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2020年4月23日木曜日

国際法は、内容においては国内法に類似する。機能においては、国家間に存在する巨大な不均衡と強制体制の制限とが、国内法とは異なる。形式においては、承認のルールの確立への移行の段階にあると言える。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法と国内法の根本的な違い

【国際法は、内容においては国内法に類似する。機能においては、国家間に存在する巨大な不均衡と強制体制の制限とが、国内法とは異なる。形式においては、承認のルールの確立への移行の段階にあると言える。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

参考: 人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「根本的なルールなしに存在するもっとも単純な形態の社会構造のために、根本的なルールをつくろうとする努力のなかには、たしかに何かこっけいなものがある。それはまるで裸の野蛮人が本当は目に見えない種々の現代の服を着ているに《ちがいない》と言い張るようなものである。不幸にもここにおいてもまた混乱が引き続く可能性がある。根本的なルールについては、当該社会(個人からなろうと、国家からなろうと)が行為の一定の基準を義務的なルールとして単なる事実の空虚な繰り返しのようなものであると考えるよう説得されるかもしれない。これは「諸国家は、それらが慣習的に行動してきたように行動すべきである」という国際法のために示唆された聞きなれない根本規範の立場である。なぜならそれは、一定のルールを受けいれる者が、ルールは順守されるべきであるというルールをもまた順守しなければならないということ以上を言っていないからである。これはルールのセットが拘束力をもつルールとして国家により受けいれられたという事実の無益な繰り返しにすぎない。
 またいったんわれわれが国際法は根本ルールをもた《なければならない》という仮定から離れるなら、直面する問題は事実の問題である。ルールが国家間の関係で機能するとき、ルールの実際の性格はどんなものであろうか。観察されるべき現象のさまざまな解釈はもちろん可能である。しかし国際法のルールのために妥当性の一般的基準を与える根本的なルールはないということ、および実際に働いているルールは体系をなすものではなく、ルールのセットであり、その中に条約の拘束力を与えるルールがあるということがのべられよう。多くの重要な事柄に関して、国家間の関係は多辺的条約により規律されていることは真実であり、これらは当事者でない国をも拘束するだろうということがときとして主張されている。もしこのことが一般に認められるなら、そのような条約は実際立法的制定法であり、国際法はそのルールの妥当性のために独特な基準をもつことになるだろう。そうならば、体系の実際の特色をあらわす根本的な承認のルールが公式化されうるだろうし、それはルールのセットが実際に国家により順守されているという事実の空虚な繰り返し以上のものであろう。たぶん現在の国際法は、構造的にそれを国内体系へと近づける上にのべた形態や他の形態を受けいれる移行の段階にあると言える。もしこの移行が完成されたら、そしてそのときに、今日においては根拠が薄くて欺瞞的にさえみえる形態上の類似も実体を得て、国際法の法的「性質」に関する懐疑論者の最後の疑いもそのとき葬られるであろう。この段階にいたるまでは、類似はたしかに機能と内容におけるものであって、形式におけるものではない。機能における類似は、いくらかは前節で吟味したように、どのように国際法が道徳と異なるかを考えるときに、もっとも明らかにあらわれる。内容における類似は、国内法および国際法に共通であり、法律家の技術を一方から他方へ転用することを可能にする一連の原則、概念および方法にある。「国際法」'international law'という表現の発明者であるベンタムは、国際法は国内法に「十分類似している」というだけで、そのことを弁護した。これに対して二つの注釈をつけるのがよいだろう。まず第一に、この類似は内容についてであって形式についてではない。第二に、この内容の類似において、国際法ほど国内法に近いような社会的ルールは他にはない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第5節 形式と内容における類似,pp.254-255,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月21日火曜日

