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2019年10月25日金曜日

専門的な技術の蓄積と熟練を要する統治の実現と、自由で活力のある独創性とを両立させるためには、代表者会議による統治者の選任、監視、統制とともに、官僚制と対立しあう影響力による活性化が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

官僚制と代表民主制

【専門的な技術の蓄積と熟練を要する統治の実現と、自由で活力のある独創性とを両立させるためには、代表者会議による統治者の選任、監視、統制とともに、官僚制と対立しあう影響力による活性化が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追記。

(1)代表者会議
  代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)政府を監視し統制すること
  政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて、十分な説明と正当化する理由の提示を強制すること。
 (1.2)政府に対する解任、任命権
  非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命する。
 (1.3)国民の中のあらゆる意見の集約
  (a)国民の中のあらゆる階層、階級の意見
  (b)国民の中の様々な集団の意見、そのような集団が信頼を寄せている人物の意見
  (c)国民の中の卓越した人々の意見
 (1.4)自由な議論の保障
  (a)何ら制限されずに、意見や批判を述べることができること。
  (b)全ての意見が傾聴されること。
  (c)ある意見を退ける場合であっても、頭ごなしにではなく、より良いと考えられる理由のためであること。
 (1.5)統治機構に必要な専門性の確保すること
  (a)統治機構を構成する人々が、誠実かつ賢明に選ばれるようにすること。
  (b)何ら制限されずに意見や批判を述べること。
  (c)最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすること。
  (d)統治機構に、必要な監視と統制を超える不当な干渉をしないこと。
(2)統治機構(政府)
 議論の結果を実行する組織であり、特別に訓練された人々の仕事である。
(3)代表者会議と統治機構(代表民主制と官僚制)の関係
 (3.1)原理
  (a)対立しあう影響力は、相手の生き生きとした活力を保つ。
  (b)相手の活力を保つことは、自らの固有の有用性のためにも必要である。
 (3.2)代表民主制
  (a)情熱と専門的知識を持ち、活力と独創性をそなえた人物が必要である。
  (b)しかし、情熱と独創性を、熟練した行政と結びつける手段を見出せなければ、最善の効果を生み出すことはできない。
 (3.3)官僚制
  (3.3.1)専門的な技術と熟練を必要とし、独別な教育を受けなければうまくでない仕事がある。
  (3.3.2)メリット:経験が蓄積され、十分な試行と熟慮を経た伝統的な行動原則が獲得され、実際に業務を行う人々に適切な実務的知識が提供される。
  (3.3.3)デメリット:官僚制がかかる病気でしばしば滅亡原因となるのは、仕事のルーティン化である。
   (a)大方の人の頭にあるのは、教えられたことをこなすということだけである。
   (b)仕事を支えていた内面で働く精神、生命力が失われていく。
   (c)訓練された凡庸という妨害的精神が、独創的才能を持つ個人を圧迫するようになる。
  (3.3.4)デメリットを発生させないための、自由な外部的要素が必要であり、それが代表民主制である。

