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2019年4月25日木曜日

互いの行動を理解可能なものとする他者の思考、感情、意志決定に関する信念は、他者の行動や発言に基づく推論だけからは得られない。より原初的で反応的な共感や感情移入と、社会的な相互作用が必要である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

他者の思考、感情、意志決定に関する信念

【互いの行動を理解可能なものとする他者の思考、感情、意志決定に関する信念は、他者の行動や発言に基づく推論だけからは得られない。より原初的で反応的な共感や感情移入と、社会的な相互作用が必要である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)いかにして、他者の思考、感情、意志決定が知られるか。
 (1.1)他者の思考や感情に関する、原初的でより基礎的な解釈的知識が存在する。
  (i)これは、推論ではなく、反応的な共感や感情移入である。
 (1.2)社会的な相互作用のなかで、他者の思考、感情、意志決定に関する信念が生じる。
  (i)他者たちへの私たちの反応が、私たちがどんな思考や感情に対して反応しているのかを、彼らにもたらす。
  (ii)私たちの反応に対する彼らの反応が、彼らがどのような思考や感情に対して反応しているのかを、私たちにもたらす。
 (1.3)時には、目に見える彼らのふるまいや発言から推論する必要がある。
  (i)しかし、推論が正しいか間違っているかは、反応的な共感や感情移入により確かめられる。
  (ii)従って、反応的な共感や感情移入から切り離された単独の推論は、疑いから抜け出せない。
(2)他者の思考、感情、意志決定が知られることで、互いの行動が理解可能なものとなる。

 「デカルトの誤解は、たんにヒトではない動物たちに関する誤解であったばかりでなく、同時にヒトに対する誤解でもあった。デカルトを誤った方向へ導いたのは、他者の思考や感情や意志決定に関する私たちの信念は、目に見える彼らのふるまいや発言からの推論に全面的に依存している、という彼の見解だった。もちろん、ときに私たちは、他の誰かが考えていることや感じていることを、推論によって「おしはかる」必要がある。しかし、そうした特殊のケースにおいてさえ、それでもなお私たちは、他者の思考や感情に関する原初的でより基礎的な解釈的知識に頼っている。そして、そうした知識は推論によって正当化されているわけではないし、その必要もない。このような知識はいったいどんな種類の知識だろうか。それは実践知の一形態であり、解釈の仕方を知ることにほかならない。そうした知は、他者たちとの次のような複雑な社会的相互作用から生じる。すなわち、他者たちへの私たちの反応と、私たちの反応に対する彼らの反応が、自分はどんな思考や感情に対して反応しているのかに関する認知を彼らに、そして、私たちにもたらすような、そうした複雑な社会的相互作用である。もちろん、彼らも私たちもしばしばまちがいを犯すし、私たちのうちのある者は他の者よりも頻繁にまちがいを犯す。しかし、そのようなまちがいがまちがいだとわかる能力それ自体が、他者が何を考え、何を感じているかに気づく能力を前提としている。他者に関する解釈的な知識は、他者とのかかわりから得られるものであり、そこから切り離すことができない。それゆえ、他者の思考や感情についてのデカルト的な疑いは、他者とのそうしたかかわりを奪われた人々にのみ生じうる。そして、そうした人々はある重篤な心理的障害によってか、もしくは、デカルトの場合のようにある哲学的な理論の力によって、他者とのそうしたかかわりを奪われているのである。
 つまり、他者を知るということは、作用や相互作用を通じて反応的な共感や感情移入が〔他者に対して〕引き起こされるということであり、そうした共感や感情移入なしには、私たちは、他者たちのとった行動の理由を、私たちがしばしばそうするように、彼らに帰することができないだろう。そうした理由によって、彼らの行動は私たちに理解可能なものとなり、それによって、彼らもまたそれを理解できるようなしかたで私たちが他者たちに対して反応することが可能になるのである。(もちろん、ときとして私たちは、ある〔他者の〕行動について、それがなされた理由があるとして、そうした理由にまったく気づくことがなくとも、その行動に反応するし、反応するのに何の困難を感じない。しかし、ふつうは、ある行動があの理由ではなくこの理由でなされたからこそ、それに対して私たちは現にしているようなしかたで反応するのであり、私たちはその理由を特定できていればこそ、どう反応すべきか知っているのである。)」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第2章 動物という類に対比されるものとしてのヒト、その類に含まれるものとしてのヒト,pp.16-18,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:共感,感情移入,他者の思考,他者の感情,他者の意志決定)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

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