国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

第1次的ルールとしての国際法

【国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
 「国内法と国際法の間には、ここでいくらか吟味する価値のある形態上の類似がある。ケルゼンおよび多くの現代の理論家達は、国内法と同様に国際法も「根本規範」ないしはわれわれが承認のルールと呼ぶものをもつし、また実際もたなければならないと主張した。それを参照することによって体系の他のルールの妥当性が評価されるのであり、それによってルールは一つの体系を形成するというものである。これに反対する見解によれば、この構造の類似は偽りであり、国際法はこのような方法では結合されていない責務に関する別々な第1次的ルールの単なるセットである。国際法学者の通常の用語法においては、国際法は慣習のルールのセットであり、そのなかの一つに条約に拘束力を与えるルールがある。この仕事に関係する人々にとって、国際法の「根本規範」を公式化することはたいへん困難であったことはよく知られている。この位置を占めるもののなかには、《合意は拘束する》pacta sunt servandaという原則も含まれる。しかしながらいかに広くその言葉を解釈したとしても、この原則は、国際法の下におけるすべての責務が「合意」から生じるわけではないという事実と矛盾するように思えるので、ほとんどの理論家はこの原則を捨てさった。そこでこの原則は、「諸国家はそれらが慣習的に行動しているように行動すべきである」というあまり知られていない、いわゆるルールにとって代わられた。
 われわれは、国際法の根本規範についての上の公式化やその他の公式化の長所を議論するのではなくて、国際法はそのような要素をもたなければならないという前提を問題としてみよう。ここにおいて最初の、そしてたぶん最後の疑問は、なぜわれわれはこれを《先験的な》前提とし(なぜならそうされているのが実情だから)、国際法のルールの実際の性質に予断を下すべきであるかということである。なぜなら社会は、その構成員に対し「拘束力をもつ」ものとして責務を課すルールがあれば、たとえそのルールが単に別々なルールのセットとみなされ、何らかのもっと根本的なルールによって統一されず、あるいは根本的ルールからその効力を引き出さないとしても、存在しうるだろうということはたしかに考えうる(そしてしばしばそういう場合があったであろう)からである。ルールの単なる存在は、そのような根本的なルールの存在を含まないことは明らかである。ほとんどの現代社会にはエチケットのルールがあり、われわれはそれが責務を課すとは考えないけれども、それらのルールが存在しているとたしかに言えるだろう。しかしわれわれは個々のルールの効力がそこから引き出されるエチケットの根本的なルールを探そうとはしないし、見い出すこともできないだろう。そのようなルールは体系をなしているのではなく、単なるセットであり、もちろん問題がエチケットよりももっと重要であるところでは、この形態の社会統制の不便さは無視できない。それらについてはすでに第5章でのべた。しかしもしルールが実際に行為の基準として受けいれられ、義務的ルールに特有なしかるべき形態の社会的圧力により支えられているならば、それらが拘束力をもつルールであるということは、たとえこの単純な社会構造の形態においては、国内法におけるように個々のルールの効力を体系のある究極のルールに照らして証明するものを欠いているとしても、そのことで十分なのである。
 体系となっているのではなく単なるセットであるルールについてもちろん多くの質問をすることができる。たとえばそれらの歴史的起源について質問し、あるいはそのルールの成長を助けた原因に関して質問することができる。またそのルールによって生活している人々に対するその価値について質問することができるし、彼ら自身それに従うよう道徳的に拘束されていると考えているのか、あるいは何か別の動機から従うのかをたずねることができる。しかし、国内法のように根本的規範ないし承認の第2次的ルールで強化された体系のルールに関してはたずねることはできるが、より単純な場合にはたずねることのできない一種の質問がある。すなわち、より単純な場合にわれわれは「体系のどの究極的な規定から、別々のルールはその効力もしくは『拘束力』を引き出すのであろうか」とたずねることはできない。なぜならそのような規定はないし、また何も必要としないからである。だから根本的なルールないし承認のルールが、責務のルールないし「拘束力をもつ」ルールの存在のための一般に必要な条件であると仮定することはまちがいである。これは必要物ではなくぜいたく品 a luxuryであり、構成員が別々のルールを一つずつ受けいれるようになるばかりでなく、妥当性の一般的基準により画された一般的クラスのルールをも前もって受けいれることに関与するような進歩した社会体系に見い出されるものである。より単純な形態の社会においては、ルールがルールとして受けいれられたかどうかを知るには待たなければならない。承認の根本的なルールをもつ体系においては、ルールが実際につくられる以前に、《もし》それが承認のルールの要件に適合しているならそれは効力をもつ《だろう》と言うことができる。
 同様の問題点は別の形でも示されるだろう。そのような承認のルールが別々のルールの単純なセットに付け加えられたとき、それは体系の利益および確認の容易さをもたらすばかりでなく、それは新しい形態の陳述をはじめて可能にする。これはルールの効力についての内的陳述である。なぜなら今われわれは、新たに、「体系のどの規定によりこのルールは拘束力をもつものとされるのか」、あるいはケルゼンの言い方で「体系の内部で何がその妥当性の理由なのか」をたずねることができるからである。これらの新しい質問の答は、根本的な承認のルールにより与えられる。しかしより単純な構造においては、ルールの効力は何らかのもっと根本的なルールを参照することによっては示されえないけれども、このことは、ルールやその拘束力あるいは効力について何らかの疑問が説明されないまま残されているということを意味するものではない。そのような単純な社会構造におけるルールが、なぜ拘束力をもつのかは不思議なことであるとし、それはわれわれが根本的なルールを見い出した場合にのみ解決されるものであると言うことは当たらない。単純な構造のルールは、より進歩した体系の根本的なルールと同様に、もしそれらが拘束力をもつものとして受けいれられ機能しているなら、拘束力をもつのである。しかしながらさまざまな形態の社会構造についてのこれらの純然たる真実は、統一性および体系という望ましい諸要素が実際には見られないところで、それらを執拗に探究することにより、曖昧にされやすい。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第5節 形式と内容における類似,pp.251-253,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:第1次的ルール,国際法,根本規範)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.3)追加。


(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 (2.3)国際法の事実にあっていない。
  (a)体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得る。
  (b)実際は、これは事実ではなく、理論上、合意が黙示的に存在すると推定されたりする。
  (c)また、新しい国家が成立した場合や、以前には適応対象とならなかった領域において、国家がその領域に該当することになった場合を考えると、合意のみによって成立するというのは、事実に反することが分かる。

 「第三に事実の問題がある。われわれは、国家は自己に課した責務にのみ拘束さ《れう》るという今批判した《先験的な》主張と、国家は異なった体系の下では他の方法で拘束されうるのだけれども、実際に今日の国際法のルールの下では国家にとって他の形態の責務は存在しないという主張とを区別しなければならない。もちろんその体系はすべて合意から成りたつ形態であるということも可能である。合意により成りたつという見解に対する賛成と反対は、法学者の論文、裁判官の意見、さらに国際裁判所の裁判官の意見、および国家の宣言のなかに見い出される。諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが、上の見解が正しいかどうかを示しうる。現代国際法は、たしかに大部分は条約法であり、したがって前もっての合意なしに国家に対し拘束力をもつと思われるルールが、実際は合意にもとづいていることを示すため念入りな試みがなされた。もっともその合意は「黙示的に」のみ与えられ、あるいは「推定」されなくてはならないのだけれども。国際的責務の諸形態を一つのものに還元しようとする試みは、すべてが虚構であるわけではないが、少なくともそのいくらかは、「黙示の命令」tacit command の観念と同じ疑惑を呼び起こす。それは、すでに見たように、はるかにもっともらしいものであるが、同様に国内法の単純化を形成するためにもくろまれたものである。
 すべての国際的責務は拘束される当事者の合意から生じるという主張の詳細な検討はここではできないが、この理論に対する二つの明白で重要な例外に注意しなければならない。第一は新国家の場合である。1932年にイラクが、1948年にイスラエルがしたように、新しい独立国家が成立したとき、それがなかんずく条約に拘束力を与えるルールを含んだ国際法の一般的責務に拘束されることは決して疑われたことはない。ここにおいて新国家の国際的な責務を「黙示の」あるいは「推定された」合意におく試みは、まったく古くさいように思える。第二の場合は、領土を得たり他の何らかの変化をなした国が、以前にはそれを順守したり、違反したりする何らの機会をもたず、またそれに対して合意を与えたり指し控えたりする何らの機会をもたなかったルールのもとにおける責務の影響を、そのことによってはじめて受ける場合である。もし以前には海に接していなかった国家が海岸の領土を得たとしたら、そのことによってその国家は、領海および公海に関するすべての国際法のルールに従わなければならないことは明らかである。その他に、主として一般条約あるいは多辺的条約の非当事者に対する効果に関して、もっと議論の余地のある場合がある。しかしすべての国際的責務はみずから課したものであるという一般理論は、あまりにも多くの抽象的な独断と、あまりにも事実をかえりみないことによって想定されたという疑念を、これら二つの重要な例外は、正当化するのに十分である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.243-245,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月20日月曜日

