(ヴェイレンス)。同様な状況を繰り返し経験すると、状況の概念が形成され、自分自身や他者に伝達可能なものとなる(感情の知性化)。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

感情の身体性、ヴェイレンス、感情の知性化


感情のコンテンツはつねに身体を参照し(身体性)、その状態が望ましいか、望ましくないか、中立かを明示する(ヴェイレンス)。同様な状況を繰り返し経験すると、状況の概念が形成され、自分自身や他者に伝達可能なものとなる(感情の知性化)(アントニオ・ダマシオ(1944-))


(a)身体性

 そのコンテンツはつねに、それが生じた生物の身体を参照する。

(b)ヴェイレンス

 これらの 特殊な状態のもとで形成される結果として、内界の描写、すなわち感情は、ヴェイレンスと呼 ばれる特質に満たされている。その状態が望ましいか、望ましくないか、その中間かを必然的に明示する。

(c)感情の知性化

 同様な状況に繰り返し遭遇し何度も同じ感情を経験すると、多かれ少な かれその感情プロセスが内化されて「身体」との共鳴の色合いが薄まることがある。私たちはそれを独自の内的なナラティブに よって描写する(言葉が用いられないこともあれば用いられることもある)。そしてそれをめ ぐってコンセプトを築き、それに注ぐ情念の度合いをいく分抑え、自分自身や他者に提示可能 なものに変える。感情の知性化がもたらす結果の一つは、このプロセスに必要とされる時間と エネルギーの節約である。


 「感情は心的な経験であり、定義上意識的なものである。さもなければ、それに関する直接的 な知識は得られないだろう。しかし感情は、いくつかの点で他の心的経験とは異なる。まず第 一に、そのコンテンツはつねに、それが生じた生物の身体を参照する。感情は、その生物の内 部、すなわち内臓や内的作用の状態を反映する。すでに述べたように、内的なイメージが形成 される状況は、外界を描写するイメージと内界を描写するイメージを分つ。第二に、これらの 特殊な状態のもとで形成される結果として、内界の描写、すなわち感情は、ヴェイレンスと呼 ばれる特質に満たされている。ヴェイレンスは、生命活動の状態を、一瞬一瞬直接心的な言葉 に翻訳し、その状態が望ましいか、望ましくないか、その中間かを必然的に明示する。生存に 資する状態を経験すると、私たちはそれをポジティブな用語で記述し、たとえば「快い」と呼 ぶ。それに対し生存につながらない状態を経験すると、ネガティブな用語で記述し、不快さを 口にする。ヴェイレンスは感情、そしてさらにはアフェクトを特徴づける要素をなす。

 この感情の概念は、基本的なプロセスにも、同じ感情を何回も経験することから生じるプロ セスにもあてはまる。同様な状況に繰り返し遭遇し何度も同じ感情を経験すると、多かれ少な かれその感情プロセスが内化されて「身体」との共鳴の色合いが薄まることがある。特定のア フェクトを引き起こす状況を繰り返し経験すると、私たちはそれを独自の内的なナラティブに よって描写する(言葉が用いられないこともあれば用いられることもある)。そしてそれをめ ぐってコンセプトを築き、それに注ぐ情念の度合いをいく分抑え、自分自身や他者に提示可能 なものに変える。感情の知性化がもたらす結果の一つは、このプロセスに必要とされる時間と エネルギーの節約である。それには対応する生理学的側面があり、バイパスされる身体構造も ある。私が提唱する「あたかも身体ループ」は、それを達成する一つの方法だといえる。」 (アントニオ・ダマシオ(1944-),『進化の意外な順序』,第2部 文化的な心の構築,第7章 ア フェクト,pp.129-130,白揚社(2019),高橋洋(訳))

進化の意外な順序 感情、意識、創造性と文化の起源 [ アントニオ・ダマシオ ]

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「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織と いった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたか のいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物 を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現 を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な 自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自 己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二 に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもて ない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しか し、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学な どからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必 要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分 野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新し い種類の研究だ。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感 情の脳科学 よみがえるスピノザ』)4 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社 (2005)、田中三彦())


2020年8月29日土曜日

26.「君の感情を信頼せよ!」は正しいか? 感情は、諸体験による形成物であり、その背後には、受け継がれた諸価値、判断、評価が隠されている。それは、自身の理性と経験に従う以上に、自分の祖父母等の判断に従うことを意味する。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

感情に従うということ

【「君の感情を信頼せよ!」は正しいか? 感情は、諸体験による形成物であり、その背後には、受け継がれた諸価値、判断、評価が隠されている。それは、自身の理性と経験に従う以上に、自分の祖父母等の判断に従うことを意味する。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

「君の感情を信頼せよ!」は正しいのか
 (1)感情は、諸体験から形成されたものである
   快と不快、愛着、反感等々の諸感情は、記憶による諸体験の形成物である。記憶は、強調し省略し、単純化し、圧縮し、対立(格闘)させ、相互形成し、秩序付け、統一体への変形する。諸思想は、最も表面的なものである。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (2)感情が、判断より根源的というわけではない
   原因と徴候の取り違いによせて。快と不快とはすべての価値判断の最古の徴候である。だが価値判断の原因ではない。それゆえ、快と不快とは、道徳的および美的な判断が帰属しているのと、同一の範疇に帰属している。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (3)感情の背後には、目標、状況判断、価値判断がある
   ある対象や諸変化の状況が、意欲されている目標との関連で判断され、激情的な所有欲や拒絶へと簡約化され、総体的価値へと固定される。これが快と不快であり、同時に、目標や知性における判断への逆作用を持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (4)感情の背後の目標、状況判断、価値判断は誤っているかもしれない
  (a)感情の背後には判断と評価があり、しかもしばしば、それらは、われわれの理性とわれわれの経験に従うより以上に、自分の祖父と祖母、さらにその祖父母に従うことを意味する。
  (b)その判断は、自分自身の判断ではなく、しかもしばしば誤った判断である。

 「《感情とその判断からの由来》。―――「君の感情を信頼せよ!」―――しかし感情は最後のものでも、最初のものでもない。感情の背後には判断と評価があり、それらは感情(傾向、嫌悪)の形をとってわれわれに遺伝している。感情に基づく霊感は、判断の―――しかもしばしば誤った判断の! ―――そしていずれにもせよ君自身のものでない判断の! 幼い孫である。自分の感情を信頼する―――それは、《われわれ》の内部にある神々、すなわち、われわれの理性とわれわれの経験に従うより以上に、自分の祖父と祖母、さらにその祖父母に従うことを意味する。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『曙光 道徳的な偏見に関する思想』第一書、三五、ニーチェ全集7 曙光、p.52、[茅野良男・1994])
(索引:感情,価値,判断,価値評価)

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2020年8月10日月曜日

人は、直接の確実な知識に基づいて行動するのではなく、自分で想像し作成した描像に基づいて行動する。その描像は、その瞬間の彼の感情、希望、努力を決定するが、現実に何が達成されるか、結果するかは決定しはしない。(ウォルター・リップマン(1889-1974))

