2018年10月17日水曜日

無意識に為される多くのことの極めて僅少で表面的な部分である意識的世界の、さらに小さな一部が、言語で表現された世界である。言語は、人と人を結びつける必要性に起源があり、畜群的遠近法とも言える歪みを持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

言語の畜群的遠近法

【無意識に為される多くのことの極めて僅少で表面的な部分である意識的世界の、さらに小さな一部が、言語で表現された世界である。言語は、人と人を結びつける必要性に起源があり、畜群的遠近法とも言える歪みを持つ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)意識のうちに入らずに為される多くのことがある。感覚、思考、情動、意欲、想起。
(2)また、我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
(3)意識にのぼってくる思考は、意識されない思考の極めて僅少の部分、その最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。
(4)さらに、言語で表現された世界は、意識にのぼってくるものの、さらに限定された一部である。しかもそれは、一般化され、凡俗化され、深みを失い、薄っぺらになり、愚劣となり、頽廃があり、偽造がある。
(5)自分自身をできるかぎり個的に理解しよう、「自己自身を知ろう」と望んでも、意識にのぼってくるのは、非個的なもの、「平均的なもの」、「種族の守護霊」によって多数決にかけられ、畜群的遠近法に訳し戻されたものである。結局のところ、増大する意識とは一つの危険であり、一つの病気とも言えるのである。
(6)以上のことは、意識と言語の以下のような起源に由来する。
 (6.1)人間は、最も危険に曝された動物として、仲間の救助や保護を必要とした。
 (6.2)仲間に知らせる必要のあることが、意識化され、言語化された。すなわち意識も言語も、種族、共同体的、畜群的な効用に関する点で、精妙な発達をとげてきた。なお、人と人を結びつけるものには、眼差しや身振りの働きもある。
  (6.2.1)自分の危急状態、何が不足しているのか。
  (6.2.2)自分がどんな気分でいるのか、何を考えているのか。
  (6.2.3)人と人とを結びつける連絡網、特に命令者と服従者を結びつける。