国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 「だから現在の異議に対するもっとも簡単な答は、それが考察すべき問題の順序を逆にしているということである。われわれは、国際法の諸形態がどのようなものであるか、そしてそれらは単なる空虚な形態なのかどうかを知ってはじめて、諸国家はどのような主権をもっているかを知りうるのである。この原則が無視されたため、多くの法的議論は混乱してきた。だから「意思主義」あるいは「自己制限」の理論として知られている国際法の理論を、この考えの下で考察することは有益である。これらの理論は、すべての国際的責務を約束から生じる義務のようにみずから課したものとして取り扱うことにより、国家の(絶対)主権を国際法の拘束力あるルールの存在と調和させようと試みた。実際このような理論は、政治学における社会契約論を国際法に当てはめたものである。政治学における社会契約論は、法に従う責務は拘束される人々がお互いになし、あるいは場合によっては彼らの支配者となした契約から生じる責務であるとすることによって、個人は「本来」自由で独立であるにもかかわらず、国内法に拘束されるという事実を説明しようとした。われわれはここにおいては、この理論が文字通り受けとられた場合になされる周知の異議を考察しないし、また単に理解に役立つ類比として受けとられる場合のこの理論の価値をも考察しない。その代わりにわれわれは、国際法の意思主義理論に反対する3つの議論をその歴史から引き出すことにしよう。
 まず第一に、これらの理論は、諸国家はみずから課した責務にのみ拘束され「うる」ということをどうして知るのか、あるいは国際法の実際の性質の検討に先だって、国家の主権に関するこの見解がなぜ受けいれられるべきなのかということを、まったく説明することができない。そのことがしばしば繰り返されてきたという事実のほかに、その見解を支持するものが何かまだあるだろうか。第二に、諸国家は主権をもつのでみずから課したルールにのみ従いまた拘束され《うる》ということを示そうとする議論には、何か一貫しないものがある。「自己制限」理論の非常に極端な形態においては、国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられない。これは事実とはたいへん矛盾しているけれども、少なくとも一貫性という長所をもっている。すなわちこれは、国家の絶対主権はいかなる種類の責務とも両立しないのであり、だから国家はイギリス議会のように、自己を拘束できないという単純な理論である。しかしながら、国家は約束、協定あるいは条約によってみずから責務を課すことができるとするあまり極端でない説は、国家はみずから課したルールにのみ従うという理論とは矛盾する。なぜなら、話されたものであれ、書かれたものであれ、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるためには、ルールがはじめから存在し、それは国家がしかるべき言葉によって行なうと約束したことを行うよう国家は拘束されると規定していなければならないからである。みずから課した責務という観念そのもののなかに前提されているそのようなルールは、《その》義務的な性質をそのルールに従うというみずから課した責務から引き出せないことは明らかである。
 ある国家が行なうように拘束されているすべての個々の《行動》は、理論的には、たしかに約束からその義務的な性質を引き出すだろう。それにもかかわらず、そう言えるのは、約束その他が責務を生じるという《ルール》が何らかの約束とは別に、国家に適用されている場合にのみである。個人あるいは国家からなる社会において、約束、協定あるいは条約の言葉が責務を生じるために何が必要かつ十分であるかを言えればそれは、そのことを規定し、それらの自己拘束作用のための手続を明記したルールが、普遍的である必要はないが一般的に認識されていることである。それらが認識されているところでは、それらの手続を意識的に用いる個人あるいは国家は、欲しようと欲しまいと、そのことによって拘束されるのである。このように社会的責務のもっとも自発的な形態でさえ、それらに拘束される当事者の選択とは関係なしに、拘束力をもつルールを含んでいる。だからこのことは、国家の場合においては、国家主権はすべてのそのようなルールからの自由を要求するという仮定とは一致しない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.242-243,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2020年4月17日金曜日

道徳的基準は、法に対する抵抗の拠り所でもある。法の実証主義者が、現に存在する法と「在るべき法」を区別するのは、存在する法の理論的道徳的問題を明確にし、批判と抵抗の根拠を明らかにするためである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法的妥当性と法に対する抵抗

【道徳的基準は、法に対する抵抗の拠り所でもある。法の実証主義者が、現に存在する法と「在るべき法」を区別するのは、存在する法の理論的道徳的問題を明確にし、批判と抵抗の根拠を明らかにするためである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「(vi)法的妥当性と法に対する抵抗 実証主義者に分類される法理論家達が、たとえその一般的な見解を述べるのに不注意であったにせよ、彼らのうちで、いま挙げた5つの見出しの下で論じた法と道徳の関連形態を否定した者は、ほとんどないのである。それでは次のような法実証主義者のさかんな鬨の声は何を目指したのだろうか。「法が存在することと、法の長所あるいは短所とはまったく別問題である。」「国家の法は理想ではなく現に存在する何ものかである、………それはあるべきものではなくあるところのものである。」「法規範はいかなる種類の内容をももちうる。」
 これらの思想家が推し進めようとしたことは、主に、特定の法が道徳的には邪悪であるが、適当な形で制定され、意味も明白で、体系の妥当性に関する承認されたあらゆる標準を満たしながら存在しているため、そこから生じる理論的道徳的問題を明確にまた正直に系統立ててのべることであった。彼らの見解によれば、そのような法を考えるさいに、理論家や、その法を適用したりそれに従ったりするように求められた不幸な公機関や市民は、その法に対して「法」あるいは「有効な」という資格を拒否せよと言われれば、混乱するほかはないのである。彼らはこう考えた。これらの問題に取り組むためには、より単純でもっと率直な手段の方が役に立ち、またその方が、関連するあらゆる知的、道徳的な考慮に、はるかによく焦点をあわせることになろう。すなわちわれわれとしては、「これは法である。しかしそれはあまりにも邪悪であるので適用あるいは服従できない。」と言いたいところである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.225-226,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法的妥当性,法に対する抵抗,道徳的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法としての適正と正義の原則