擬似環境の描像は感情、希望、努力を決定する

【人は、直接の確実な知識に基づいて行動するのではなく、自分で想像し作成した描像に基づいて行動する。その描像は、その瞬間の彼の感情、希望、努力を決定するが、現実に何が達成されるか、結果するかは決定しはしない。(ウォルター・リップマン(1889-1974))】
This, then, will be the clue to our inquiry. We shall assume that what each man does is based not on direct and certain knowledge, but on pictures made by himself or given to him. If his atlas tells him that the world is flat he will not sail near what he believes to be the edge of our planet for fear of falling off. If his maps include a fountain of eternal youth, a Ponce de Leon will go in quest of it. If someone digs up yellow dirt that looks like gold, he will for a time act exactly as if he had found gold. The way in which the world is imagined determines at any particular moment what men will do. It does not determine what they will achieve. It determines their effort, their feelings, their hopes, not their accomplishments and results. The very men who most loudly proclaim their "materialism" and their contempt for "ideologues," the Marxian communists, place their entire hope on what? On the formation by propaganda of a class-conscious group. But what is propaganda, if not the effort to alter the picture to which men respond, to substitute one social pattern for another? What is class consciousness but a way of realizing the world? National consciousness but another way? And Professor Giddings' consciousness of kind, but a process of believing that we recognize among the multitude certain ones marked as our kind?
(出典:Walter Lippmann"Public Opinion",PART I. INTRODUCTION, I. The World Outside and the Pictures in Our HeadsPublic Opinion(Walter Lippmann))
(索引:擬似環境,感情,希望,努力)

(出典:wikipedia
ウォルター・リップマン(1889-1974)の命題集(Propositions of great philosophers)
ウォルター・リップマン(1889-1974)
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人は、自らが真であると信じている擬似的な環境に基づいて反応するが、反応は実際の環境で起こる。反応が感情にとどまる場合、時間がかかるかもしれないが、反応が物や他の人々に対する行為の場合には、現実との矛盾がすぐに顕在化する。(ウォルター・リップマン(1889-1974))

反応は実際の環境で起こる

【人は、自らが真であると信じている擬似的な環境に基づいて反応するが、反応は実際の環境で起こる。反応が感情にとどまる場合、時間がかかるかもしれないが、反応が物や他の人々に対する行為の場合には、現実との矛盾がすぐに顕在化する。(ウォルター・リップマン(1889-1974))】
In all these instances we must note particularly one common factor. It is the insertion between man and his environment of a pseudo-environment. To that pseudo-environment his behavior is a response. But because it is behavior, the consequences, if they are acts, operate not in the pseudo-environment where the behavior is stimulated, but in the real environment where action eventuates. If the behavior is not a practical act, but what we call roughly thought and emotion, it may be a long time before there is any noticeable break in the texture of the fictitious world. But when the stimulus of the pseudo-fact results in action on things or other people, contradiction soon develops. Then comes the sensation of butting one's head against a stone wall, of learning by experience, and witnessing Herbert Spencer's tragedy of the murder of a Beautiful Theory by a Gang of Brutal Facts, the discomfort in short of a maladjustment. For certainly, at the level of social life, what is called the adjustment of man to his environment takes place through the medium of fictions.
(出典:Walter Lippmann"Public Opinion",PART I. INTRODUCTION, I. The World Outside and the Pictures in Our HeadsPublic Opinion(Walter Lippmann))
(索引:環境,擬似的環境,感情,行為,現実との矛盾)

(出典:wikipedia
ウォルター・リップマン(1889-1974)の命題集(Propositions of great philosophers)
ウォルター・リップマン(1889-1974)
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2020年6月17日水曜日

33.必ずしも意識化されない情動誘発因が情動誘発部位を活性化し、身体と脳の多数の部位へ波及することで原自己が変化する。これら対象と原自己の変化が2次構造にマッピングされ、中核自己を構成する諸感情が発現する。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

情動と中核自己の発現

【必ずしも意識化されない情動誘発因が情動誘発部位を活性化し、身体と脳の多数の部位へ波及することで原自己が変化する。これら対象と原自己の変化が2次構造にマッピングされ、中核自己を構成する諸感情が発現する。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

(3)中核自己の発現の要約的記述
 参照: 「中核自己」の発現(アントニオ・ダマシオ(1944-))

 (3.1)対象の感覚的処理(1次マップ)
  (a)生命体が、ある対象に遭遇する。
   (i)情動誘発因
    対象に対する意識も、対象の認知も、このサイクルの継続に必ずしも必要ではない。
  (b)ある対象が、感覚的に処理される。
   (i)情動誘発部位
    対象のイメージの処理に伴う信号が、その対象が属している特定の種類の誘発因に反応するようプリセットされている神経部位(情動誘発部位)を活性化する。
 (3.2)原自己の変化(1次マップ)
  (a)対象からの関与が、原自己を変化させる。
  (b)身体と脳の多数の部位の反応
   情動誘発部位は、身体と他の脳の部位に向けての多数の反応を始動させ、情動を構成する身体と脳の反応を全面的に解き放つ。
  (c)身体と脳の状態変化の表象
   皮質下ならびに皮質部における一次のニューラル・マップは、それが「身体ループ」によるものか、「あたかも身体ループ」によるものか、あるいは両者の組合せによるものかには無関係に、身体状態の変化を表象する。こうして感情が浮上する。
 (3.3)情動誘発部位と原自己の2次マッピング
  情動誘発部位における神経活動のパターンと原自己の変化が、二次の構造にマッピングされる。かくして、情動対象と原自己の関係性についての説明が二次の構造においてなされる。
  (a)原初的感情が変化し、「その対象を知っているという感情」が発生する。(2次マップ)
  (b)知っているという感情が、対象に対する「重要性」を生み出し、原自己を変化させた対象へ関心/注意を向けるため、処理リソースを注ぎ込むようになる。(1次マップへのフィードバック)
  (c)「ある対象が、ある特定の視点から見られ、触られ、聞かれた。それは、身体に変化を引き起こし、その対象の存在が感じられた。その対象が重要とされた。」こうしたことが、起こり続けるとき、対象によって変化させられたもの、視点を持っているもの、対象を知っているもの、対象を重要だとし関心と注意を向けているもの、これらを担い所有する主人公が浮かび上がってくる。これが「中核自己」である。

《説明図》

対象→原自己→変調された原初的感情
↑  の変化 変調されたマスター生命体
│       │    ↓
│       │  視点の獲得
│       ↓
│     知っているという感情
│       ↓     │
└─────対象の重要性  ↓
             所有の感覚
             発動力


「情動の反応には少しもあいまいなもの、表現しがたいもの、不明確なものはない。また情動の感情になりうる表象にも、あいまいなもの、表現しがたいもの、不明確なものはない。情動の感情に対する基盤は、特定の構造のマップの中の、きわめて具体的な一連のニューラル・パターンである。
 要約すると、情動、感情、そして感情の感情まで、事象の推移はつぎの五段階に分けることができよう。ちなみに、最初の三つについては、情動に関する章でその概略を述べている。
(1) 情動誘発因と関わる有機体。誘発因とは、たとえば視覚的に処理され、視覚的表象をもたらす特定の対象。その際、その対象が意識化されることもあるし、されないこともある。認知されることもあるし、されないこともある。対象に対する意識も、対象の認知も、このサイクルの継続に必要ではないからだ。
(2) 対象のイメージの処理に伴う信号が、その対象が属している特定の種類の誘発因に反応するようプリセットされている神経部位(情動誘発部位)を活性化する。
(3) 情動誘発部位は、身体と他の脳の部位に向けての多数の反応を始動させ、情動を構成する身体と脳の反応を全面的に解き放つ。
(4) 皮質下ならびに皮質部における一次のニューラル・マップは、それが「身体ループ」によるものか、「あたかも身体ループ」によるものか、あるいは両者の組合せによるものかには無関係に、身体状態の変化を表象する。こうして感情が浮上する。
(5) 情動誘発部位における神経活動のパターンが、二次の神経構造にマッピングされる。これらの事象のために原自己が変化する。そして原自己の変化もまた、二次の構造にマッピングされる。かくして、「情動対象」(情動誘発部位における活動)と原自己の関係性についての説明が二次の構造においてなされる。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『起こっていることの感覚』(日本語名『無意識の脳 自己意識の脳』)第4部 身体という劇場、第9章 情動と感情の基盤は何か、pp.338-339、講談社(2003)、田中三彦(訳))
(索引:情動誘発因,原自己,中核自己,情動,感情)

