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2020年5月14日木曜日

32.情動は,対象の感知による一時的変化が,体液性信号と神経信号を通じ全身に伝播し,内部環境,内臓,筋骨格の状態,身体風景の表象を変化させ,脳状態の変更を通じて,特定行動誘発,認知処理モードの変化等を引き起こす。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

情動が引き起こす身体変化と脳変化

【情動は,対象の感知による一時的変化が,体液性信号と神経信号を通じ全身に伝播し,内部環境,内臓,筋骨格の状態,身体風景の表象を変化させ,脳状態の変更を通じて,特定行動誘発,認知処理モードの変化等を引き起こす。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

  (2.3.5)「脳や身体の状態を一時的に変更する」情動の身体過程
   (a)情動対象を感知する。
    (a.1)感覚で与えられた対象や事象を感知し、評価する。
    (場所:感覚連合皮質と高次の大脳皮質)
    (a.2)「あたかも身体ループ」:想起された対象や事象を感知し、評価する。
     この「あたかも」機構は、単に情動と感情にとって重要なだけでなく、「内的シミュレーション」とも言える一種の認知プロセスにとっても重要である。
   (b)有機体の状態が一時的に変化する。
    (b.1)身体状態と関係する変化:「身体ループ」または「あたかも身体ループ」
     (i)自動的に、神経的/化学的な反応の複雑な集まりが、引き起こされる。
     (場所:例えば「恐れ」であれば扁桃体が誘発し、前脳基底、視床下部、脳幹が実行する。)
     (ii)2種類の信号が変化を伝播する。
      (1)体液性信号:血流を介して運ばれる化学的メッセージ
      (2)神経信号:神経経路を介して運ばれる電気化学的メッセージ
     (iii)身体の内部環境、内蔵、筋骨格システムの状態が一時的に変化する。
      情動的状態は、身体の化学特性の無数の変化、内臓の状態の変化、そして顔面、咽喉、胴、四肢のさまざまな横紋筋の収縮の程度を変化させる。
     (iv)身体風景の表象が変化する。
      二種類の信号の結果として身体風景が変化し、脳幹から上の中枢神経の体性感覚構造に表象される。
    (b.2)認知状態と関係する変化
     脳構造の状態も一時的に変化し、身体のマップ化や思考へも影響を与える。
     次項目「思考や行動に影響を与える」へ。
   (c)有機体の一次的変化の表象
    一次的に変化した有機体の状態は、イメージとして表象される。
   (d)対象の意識化と自己感の発生
    有機体の一時的変化の表象は、情動の対象を強調し意識的なものに変化させる。同時に、対象を認識している自己感が出現する。
  (2.3.6)「思考や行動に影響を与える」:認知状態と関係する変化
   (a)情動のプロセスによって前脳基底部、視床下部、脳幹の核にいくつかの化学物質が分泌される。
   (b)分泌された神経調節物質が、大脳皮質、視床、大脳基底核に送られる。
   (c)その結果、以下のような重要な変化が多数起こる。
    (i)特定の行動の誘発
     たとえば、絆と養育、遊びと探索。
    (ii)現在進行中の身体状態の処理の変化
     たとえば、身体信号がフィルターにかけられたり通過を許されたり、選択的に抑制されたり強化されたりして、快、不快の質が変化することがある。
    (iii)認知処理モードの変化
     たとえば、聴覚イメージや視覚イメージに関して、遅いイメージが速くなる、シャープなイメージがぼやける、といった変化。この変化は情動の重要な要素である。
    (iv)引き起こされた特有な身体的パターン、行動パターンの種類がいくつか存在する。