【司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(f)追加。

 (1.3)基準は、どのようなものか
  (a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われる。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
  (c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないようなものである。理由は、以下の通りである。
   半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、そのルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて行なわれる。
   (ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
  (d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
  (e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
   (i)選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性
   (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
   (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心
  (f)司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。

 「(v)法としての適正と正義の原則 周知され裁判で適用される一般的なルールによって人の行為がコントロールされるときにはいつでも、最小限の正義はかならず実現されているという根拠から、道徳と正義にある点において一致するよい法体系と、そうでない法体系とを区別することは誤っていると言えるであろう。すでに正義の観念を分析するさいにまさに指摘したように、そのもっとも単純な形態(法の適用における正義)は、偏見や利害や気まぐれによって左右されない同じ一般的なルールが、多くの異なる人々に適用されなければならないという考えを、まじめに採用することにほかならない。この不偏性こそイギリスやアメリカの法律家達の間で「自然的正義」の原則として知られている手続的基準が確保しようとしているものなのである。こうして、もっとも不愉快な法が正しく適用されることになるかもしれないが、その場合でもわれわれは、一般的な法のルールの適用というただそれだけの観念のなかに、正義の少なくとも萌芽を見るのである。
 「自然的」と呼んでもよいような、この最小限の正義の形態の側面を明らかにしようとするならば、それは、法のルールのみならずゲームのルールのような何らかの社会統制の方法に事実上含まれているものを研究すればよい。社会統制の方法は別段の公機関の指令がなくてもルールを理解しルールに一致するはずの部類の人々に伝えられた、一般的な行為の基準から主として成りたっている。この種の社会統制が機能するためには、そのルールは一定の条件を満たさなければならない。すなわちそれらは理解できるものであり、たいていの人が服従できる範囲内のものでなければならない。また例外もあるが、それらは一般的には遡及してはならない。つまり、たまたまルール違反のために罰せられる人々も、たいていは服従する能力と機会をもつのだろうということになる。ルールによる統制のさいのこれらの特徴は明らかに、法律家が法としての適正の原則と呼ぶ正義の要請と密接に関連している。実証主義に対するある批判者は、まさにルールによる統制のこれらの側面のなかに、法と道徳の必然的な結びつきを示す何ものかを見て、その側面を「法に内在する道徳」と呼ぶよう提案したのである。またもしこれが、法と道徳には必然的な結びつきがあるということの意味であるならば、われわれはそれを受けいれてもいいだろうが、不幸にもそれは極度の邪悪と両立しうるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.224-225,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法としての適正,正義の原則,道徳的基準,不偏性,公正な手続的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月16日木曜日

道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法批判の源泉としての道徳的基準

【道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

参考:制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「(iv)法の批判 法と道徳には必然的な関連があるという主張が、《よい》法体系は、前のパラグラフですでにのべた点において、正義と道徳の要請に合致しなければならないという主張と同じようなものになることがときにはある。ある人々はこのことを自明の真理とみなすかもしれないが、それはトートロジーではない。事実、法を批判するさい、道徳的基準として何が適切であるかについても、またどの点でこれに合致しなければならないかについても、意見の相違が見られるかもしれないのである。法がもしよいものであろうとすれば合致しなければならない道徳とは、その法を有する集団の受けいれられた道徳を意味するのであろうか。たとえそれが迷信にもとづいたものであり、あるいは奴隷や臣民層から利益や保護を奪い去るものであっても。それとも道徳とは、事実に関する合理的な信念にもとづき、あらゆる人間を平等な配慮および尊敬に値するものとして受けいれるという意味で啓蒙的な基準のことを言うのだろうか。
 法体系はその範囲内のすべての人々を一定の基本的な保護と自由の資格があるものとして取り扱わなければならないという主張は、法を批判するさいの非常に適切な理想をのべたものとして今や一般的に受けいれられていることは明白である。実際にはそんなことが行なわれていないところでも、この理想に対する口先だけの約束はいつも行なわれている。すべての人々が平等な配慮を受ける権利があるというこの見解をとらない道徳は、何か内的な矛盾、独善ないしは不合理を含むと、哲学によって示されることさえあるくらいである。もしそうだとするならば、これらの権利を認める啓蒙道徳は、真の道徳としての特別の信任状をもつことになるし、群小の道徳の単なる一つではなくなるだろう。この主張をここで吟味することはできないが、たとえその主張が認められるとしても、第1次的および第2次的なルールという特徴的な構造をそなえた国内法体系が、これらの正義の原則を尊重しないのに、長い間存続してきたという事実は、その主張によって変えられないし、曖昧にされるべきでもない。邪悪なルールでも法であるということを否定することによって何か得るところがあるかを、以下で考察しよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.223-224,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法批判の源泉としての道徳的基準,法批判,道徳的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法解釈への道徳的原則の影響

【半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.3)を書き換えた。


(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
  在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)批判の基準の存在
  「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
   たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (i)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
   (ii)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言えない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破ることができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違いである。
   (iii)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀である。
   (iv)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる。

  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものか
  (a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われる。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
  (c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないようなものである。理由は、以下の通りである。
   (i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、そのルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて行なわれる。
   (ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
  (d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
  (e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
   (i)選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性
   (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
   (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心
 「(iii)解釈 法は、具体的なケースに適用しようとすれば解釈されなければならない。そして司法過程の性質を曖昧にしている神話が、リアリスティックな研究によって追い払われてからは、第7章で示したように、法の開かれた構造のために、立法的とも言われる創造的活動をする広大な余地が残されているということは明らかである。制定法または先例のどちらを解釈する場合にも、裁判官は、無分別の恣意的な選択をするか、あらかじめ決められた意味をもつルールからの「機械的な」演繹をするかの二者択一だけを行なうわけではない。彼らの選択は、よくあることだが、ある前提、つまり彼らが解釈しているルールの目的は合理的なものなので、そのルールが不正な働きをしたり確定した道徳的原則に反するはずがないという前提にもとづいて行なわれる。司法的決定、とくに、高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。というのは、法の意味に疑問がある場合、道徳が常に一つの明確な答えを出すと考えることは馬鹿げているからである。ここでもまた裁判官は、恣意的でも機械的でもない選択を行なうであろう。そしてこの点において、しばしば司法に特徴的な長所が発揮されるのであって、それが法的決定に特に適しているため、そのような司法的活動を立法的と呼ぶのに躊躇を感じる者もいるのである。その長所とは、選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性、影響されるであろうすべての者の利益の考慮であり、また、決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心である。明らかにそのような原則はいつも複数あるので、ある決定だけが正しいと論証することはできない。しかしそれは、広い知識にもとづいた偏らない選択の所産であるから、合理的なものとして受けいれることも可能であろう。このようにしてわれわれは、あい争う利益を正しく扱うための努力に特徴的な「秤重」および「衡量」をもつことになるのである。
 決定を容認できるものとするさい、「道徳的」と呼んでもさしつかえないようなこれらの要素が重要であることを否定する者は、ほとんどいないであろう。そして、たいていの体系において解釈の支えとなっている、ゆるやかで変わりやすい伝統と標準のなかには、しばしばこれらの要素が、漠然とした形で含まれている。しかしこれらの事実を、法と道徳とが《必然的》に関連する証拠として提出する場合、法に従わないときも従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきたということを思い起こす必要がある。というのは、オースティンから現在にいたるまで、司法的な法創造が社会的価値にしばしば目を向けず、「自動的」で、また十分に推論されていないことを批判した人のなかから、主としてそのような要素こそ決定を導く《べきである》と思い出させる人々があらわれているからである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.222-223,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法解釈と道徳的原則,法解釈,道徳的原則)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2020年4月14日火曜日