無意識の脳 自己意識の脳


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
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2020年6月9日火曜日

8.環境への迅速な対応のため、感情記憶は無意識的な過程を介して生成され機能する。合理的な思考と言語も、感情記憶の基礎の上に構築されており、認知能力は、感情によって活性化され、複雑かつ繊細になっていく。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

合理的な意思決定

【環境への迅速な対応のため、感情記憶は無意識的な過程を介して生成され機能する。合理的な思考と言語も、感情記憶の基礎の上に構築されており、認知能力は、感情によって活性化され、複雑かつ繊細になっていく。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(1.9)追記。

(1)人類の歴史
 (1.1)社会性と集団が無ければ生存できなかった
 (1.2)感情能力が強化されることで社会性が獲得された
 (1.3)社会性を強化するための、感情能力に依存する6つの仕組み
 (1.4)その1:感情エネルギーの動員と経路づけ
 (1.5)その2:対面反応の調整
 (1.6)その3:裁可
  (1.6.1)否定的裁可
   (1.6.1.1)怒りの表出
   (1.6.1.2)恐怖の喚起
   (1.6.1.3)否定的裁可の効果
   (1.6.1.4)否定的裁可の離反的効果
  (1.6.2)否定的裁可の内在化、恥と罪の感情
  (1.6.3)記憶による感情の持続化、激情化と肯定的感情の発展
   (1.6.3.1)記憶による感情の持続化と激情化
   (1.6.3.2)肯定的感情の必要性
  (1.6.4)肯定的裁可の内在化、誇りの感情
  (1.6.5)自己像の形成と自尊心の感情の誕生
  (1.6.6)悲しみなどの否定的感情の役割
   (1.6.6.1)恥や後悔などの感情と動機づけ
   (1.6.6.2)他者の悲しみの感知と連帯
 (1.7)その4:道徳的記号化
 (1.8)その5:資源評価と資源交換
 (1.9)その6:合理的意思決定
  (1.9.1)記憶
   (1.9.1.1)無意識的な感情記憶
    (a)危険に対してただちに反応するためには、もしその危険が繰り返し起こりそうであるなら、適切な感情反応を瞬時に送信できる経験を、皮質下辺縁系に貯蔵する。
    (b)新皮質を通るループを迂回する。
   (1.9.1.2)意識的な記憶
    (a)すべての期待を新皮質経由にすると時間がかかり、身体反応を起こす感情中枢の起動が遅れてしまう。危険な状況下で、貴重な時間を失うことは適合度を減じることになる。
    (b)新皮質からの制御システムは、皮質下辺縁系を補完する。
  (1.9.2)思考と行為
   (a)合理的思考と言語は、無意識的な感情記憶の能力の上に構築されている。
   (b)その結果、個人はなぜそのような決定をしてしまったのか、なぜそのように行動したのかを理解するのにとまどうことがしばしばある。
   (c)しかし合理的な思考は、具体的な経験と感情、情動と結合されないならば、活性化しない。
   (d)情動の拡がりが大きいほど、認知能力は複雑かつ繊細になっていく。

 「ここでもう一度、わたしの考えを繰り返しておこう。しばしば人間のもっとも卓越した特徴――合理的思考と言語――とみなされているものは、われわれのもっとも特有な特徴のもう一つ――非常に感情的であるわれわれの能力――の上に構築されたのだ。

ここでのわたしの要点は、記憶と思考は思考に経験、感情に情動をぴったり付ける能力なしには活性化しないだろうということである。

そして情動の拡がりが大きいほど、認知能力は複雑かつ繊細になっていくのである。

 とはいえ、思考と行為を導く記憶のすべてが意識的ではない。脳は感情記憶を皮質下に貯蔵できることがわかっている。すなわち、意識的な思考と評価が起こるのは新皮質の外部においてである(Le Doux 1996)。

選択が原始哺乳類の適合度をどのように強化したかを考えれば、このことは一目瞭然である。危険に対してただちに反応するためには、もし繰り返し起こりそうであるなら、適切な感情反応を瞬時に送信できる経験を皮質下辺縁系に貯蔵するために新皮質(もしそれが大きくなければ)を通るループを迂回するのが有用である。

すべての期待を新皮質経由にすると時間がかかり、身体反応を起こす感情中枢の起動が遅れてしまう。

そして、危険な状況下で、貴重な時間を失うことは適合度を減じることになる。

この種の皮質下の記憶系はヒト科の認知能力の拡張によって取り代えられはしなかった。むしろ原基的な皮質下の感情記憶系は新皮質からの制御システムによって補完された。

その結果、人間は新皮質に貯蔵された意識的記憶によって、あるいは中間的記憶(数年程度)を貯蔵する新皮質と統合される皮質下海馬と遷移性皮質によって、つき動かされて決定したり行動したりするのではなく、むしろ感情記憶を新皮質の直接的な関係の外部に貯蔵する、他の皮質下辺縁系によって押しだされる身体反応の影響下でしばしば意思決定は行われる。

事実、個人はなぜそのような決定をしてしまったのか、なぜそのように行動したのかを理解するのにとまどうことがしばしばある。

その答えは皮質下の感情記憶システムが皮質によって制御される系と交絡しているからである。

ゆえに、合理性はしばしば感情価との混合であり、その一部は、もし必要ならば、自己に接合され、そしてそれ以外は完全な自意識の外部にとどまっている。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.88-89、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:合理的意思決定)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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2020年5月14日木曜日

32.情動は,対象の感知による一時的変化が,体液性信号と神経信号を通じ全身に伝播し,内部環境,内臓,筋骨格の状態,身体風景の表象を変化させ,脳状態の変更を通じて,特定行動誘発,認知処理モードの変化等を引き起こす。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

情動が引き起こす身体変化と脳変化

【情動は,対象の感知による一時的変化が,体液性信号と神経信号を通じ全身に伝播し,内部環境,内臓,筋骨格の状態,身体風景の表象を変化させ,脳状態の変更を通じて,特定行動誘発,認知処理モードの変化等を引き起こす。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

  (2.3.5)「脳や身体の状態を一時的に変更する」情動の身体過程
   (a)情動対象を感知する。
    (a.1)感覚で与えられた対象や事象を感知し、評価する。
    (場所:感覚連合皮質と高次の大脳皮質)
    (a.2)「あたかも身体ループ」:想起された対象や事象を感知し、評価する。
     この「あたかも」機構は、単に情動と感情にとって重要なだけでなく、「内的シミュレーション」とも言える一種の認知プロセスにとっても重要である。
   (b)有機体の状態が一時的に変化する。
    (b.1)身体状態と関係する変化:「身体ループ」または「あたかも身体ループ」
     (i)自動的に、神経的/化学的な反応の複雑な集まりが、引き起こされる。
     (場所:例えば「恐れ」であれば扁桃体が誘発し、前脳基底、視床下部、脳幹が実行する。)
     (ii)2種類の信号が変化を伝播する。
      (1)体液性信号:血流を介して運ばれる化学的メッセージ
      (2)神経信号:神経経路を介して運ばれる電気化学的メッセージ
     (iii)身体の内部環境、内蔵、筋骨格システムの状態が一時的に変化する。
      情動的状態は、身体の化学特性の無数の変化、内臓の状態の変化、そして顔面、咽喉、胴、四肢のさまざまな横紋筋の収縮の程度を変化させる。
     (iv)身体風景の表象が変化する。
      二種類の信号の結果として身体風景が変化し、脳幹から上の中枢神経の体性感覚構造に表象される。
    (b.2)認知状態と関係する変化
     脳構造の状態も一時的に変化し、身体のマップ化や思考へも影響を与える。
     次項目「思考や行動に影響を与える」へ。
   (c)有機体の一次的変化の表象
    一次的に変化した有機体の状態は、イメージとして表象される。
   (d)対象の意識化と自己感の発生
    有機体の一時的変化の表象は、情動の対象を強調し意識的なものに変化させる。同時に、対象を認識している自己感が出現する。
  (2.3.6)「思考や行動に影響を与える」:認知状態と関係する変化
   (a)情動のプロセスによって前脳基底部、視床下部、脳幹の核にいくつかの化学物質が分泌される。
   (b)分泌された神経調節物質が、大脳皮質、視床、大脳基底核に送られる。
   (c)その結果、以下のような重要な変化が多数起こる。
    (i)特定の行動の誘発
     たとえば、絆と養育、遊びと探索。
    (ii)現在進行中の身体状態の処理の変化
     たとえば、身体信号がフィルターにかけられたり通過を許されたり、選択的に抑制されたり強化されたりして、快、不快の質が変化することがある。
    (iii)認知処理モードの変化
     たとえば、聴覚イメージや視覚イメージに関して、遅いイメージが速くなる、シャープなイメージがぼやける、といった変化。この変化は情動の重要な要素である。
    (iv)引き起こされた特有な身体的パターン、行動パターンの種類がいくつか存在する。

