等価な像の間の違い
【記号から何らかの像への写像が存在し、しかも記号と像との論理的構成が全く同じであっても、それが与えるイメージや見通しの面で異なる場合がある。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】(a) 盤面ゲームとしての将棋を、駒の動きを表す数字と文字列とに対応させることができる。
数字と文字を紙に ⇔ 盤面ゲーム
書いてするゲーム としての将棋
(b) 数字と文字列のゲームと、それを図解したゲームとは、ゲームとしては論理的に同じものであるにもかかわらず、図解はゲームを非常に分かりやすく、見通しの良いものにする。
(c) 現代物理学の理論においても、論理的には全く同等の体系でありながら、それが与える図解、見通しの面で異なるような諸理論が存在する。
「仮に、将棋は盤面ゲームとして作り出されたのではなくて、数字と文字を紙に書いてするゲームだったのであり、そのときは誰も八十一の目をもつ長方形の盤その他のことは想像もしなかった、と、そう考えてみよう。
ところがある人が、このゲームは、盤の上でかくかくの仕方でおこなわれうるゲームに、まったく対応したものだという発見をしたとする。この発見はゲームを非常にやさしくするものであったろう。(それまではそのゲームがむつかしすぎていた人々も、やれるようになっただろう。)
しかし、ゲームの規則についてのこの新しい図解は、ただ、より見渡しをえやすい新しい記号体系にほかならないのであって、それ以外の点では、紙に書かれていたものと同じ段階にあるものだということは、明らかである。
現代の物理学はもはや力学的モデルでなく、「たんにシンボルだけを」相手にしている、ということに関してあれこれ言われていることを、これと比較せよ。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』付録 六、全集3、p.311、山本信)
(索引:等価な像)
(出典:wikipedia)
「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)
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