制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法に対する道徳の影響

【制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
 「(ii)法に対する道徳の影響 あらゆる現代の国家の法は、受けいれられた社会的道徳および広範な道徳的理想の双方からの影響を、たいへん多くの点で受けていることを示している。こういった影響は、立法によって突然に公然と法に入ってくるか、あるいは司法過程を通じて静かに少しずつ法に入ってくるかである。合衆国のようないくつかの体系においては、法的妥当性の究極の基準のなかに、正義の原則あるいは実質的な道徳的価値が明らかに含まれている。最高の立法府の権限に関して、形式的な制約の存在しないイギリスのような他の体系においても、その立法は正義あるいは道徳に注意深く従っているといえよう。法が道徳を反映する仕方はさらに多様であり、その研究はまだ十分されてはいない。制定法は法的な外被にすぎず、道徳的原則の助けをかりて補填されるよう明文で要求するかもしれない。強行可能な契約の範囲が、道徳や公正の概念によって限定されるかもしれない。民事的、刑事的に不法な行為に対する責任が、道徳的責任に関する広く行きわたった見解に照らして調整されることがあるかもしれない。どのような「実証主義者」も、これらが事実であり、法体系の安定性が、部分的には道徳とのそのような一致に依存していることを否定できないであろう。法と道徳には必然的な関連があるということをこの意味にとるならば、両者にこのような関連のあることは認められなければならないであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,p.222,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法に対する道徳の影響,道徳,社会的道徳,道徳的理想,制定法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年11月23日土曜日

法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法的責務と道徳的責務

【法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 「事態のこの側面を振り返るとき、人の目を開かせる真実が明らかになる。つまり第1次的な責務のルールが社会統制の唯一の手段である単純な形態の社会から、中央に組織された立法府、裁判所、公機関や制裁をもつ法的世界への歩みは、一定の代償の下に確実な利益をもたらすということである。利益とは、変化に対する順応性、確実さ、能率のよさであり、これらの利益は莫大である。代償とは、中央に組織された権力が、第1次的なルールのより単純な体制ならできないような仕方で、その支持を必要としない人々を圧迫するために用いられることが十分ありうるという危険である。この危険が現実のものとなったことがあり、また将来そうなるかもしれないので、われわれは、自然法の最小限の内容として示した以上の何らかの仕方で、法は道徳に一致《しなければならない》という主張については、たいへん注意深く吟味する必要がある。多くのそのような主張は、法と道徳とがどのような意味で関連する必要があるかを明確にすることができないか、あるいは検討してみると、その意味は真実で重要ではあるが、これを法と道徳の必然的関係であるとして示せば、極度の混乱を招くようなものであるかである。われわれは、この主張の6つの形態を検討してこの章を終えることにしよう。
 (i)力と権威 法体系は、単に人の人に対する力を基礎とするものではなく、またそうできないので、それは道徳的責務の意識あるいは体系の道徳的価値に関する確信によらなければならないと言われることがよくある。われわれも本書の以前の章において、威嚇を背景とする命令とか服従の習慣が、法体系の基礎および法的妥当性という観念を理解するのにふさわしくないことを強調してきた。法体系の基礎および法的妥当性の観念を解明するためには、第6章で詳細に論じたように、受けいれられた承認のルールという観念が必要とされるだけでなく、この章で見てきたように、強制的な力の存続するための必要条件としても、少なくともいくらかの者は、体系に自発的に協力しそのルールを受けいれなければならないのである。この意味において、法の強制的な力は、たしかにそれが権威あるものとして受けいれられていることを前提とする。しかし、「単に力にもとづく法」と「道徳的に拘束力あるものとして受けいれられる法」という二分法では、すべてが尽くされるわけではない。たいへん多くの人々が道徳的に拘束力があるとはみなさない法によって強制されることがあるばかりでなく、人々が体系を自発的に受けいれる以上、そうするように道徳的に義務づけられているとみずから考えなければならないということは、その結果体系が非常に安定するとしても、まったく真実ではないのである。事実、彼らの体系への忠誠は、長い目でみた利益の計算、他人の対する私心のない関心、それとなく受け継がれた伝統的な態度、あるいは他人がするようにしたいという単なる願望などのさまざまな考慮にもとづいているかもしれない。人々が体系の権威を受けいれたからといって、その良心をかえりみてはならないことにならず、また彼らが、道徳的にはそれを受けいれるべきではないとしても、さまざまな理由でやはり受けいれ続けるように決心してならない理由はもちろんない。
 このありふれた事柄は、人々が承認する法的責務と道徳的責務の両方を表現するのに、普通同じ言葉が用いられることによって曖昧にされてきた。法体系の権威を受けいれる人々は内的視点からそれをながめ、法と道徳の双方に共通な規範的な言葉で表現された内的陳述という形で、法体系の要求に関する彼らの意識を表明する。「私(あなた)はすべきである」、「私(彼)はしなければならない」、「私(彼ら)には責務がある」というように。だからといって彼らは、法の要求するところをするのが道徳的に正しいという《道徳的》判断をしているのではない。別段のことがないかぎり、自分あるいは他人の法的責務についてこのように話す者は誰でも、その履行に反対する道徳的ないしはその他の理由がないと仮定していることは明らかである。それだからといって、いかなることも道徳的に責務があると認められてはじめて、法的にもそうであるということにはならない。今ここでのべた仮定は、話し手が法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由をもっている場合には、法的責務を承認したりあるいはそれに注意を向けたりするのは無意味であるという事実にもとづいているのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.220-222,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法的責務,道徳的責務)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年11月21日木曜日