 「「種族の守護霊」について。―――意識(もっと正しく言えば、自己を意識すること)の問題は、どの程度までわれわれは意識なしで済ませられるかを悟りだすときにはじめて、われわれの前面にあらわれてくる。こうした悟り始めの地点に、今日われわれを立たせるのは、生理学と動物学とである(これらの学問は、したがって、ライプニッツの先駆的な疑問に追いつくのに二世紀かかったわけだ)。すなわち、われわれは、考えたり、感じたり、欲したり、想い起こしたりすることができるし、同様また語のあらゆる意味で「行為する」ことができるだろう、だがそうだとしてもそうした一切のものがわれわれの「意識のうちに入ってくる」(比喩的に言われるごとく)ことを要しない筈だ。生の全体は、それがいわば鏡に自分を映してみなくても、可能な筈である―――実際において今日でもなお、われわれにおけるこの生活の大半が、こうした鏡面映写なしに演じられているごとくに―――、しかもそこにわれわれの思考し・情感し・意欲する生をも含めての話だ、こう言えば老いぼれた哲学者の耳には侮辱したように聞こえるかもしれないけれど。―――意識が大体において《余計なもの》であるとするなら、いったい意識は《何のため》にあるのか? ―――ところで、この問題に対する私の解答とその恐らくは的外れかもしれぬ推測に人々が耳を藉してくれるとしての話だが、意識の精緻さと強さとはつねに人間(あるいは動物)の《伝達能力》に比例し、またその伝達能力は《伝達の必要》に比例する、と私には思われる。この後者の場合、自分の必要をひとに伝達したり分からせたりすることにかけては実に名人である当の個人それ自体が、その必要という点で同時にまた大抵のことを他人に頼らねばならないものだ、といった風にこれを解してはならない。だがしかし、こと種族全体や血族連鎖の全体に関するかぎりでは、たしかにそんな風の事情になっているように、私には思われる。必要とか困窮とかのために、長期にわたって人間が、伝達し合い相互に迅速かつ精細に理解しあうよう迫られたところでは、ついにあり余る程のこうした伝達の力と技が生じてくる。それはいわば漸次に蓄積された末にこれを浪費する相続人を待つばかりになっている資産のようなものである(―――いわゆる芸術家はこうした意味の相続人であるし、演説家も説教家も著述家も同断である。これらの者はみな、きまって長い血族連鎖の最後にあらわれ、いつの場合も語の最上の意味での「末裔」であり、前述のようにその本質において「浪費家」である)。この私の考察が正しいとしたら、さらに次のように推測をすすめることができよう、すなわち、《およそ意識というものは伝達の必要に迫られてのみ発達したものである》、―――もともとそれは人と人との間(特に命令者と服従者との間)にのみ必要なもの、有用なものであって、しかもこの有用性の程度に比例してのみ発達したものである、と。意識とは、本来、人と人との間の連絡網にすぎない、―――ただそうしたものとしてのみ発達したに違いなかった。つまり、世捨人的な猛獣のような人間なら意識など必要とはしなかっただろう。われわれの行為、想念、感情、運動すらも―――すくなくともそれらの一部分が―――われわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき「やむなき必要」(Muss)の結果なのだ。人間は、最も危険に曝された動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表わし自分を分からせるすべを知らねばならなかった、―――こうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず「意識」を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを「知る」こと、自分がどんな気分でいるかを「知る」こと、自分が何を考えているかを「知る」ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。―――というのも、この意識化された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》―――これで意識の素性そのものがあばきだされるが―――《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、―――人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。―――お察しのとおり、私の考えは、こうだ―――意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ畜群的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ畜群的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、「自己自身を知ろう」と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における「平均的なもの」だけであるだろう、―――われわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によって―――意識の内に君臨する「種族の守護霊」によって―――いわば《多数決にかけられ》、畜群的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》・・・これこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法論である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡俗化された世界にすぎない、―――意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、畜群的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている。結局のところ、増大する意識とは一つの危険なのだ。そして、極度に意識的となったヨーロッパ人のあいだに生活する者は、その上それが一つの病気でもあることを知っている。お察しのことだろうが、ここで私が問題としているのは、主観と客観の対立などではない。こんな区別だてなど、文法(俗流形而上学)の罠にかかったままでいる認識論者諸君の手に一任する。ましてやそれは、「物自体」と現象との対立といったものではさらさらない。なぜなら、われわれの「認識」は、そうした《区別》だけでもやれるにはまだまだ遥かに不充分だからだ。われわれは《認識》のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有っていない。われわれは、人間畜群や種族のために《有用だ》とされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである。しかも、ここで「有用」と呼ばれるものでさえも、所詮また一個の信仰、一個の妄想にすぎず、また恐らくそれこそは、われわれをいつかは破滅させるあの宿命的な蒙昧さであるかもしれない。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』第五書、三五四、ニーチェ全集8 悦ばしき知識、pp.391-395、[信太正三・1994])
(索引:意識の発生,言語の起源,畜群的遠近法)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準には、法準則の他に、法準則とは異なった仕方で作用する正義や公正などの諸原理や、経済的、政治的、社会的目標と結びついた政策などの諸規準がある。(ロナルド・ドウォーキン(1931-2013))

法準則、原理、政策

【法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準には、法準則の他に、法準則とは異なった仕方で作用する正義や公正などの諸原理や、経済的、政治的、社会的目標と結びついた政策などの諸規準がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

 法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準
(1)法準則
(2)法準則とは異なった仕方で作用する諸規準(広義の「原理」)
 (2.1)原理
  正義や公正その他の道徳的要因が、これを要請するが故に遵守さるべき規準。
 (2.2)政策
  一定の到達目標の促進を提示する規準。
  (a)目標:好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況。
  (b)消極的目標:現在存在するある特徴が、逆方向への変化から保護されるべきことを規定する目標。
 (2.3)その他のタイプの規準
(3)広義の「原理」、広義の「政策」により理論を構成することもできるが、原理と政策を狭義に限定して使用することが、ある特定の問題の解明にとって有益である。
 (3.1)諸原理が統一的に実現されている経済的、政治的、社会的状況を実現されるべき「目標」として理論を構成すれば、目標を提示しているという意味で広義の「政策」である。
 (3.2)特定の原理を、政策として記述することができる。例えば、本質的には正義の諸原理を、「最大多数の最大幸福を保障する」というような目標として記述することができる。
 (3.3)逆に、政策に含まれている目標も、それが実現されるべきものと考えられているという意味では「価値のあるもの」であり、経済的、政治的、社会的状況として記述されてはいるが、広義の「原理」である。