「ある感情の基盤を構成する一連のニューラル・パターンは、二種類の生物学的変化の中で生じる。身体状態と関係する変化と、認知状態と関係する変化である。身体状態と関係する変化は、二つの機構によって実現される。一つの機構は、私が「身体ループ」と呼ぶもの。それは体液性信号(血流を介して運ばれる化学的メッセージ)と神経信号(神経経路を介して運ばれる電気化学的メッセージ)の双方を使う。二種類の信号の結果として身体風景が変化し、それは脳幹から上の中枢神経の体性感覚構造に表象される。
 身体風景の表象の変化は、部分的に「あたかも身体ループ」という別の機構によってもなされる。この代替的な機構では、身体関係の変化の表象が、たとえば前頭前皮質などにある他の神経部位の制御のもとで、直接、感覚身体マップの中につくられる。「あたかも」本当に身体が変化したかのようだが、実際にはそうではない。この「あたかも身体ループ」の機構は、部分的ないし全面的に身体をバイパスするようになっている。私はこれまで、身体をバイパスすることは時間とエネルギーを節約し、状況によってそれはひじょうに有用なものだと言ってきた。この「あたかも」機構は、単に情動と感情にとって重要なだけでなく、「内的シミュレーション」とも言える一種の認知プロセスにとっても重要だ。
 一方、認知状態と関係する変化が生み出されるのは、情動のプロセスによって前脳基底部、視床下部、脳幹の核にいくつかの化学物質が分泌され、それらの物質が他のいくつかの脳部位に送られるときだ。これらの核が大脳皮質、視床、大脳基底核に神経調節物質を放つと、それにより脳の作用に重要な変化が多数起こる。私が考えているもっとも重要な変化には以下のものがある。
(1) 特定の行動(たとえば、絆と養育、遊びと探索)の誘発。
(2) 現在進行中の身体状態の処理の変化(たとえば、身体信号がフィルターにかけられたり通過を許されたり、選択的に抑制されたり強化されたりして、快、不快の質が変化することがある)。
(3) 認知処理モードの変化(たとえば、聴覚イメージや視覚イメージに関して、遅いイメージが速くなる、シャープなイメージがぼやける、といった変化。この変化は情動の重要な要素である)。」(中略)
「要するに、情動的状態は身体の化学特性の無数の変化、内臓の状態の変化、そして顔面、咽喉、胴、四肢のさまざまな横紋筋の収縮の程度の変化によってきまる。しかし情動的状態はまた、そうした変化を引き起こすとともに脳そのものの中のいくつかの神経回路の状態に、重要な変化をもたらしている一連の神経構造における変化によってもきまる。
 情動とは具体的に生じた有機体の状態の一時的変化、と単純に定義するなら、情動を感じるとは、つぎのように単純に定義できる。つまり、情動を感じるとは、有機体の状態のそうした一時的変化を、ニューラル・パターンとそれがもたらすイメージで表象することだ。そして、それらのイメージにただちに認識中の自己感が伴い、それらのイメージが強調されると、それらは意識的なものとなる。真の意味で、それらのイメージは「感情の感情」(feeling of feelings)である。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『起こっていることの感覚』(日本語名『無意識の脳 自己意識の脳』)第4部 身体という劇場、第9章 情動と感情の基盤は何か、pp.336-338、講談社(2003)、田中三彦(訳))
(索引:身体,情動,感情,体液性信号,神経信号,内部環境,身体風景)

無意識の脳 自己意識の脳


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
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2020年5月8日金曜日

集団間の衝突を激化させる6要因:(a)自集団の優先(b)独自の社会観,価値観,感情(c)独自の道徳観,約束事,伝統(d)独自の公正,正義観(e)利害や社会的力関係から歪みやすい諸信念(f)他者に与える危害の過小評価(ジョシュア・グリーン(19xx-))

集団間の衝突を激化させる6要因

【集団間の衝突を激化させる6要因:(a)自集団の優先(b)独自の社会観,価値観,感情(c)独自の道徳観,約束事,伝統(d)独自の公正,正義観(e)利害や社会的力関係から歪みやすい諸信念(f)他者に与える危害の過小評価(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

(4)追加。

(1)偏狭な利他主義、部族主義
  人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ポール・ブルーム(1963-))
(出典:Yale University
ポール・ブルーム(1963-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ポール・ブルーム(1963-)
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 人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。
 (a)協力集団は、部外者による搾取から自分たちを守らなくてはならない。
 (b)そのために、協力できる集団内の他者と、そうでない集団外の他者を区別する。すなわち、《私たち》を《彼ら》から見分ける必要がある。
 (c)そして、《彼ら》より《私たち》をひいきにする。
(2)社会的な位置の識別、表示、行動調整
 人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちに、より近い人をひいきにする傾向がある。
 (a)私たちは、自分の社会的な位置を表現する能力を持っている。
 (b)私たちは、他者の社会的な位置を読み取る能力を持っている。
 (c)私たちは、読み取った内容に応じて行動を調整する能力を持っている。
 (d)私たちには、自分に近い人をひいきにする傾向がある。
(3)同心円状に広がる複数の部族
 私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。
 (a)もっとも近い血縁者や友人たち
 (b)遠い親戚や知人たち
 (c)種類や規模も様々な集団の一員となることで関係をもつ他人
  例えば、村、氏族、部族、民族集団、ご近所、街、州、地方、国。教会、宗派、宗教など
 (d)所属政党、出身校、社会階級、応援しているスポーツチームや好きなもの嫌いなもの
(4)集団間の衝突を激化させる6つの心理的性向
 (a)他集団より自集団を優先させる
  人間の部族は部族主義であり、《彼ら》より《私たち》を優先させる。
 (b)集団独自の社会観、価値観、諸感情
  社会の組織のあり方、個人の権利と集団のより大きな善のどちらをどの程度優先させるかについての考えは、部族ごとにまったく異なる。部族の価値観は、脅威に対する反応の仕方を定める名誉の役割のような、その他の側面についても異なる。
 (c)集団独自の道徳的約束事、個人、文書、伝統、神
  部族には独特の道徳的約束事がある。典型的なものが宗教的約束事で、これによって、他の集団が権威として認めない、ローカルな個人、文書、伝統、神などに道徳的権威が授けられる。
 (d)集団独自の公正、正義
  部族は、バイアスのかかった公正に陥りがちであり、集団レベルでの利己主義によって、正義感が歪められる場合がある。
 (e)集団独自の信念は、利害や社会的力関係から歪みやすい
  部族の信念には、簡単にバイアスがかかる。ある信念がひとたび文化的な旗印になると、部族の利益を損なうものであっても長く続く場合がある。
  (i)単純な利己心から生じる場合
  (ii)複雑な社会的力関係から生じる場合
 (f)他者に与える危害を過小評価
  周囲の出来事に関する情報処理の方法が原因で、他者に与える危害を過小評価し、対立をエスカレートさせる場合がある。

