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2021年12月12日日曜日

社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))

実在するものとしての思想

社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)社会の経済組織、すなわち自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は概ね正しいが注意すべき点がある。
(b)ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。
(c)思考実験:あらゆる機械やあらゆる社会的組織も含めて、我々の経済体制が、ある日壊滅させられたと想像せよ。だがしかし技術上の知識、科学上の知識が保存されたと想像してみよ。
(d)思考実験:一方で、これらの事柄についてのすべての知識が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ。


「第二は経済学主義(もしくは「唯物論」)であり、社会の経済組織、われわれと自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度、特に制度の歴史的発展にとって基礎的であるという 主張である。私の信じるところでは、この主張は、「基礎的」という用語が日常的な漠然とし た意味で受け取られ、過度に強調されることがない限り、完全に健全である。換言すれば、実 際上あらゆる社会研究は、制度的な研究であるにせよ歴史的な研究であるにせよ、社会の「経 済的諸条件」を顧慮に入れて遂行されるならば、有益なものになりうることには何の疑問も挟 みようがないのである。数学のような抽象的科学の歴史でさえ例外ではない。この意味で、マ ルクスの経済学主義は社会科学の方法に極めて価値のある前進を示していると言えるのであ る。  しかし、私が前に言ったように、われわれは「基礎的」という用語をあまり重大に受けとるべきではない。マルクス自身は疑いもなくそうしたのである。マルクスはヘーゲル主義の下で 育ったから、「実体」と「現象」との古代の区別、またそれに対応している「本質的」なもの と「偶然的」なものとの区別によって影響されていた。マルクスは、自分がヘーゲル(そして カント)に加えた改良は、「実体」を(人間の物質交代を含む)物質界と同一視したこと、そ して「現象」を思想や理念の世界と同一視したことにある、と見がちであった。それゆえ、す べての思想や観念は、基礎になっている本質的な実体、すなわち経済的諸条件に還元されて説 明されねばならないということになろう。こうした哲学的見解が他の何らかの形態の本質主義 より格段に優れているわけではないのは確かである。そしてそれが方法の領域に及ぼす効果 は、経済学主義の過度の強調とならざるをえないのである。なぜなら、《マルクスの経済学主 義の一般的重要性はいくら評価してもまず評価しきれるものではないが、個々の特殊的な事例 では、経済的諸条件の重要性が過大に評価されやすいからである》。経済的諸条件についての ある知識は、例えば数学の問題史にかなり寄与するであろうが、しかし数学の問題の知識その ものの方が、こうした目的にとってははるかに重要である。つまり、数学上の問題の「経済的 背景」にいっさい言及せずとも、十分に行き届いた数学の問題史を著述することさえ可能なの である(私見によれば、科学の「経済的諸条件」もしくは「社会的諸関係」というのは、すぐ 使いすぎになって陳腐に堕しやすいテーマである)。  しかし、これは、経済学主義を過度に強調する危険の矮小な例でしかない。経済学主義は、 しばしば十把一からげにされて、すべての社会的発展は経済的諸条件の発展とりわけ物理的生 産手段の発展に依存するのだ、という学説であると解釈されている。しかしこうした学説は明 白に誤りである。経済的諸条件と思想には相互作用が存在するのであって、単純に後者が前者 に一面的に依存するのではない。それどころか、われわれは、以下の考察から知ることができ るように、ある種の思想、われわれの知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。あらゆる機械やあらゆる社会的組織 も含めて、われわれの経済体制がある日壊滅させられたと、だがしかし技術上の知識は科学上 の知識は保存されたと想像してみよ。こうした場合でも、(多数の人々が餓死してしまった後 で小規模に)経済体制が再建されるまでに相当に長い期間が費やされることはおそらくないで あろう。だが、これらの事柄についての《すべての知識》が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ! このことは、未開民族が高度に産業化されてはいるが人々のいなくなっ た国を占領した場合に生じることに等しいであろう。それはすぐさま文明のあらゆる物質的残 存物の完璧な消滅につながるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第15章 経済学的歴史信仰,第3節,pp.102-104,未来社(1980),内田詔 夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









2018年8月11日土曜日

2.人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の実在性

【人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))】

 科学理論の構築は、科学者による既存の理論の理解、新しい問題の発見、解決法の提案、批判的な議論など長い知的な仕事によるものだが、ここには個々の科学者の世界2の寄せ集めを超える世界が存在する。これが、世界3である。そして、これら科学理論の応用である人工物が、世界1に実現されて、地球表面を覆っていることを考えてみよ。これらが世界1の中だけで実現されていると考えられ得るか。世界2の寄せ集めだけで実現されていると考えられ得るか。このように考えると、世界3の実在性は確かなものに思える。

(再掲)
世界3
(a)世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。
(b)対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。
(c)しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
(d)世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。
(e)世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。
(f)世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

 「世界3の対象が実在的であるという見解に反対する者は、この分析への返答として、そこに含まれているすべては世界1の対象であると主張するかもしれない。

つまり、ある人がそのような対象を形作り、したがってそのことから他の人々が彼をまねるようになるのだから、そこにはそれ以上のものは含まれていない、と。

 私は別の、おそらくより納得のゆく例を出すことでこれに答えよう。

それは科学理論の構築と、その批判的な議論、その試験的な受容、そして地球表面を、したがって世界1を変化させるかもしれないそれの応用である。
 生産的な科学者は原則として《問題》から出発する。彼は問題を理解しようとするだろう。通常これは長い知的な仕事である――世界2が世界3の対象を把握しようと試みるのである。明らかに、そうする時には彼は書物(あるいはその他の世界1の物象化された形での科学的な道具)を用いるだろう。

 だが、彼の《問題》はそれら書物には述べられていないかもしれない。むしろ彼はそこに述べられている《諸理論》の中に理解しがたいことを見出すことで、それを問題として発見することだろう。これは創造的な努力、つまり抽象的な問題状況を把握するための努力を含んでいる。もし可能なら、以前になされたものよりさらによく把握しよう、という努力である。そして彼は彼の解決、彼の新しい理論を作り出すことになる。

 これは言葉によって多くの仕方で定式化できる。彼はそれらの一つを選ぶ。そして自らの理論を批判的に議論するだろう。その結果として理論を大幅に修正するかもしれない。そしてそれは出版され、論理的基盤に基づいて、そしてそれをテストするために行われる新しい実験をできる限り踏まえて、その他の人々によって論議される。そしてテストに失敗すれば、その理論は破棄されることになろう。このような真剣な知的努力をすべて行なった後ではじめて、だれか別の人が適用可能な進んだ技術的応用を発見し、これが世界1に働きかける。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、11――世界3の実在性(上)pp.67-68、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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