単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型

【単一の法体系が存在し得る2つの社会類型がある。一つは例外者を除いて規則を受入れている健全な社会、もう一つは公的機関を構成する人々は相互自制の規則を受入れているが、他の人々が強制によって服従している社会である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

  (3.3.3)追記。
  (3.3.4)追記。

(3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」の違い
   「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.1)「せざるを得ない」
  (a)行動を行なう際の、信念や動機についての陳述である。
  (b)そうしないなら何らかの害悪や他の不快な結果が生じるだろうと信じ、その結果を避けるためそうしたということを意味する。
  (c)この場合、予想された害悪が、命令に従うこと自体による不利益よりも些細な場合や、予想された害悪が、実際に実現するだろうと考える根拠がない場合には、従わないこともあろう。
 (3.2)「責務を負っている」
  (a)信念や動機についての事実は、必要ではない。
  (b)その責任に関する、社会的ルールが存在する。
  (c)特定の個人が、この社会的ルールの条件に当てはまっているという事実に注意を促すことによって、その個人にルールを適用する言明が「責務を負っている」である。
 (3.3)「せざるを得ない」と「責務を負っている」との緊張関係
  社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (3.3.1)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
   (a)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
   (b)ルールが存在することを拒否する。
   (c)この人々は、ルールに「服従」している。
   (d)行為が「正しい」「適切だ」「義務である」かどうかという考えが、必ずしも含まれている必要がない。
   (e)逸脱したからといって、自分自身や他人を批判しようとはしないだろう。
  (3.3.2)「私は責務を負っていた」と語る人々。
   (a)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
   (b)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
  (3.3.3)論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件
    論理的に単一の法体系が存在するための、必要かつ十分な2つの最低条件は、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる公機関の存在と、一般の私人の「せざるを得ない」か「責務」かは問わない服従である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

   (a)人間の歴史の痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員のいくらかの者に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要はないということを十分に示している。
   (b)公機関
    法的妥当性の基準を明記する承認のルール、変更のルール、裁判のルールが、公機関の活動に関する共通の公的基準として、公機関によって有効に容認されている。従って、逸脱は義務からの違反として、批判される。
   (c)一般の私人
    これらのルールが、一般の私人によって従われている。私人は、それぞれ自分なりに「服従」している。また、その服従の動機はどのようなものでもよい。

  (3.3.4)論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型
   (a)公機関も一般の私人も、「私は責務を負っていた」と語る人々からなる健全な社会。
    (i)体系が公正であり、服従を要求される全ての人々の非常に重要な要求を満たしているならば、このような社会が実現し、その社会は安定しているだろう。
    (ii)このような社会で、強制的な制裁が加えられるのは、ルールの保護を受けているのに、利己的にルールを破る例外的な人びとに対してだけであろう。
   (b)一般の私人が、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々からなる社会。
    「このような状態にある社会は悲惨にも羊の群れのようなものであって、その羊は屠殺場で生涯を閉じることになるであろう。」しかし、法体系は存在している。
    (i)支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられるかもしれない。
    (ii)このような社会で圧迫される人々にとっては、この体系には忠誠を命じるものは何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。


 「法が、受けいれられた道徳よりも進んでいる社会がときにはあったけれども、普通は、法は道徳に従うのであり、奴隷を殺すことが、公共資源の浪費とか奴隷所有者に対する犯罪とみなされることさえあるかもしれないのである。奴隷制が公的には認められていないところにおいてさえ、人種、皮膚の色あるいは信条にもとづく差別のために、あらゆる人々が他人からの最小限の保護を受ける資格があることを認めない法体系や社会道徳があるかもしれない。
 人間の歴史のこれらの痛ましい事実は、社会が存続するためには、その構成員の《いくらかの者》に相互自制の体系を与えなければならないけれども、不幸にも、すべての者に与える必要はないということを十分に示している。制裁の必要性および可能性を議論するさいにすでに強調しておいたとおり、ルールの体系がいかなる者にも強制的に課されるためには、それを自発的に受けいれる人々が十分いなければならないことは真実である。彼らの自発的な協力、したがって《権威》の創造がなければ、法と統治の強制的な力は確立されえない。しかし、このように権威にもとづいて確立された強制的な力は、二つの主なやり方で用いられるであろう。それは、ルールの保護を受けているのに、利己的にルールを破る悪人に対してだけ行使されるかもしれない。他方それは、支配者集団に比べて大きいことも小さいこともある被支配者集団を、前者の利用できる強制、連帯、規律という手段を用いて、あるいは後者がその組織力において無力、無能であることを利用して、被支配者集団を服従させ、永続的に劣った状態におくために用いられるかもしれない。このように圧迫される人々にとって、この体系には忠誠を命じるものは何もなく、ただ恐れることだけしかないことになろう。彼らは体系の犠牲者であって、その受益者ではないのである。
 本書の以前の章において、法体系の存在は常に二側面をもつ社会現象であって、法体系について現実的に見ようとすれば、われわれはその双方に注意しなければならないということを強調した。それは、ルールを自発的に受けいれるさいの態度や行為と単に服従ないしは黙従するときのより単純な態度や行為を含むのである。こうして、法をもつ社会には、ルールを、もしそれに従わなかったならば公機関が何を行なうであろうかということに関する信頼できる予測と単に見るのではなく、内的視点から、容認された行動の基準とみなす人々がいることになる。しかしその社会には、悪人でありあるいはその体系の救いようのない犠牲者であるという理由で、これらの法的基準が、力ないし力の威嚇によって課せられなければならない人々も含まれる。彼らがルールにかかわるのは、もっぱら可能な刑罰の源泉としてである。これら二つの構成要素のバランスは、さまざまな要因によって決定されるだろう。もし体系が公正であり、服従を要求されるすべての人々の非常に重要な要求を本当に満たすならば、その体系は、だいたいいつも、たいていの人々の忠誠を確保できるであろうし、したがってそれは安定しているだろう。他方それは、支配的集団の利益のために用いられる、偏狭な排他的な体系であるかもしれない。そしてそれは、社会的変動が起こるのではないかという潜在的なおそれのため、ますます抑圧的にまた不安定になるかもしれないのである。この両極端の間に、法に対する態度のさまざまな組み合わせが、しばしば同一個人においてさえ見られるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.219-220,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:論理的に単一の法体系を持つ社会の2つの類型)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年10月30日水曜日