「ある感情の基盤を構成する一連のニューラル・パターンは、二種類の生物学的変化の中で生じる。身体状態と関係する変化と、認知状態と関係する変化である。身体状態と関係する変化は、二つの機構によって実現される。一つの機構は、私が「身体ループ」と呼ぶもの。それは体液性信号(血流を介して運ばれる化学的メッセージ)と神経信号(神経経路を介して運ばれる電気化学的メッセージ)の双方を使う。二種類の信号の結果として身体風景が変化し、それは脳幹から上の中枢神経の体性感覚構造に表象される。
 身体風景の表象の変化は、部分的に「あたかも身体ループ」という別の機構によってもなされる。この代替的な機構では、身体関係の変化の表象が、たとえば前頭前皮質などにある他の神経部位の制御のもとで、直接、感覚身体マップの中につくられる。「あたかも」本当に身体が変化したかのようだが、実際にはそうではない。この「あたかも身体ループ」の機構は、部分的ないし全面的に身体をバイパスするようになっている。私はこれまで、身体をバイパスすることは時間とエネルギーを節約し、状況によってそれはひじょうに有用なものだと言ってきた。この「あたかも」機構は、単に情動と感情にとって重要なだけでなく、「内的シミュレーション」とも言える一種の認知プロセスにとっても重要だ。
 一方、認知状態と関係する変化が生み出されるのは、情動のプロセスによって前脳基底部、視床下部、脳幹の核にいくつかの化学物質が分泌され、それらの物質が他のいくつかの脳部位に送られるときだ。これらの核が大脳皮質、視床、大脳基底核に神経調節物質を放つと、それにより脳の作用に重要な変化が多数起こる。私が考えているもっとも重要な変化には以下のものがある。
(1) 特定の行動(たとえば、絆と養育、遊びと探索)の誘発。
(2) 現在進行中の身体状態の処理の変化(たとえば、身体信号がフィルターにかけられたり通過を許されたり、選択的に抑制されたり強化されたりして、快、不快の質が変化することがある)。
(3) 認知処理モードの変化(たとえば、聴覚イメージや視覚イメージに関して、遅いイメージが速くなる、シャープなイメージがぼやける、といった変化。この変化は情動の重要な要素である)。」(中略)
「要するに、情動的状態は身体の化学特性の無数の変化、内臓の状態の変化、そして顔面、咽喉、胴、四肢のさまざまな横紋筋の収縮の程度の変化によってきまる。しかし情動的状態はまた、そうした変化を引き起こすとともに脳そのものの中のいくつかの神経回路の状態に、重要な変化をもたらしている一連の神経構造における変化によってもきまる。
 情動とは具体的に生じた有機体の状態の一時的変化、と単純に定義するなら、情動を感じるとは、つぎのように単純に定義できる。つまり、情動を感じるとは、有機体の状態のそうした一時的変化を、ニューラル・パターンとそれがもたらすイメージで表象することだ。そして、それらのイメージにただちに認識中の自己感が伴い、それらのイメージが強調されると、それらは意識的なものとなる。真の意味で、それらのイメージは「感情の感情」(feeling of feelings)である。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『起こっていることの感覚』(日本語名『無意識の脳 自己意識の脳』)第4部 身体という劇場、第9章 情動と感情の基盤は何か、pp.336-338、講談社(2003)、田中三彦(訳))
(索引:身体,情動,感情,体液性信号,神経信号,内部環境,身体風景)

無意識の脳 自己意識の脳


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
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2020年4月29日水曜日

私が私の身体と不可分であり、それを意のままに使えるという事実と、その身体を排他的に占有し自由に処分してもよいという規範とは、全く次元の違う主張である。近代社会特有のこの規範の根拠が、いま問題である。(立岩真也(1960-))

自分の身体を所有するということ

【私が私の身体と不可分であり、それを意のままに使えるという事実と、その身体を排他的に占有し自由に処分してもよいという規範とは、全く次元の違う主張である。近代社会特有のこの規範の根拠が、いま問題である。(立岩真也(1960-))】
「「人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛…である。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。彼自身の幸福は、物質的なものであれ道徳的なものであれ、十分な正当化となるものではない…自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。」(Mill[1855=1967:224-225])

 自己決定の自由を主張してミル(John Stewart Mill 1806~1973)は右のように言う。なるほどこれは私達に受け入れられやすい主張である。言われていることを否定しようとは思わない。しかし、彼の行為はなぜ彼にだけ委ねられるのか。「他人に対する危害」を加えない範囲で自由だと言うが、ある行為、あるいはその結果が他の者に与えられな▽068 いこと自体はその者に危害を加えていないと言いうるのか。また、私の身体が私のものであることは自明のことのように思うかもしれない。だがその身体が私のもとにあること、私がその身体のもとにあること、また意のままにそれを私が使えること、これらの事実と、その身体を他者に使用させず、私の意のままに動かしてよい、処分してもよいという規則・規範とは、全く次元の異なったところにある。
 基本的なところから考えてみよう。財xを使用する、行う、消費する。結果として産出された財の配分や利用のことだけを言っているのではない。この財の中には各自の身体や行為、その他全てのものが含まれる。問題はそれを誰が行うことができるかである。世界の財を割り振るとして、それをどのように行うのか。(図2・1~2・3)
 こうした配分にかかわる規則が(少なくとも部分的には)不在の状態を考えることができないわけではない。各人が何を受け取るかについて関心がなく、利害の衝突がないといった状態である。この場合には規範を設定しておく必要は必ずしもない。しかし、このような状態を想定することができないならどうか。xが誰のものであるか決まって▽069 いないと、AとBの間に争いが起きるかもしれず、その争いには収拾がつかないかもしれない。それでは困る、あるいはそれではいけないとする。そこで、財・行為の所有・処分に対する権限の割り当ての規則を設定する。その規則は――その内容はともかく、規則自体は――かなり普遍的に、どの社会にもあると考えてよいだろう。規則は論理の上ではいくらでも考えられる。例えば、誰か一人が独占的に全てを所有するという形をとることも可能だし、一人一人に同じだけ割り振ってもよい。また現実にも、その規則の内容は様々に異なる。ここで問題にするのは、その近代的な規範、そしてそれを導き出す論理である。近代社会には近代社会特有の割り当ての規範がある。この配分の原理はどのようなものか、それがどのように根拠づけられているのかが問題である。次項でまず近代的所有権の特徴とされるものがそれに十分答えるものでないことを確認した後、その規則を与えるものが何なのかを見る。」
(立岩真也(1960-),『私的所有論 第2版』,第2章 私的所有の無根拠と根拠,1 所有という問題,[1]自己決定の手前にある問題,<Kyoto Books生存学
(索引:)
立岩真也(1960-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:立命館大学大学院・先端総合学術研究科
立岩真也(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)
立岩真也(1960-)
arsvi.com(生存学)
立岩真也(1960-)生存学
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2018年9月7日金曜日