 「本章では、部族間の衝突を激化させる6つの心理的性向を考えてきた。
 1.人間の部族は部族主義であり、《彼ら》より《私たち》を優先させる。
 2.社会の組織のあり方、個人の権利と集団のより大きな善のどちらをどの程度優先させるかについての考えは、部族ごとにまったく異なる。部族の価値観は、脅威に対する反応の仕方を定める名誉の役割のような、その他の側面についても異なる。
 3.部族には独特の道徳的約束事がある。典型的なものが宗教的約束事で、これによって、他の集団が権威として認めない、ローカルな個人、文書、伝統、神などに道徳的権威が授けられる。
 4.部族は、その中の個人と同様に、バイアスのかかった公正に陥りがちであり、集団レベルでの利己主義によって、正義感が歪められる場合がある。
 5.部族の信念には簡単にバイアスがかかる。バイアスのかかった信念は、単純な利己心から生じる場合もあれば、より複雑な社会的力関係から生じる場合もある。ある信念がひとたび文化的な旗印になると、部族の利益を損なうものであっても長く続く場合がある。
 6.周囲の出来事に関する情報処理の方法が原因で、他者に与える危害を過小評価し、対立をエスカレートさせる場合がある。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第3章 あらたな牧草地の不和,岩波書店(2015),(上),pp.128-129,竹田円(訳))
(索引:偏狭な利他主義,部族主義,社会観,価値観,感情,道徳観,正義観,信念)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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2020年5月3日日曜日

人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

感情や意図の共有能力と残虐行為

【人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

(1)問題:人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、なぜ残虐にもなれるのか。
 (1.1)感情や意図の共有
  感情や意図を共有し合えるという能力は、人と人とを意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びつけ、人間の社会的行動の根本的な出発点でもある。
 (1.2)残虐行為が存在するという事実
(2)仮説
 (2.1)科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係する
  共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせている可能性があるが、科学的な事実と制度、政策の関係の問題と、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題が絡み、解決を難しくしている。
  (2.1.1)暴力的な映像による模倣暴力の事例
    暴力的な映像による模倣暴力の存在は、実験で検証されている。攻撃的な行動は、未就学児でも青年期でも、性別、生来の性格、人種によらず一貫して観察される。実際の社会においても、因果関係が実証されている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
  (2.1.2)科学的な事実と制度、政策の関係の問題
   (a)これを解明するためには、科学的な事実を、社会全般の幸福を促進するための政策策定に反映させる制度的な仕組みが必要だが、そのような体制にはなっていない。
   (b)規制すべきかどうかの問題。言論の自由との絡みがある。
   (c)規制すべきかどうかの問題。市場と金銭的利害との絡みがある。
  (2.1.3)人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
   (a)社会性と人間の自由意志の関係
    人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。
   (b)人間の生物学的組成と自由意志の関係
    一方、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。

 「人は人と出会うと、感情や意図を伝えて共有する。人と人とは意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びついている。これがわかってみると、この《事実》は社会的行動の根本的な出発点なのではないかと私には思える。しかし伝統的な分析哲学では、意識しての行動や人と人との違いを強調するあまり、こうしたことがほとんど無視されてきた。一方、私たちはまた別の事実も突きつけられている。それは文字どおり残虐な世界だ。この世では毎日いたるところで残虐行為が起こっている。私たちの神経生物学的機構は共感を生むように配線され、ミラーリングと意味の共有をするように調整されているはずなのに、なぜそんなことになってしまうのか?
 私の考えでは、これには三つのおもな要因がある。第一に、模倣暴力という現象で見たように、共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせる可能性がある。これはいまのところ仮説でしかないが、非常に信憑性の高い仮説だと思う。もし裏づけが取れれば、この神経科学上の事実はぜひとも政策決定に役立てるべきである。とはいえ、実際にはそうはならないだろう。理由は二つある。第一に、私たちの社会は科学的データを政策策定に使えるような態勢には少しもなっていない。とくに模倣暴力のような事例では、金銭的利害と言論の自由との複雑な関係が絡んでくるから、なお難しい。これは簡単に答えの出ない厄介な案件だが、科学全般、そしてその一部である神経科学を、象牙の塔や市場だけに閉じ込めておくのは決して得策ではないと思う。現状ではどんな発見も神経疾患の薬物治療を発達させることに適用されるだけで、社会全般の幸福を促進するために適用されることはめったにない。神経科学上の発見が政策決定に実際に役立てられること、またそうすべきであることを、せめて公開の場で討論できるようになればと思う。こうした考えはいまのところほとんど現われていないが、絶対に必要なことだと確信する。
 神経科学を政策に反映させようとする考えに抵抗が生じる第二の理由は、自由意志をいう大切な概念が脅かされるのではないかという恐れに関係している。その恐れが模倣暴力に関する議論にも結びついているのは明らかだ。ミラーニューロンについての研究は、人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。伝統的に、個体行動の生物学的決定論の一方には、それと対比をなすものとして、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。しかしミラーニューロンの研究は、私たちの社会の掟のほどんどが、私たちの生物学的仕組みによって決められていることを示している。この新たな知見にどう対処すればいい? 受け入れがたいとして拒否するか? それともこれを利用して政策に反映し、よりよい社会をつくっていくか? 私はもちろん後者に与する。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.327-329,塩原通緒(訳))
(索引:感情,意図,残虐行為,制度,政策,社会性,自由意志)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

マルコ・イアコボーニ(1960-)
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2020年4月30日木曜日

1.人類は、社会性と集団構造という選択圧により、感情能力に依存する仕組みを獲得した。(a)感情エネルギーの動員と経路づけ,(b)対面反応の調整,(c)裁可,(d)道徳的記号化,(e)資源評価と資源交換,(f)合理的意思決定(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

進化における社会性の獲得

【人類は、社会性と集団構造という選択圧により、感情能力に依存する仕組みを獲得した。(a)感情エネルギーの動員と経路づけ,(b)対面反応の調整,(c)裁可,(d)道徳的記号化,(e)資源評価と資源交換,(f)合理的意思決定(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

 (1)社会性と集団が無ければ生存できなかった
  アフリカ・サヴァンナでの類人猿の生存にとっての大きな障害が、社会性と凝集的な集団構造の不足であったと仮定すれば、選択力は社会性と結合を増進するためにヒト科の脳の再組織化の方向に向ったにちがいない。
 (2)感情能力が強化されることで社会性が獲得された
  選択が進むべきもっとも直接的な方向は、社会結合を徐々に増やし、そして社会構造を維持することを彼らに可能にさせるような方法で、ヒト科の感情能力を強化させることであった。
 (3)社会性を強化する感情能力に依存する6つの仕組み
  先天的に社会性が低い動物を、より社会的で凝集的に組織される種に変えるために、必要となったものである。それらすべてが、ヒト科の感情能力の綿密な仕上げに依存している。
  (a)感情エネルギーの動員と経路づけ
  (b)対面反応の調整
  (c)裁可
  (d)道徳的記号化
  (e)資源評価と資源交換
  (f)合理的意思決定