 「私はこれから法実証主義の総括的な批判を行ないたいと思う。特定の批判対象が必要な場合は、H・L・A・ハートの法実証主義をこの対象として使うことにする。私の批判の筋道は、次の事実を中心に構成されるであろう。すなわち法律家が法的権利義務につき推論や論証を行う場合、またなかでも、この概念をめぐる我々の問題が先鋭化すると思われる難解な事案に際し、彼らは、法準則として機能するのではなくこれとは異なった仕方で作用する諸規準、すなわち原理や政策やその他のタイプの規準を利用している、という事実である。私がこれから論ずるように、法実証主義は法準則及び法準則の体系に関し一つのモデルを提供するが、法について単一の基本的テストが存在するというその中心的な考え方は、法準則以外の上記の様々な規準が持つ重要な役割を我々に見失わせることになる。
 私がすぐ前で、「原理や政策やその他のタイプの規準」という表現を使った。以下、私は、法準則以外のこれら諸規準の全体を総称的に示すために、多くの場合「原理」(principle)という用語を使うことにするが、場合によっては精確さを期して原理と政策(policy)とを区別するつもりである。当面の議論において両者の区別に依拠するような論点は存在しないが、この区別を私がどのように考えているかをここで述べておく必要があろう。私が「政策」と呼ぶものは、一般的には社会のある主の経済的、政治的、社会的特徴の改善といった一定の到達目標を提示するタイプの規準を意味する(もっとも、ある種の目標は、現在存在するある特徴が逆方向への変化から保護されるべきことを規定する点で、消極的目標であることもある)。私が「原理」と呼ぶものは、好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況をこれが促進したり保護するからではなく、正義や公正その他の道徳的要因がこれを要請するが故に遵守さるべき規準を意味する。したがって、自動車事故は減少すべきだとする規準は政策であり、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならないという規準は原理ということになる。我々はこの区別を消し去ることもできるだろう。すなわちある社会目標(たとえば、いかなる者も自ら犯した不法により利益を得ることのない社会という目標)を提示するものとして原理を構成したり、逆にある原理(たとえば、政策に含まれる目標は価値あるものであるべしとする原理)を提示するものとして政策を構成することにより、更には功利主義のテーゼを採用し、正義の諸原理を目標(たとえば、最大多数の最大幸福を保障するごとき目標)に関する偽装された言明として捉えることにより、我々は上記の区別を消し去ることもできるが、ある脈絡においては両者の区別は有益であり、上述のような仕方でこの区別をなくしてしまうと、この有益性が失われてしまう場合がある。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,3 法準則・原理・政策,木鐸社(2003),pp.14-15,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法準則,原理,政策,目標)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドウォーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

習慣と社会的ルールの違い

【特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)習慣
 ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返される。
(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。さらに次の特性がある。
 (2.1)特定の行動の基準からの逸脱が、一般的に過ちや失敗と考えられ、批判にさらされる。また、逸脱がなされそうな場合、一致への圧力が存在する。
 (2.2)行動様式に関する共通の基準が存在し、人々には批判的、反省的態度が存在する。
  (2.2.1)基準からの逸脱が、批判の十分な理由として受け容れられている。
  (2.2.2)逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられている。
  (2.2.3)批判や要求をなす者も、批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
  (2.2.4)ただし、少数の常習的違反者は存在する。
 (2.3)観察可能な規則的、画一的な行動の事実は習慣の存在を示すが、社会的ルールの存在には、(2.2)のような「内的側面」が必要である。
  (2.3.1)批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例えば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」。
  (2.3.2)社会の批判と一致への圧力によって、社会的ルールが存在する場合、諸個人は、束縛または強制の感覚、あるいはある種の感情を経験することがある。しかし感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。