3.意識無しに多くの驚異的なことが成就されていること、また精神的なものの狭量さ、不充分さ、誤謬とを考えると、精神的なものは身体の道具、身体の記号であることがわかる。価値判断や道徳も、再考が必要だ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

身体の記号としての精神

【意識無しに多くの驚異的なことが成就されていること、また精神的なものの狭量さ、不充分さ、誤謬とを考えると、精神的なものは身体の道具、身体の記号であることがわかる。価値判断や道徳も、再考が必要だ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)意識
 (1.1)意識は、私たちに最も近いもので、最も親密なものである。
(2)身体
 (2.1)多くの組織が同時に働いており、この働きにおける諸々の義務や権利の戦いの調停には、実に多くの繊細さが存在している。
 (2.2)偉大なことや驚異的な多くのことが、意識なしで成就されている。
(3)疑問
 (3.1)なんと僅かのものしか、私たちには意識されないことか。
 (3.2)精神は、何か貧しくて狭いもの、近似的にしか充分でない。また、この僅かのものが、誤謬へと、また取り違えへと導き、しばしば欠陥のある仕事をする。
 (3.3)私たちが、最も親密な精神を、身体より重要なものとみなすのは、古い先入観なのではないか。
(4)結論。
 (4.1)精神は、最後に発生した器官であって、最も必要な道具でも、最も感嘆すべき道具でもない。まだ子供なのだ。一切の「意識されたもの」は、二番目に重要なものにすぎない。
 (4.2)精神的なものは、まさに一つの道具であり、身体の記号とみなされるべきものである。
 (4.3)人間の精神と行為に関する価値判断や道徳も、この事実に基づいて再考されねばなららない。

 「いくらかでも身体について―――いかに多くの組織がそこでは同時に働いているか、いかに多くのことがたがいに助けあったり背きあったりするかたちで行なわれているか、いかに多くの繊細さが調停等々のはたらきのうちに現存するかを―――思い浮かべた者は、一切の意識が、これに比較すれば、何か貧しくて狭いものであり、いかなる精神も、ここで成就されうるでもあろう精神的なことには、近似的にしか充分ではなく、そしておそらくはまた、最も賢明な道徳の教師や立法者も、もろもろの義務や権利の戦いのこの活発な営みのただなかでは、おのれが無骨で初心者めいていると感じざるをえないことだろうと、判断するであろう。

なんとわずかしか私たちには意識されないことか! なんとはなはだしくこのわずかのものが、誤謬へと、また取り違えへと導くことか! 意識はまさに一つの《道具》なのである。

そして、なんと多くのことや偉大なことが意識なしで成就されるかを考慮すれば、それは最も必要な道具でも、最も感嘆すべき道具でもないのだ、―――反対に、それほど発達しそこねた器官は、それほどしばしば欠陥のある仕事をする器官は、おそらくないであろう。

意識はまさに最後に発生した器官なのであって、それゆえまだ子供なのだ、―――私たちは意識にその《児戯》を赦してやろうじゃないか! こうした児戯には、多くの他のもののほかに、人間たちの行為と心術とに関するこれまでの価値判断の総計としての、《道徳》が属する。