 「アフリカ・サヴァンナでの類人猿の生存にとっての大きな障害が、社会性と凝集的な集団構造の不足であったと仮定すれば、選択力は社会性と結合を増進するためにヒト科の脳の再組織化の方向に向ったにちがいない(Maryanski and Turner 1992:pp.65-7)。

先に強調したように、選択が進むべきもっとも直接的な方向は、社会結合を徐々に増やし、そして社会構造を維持することを――人間子孫が今維持しているように――彼らに可能にさせるような方法で、ヒト科の感情能力を強化させることであった。

きわめて現実的な意味で、選択はある動物を強固に編成された構造に組織替えするという社会学的要請による制約を受けた。こうした社会学的要請が、ヒト科に働いたもっとも直接的な選択圧とみなすことができる。

それでは次に、

ヒト科の進化におけるこれら六つの経路こそが、先天的に社会性が低い動物を、より社会的で凝集的に組織される種に変えるために必要となったものである。それらすべてがヒト科の感情能力の綿密な仕上げに依存している。」 

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.61-62、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:社会性,集団構造,選択圧,感情能力)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学


(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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2020年4月18日土曜日

各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「自分の計画を自分で選ぶ人は、能力のすべてを使う。現実をみるために観察力を使い、将来を予想するために推理力と判断力を使い、決断をくだすのに必要な材料を集めるために行動力を使い、決定をくだすために識別能力を使う必要があるし、決定をくだした後にも、考え抜いた決定を守るために意志の強さと自制心を発揮する必要がある。自分がとる行動のうち、みずからの判断と感情にしたがって決定する部分の比率が高いほど、これらの能力が必要になり、使われることになる。これらの能力を使わなくても、正しい道を歩めるように、誤った道に陥らないように、導かれることもありうる。だがその場合、その人は人間としての価値が高いといえるのだろうか。ほんとうに重要なのは、人がどのような行動をとるかだけではない。その行動をとる人がどのような人間なのかも重要である。人が一生を使って完成し磨き上げていくのが適切なもののなかで、何よりも重要だといえるのは明らかに自分自身である。機械を使えば、それも人間の形をした自動機械を使えば、家を建て、穀物を栽培し、戦争を行い、訴訟を裁き、さらには教会を建てて神に祈ることすらできると仮定しても、人間をそうした自動機械に置き換えるのは大きな損失であろう。現在の先進的な地域に住んでいる人であっても、自然が生み出しうるし、やがて生み出すとみられる人間と比較すればまったく貧弱だといえるにすぎないのだから。人間は機械と違って、ある設計図にしたがって作られているわけではなく、決められた仕事を正確に行うように作られているわけでもない。樹木に似ており、生命のあるものに特有の内部の力にしたがって、あらゆる方向に成長し発展していくべきものなのである。
 人びとがみずからの理解力を使うのが望ましいこと、理性的な判断に基づいて慣習を取り入れ、ときには理性的な判断に基づいて慣習から逸脱する方が、何も考え得ずに慣習に機械的にしたがうより良いことは、おそらく誰でも認めるだろう。各人の理解力が各人のものでなければならないことは、誰でもある程度まで認めている。だが、各人の欲求と衝動もやはり各人のものでなければならず、自分自身の衝動をもっているとき、その衝動がいかに強いものであっても、危険や落とし穴ではまったくないことは、簡単に認めようとはしない。しかし、欲求と衝動も信念や自制心と同様に、完全な人間に欠くことができないものである。そして、強い衝動が危険なのは、適切な均衡が失われているときだけである。つまり、ある意図と好みとが強くなる一方で、それと併存して均衡をとるべき要素が弱く、不活発なときである。人が間違った行動をとるのは、欲求が強いからではない。良心が弱いからである。衝動が強いことと、良心が弱いこととの間には自然な因果関係はない。自然な因果関係はその逆である。ある人の欲求と感情が他人より強く多様だというのは、その人が人間性の素材を豊富にもっているということなのであり、おそらく悪事をはたらく力が強いのだろうが、良いことを行う力もたしかに強いのである。衝動が強いとは、活力があるということの言い換えにすぎない。活力は悪いことに使われるかもしれないが、無気力で無感動な人より活力のある人の方がつねに、良いことを大量に行えるだろう。自然な感情が強い人は、洗練された感情もとくに強くなりうる。個人の衝動が活発で強力なのは感受性が強いからだが、その感受性の強さが源泉となって、美徳を強く求める感情と厳格に自己を律する自制心とが生まれうる。社会が義務を果たし、その利益を守っているのは、こうした感受性を育むことによってであって、英雄を育てる方法が分からないという理由で英雄の素材を排除することによってではない。欲求と衝動が独自のものである人、つまり、鍛錬を積み重ねて育成し修正してきた自分の本性の現れである人は、独自の性格をもった人物だといわれる。欲求と衝動が独自のものではない人は独自の性格をもっておらず、蒸気機関が独自の性格をもたないのと同様である。衝動が独自のものであるうえに、強い衝動を強い意志で制御している人は、活力のある性格をもっている。欲求と衝動の面で個性を伸ばすのを奨励してはならないと考える人は、社会には強い性格をもつ人は不要であり、強い性格をもつ人が多いのは社会にとって不利な条件であって、人びとの活力が平均して高いのは望ましくないと主張していることになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.130-133,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性,欲求,衝動,感情,個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年11月22日金曜日

義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正に関する諸個人の感情

【義務や正・不正に関する諸個人の感情は,(a)利害と欲求,(b)様々な感情,(c)支配階級の影響を受けた社会道徳,(d)宗教,(e)理性による判断などの影響の下で形成された習慣であり,その意見は好みの表明に過ぎない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)~(3)追記。

(1)諸個人の道徳感情
 (1.1)自分たちの道徳感情
  自分や自分と同じ意見の人たちが、そう行動して欲しいと望むように、全ての人が行動すべきだという感情である。
 (1.2)道徳感情に影響を与える諸要因
  (1.2.1)各人の欲求や恐れ、自己利益
   (a)社会的な感情
   (b)妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情
  (1.2.2)偏見や迷信
   (a)社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。
   (b)世俗の支配者や、信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。
  (1.2.3)理性による判断
   社会全体の利益に関する理性的な判断
(2)個人の独立と社会による管理の均衡
 (2.1)個人の独立
 (2.2)社会による管理
  (2.2.1)法律
   法律によって、何らかの行動の規則が定められる必要がある。
  (2.2.2)世論
   法律で規制するのが適切でない多数の点については、世論によって規則が定められる必要がある。
(3)義務や正・不正に関する判断
 (a)それは「自明なこと」ではない
  異なる時代、異なる国では、様々な考えが存在した。しかし、その時代、その国の人々は、その考えが自明なことであり、説明の必要があるとは考えていない。
 (b)それは人間の本性ではなく習慣である
  その考えは習慣であるが、常に第1の天性、人間の本質とさえ理解されてきた。
 (c)それは「好み」の表明ではない
  その考えが、理由によって裏付けられていないのなら、単なる好みの表明に過ぎないことになる。
 (d)それは多数派の「好み」でもない
  また、多数派に支持されているという理由であれば、多数派の好みに過ぎないことになる。
(4)義務や正・不正の起源と性質
  義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、「義務や正・不正の感覚・感情論」は誤っており「義務や正・不正の理性論」が真実である。
 (4.1)義務や正・不正の感覚・感情論
  私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (b)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (4.2)義務や正・不正の理性論
  道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (4.2.1)理性と計算の問題
   道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (4.2.2)経験的な証拠に基づく理論
   道徳問題は、議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (4.2.3)目的の連鎖と行為の結果
   道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (a)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (b)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (c)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (d)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓↑
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓↑
 行為が生み出す帰結:行為の価値