 「政府の知的特性に関する比較は、代表民主政と官僚制との間ですべきであり、他の政府形態は取り上げなくてよい。そこで、この比較をしてみると、官僚制がいくつかの重要な点で相当にすぐれていることは、認めなければならない。官僚制では経験が蓄積され、十分な試行と熟慮を経た伝統的な行動原則が獲得され、実際に業務を行う人々に適切な実務的知識が提供される。とはいえ、個々人の精神の活力という点では、同じように優越しているわけではない。官僚制がかかる病気でしばしば滅亡原因となるのは、仕事のルーティン化である。官僚制が滅びるのは行動原則が変わらないためであり、またそれにもまして、ルーティン化した仕事は何であれ生命力を失ってしまい、内面で働く精神がなくなるために、やるべき仕事をやらずに機械的にずるずると続いていく、という普遍法則のためである。官僚制はつねにベダントクラシーになりがちである。官僚制が実際の統治体制となると、団体精神が(イエズス会の場合のように)、構成員の中で卓越している人々の個性を圧迫する。他の専門的な仕事と同じように統治という専門的な仕事でも、大方の人の頭にあるのは、教えられたことをこなすということだけである。こうした人々の中にあって、独創的才能を持つ個人という考え方が、訓練された凡庸という妨害的精神に打ち勝てるようにするには、民主政的な統治体制が必要である。民主政的な統治体制だったからこそ(きわめて聡明な専制君主という偶然は例外だとしても)、サー・ローランド・ヒルは郵政省に対して勝利を収めることができた。民主政的な統治体制が彼を郵政省《の中に》送り込み、この役所は不承不承ながら、専門的知識と個人的な活力と独創性をそなえた人物の情熱に従ったのである。」(中略)
 「人間生活の万事において、対立しあう影響力は自らの固有の有用性のためにも、対立する相手の生き生きとした活力を保つ必要がある。よい目的であっても、並存すべき別の目的をなおざりにしてそれだけを追求すると、最終的には、一方が過剰で他方が不足するばかりでなく、ひたすら重視してきたものまでが衰退し消滅してしまう。自由な統治体制なら国のためにできることが、訓練された官僚の統治ではできないが、しかしまた、自由な統治それ自体ではできないことが、官僚制であればできるとも考えられる。とはいえ、自由という外部的要素は、政府が自らの仕事を効果的にあるいは持続的に行えるようにするためにも必要だ、ということもわかっている。他方で、熟練した行政と自由とを結びつける手段を見出せなければ、自由は最善の効果を生み出せないし、破滅してしまうことも多い。代議制統治に適合するまで成熟した国民であれば、代議制統治と想像上最も完全な官僚制のどちらかを選ぶかで、躊躇は一瞬たりともありえない。しかし同時に、代議制統治と両立する限りで官僚制の多くのすぐれた点を獲得することは、政治制度の最重要目的の一つである。つまり、これら二つが両立可能な限りで、国民全体の代表機関に委ねられた実効性のある形で行われる統制に沿いながら、知的専門職として業務に取り組むよう育成された専門家の業務遂行で得られる大きな利益を確保する、ということである。前章で論じた境界線を認めれば、この目的に大いに役に立つだろう。つまり、一方で、特別の教育を受けなければうまくできないような本来的に統治の仕事と言える仕事と、他方で、統治者を選び監視し必要ならば統制するという、統治担当者ではなく統治してもらうことに利益を持つ人に委ねるのが、他の場合と同様にこの場合にも適切である仕事、これら二つの仕事の間の境界線である。技術を必要とする仕事が技術を持つ人によって行われるよう国民全般が望まない限り、熟練性を確保した民主政に向かう進歩はまったくありえない。国民の側は、監督と牽制という自分たち本来の仕事をするのに十分な度合の精神的能力を調達するだけでも、手一杯なのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第6章 代議制統制が陥りやすい欠陥や危険について,pp.104-106,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:代表者会議,統治機構,代表民主制,官僚制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月24日木曜日

代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

代表者会議の機能

【代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)代表者会議
 (1.1)政府を監視し統制すること
  政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて、十分な説明と正当化する理由の提示を強制すること。
 (1.2)政府に対する解任、任命権
  非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命する。
 (1.3)国民の中のあらゆる意見の集約
  (a)国民の中のあらゆる階層、階級の意見
  (b)国民の中の様々な集団の意見、そのような集団が信頼を寄せている人物の意見
  (c)国民の中の卓越した人々の意見
 (1.4)自由な議論の保障
  (a)何ら制限されずに、意見や批判を述べることができること。
  (b)全ての意見が傾聴されること。
  (c)ある意見を退ける場合であっても、頭ごなしにではなく、より良いと考えられる理由のためであること。
 (1.5)統治機構に必要な専門性の確保すること
  (a)統治機構を構成する人々が、誠実かつ賢明に選ばれるようにすること。
  (b)何ら制限されずに意見や批判を述べること。
  (c)最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすること。
  (d)統治機構に、必要な監視と統制を超える不当な干渉をしないこと。
(2)統治機構(政府)
 議論の結果を実行する組織であり、特別に訓練された人々の仕事である。