 それゆえ私たちは位階を逆転させなくてはならない。一切の「意識されたもの」は《第二の重要なもの》にすぎないのだ。それが私たちに《いっそう近くいっそう親密で》あるということは、それを別様に査定するためのいかなる根拠、少なくともいかなる道徳的な根拠でもないであろう。

私たちが《最も近いもの》を《最も重要なもの》とみなすのは、まさに《古い先入見》なのだ。―――それゆえ《学び直す》ことだ! つまり主要な評価において! 精神的なものはあくまで《身体》の記号とみなされるべきなのだ!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 七二九、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.358-359、[原佑・吉沢伝三郎・1994]
) (索引:意識,身体,身体の記号としての精神)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2017年12月28日木曜日

精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

能動と受動

【精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「また、わたしは次のことに注目する。精神が結合している身体以上に、わたしたちの精神に対して直接に作用する主体があるとは認められない。したがって、精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である、と考えねばならない。ゆえに、わたしたちの情念[受動]の認識に至る最良の道は、精神と身体の区別を検討することだ。それは、わたしたちのうちにある諸機能の各々を、精神と身体のいずれに帰するべきかを知るためである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二、p.6、[谷川多佳子・2008])
(索引:能動、受動、精神、身体、情念)

情念論 (岩波文庫)


ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

心身問題

【心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))】
 我々がこれこれの身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神が身体と合一しているということの意味である。このような抽象的な概念は、確実ではあるが、表象力によって混乱されることがあるから、特に用心しなければならない。我々は結果を感覚し、それにもとづいて原因を結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解していないのである。
 「ところで、他の事物から結論するというのは、次のような場合である。すなわち、我々がこれこれの身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しないことを明らかに知覚する時に、そのことから直ちに、我々は、精神が身体と合一しているということ、そしてその合一がこうした感覚の原因であることを明瞭に結論する。しかし我々は、一体その感覚とか合一とかがどんな種類のものであるかをそれから絶対的には理解できない。」(中略)「この例から、さっき私の注意したことが明瞭にわかる。なぜなら、その合一とはとりもなおさず感覚そのものを意味するにすぎないからである。すなわち、我々は結果を感覚し、それにもとづいて原因を結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解していないのである。」(中略)「このような種類の結論は、なるほど確実ではあるが、特に用心しなければ、十分安全とは言えない。最善の配慮を用いなくては、たちまち誤謬に陥るであろう。というのは、物をその真の本質によってでなく、このように抽象的に概念する時には、直ちに表象力によって混乱されるからである。なぜなら、その際人々は、それ自体では一であるものを多様に表象するから、すなわち人々は、抽象的に、きれぎれに、且つ混乱して概念したものに対して、他のもっと親しいものを表示するのに用いる名称を与え、その結果として、はじめにこの名称が与えられたものを表象すると同じ仕方で、今度のものをも表象するからである。」
(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(二一)へのスピノザ自身の注、pp.23-24、[畠中尚志・1992])
(索引:心身問題、精神、身体、精神と身体との合一、感覚)

知性改善論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」
 「だから私の志す目的は、このような本性を獲得すること、並びに、私と共々多くの人々にこれを獲得させるように努めることにある。」(中略)「次に、出来るだけ多くの人々が、出来るだけ容易に且つ確実にこの目的へ到達するのに都合よいような社会を形成しなければならない。なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。また健康はこの目的に至るのに大切な手段だから、全医学が整備されなければならない。また技術は多くの難しい事柄を簡単なものにして、我々に、生活における多くの時間と便宜を得させてくれるから、機械学を決してなおざりにしてはならない。」(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(12)(13)(14)(15)、pp.17-19、岩波文庫(1968)、畠中尚志(訳))

バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)
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07.心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))

心身問題

【心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「これら三種類の概念の間には次の点で大きな違いがあると認めます。つまり、精神は純粋知性によってしか理解されません。身体すなわち延長、形、運動は純粋知性のみによっても理解されますが、想像力に助けられた知性によってはるかによく理解されます。最後に精神と身体との合一に属することがらは、知性だけによっても、想像力に助けられた知性によっても漠然としか理解されませんが、感覚によってきわめて明晰に理解されます。それゆえ、まったく哲学したことがなく感覚しか使わない人は、精神が身体を動かし身体が精神に作用することを少しも疑わないのです。彼らは両者を一つのものと見なします。つまりそれらの合一を理解しています。というのは、二つのものの間の合一を理解するとは、それらを一つのものと理解することだからです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四三年六月二八日、p.29、[山田弘明・2001])
(索引:心身問題、精神、身体、精神と身体との合一、感覚)


デカルト=エリザベト往復書簡 (講談社学術文庫)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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