  (4.2.4)究極的目的(第一原理)の役割
    複数の道徳規則が対立し合うような特異な状況で、議論をさらに深めるために必要なのが、より上位の第一原理である。それでもなお、人間事象の複雑さは、行為者の道徳的責任における意思決定の裁量を残す。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (i)個々の二次的目的については、人々が合意することができても、特異な状況においては異なる複数の二次的目的どうしが、互いに対立する事例が生じる。これが、真の困難であり複雑な点である。
   (ii)二次的目的が対立し合うような状況で、もし、より上位の第一原理が存在しなければ、複数の道徳規則がすべて独自の権威を主張し合うことになり、これ以上は議論が進まないことになる。このような場合に、第一原理に訴える必要がある。
   (iii)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

  (4.2.5)人間事象の複雑性と、意思決定の困難さ。
   (i)行為の規則を、例外を必要としないような形で作ることができない。
   (ii)ある行為を為すべきか、非難されるべきか、決定することが困難な場合もある。
   (iii)特異な状況における意思決定には、ある程度の裁量の余地が残り、行為者の道徳的責任において選択される。
 「個人の独立と社会による管理の均衡をうまくとるにはどうすべきかという実際的な問題になると、解決されている点はほとんどないのが現実である。誰にとっても、自分の生活を生きるに値するものにしようとすると、他人の行動を制限することが不可欠になる。したがって、まずは法律によって、そして法律で規制するのが適切でない多数の点については世論によって、何らかの行動の規則が定められていなければならない。その規則がどのようなものであるべきかは、人びとの生活にとって主要な問題である。しかしこの問題は、いくつかの目立った例外があるが、全体としては理解がとくに遅れている。その理由はいくつもある。どの二つの時代、ほぼどの二つの国でみても、この問題への答えが同じだということはない。ある時代、ある国の答えは他の時代、他の国の人にとって理解しがたいものである。ところがどの時代、どの国の人も自分たちの答えに問題があるなどとは思わず、人類がはるか昔からその答えに同意してきたかのように考えている。自分たちの間で確立した規則は自明だし、根拠を示す必要すらないと思えるのである。ほぼどの時代、どの国でもこのように錯覚されているのは、習慣というものの魔術を示す例のひとつである。習慣は第二の天性だといわれるが、それだけでなく、つねに第一の天性だと誤解されているのだ。以上のように、人々が互いに課している行動の規則は、習慣になっているために疑問が持たれにくいのだが、それだけではない。行動の規則については一般に、他人に対しても自分に対しても理由を示す必要があるとは考えられていないので、習慣の影響がさらに強くなっているのである。人は通常、この種の問題では理性よりも感情の方が重要なので、理性的な判断によって理由を明確にする必要があるわけではないと考えているし、哲学者として認められたいと望む人もこの考えを後押ししている。人が行動の規則に関する意見で実際に指針としているのは、各人の心のなかにある感情、つまり、自分や自分と同じ意見の人たちがそう行動してほしいと望むようにすべての人が行動すべきだという感情である。もちろん、判断の規準が自分の好みだとは、誰も認めようとしない。しかし、行動に関する意見は、しっかりした理由によって裏付けられていないのであれば、その人の好みだといえるにすぎない。そして理由があげられていても、同じような好みをもつ人が多いというにすぎないのであれば、ひとりの好みではなく多数の人の好みだといえるだけである。しかし自分の好みは普通の人にとって、道徳や好き嫌い、礼儀のうち、自分が信じる宗教の信条にはっきりとは書かれていない部分について、完全に満足できる理由だし、それ以外の理由は考えていないのが通常である。信条にはっきりと書かれている点についてすら、自分の好みがそれを解釈する際の最大の指針になっている。このため、称賛すべき点と非難すべき点についての各人の意見は、他人の行動に関する望みを左右するさまざまな要因から影響を受けている。そして、どのような問題でもそうであるように、この問題でも各人の望みに影響を与える要因はきわめて多い。ときには理性による判断であり、ときには偏見や迷信であり、社会的な感情の場合も多いし、妬みや嫉み、驕りや蔑みといった反社会的な感情の場合も少なくない。だが、もっとも一般的な要因は各人の欲求や恐れ、つまり各人の自己利益であり、これには正当なものと不当なものとがある。支配階級がある国では、その国の社会道徳は、かなりの部分、支配階級の自己利益と優越感から生まれている。古代スパルタの市民と奴隷、アメリカの植民者と黒人、国王と臣民、領主と農奴、男と女などの関係を規定する道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである。被支配階級との関係によって生み出された道徳感情は、支配階級内部の人間関係を規定する道徳感情にも影響を及ぼす。これに対して、過去の支配階級が支配的な立場を失った社会や、支配階級による支配が嫌われるようになった社会では、支配に対する強い嫌悪がその社会で一般的な道徳観の特徴になっていることが多い。もうひとつ、大きな要因をあげよう。行動すべき点と行動してはならない点の両面にわたって法律や世論によって強制されてきた行動の規則を決める大きな要因に、世俗の支配者や信仰する神が好むか嫌うとされている点への追従がある。この追従は本質的には利己的なものだが、偽善ではない。そこからまったく純粋な憎悪の感情が生まれる。魔術師や異端者を焼き殺すほどの憎悪が生まれるのである。以上にあげてきたように、道徳感情にはさまざまな低級な要因が影響を及ぼしており、そのなかでもちろん、社会全体の明らかな利益がひとつの要因、それも大きな要因になっている。だが、社会全体の利益に関する理性的な判断や、社会全体の利益そのものよりも、そこから生じた好悪の感情の方が、大きな影響を与えている。そして、社会の利益とは無関係な好悪の感情が、道徳の確立にあたって社会の利益と変わらないほど大きな影響を与えているのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第1章 はじめに,pp.17-21,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:義務や正・不正に関する諸個人の感情,欲求,道徳感情,自己利益,感情,偏見,迷信,社会道徳,宗教,理性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年5月1日水曜日

16.私たちは、行為者の資質や性格によって賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情を抱く。しかし、行為の正・不正についての道徳的判断は、資質・性格の評価とは別問題である。とはいえ、資質・性格は行為に影響力を持つ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為と行為者の性格、資質との関係

【私たちは、行為者の資質や性格によって賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情を抱く。しかし、行為の正・不正についての道徳的判断は、資質・性格の評価とは別問題である。とはいえ、資質・性格は行為に影響力を持つ。(く)】

(3.1.5)追記。

(3)ミルの考え
 (3.1)人間の行為は、3つの側面から評価される。行為の道徳的側面は最も重要であるが、他の側面と混同したり、他の側面を無視することは誤っている。
   行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (3.1.1)行為の道徳的側面
  《観点》ある行為の予見可能な帰結が、私たちにとって望ましいかどうかの「理性」による判断。
  《引き起こされる感情》是認したり、否認したりする。
  《行為に付与される属性》行為の正・不正。
  (3.1.2)行為の審美的側面
  《観点》ある行為が、望ましい動機や性格の徴候を示しているという「想像力」による判断。
  《引き起こされる感情》賞賛したり、侮蔑したする。
  《行為に付与される属性》行為の美しさ・醜さ。
   (a)有徳、勇気、慈悲深さ、気立ての良さなど。
   (b)ストア派は、徳のみを望ましい資質であり、価値があると考えた。
  (3.1.3)行為の共感的側面
  《観点》ある行為が、共感できる動機や性格の徴候を示しているという「同胞感情」による判断。
  《引き起こされる感情》愛したり、憐れんだり、嫌悪したりする。
  《行為に付与される属性》行為の愛らしさ・行為への憎しみ。