 「代表者会議の本来の役割は、統治するという元々から適していない役割ではなく、政府を監視し統制することである。政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて十分な説明と正当化する理由の提示を強制することである。非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命することである。これは間違いなく大きな権限であり、国民の自由の保障として不足はない。
 さらに議会には、これに劣らず重要な役割もある。議会は国民の苦情処理委員会であるとともに、種々の意見が集う会議でもある。国民全般の意見ばかりでなく、国民の中のあらゆる部分の意見や、国民の中の卓越した人々の意見も可能な限りの多くが、もれなく自己主張し論戦に挑める舞台である。自分と同じかもっと上手に自分の想いを、味方や仲間に対してばかりでなく論敵の面前で反対論の試練を受けながら語ってくれる代弁者を、国中のすべての人が期待してよい舞台である。この舞台では、自分の意見が論破された人でも、自分の意見が傾聴され、退けられたにしても頭ごなしにではなく、よりよいと考えられた理由のためであって、国民の多数を代表する人々の前でともかく自分の意見を訴えたということに、満足感を持つ。国中のあらゆる党派や意見がそれぞれの力を結集できるし、自分たちの支持者の数や力に関する幻想を醒ますこともできる。国民の中で支配的な意見は、ここでも支配的な形で登場し、政府の目の前で勢力を展開する。そのため、姿を現すだけで実際に力を行使しなくても、政府を従わせることができる。政治家は、どんな意見や勢力が伸長しているのか凋落しているのかを、他の徴候よりもずっと確実に捉えられるし、目前の差し迫った必要ばかりでなく今後の動向も顧慮して対策を講ずることができる。
 代表者議会は、それを敵視する人々からは、たんなる《おしゃべり》の場所でしかないと愚弄されることが多い。これほど的外れな嘲笑はまずない。話題が国の重大な公的利益であって、国民の中の重要な集団の意見やそうした集団が信頼を寄せている人物の意見が余すところなく語られているのであれば、話すこと以上に代表者会議が有益な役割をどう果たせるのか、私には見当がつかない。国中の利益や意見のすべてが、政府や自分以外のすべての利益や意見の前で熱心に自己主張でき、傾聴させることができ、賛同してもらう、あるいは不賛成ならその理由を明確に述べるよう迫ることができる場所は、他に果たせる目的がなくても、それ自体として、およそ存在しうる中で最も重要な政治制度の一つであり、自由な統治が持つ最大の利点の一つである。そうして「おしゃべり」で「行動」に水を差すことが仮に許されていなかったとしたら、非難がましく見られることもないのだろう。議会が行動するというのではない。話し合い議論することが本来の仕事であるとわきまえていれば、それはないだろう。議論の結果としての行動は、種々雑多な人々からなる議会の仕事ではなく、特別に訓練された人々の仕事である。議会にふさわしい職務は、そうした人々が誠実かつ賢明に選ばれるよう見守ることであり、何ら制限されずに意見や批判を述べることや、最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすることは別として、それ以上の干渉はしないことである。こうした賢明な自制が欠けると、民主政的な議会は、自分では上手にこなせない統治と立法という仕事に手を出そうとし、そうした仕事の大半を担わせる別の機関を作らずに自分で済ませようとする。話し合いに使う時間は、当然ながら、実務に手出しをしないことで得られる時間なのにである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第5章 代表機関の本来の役割について,pp.95-97,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:代表者会議の機能,代表者会議)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年9月10日火曜日

全ての国民が、他者と競合する個人と家族の利益だけを考える偏狭さから解放され、自己と他者が共有する利益を考え、良い統治のための積極的な関与が国民の義務であると考えるような、制度的な仕組みが必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制への関与

【全ての国民が、他者と競合する個人と家族の利益だけを考える偏狭さから解放され、自己と他者が共有する利益を考え、良い統治のための積極的な関与が国民の義務であると考えるような、制度的な仕組みが必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)追加。

(3)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化できる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)国民の徳と知性を育成できる統治体制
  この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、国民の徳と知性が良い統治を維持、発展させ、良い統治がさらに国民の徳と知性を促進するという良い循環が生まれるからである。