 「社会的ルールと習慣には、たしかに類似点がある。それは、どちらも当該の行動(たとえば教会で帽子を取ること)は必ずしも不変ではないとしても、一般的でなければならないということである。このことは、一定の状況になればその行動が集団の大部分によって繰り返されることを意味する。すでにのべたように、「人々は《通常》as a rule そうする」という句に含まれているのはそのぐらいのことである。しかし、このような類似点があるとしても、次のような三つの顕著な違いがある。
 第一に、集団が《習慣》をもつためには、人々の行動が事実上、一致するだけで十分である。通常の仕方から逸脱しても何らかの形で批判されるような事柄である必要はない。しかし、行動がこのように一般的に一致したり、まったく同一であったとしても、それだけではその行動を要求するルールが存在するためには十分ではない。というのは、このようなルールが存在するためには、それからの逸脱は一般的に過ちや失敗と考えられ、批判にさらされるのであり、逸脱がなされそうな場合、一致への圧力に直面するのである。もっとも、批判や圧力の形態はルールのタイプに応じて異なる。」
 「第二に、このようなルールが存在する場合、このような批判が実際に行なわれるのみならず、基準からの逸脱は、それに対する批判の《十分な理由》a good reason として一般的に受けいれられている。逸脱に対する批判は、逸脱が生じそうな場合の基準への一致の要求がそうであるのと同様に、この意味において正当とみなされ、また正当化されるのである。さらに、少数の常習的違反者は別として、このような批判や要求は、批判や要求をなす者とされる者の双方から一般的に正当とみなされたり、十分な理由をもってなされるのである。集団がルールをもっていると言うことができるためには、集団のうちどれだけの人が、どの程度頻繁に、そしてどれぐらいの期間にこれらの種々の仕方で規則的な行動の様式を批判の基準として扱わなければならないのかという問題は、はっきりしていない。多少の毛があっても禿といわれる場合の毛髪の数に関する問題と同様、われわれはこの問題で煩わされる必要はない。覚えておく必要があるのは、集団があるルールをもっているという陳述は、ルールに違反するだけでなく、ルールを自分や他人にとっての基準とみなすことを拒む少数者の存在と矛盾しないということだけである。」
 「社会的ルールを習慣と区別する第三の特徴は、すでにのべたところに含まれている。しかし、それは法理学において極めて重要であるのに非常にしばしば無視されたり、不正確にのべられたりしているので、ここで念入りに考察してみよう。それは、本書を通じてルールの《内的側面》internal aspect と呼ぶ特徴である。ある習慣が社会集団において一般的であるという場合、この一般性は集団の大部分の人々の観察可能な行動についての事実にすぎない。このような習慣が存在するためには、集団の構成員は一般的な行動について全然考える必要はないし、また当該の行動が一般的であるということを知ることさえ必要でない。まして彼らはその行動を教えようと努力したり、維持しようと意図したりする必要はさらさらない。各人は、他人が実際にそうしているように、それぞれ行動するだけで十分なのである。しかし、これとは対照的に、社会的ルールが存在するためには、少なくともいくらかの人々が当該の行動を集団が全体として従わなければならない一般的基準とみなさなければならないのである。社会的ルールは、観察者が記録できる規則的、画一的な行動にみられる外的側面をもつ点では社会的習慣と共通しているが、それに加えて「内的」側面ももっている。
 ルールのこの内的側面は、ゲームのルールからでも簡単に説明されるだろう。チェスの指し手は、クィーンを同じように動かす類似の習慣をもっており、外的な観察者は彼らがどういう態度でそう動かすかを知らなくてもその習慣を記録できるけれども、指し手の場合にはそれだけではない。その上、指し手達は、この行動様式に対する反省的、批判的態度をもっている。彼らは、その様式をゲームをする人達すべてにとっての基準とみなすのである。各人は自分自身でクィーンを一定の仕方で動かすのみならず、そのような仕方でクィーンを動かすことはすべて適切なのだという「見解をもっている」。その見解は、逸脱が現にあったり、なされそうな場合における他人に対する批判および他人に対する一致への要求において表明されたり、また一方、人からこのような批判を受けたり、要求されたりする場合、それを正当だと認めることにおいて表明されるのである。このような批判、要求、是認を表現するためには、広範囲の「規範的な」言語が使用される。それには、「私(あなた)は、そのようにクィーンを動かすべきでなかった」、「私(あなた)は、そのようにしなければならない」、「それは正しい」、「それは誤っている」という表現がある。
 ルールの内的側面は、外部から観察可能な身体的行動と対照をなす単なる「感情」の問題として、しばしば誤って説明される。ルールが社会集団によって一般的に受けいれられ、社会の批判と一致への圧力によって一般的に支えられている場合、明らかに諸個人は、束縛または強制という心理的な経験に類似したことをしばしば経験するであろう。彼らが一定の仕方で行動するように「拘束されていると感じている」と言う場合、実際、彼らはこのような経験についてのべているのである。しかし、このような感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって必要でも十分でもない。人々はあるルールを受けいれているが、強いられているというこのような感情は経験しない、と言っても矛盾ではない。必要なことは、共通の基準としての一定の行動の様式に対する批判的、反省的態度 a critical reflective atitude が存在しなければならないということと、この態度は(自己批判を含む)批判や、一致への要求において、さらにこのような批判や要求が正当であると是認することにおいてあらわれなければならない、ということである。そして、それらはすべて「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」といった規範的な用語で特徴的に表現されるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第4章 主権者と臣民,第1節 服従の習慣と法の継続性,pp.62-64,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),中谷実(訳))
(索引:社会的ルール,習慣,批判,ルールの内的側面,感情)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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