  (3.1.4)引き起こされる感情と、行為者の性格、資質との関係
    ベンサムによる異論は次のとおりである。
   (a)ある行為によって、賞賛や侮蔑、好き嫌いの感情が引き起こされたとしても、その行為がその人の望ましい動機や性格、あるいは悪い動機や性格の徴候であると推測することはできない。
   (b)従って、利益や危害をもたらさない行為によって、その人を賞賛したり好んだり、あるいは軽蔑したり嫌悪したりすることは、不正義であり偏見である。
   (c)「良い趣味」や「悪い趣味」という言いかたで趣味について賞賛したり非難したりすることは、一個人による無礼な独断論である。人の趣味は、その人が賢いのか愚かなのか、教養があるのか無知なのか、上品なのか粗野なのか、洗練されているのか粗雑なのか、繊細なのか無神経なのか、寛大なのか卑しいのか、慈愛的なのか利己的なのか、誠実なのか下劣なのかを示すものではない。

  (3.1.5)行為と行為者の性格、資質との関係
   (a)行為の正・不正についての判断は、行為者の資質や性格についての評価とは別問題である。
   (b)正しい行為が、必ずしも有徳な性格を意味してはいない。
   (c)しかし、長い目で見れば、善い性格を最もよく証明するものは、善い行為である。
   (d)非難されるべき行為が、賞賛に値する資質からしばしばなされる。
   (e)しかし、悪い行為を生み出す傾向が強い道徳的性向は、悪い資質である。

 「このように考えることで、道徳の基準の目的や正・不正という言葉の意味そのものについてさらにひどい誤解をしていることに起因する、功利性の理論に対するもうひとつの別の非難にも対処することができる。

功利主義者は人間を冷酷で非情にするとか、他者に対する道徳感情をくじくとか、行為を生じさせた資質を道徳的に評価することなく行為の帰結だけを無味乾燥に評価させるということがしばしば主張される。

この主張が、行為の正・不正についての判断が行為者の資質についての見解によって左右されてはならないということを意味しているならば、これは功利主義に対するものではなく、なんらかの道徳の基準をもつこと自体に対する申し立てである。

というのは、既知の倫理に関する基準のうち、善人がしたか悪人がしたかによって行為の善悪を決めているようなものはたしかにないし、まして気立てのいい人や勇気のある人や慈悲深いい人、あるいはこれらと反対の人がしたかによって行為の善悪を決めているようなものはないからである。

これらを考慮することは、行為ではなく人物を評価するときに意味のあることである。

そして、功利主義理論は、人間には行為の正・不正の他にも私たちが関心をもつものがあるという事実と不整合なものではない。

たしかにストア派は論法の一環として言葉を逆説的に乱用し、そうすることによって徳以外のことから超然としていようと努めていたが、徳をもつものはすべてをもっており、そのような人が、そしてそのような人だけが富める人であり、美しい人であり、王であるということを好んで語っていた。

しかし、功利主義理論は有徳な人についてこのように描き出すことはしない。

功利主義者は徳以外にも望ましいものや資質があるということや、それらすべてに完全に価値があるということをはっきりと認識している。

正しい行為が必ずしも有徳な性格を意味してはいないということや、非難されるべき行為が賞賛に値する資質からしばしばなされるということも認識している。個別の事例においてこのことが明白なときには、功利主義者の行為に対する評価が変わることはなくても、行為者に対する評価は変わるだろう。

とはいうものの、功利主義者は長い目で見れば善い性格をもっともよく証明するものは善い行為であるという見解をもっており、悪い行為を生み出す傾向が強いどのような道徳的性向も善いものとみなすことは断固として拒否するということを私は認めている。

このことのために功利主義者は多くの人に評判がよくないけれど、このような不評は、正・不正の区別を真剣に考えているすべての人が分ちあわなければならないものであり、誠実な功利主義者がいま反駁すべく心を悩ます必要はない。

 多くの功利主義者は功利主義的基準によって判定される行為の道徳性のみに過度に関心を向け、人間を愛すべき尊敬すべき存在にするようなその他の性格上の美点をあまり重視していないということ以上のことをこの反対論が意味していないならば、このことは認める余地があるだろう。
  
道徳感情は涵養してきたけれども、共感能力や芸術を理解する力を涵養してこなかった功利主義者はこの誤りに陥っているし、同じ状態にあるその他あらゆる道徳論者も同じことをしている。

他の道徳論者のためになされる弁明は功利主義者にとっても同じように有効である。つまり、誤りが避けられないなら、そのような方がましだという弁明である。

実際のところ、他の体系の擁護者の場合と同じように、功利主義者の間でも、基準を適用するときに厳格な人から緩やかな人まで考えられうるかぎり大きな幅がある。ピューリタンのように厳格な人もいれば、罪人や感傷的な人に望まれるくらい緩やかな人もいる。

しかし、全体的には、道徳律に背くような行為を抑止するという人類の利益に強い関心を向けている理論は他のどの理論にもまして、そのような侵害行為に世論による制裁を加えるだろう。

道徳律に背くとはどういうことなのかという問題は、道徳の基準について異なった見解をもっている人が折に触れて意見を異にする問題である。

しかし、道徳問題についての意見の相違は功利主義によって初めてこの世界にもちこまれたものではないし、いずれにしろこの理論は、必ずしも容易ではないとしても、そのような相違を解消するための具体的でわかりやすい方法を提示している。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.282-284,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:資質と性格,賞賛と侮蔑,好き嫌い,感情,道徳的判断)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年3月27日水曜日

1.義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務や正・不正を基礎づけるもの

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。
 (b)何が正しく、何が不正なのかの問題は、議論に開かれている問題であり、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.1)ある見解が受け入れられるかどうかは、理性による判断である。
(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「道徳感情の教育を任されている人々にとって、道徳感情の起源や性質に関する正しい見解が重要性をもっていることは言うまでもない。道徳論が不変的な理論体系なのか進歩的な理論体系なのかは、道徳感覚の理論の真偽にかかっていると言えるだろう。

もし何が正しく何が不正であるのかを判定する感覚が人間に与えられているということが真実だとしたら、人間の道徳判断や道徳感情には改善の余地がなくなり、とどまるべきところにとどまっていることになる。

人類一般は自分たちの義務という主題についてどのように考えどのように感じる《べき》なのかという問題は、偏見をもたらす利害関心や情念がないとしたら、人間が今どのように考えどのように感じるかを観察することによって決定されなければならない。

それゆえ、教育や統治を通じて主に自分たちで人類の見解や感情を形成することを今まで行なってきた人々にとって、これは注目すべき理論である。この理論体系に基づけば、一般的な偏見はそれに私心なく囚われている人々によって、あるいはそれが自分の都合に合っている人々によって、どのような時にも私たちの普遍的な本性の法則にまで高められることになるだろう。

 それに対して、功利性の理論によれば、私たちの義務とは何かという問題は、他のあらゆる問題と同じく議論に開かれている問題である。道徳理論は他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり不注意に選別されたりするようなものではない。他のあらゆる問題と同じように、ある見解がどれほど受け入れられていても、その見解にではなく涵養された理性による判断に訴えるのである。

人間の知性の弱さや私たちの本性におけるその他の欠点は、他のあらゆる関心事の場合と同じように、私たちが道徳について正しく判断を下そうとする場合に障害になると考えられている。

他のあらゆる問題に関するのと同じように、この問題に関する私たちの見解では、経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで知性が進歩し、人類の状態が変化していくことで行為の規則を変更することが必要となるにつれて、大きく変わっていくことが予想される。

 それゆえ、この問題はきわめて重要なものである。そして、既存の格率を是正したり現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを《目的とした》、倫理問題に取り組む唯一の方法が抗議の声によってかき消されないようにすることは、人類のもっとも重要な利益に深く関係している。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『セジウィックの論説』,集録本:『功利主義論集』,pp.72-73,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))

(索引:義務,正・不正,情念,感情,道徳論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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