2019年7月30日火曜日

道徳基準の強制力の源泉は、是認したり非難したりする良心の感情である。それは、純粋な義務の観念と結びついており、物質的、精神的な賞罰による強制や、快と苦痛による利害による強制とは、別のものである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良心の感情

【道徳基準の強制力の源泉は、是認したり非難したりする良心の感情である。それは、純粋な義務の観念と結びついており、物質的、精神的な賞罰による強制や、快と苦痛による利害による強制とは、別のものである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追加。


(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 参照: 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

◆説明図◆

経験や理論に基づく理性による判断……(a)
(道徳論:例えば、全体の幸福の増進)
 ↓
ある道徳の基準……(b)
(例:泥棒、殺人、裏切り、詐欺の禁止)
┌─────┐
│統治体制 │
│教育、慣習│
│世論   │
└──┬──┘
   ↓影響
┌────────────────────┐
│特定の個人               │
│(a)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?│
│(b)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?│
└────────────────────┘

(3)良心の感情:是認したり非難したりする感情
 (3.1)良心の感情は、純粋な義務の観念と結びついており、あらゆる道徳の究極的な強制力である。
 (3.2)良心の感情は、義務に反した際に起きてくる強い苦痛、自責の念を伴う。
 (3.3)現実に存在するような複雑な状況下にあっては、他の様々な感情や連想によって覆いつくされることもあって、これらが良心の感情に、ある種の神秘的な性格を与えていると考えられやすい。しかし、良心の感情の本質を見誤ってはならない。
  (3.3.1)良心の感情は、内的な強制力であり、賞罰による外的な強制力によるものではない。
   例えば、ベンサムの主張するような、次のような強制力によるものとは異なる。
   参照:ベンサムの道徳的強制力を支える2つの源泉(a)他者の行為が自分たちの快または苦を生み出す傾向性を持っているという認識による好意と反感の感情、(b)他者の示す好意が快を、反感が苦を生み出す傾向性。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (b)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
   (c)民衆的強制力(道徳的強制力)
    有害なものを避け、幸福を願う欲求によって作用する。
    (c.1)自然な満足感、嫌悪感
     自分たちの幸福(快)を生み出す傾向性がある行為が促され、不幸(苦痛)を生み出す傾向性がある行為は減らす方向に促される。
    (c.2)好意、感謝、憤慨、怒りの感情
     他者の行為が、自分たちの幸福(快)を生み出す傾向性があると認識されると、「好意」や「感謝」の感情が生じ、不幸(苦痛)を生み出す傾向性があると認識されると、「憤慨」や「怒り」の感情が生じる。
    (c.3)好意、感謝、憤慨、怒りの感情の表出に対する、喜びの感情、苦痛の感情
     自らの行為によって他者が好意、感謝を表出するとき、喜びの感情が生じて当該行為は促される。逆に、自らの行為によって他者が憤慨、怒りの表出をするとき、苦痛の感情が生じて当該行為は、減らす方向に促される。

 「功利性の原理は他の道徳体系がもっているあらゆる強制力をもっているし、もっていないという理由はない。これらの強制力は外的なものか内的なものかのいずれかである。外的強制力については長々と述べる必要はない。それらは、どのようなものであれ私たちが同胞に対してもっているであろう共感や愛情や、利己的な結果に関係なく神が望んでいることをおこなう気持ちにさせる神への愛と畏敬の念であり、さらに同胞や万物の支配者からよく思われたいという希望や彼らの不興を買うことを恐れる気持ちである。義務にしたがうこれらの動機すべてが、他の道徳論に結びつけられているのと同じくらい完全に強く功利主義道徳論に結びつけられない理由はまったくない。実際に、これらのうち同胞に対するものは、全般的に知性が向上するのに比例して、固く結びつけられるようになっている。というのは、全体の幸福以外の何らかの道徳的義務の根拠があろうとなかろうと、人々は現実に幸福を望んでいるからであり、自分自身の実践は不十分であるかもしれないが、人々は自分に関わる他者の行為については、自らの幸福を増進すると思われるようなあらゆる行為がなされることを望み推奨しているからである。宗教的動機については、もし、多くの人が公言しているように、人々が神の善性を信じているとするならば、全体の幸福に資するということが善の要諦であると考えている人々、そして唯一の基準でさえあると考えている人々は、それは神によって承認されていることでもあると信じているに違いない。それゆえ、身体的なものであろうと精神的なものであろうと、神からのものであろうと同胞からのものであろうと、外的な賞罰の全般的な力は、人間本性の能力が許容するかぎりでの神や同胞に対する私欲のない献身の全般的な力とともに、功利主義道徳論が認められるようになるのに比例して、その道徳を実践するために利用することができるようになる。功利主義道徳論が影響力を増すにつれて、教育や一般教養のための制度がその目的にますます沿ったものとなる。
 外的強制力についてはここまでにしよう。義務の基準が何であったとしても、義務の内的強制力はただ一つのもの、つまり私たち自身の心のなかにある感情である。それは義務に反した際に起きてくる、程度の差はあっても強い苦痛であり、徳性が適切に涵養されている人にとっては、より重大な事例の場合には、義務に反することを不可能なものとして躊躇させるようなものである。この感情は、無私なものとなり、ある特定の義務の観念や単なる付随的な状況にではなく純粋な義務の観念に結びつけられるとき、良心の本質的要素となる。現実に存在するような複雑な状況下にあっては、この単純な事実は、共感や愛情、さらには恐怖などに、あらゆる形態の宗教的感情に、少年期やあらゆる過去の生活の思い出に、そして自尊心や他者の評価を得たいという希望や、時には謙遜の気持ちにさえ由来する付帯的な連想によって一般にはまったく覆いつくされているとしてもである。私が懸念しているのは、このような極端な複雑さが、他の多くの事例においてもみられるような人間精神の性向によって、ある種の神秘的な性格が道徳的義務の観念に帰せられやすいことの原因となっているということであり、このような神秘的な性格のせいで、想像上の神秘的な法則によってその観念を刺激するという私たちの現実の経験に見出されるようなこと以外には道徳的義務の観念を結びつけることができないと人々が信じるようになるということである。しかし、道徳的義務の拘束力は、正義の基準を犯すためには打ち破らなければならず、それでいてその基準を実際に犯せば、後に自責の念という形で現れてくるに違いないような一群の感情が存在していることに起因している。良心の性質や起源についての理論がどのようなものであっても、これが本質的に良心を構成しているのである。
 したがって、あらゆる道徳の究極的強制力は(外的動機を別にすれば)私たちの心のなかの主観的感情であるのだから、功利性を基準としている人々にとって、その基準の強制力は何であるのかという問題について何ら頭を悩ませるようなものはない。私たちは他の道徳的基準と同じもの、つまり人類の良心という感情であると答えることができるだろう。たしかに、この強制力はそれが訴えかける感情をもっていない人々を拘束する力をもっていない。しかし、そのような人々が功利主義的原理以外の道徳原理によりよく従うということはないだろう。そのような人々にとっては、外的強制力によらなければ、どのような道徳論も効果がない。しかし、そのような感情は存在するし、それは人間本性に関する事実である。それが実在するということ、そして十分に涵養されてきた人にとってそれが大きな力を発揮できるということは、経験から明らかである。この感情が功利主義的道徳規則と関連づけられたときには、他の道徳規則に関連づけられたときと同じようには大幅に涵養されないという理由はこれまで示されていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.292-295,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:良心の感情,道徳基準の強制力,義務の観念,賞罰による強制,利害による強制)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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