 (3.2)すべての国民が参加する統治体制
  (3.2.1)普通の人々の日常生活の圧力
   (i)人々の仕事は、決まりきった繰り返しの仕事である。
   (ii)仕事は、愛からなされる仕事ではなく、日々の必要を満たすという、最も原初的な形をした自己利益のための労働である。その結果、個人を超えて広がる思考や感情を精神にもたらさない。
   (iii)啓発的な書物が手近にあっても、読む気にさせる刺激がない。
   (iv)自分よりもはるかに優れた教養を持つ人物に接する機会を持たない。
  (3.2.2)統治体制への関与
   (a)良い統治
    (i)自分も関与していて、不適当と思うならば公然と異議を唱え、変更のために積極的に努力できる。
    (ii)例えば、市民が一時的に交替で、何らかの社会的役割を果たすよう時折要求される。
    (iii)例えば、私人としての市民が、公的職務に参加する。
   (b)悪い統治
    自分が属していない集団の感情や性向に阿ることができるかどうかに、自分の成功がかかっている。国制の外に置かれ、ドアの内側で協議するのではなく、その外から自分の運命の裁定者に懇願するしかない。
  (3.2.3)公共の利益
   (a)良い統治
    自分が公共の一部であって、公共の利益は何であれ自分の利益でもあると考える。
   (b)悪い統治
    目的とは、他者と競合するもの、何らかの程度で他者を犠牲にするようなものと考える。
  (3.2.3)社会に対する義務
   (a)良い統治
    私人は、法を遵守し政府に服従する以外にも、社会に対する義務を負っている。
   (b)悪い統治
    利益や義務に関するあらゆる思考や感情は、個人と家族の中に吸い込まれてしまう。

 「自然の必然性や、自分も関与していて不適当と思うならば公然と異議を唱え変更のために積極的に努力できるような社会の命令以外には、外的な束縛を何も人々が感じていない場合は、人間の諸能力の状態はまったく異なってくる。たしかに、部分的にしか民主政的でない統治体制の下で、市民としての特権を十分には得ていない人々でも、このような自由を行使することはあるだろう。しかし、平等なスタート地点に立って、自分が属していない集団の感情や性向におもねることができるかどうかに自分の成功がかかっていると感じなくてもよいのであれば、どんな人の自助や独立独行にも大きな刺激が付け加わる。国制の外に置かれ、ドアの内側で協議するのではなくその外から自分の運命の裁定者に懇願するしかないのなら、一人の個人も、また、はるかにそれ以上に一つの階級も、大いに意気阻喪する。性格に対して活気を与えるという自由の効果の最大値が得られるのは、当人が他者と同様に十分な特権を持つ市民として振る舞っているときか、そうなることを期待しているときだけである。
 こうした感情の問題以上にいっそう重要なのは、市民が一時的に交替で何らかの社会的役割を果たすよう時折要求されることで、実践的訓練が市民の性格に及ぶことである。大半の人々のの日常生活に考え方や感じ方を広げるものがどれほど少ないかは、十分に考慮されていない。人々の仕事は決まりきったくり返しの仕事である。愛の労働ではなく、日々の必要を満たすという、最も原初的な形をした自己利益のための労働である。仕事の結果も仕事の過程も、個人を超えて広がる思考や感情を精神にもたらさない。啓発的な書物が手近にあっても、読む気にさせる刺激がない。しかも、ほとんどの場合、個人は自分よりもはるかにすぐれた教養を持つ人物に接する機会を持たない。こういう人に、公共のための何らかの仕事を与えることは、ある程度は、これらすべての不足を補う。もし事情が許して相当量の公的な職責が許されれば、それでこの人は教育ある人物となる。」(中略)
 「これ以上にもっと有益なのは、ときたまであっても私人としての市民が公的職務に参加することで与えられる教育の道徳的部分である。この職務にある間は、市民は自分の利益以外の利益を秤量するよう求められる。主張が対立する場合は自分の個人的な好き嫌いとは別のルールに従うことが求められ、共通善が存在理由となっている原理原則をどんな局面でも適用するよう求められる。また、同じ職務の中で、こうした考え方や物事の進め方にいっそう馴染んでいる人たちと一緒になるのがふつうである。そうした人たちの研鑽のおかげで、自分の理解に理由が与えられ、一般的利益への自分の想いが刺激される。自分が公共の一部であって、公共の利益は何であれ自分の利益でもあると実感させられるのである。公共精神のこうした学校が存在しない場合は、切迫した社会状況でなくても、私人は法を遵守し政府に服従する以外にも社会に対する義務を負っている、という自覚は出てこない。公共と自分を同一視する非利己的な感情も生まれない。利益や義務に関するあらゆる思考や感情は、個人と家族の中に吸い込まれてしまう。こういう人は、集団的利益や他者と共同追求する目的を考えず、他者と競合する目的や何らかの程度で他者を犠牲にするような目的しか考えない。隣人は共同利益のための共通の営みに従事していないので、味方や仲間ではなく競争相手でしかない。こうして、公的道徳が本当に消滅してしまう一方で、私的道徳ですら損ねられてしまう。仮にこれが物事の普遍的で唯一可能な状態であるならば、立法家や道徳家が望めるせいぜいのところは、社会の大部分を無邪気に並んで草を食べている羊の群れにすることだろう。
 これまでの考察の積み重ねから明らかなように、社会のあらゆる必要を十分に充足できる唯一の統治体制は、すべての国民が参加する統治体制である。どんな参加でも、最小限の公的職務への参加でさえ、有益である。どこであってもその社会での改善全般の程度が許容する限りで、参加は最大であるべきである。また、万人が国家の主権的権力の分有を認められることほど、最終的に望ましいことはない。とはいえ、一つの小さな町よりも大きな社会では、公共の行うの何かごく小さな部分以外に全員が直接に参加することは不可能だから、完全な統治体制の理想型は、代議制でなければならない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第3章 理想の上で最善の統治形態は代議制統治である,pp.62-64,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治の条件,統治体制への関与,公共の利益)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月8日日曜日