法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

自然法の基礎づけ

【法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)「定義」による法の概念
 (1.1)例えば、法体系は制裁の規定を備えていなければならないとするもの。
(2)実証主義
 (2.1)法は、事実として存在するルールであり、いかなる内容でも持つことができる。
 (2.2)たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは、単に一つの事実にすぎない。
(3)人間に関する単純で自明な諸事実から導出可能な法の諸特性(自然法の基礎づけ)
  人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4)原因と結果による因果的説明


(f)追加記載。

 (3.2)人間の諸能力のおおよその平等性
   人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人間の諸能力の差異
   人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互いに異なる。
  (b)人間の諸能力のおおよその平等性
   それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失う。
  (c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
   人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。
  (d)相互の自制と妥協の体系
   法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになる。
  (e)違反者の存在
   そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
  (f)国際法の特異な性質
  強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。
   (f.1)国家間に巨大な不均衡が存在する場合、制裁はうまく機能しない。
   (f.2)このような場合、秩序の維持は、実質的に相互自制に基づいている。
   (f.3)その結果、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られていた。
   (f.3)弱い国は強国に精一杯の条件を付けて服従し、その保護の下で安全を保障するというのが、唯一可能な体系であろう。
   (f.4)その結果、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる、多くのあい争う力の中心が出てくることになろう。

 「人間のおおよその平等性という同じ自然的事実は、組織された制裁の実効性に、決定的な重要性をもっているということに注意したい。もし若干の人が他人よりも非常に強力で、他人の自制をあてにしないならば、悪人の強さは、法と秩序の支持者のそれをしのぐであろう。もしそのような不平等があるならば、制裁を用いてもうまくいかないだろうし、制裁で抑えようとするのと少なくとも同じ大きさの危険を伴うであろう。このような状況の下では、社会生活は、相互自制にもとづいており、少数の悪人に対して必要なときにだけ力が用いられるものではなく、弱い者が強い者に精一ぱいの条件をつけて服従し、強者の「保護」の下に生活するというのが唯一の可能な体系であろう。その結果、資源が乏しいため、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる多くのあい争う力の中心が出てくることになろう。敗北の危険という決して無視しえない自然的制裁のため、不安定ながら平和が保たれるのであるが、それにしても、それらはときには互いに闘うかもしれない。しかしそのときには、ある種のルールが受けいれられて、「強い者達」が闘うことを好まない問題に関して調整が行なわれるかもしれない。ここでもまたわれわれは、おおよその平等性の兵站学とそれの法に対する重要性を理解するために、ピグミー族や巨人という空想的な言い回しで考える必要はない。国際的状況において、当該主体が強さにおいて非常に相異しているということは、十分にその実例となっている。何世紀もの間、国家間の不均衡のため、組織的な制裁が不可能であるような体系しかなく、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られていた。原子兵器があらゆる国家に利用可能となったとき、それが不平等な力の均衡をどの程度回復し、また国内の刑法に一層よく似た統制の形態をどの程度もたらすかは、まだわからない。
 われわれが論じてきた単純な自明の真理は、自然法理論の良識の核心を明らかにするだけではない。それは、法や道徳の理解にも極めて重要であり、またそれは、法や道徳の基本的な形態を、何か特定の内容ないしは社会的な求めにかかわりなく、まったく形式的な用語で定義することが、なぜ不十分となるのかをも説明するのである。このような見解によって法理学がおそらく得るところの主たるものは、法の特徴に関する議論をしばしば曖昧にし、人の心を誤らせるようなある二分法を避けることができるということである。このようにして、たとえば、あらゆる法体系は制裁の規定をそなえて《いなければならない》かどうかという伝統的な問題は、自然法のこの単純な見解によって提出された見方をとるとき、新鮮なより明確な光の下にそれを置くことができる。われわれはもはや、不適当な二つの選択肢の間で選択する必要はないであろう。その選択肢はしばしばすべてだと考えられるのであるが、その一方は、制裁をそなえなくてはならないということこそ、「法」とか「法体系」という言葉の「真」の意味によって求められると主張するものであり、他方は、たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは「単に一つの事実にすぎない」と言うものである。これらの選択肢はどちらもが十分ではないのである。中央に組織された制裁がない体系に関して、「法」という言葉を用いてはいけないというきまった原則があるわけではない。また、そのようなものをもたない一つの体系に関して、「国際法」という表現を(用いなければならないというわけではないが)用いることは十分理由のあることである。他方、国内法体系が、もしあるがままの人間の最小限の目的に役立つべきであるとするならば、その体系内で制裁が占めなければならない位置を、われわれはぜひとも識別する必要がある。国内法体系において、制裁を可能にするとともに必要にする自然的事実と目的という背景が与えられれば、われわれは、制裁が《自然必然的なもの》であると言うことができる。同様に、国内法の不可欠な特徴となっている人、所有、約束に対する最小限の保護形態の地位を表現するためにも、何かそのような言い回しが必要とされるのである。「法はいかなる内容でももつことができる」という実証主義のテーゼにわれわれが答えるのは、まさにこの形態においてである。というのは、法のみならず他の多くの社会制度について十分な記述をするためには、定義や事実に関する通常の陳述のほかに、第三の陳述のカテゴリーの余地をあけておかなくてはならないということは、かなり重要だからである。第三の場合には、その陳述の真理性は、人間および、人間のもつ目立った特徴を保持しながら人間が住む世界に依拠するものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.216-218,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:自然法の基礎づけ)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2019年9月10日火曜日

事実とルールの明白性により、多数者は自発的にルールに服従する。しかし、ルールを守る諸動機の多様性と、人間の理解力と意思の強さの限界から、少数の違反者が存在しうる。この事実が、制裁の制度を要請する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

