2018年5月5日土曜日

統制の錯覚:成功の原因を内的帰属し、失敗の原因は外的帰属する。また、完全に偶然的な出来事でも、何かしら原因と秩序と意味があり、予測と統制が可能であると考える。これらは、自己高揚的バイアスの一部であり、パーソナリティにとって潜在的に有益でもある。(ウォルター・ミシェル(1930-))

統制の錯覚

【統制の錯覚:成功の原因を内的帰属し、失敗の原因は外的帰属する。また、完全に偶然的な出来事でも、何かしら原因と秩序と意味があり、予測と統制が可能であると考える。これらは、自己高揚的バイアスの一部であり、パーソナリティにとって潜在的に有益でもある。(ウォルター・ミシェル(1930-))】
 人間は、客観的に統制可能な出来事と、そうでない出来事を区別できない傾向がある。
(a) 自らのある行為の結果が良かったとき、その行為は自分自身が引き起こしたものであるとみなす傾向がある。また、うまくいかなかったときや負けたときは自分のせいでないと考える。これは、多くの人の場合、自己高揚的バイアスの一部である。
(b) まったくの偶然による出来事でも、その出来事はその人が引き起こした、その本人にふさわしいこと、すなわち世界は予測可能で公平なものであると考えたいという根源的な傾向がある。
(c) 特に悲劇的な事件のように、結果がよくないものであったときはなおさら、その出来事を「もっとも」なことで、意味があり、秩序正しいとみなすことができないかぎり、対処するのは難しいと感じる。
 このように人間は、出来事があたかも統制できているかのようにふるまう「統制の錯覚」をもっている。これは、自己高揚的バイアスの一部であると考えられてきたが、近年ではパーソナリティにとって、重要でかつ潜在的に有益で、治療的効果をもたらすことがわかってきた。
 「人間には、世界は予測可能で公平なものとしてみたいという根源的な傾向が存在しているようである。私たちは「公正世界」(Heider,1958)を期待し、そこで生じる事柄は、たとえ宝くじがあたるか、ガンになるか、レイプや殺人に巻きこまれるかどうかといったことでさえ、その本人にふさわしいことであり、その人が引き起こしたと信じている。多くの研究(Langer,1977の展望論文を参照)が、人々は客観的に統制可能な出来事とそうでない出来事を区別していないことを示している。その代わり、まったくの偶然による出来事を、あたかも統制できているかのようにふるまう「統制の錯覚」をもっているように思われる。
 多くの人の場合、これは自己高揚的バイアスの一部である。私たちは自らのある行為の結果がよかったとき、その行為は自分自身が引き起こしたものであるとみなす傾向がある。何かをうまくこなせたときや何かに勝ったとき、それは自分の功績によるもので、うまくいかなかったときや負けたときは自分のせいでないと考える(例:Fitch,1970; Urban & Witt,1990)。悲劇的な事件のように、結果がよくないものであったときはなおさら、その出来事を「もっとも」なことで、意味があり、秩序正しいとみなすことができないかぎり、対処するのは難しいと感じるかもしれない(例:Taylor & Armor,1996; Taylor & Brown,1988)。これらの知見は、最初は知覚者による単純な自己高揚的バイアスを示す証拠としてみられていたが、近年ではパーソナリティにとって、重要でかつ潜在的に有益で、治療的効果をもたらすことがわかってきた(例:Seligman,1990; Seligman,Reivich,Jaycox & Gilham,1995; Taylor & Armor,1996)。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅵ部 社会認知的レベル、第15章 社会認知的プロセス、pp.486-487、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))
(索引:統制の錯覚)

パーソナリティ心理学―全体としての人間の理解



(出典:COLUMBIA UNIVERSITY IN THE CITY OF NEW YORK
ウォルター・ミシェル(1930-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「個人が所有する自由や成長へのわくわくするような可能性には限りがない。人は可能自己について建設的に再考し、再評価し、効力感をかなりの程度高めることができる。しかし、DNAはそのときの手段・道具に影響を与える。生物学に加えて、役割における文化や社会的な力も、人が統制できる事象および自らの可能性に関する認識の両方に影響を与え、制限を加える。これらの境界の内側で、人は、将来を具体化しながら、自らの人生についての実質的な統制を得る可能性をもっているし、その限界にまだ到達していない。
 数百年前のフランスの哲学者デカルトは、よく知られた名言「我思う、ゆえに我あり」を残し、現代心理学への道を開いた。パーソナリティについて知られるようになったことを用いて、私たちは彼の主張を次のよう に修正することができるだろう。「私は考える。それゆえ私を変えられる」と。なぜなら、考え方を変えることによって、何を感じるか何をなすか、そしてどんな人間になるかを変えることができるからである。」
(ウォルター・ミシェル(1930-),オズレム・アイダック,ショウダ・ユウイチ『パーソナリティ心理学』第Ⅶ部 各分析レベルの統合――全人としての人間、第18章 社会的文脈および文化とパーソナリティ、p.606、培風館 (2010)、黒沢香(監訳)・原島雅之(監訳))

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