限られた理解力、限られた意志の強さ

【事実とルールの明白性により、多数者は自発的にルールに服従する。しかし、ルールを守る諸動機の多様性と、人間の理解力と意思の強さの限界から、少数の違反者が存在しうる。この事実が、制裁の制度を要請する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.5)追記。

(3)人間に関する自然的事実
 (3.1)人間の傷つきやすさ
   人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。
  (b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなければならない。
 (3.2)人間の諸能力のおおよその平等性
   人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人間の諸能力の差異
   人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互いに異なる。
  (b)人間の諸能力のおおよその平等性
   それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失う。
  (c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
   人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。
  (d)相互の自制と妥協の体系
   法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになる。
  (e)違反者の存在
   そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
  (f)国際法の特異な性質
  強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。

 (3.3)限られた利他主義
   人間の利他主義が限定的で断続的なものだという事実が、相互自制の体系を要請する。また同時に人間には、仲間の生存や幸福に関心を持つ傾向性があるという事実が、相互自制の体系を可能なものとする。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人間は、天使ではない。
   人間の利他主義は、目下のところ限られたものであって、断続的なものであるから、攻撃したいという傾向は、もし統制されなかった場合、ときには社会生活に致命的な打撃を与えるほどのものとなることもある。
  (b)人間は、悪魔ではない。
   人間は非常に利己的で、仲間の生存や幸福に関心を持つのは、何か下心があるからだというのは、誤った見解である。
  (c)相互自制の体系の必要性と可能性
   以上の事実から、相互自制の体系は、必要であるとともに、可能でもあることが示される。相互自制の体系は、天使には不要で、悪魔には不可能である。

 (3.4)限られた資源
   生存のための資源が限られているという事実が、何らかの財産制度を要請し、分業の必要性が、譲渡、交換、売買のルールを要請し、協力に不可欠な他人の行動の予測可能性を得るために、約束を守るルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)限られた資源
   人間が食物や衣服や住居を必要とするのに、それらが手近に無尽蔵にあるのではなく乏しいので、人間労働によって栽培したり自然から獲得したり、あるいは建設しなければならない。
  (b)財産制度
   以上の事実から、何か最小限の形態の財産制度、およびそれを尊重するように求める特別な種類のルールが不可欠となる。
  (c)分業の必要性
   人間は、十分な供給を得るために、分業を発展させなくてはならなくなる。
  (d)譲渡、交換、売買のルール
   以上の事実から、自分の生産物を譲渡、交換、売買することを可能にするルールが必要となる。
  (e)他人の行動の予測可能性の必要性
   分業が不可避であり、また協力がたえず必要となる。そのためには、他人の将来の行動に対して最小限の形態の信頼を持つため、また協力に必要な予測可能性を確保する必要がある。
  (f)約束を守るというルール
   以上の事実から、約束することが責務の源であるというルールが作られる。この工夫により、個人は、一定の定められた方法で行動しなかった場合に、口頭あるいは書面の約束によって、自らを非難あるいは罰の下におくことが可能となるのである。

 (3.5)限られた理解力と意思の強さ
  (3.5.1)事実とルールの明白性
   以下の事実は単純であり、ルールを守ることによる利益も明白である。
   (a)人間の傷つきやすさと、殺人や暴力の行使の制限
   (b)人間の諸能力のおおよその平等性と、相互の自制の必要性
   (c)限られた利他主義と、相互の自制の必要性と可能性
   (d)限られた資源と、財産制度、譲渡、交換、売買、約束のルールの必要性
  (3.5.2)多数者による自発的な服従
   大抵の人は、理解することができ、ルールに従うため、自分自身の目前の利益を犠牲にすることもできる。
  (3.5.3)ルールを守る諸動機
   (a)他人の幸福を私心なく考慮して従う者。
   (b)ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想を見い出す者。
   (c)得るところが大きいという慎重な計算から従う者。
  (3.5.4)限られた理解力と意思の強さ
   しかし、ルールに従う諸動機の様々であり、全ての人が、善良であり、ルールを守る強い意思を持ち、守ることによる長期的な利益を理解しているとは限らない。
   (a)ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろう。
   (b)調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者は負けてしまうだろう。
  (3.5.5)制裁の必要性
   体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者がいる場合、自発的に服従しようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない保障として、制裁が必要となる。なぜなら、服従することが不利になる危険をおかすことになってしまうからである。

 「(v)かぎられた理解力と意思の強さ 社会生活上、人、所有、約束に関するルールを必要としている事実は単純であり、それら相互の利益は明白である。たいていの人は、それらの事実を理解することができるのであり、またそのようなルールに従うため、目前の直接の利益を犠牲にすることもできるのである。まったく彼らはさまざまな動機から従うのである。犠牲から得るところが大きいという慎重な計算から従う者もいれば、他人の幸福を私心なく考慮して従う者もいる。またある者は、ルールをそれ自体尊重する価値があるとみなし、それに従うことにみずからの理想を見い出す。他方、服従に対するこれらのあい異なる動機が実際的な効果をもつかどうかは、長期的な利益の理解あるいは意思の強さないしは善良さによるのであるが、それらがすべての人に同様に分けもたれているわけではない。誰だって、ときには、自分自身の当面の利益を選びたい気になるだろうし、彼らを調査し罰するような特別の組織がない場合には、多くの者はその気持ちに負けてしまうだろう。疑いもなく相互自制の利益はたいへん容易に確認できるので、強制的な体系のなかで自発的に協力しようとする人々の数および強さは、悪事で結束しようとする人達よりも、普通は大きいであろう。しかし、もし体系の責務には従わないで、体系の利益を得ようとする者を強制するための組織がないとすれば、自制の体系に従うことは、ずいぶん小さな緊密な社会を除いて、馬鹿げているであろう。したがって「制裁」は、服従の通常の動機として必要とされるのではなく、自発的に服従しようとする者が、服従しようとしない者の犠牲にならない《保障》として必要とされるのである。これがないと、服従することは不利になる危険をおかすことになろう。このような恒常的な危険があるのを考えれば、《強制的》な体系における《自発的》な協力こそが理性の要求であることがわかるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.215-216,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:限られた理解力,限られた意思の強さ,制裁の制度)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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