良い統治の一条件として、社会を構成する人々の資質のうち活動的資質の例:権利や利益を自ら守り、害悪からの防衛能力を持ち、単に他者に依存するのではなく、自立した個人として他者と協力すること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

国民の活動的資質

【良い統治の一条件として、社会を構成する人々の資質のうち活動的資質の例:権利や利益を自ら守り、害悪からの防衛能力を持ち、単に他者に依存するのではなく、自立した個人として他者と協力すること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4.3)追記。

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々

(2)良い統治体制を選択する諸条件
  良い統治体制を選択するための諸条件は、(a)体制を維持できる国民の最低限の資質、(b)進歩の障害を克服できること、(c)既存の良いものを壊さないこと、(d)次の次の段階を考えること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (a)体制を維持できる国民の最低限の資質
  統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあること。
 (b)進歩の障害を克服するできること
  その国民の欠点や短所の中で、進歩に直接的な障害となるものを見分け、その障害を乗り越えるために必要なものを、国民に与える傾向が最も強い統治形態を、選択する。
 (c)既存の良いものを壊さないこと
  改善や進歩を目的とする場合、既に手に入れているものに損害を与えないようにする。
 (d)次の次の段階を考えること
  一国民を進歩の次の段階に前進させるのに最も効果的な統治形態でも、さらにその次の段階に対して、障害となる、あるいは、国民を明らかに不適合にしてしまうのであれば、その統治形態は、やはりきわめて不適当なものである。

(3)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化できる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (a)国民の徳と知性を育成できる統治体制
  この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、国民の徳と知性が良い統治を維持、発展させ、良い統治がさらに国民の徳と知性を促進するという良い循環が生まれるからである。

(4)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (4.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (4.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (4.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与える。
  (a)どの人間の権利や利益にしても、なおざりにされるのを確実に防止できるのは、当人がそれらの権利や利益を守ることができ、また、つねに守ろうという気持ちを持っている場合に限られる。
  (b)他者の手による害悪からの防護が確実になるのは、もっぱら、自己防衛の能力を持ち、その能力を行使することに比例する。
  (c)自然との闘いで高度な成功が確実になるのは、もっぱら、他者が自分のためにしてくれる物事に頼るのではなく、自立して自分から個人として、あるいは他者と協力してできる物事を頼りにすることに比例する。

(5)継続的進歩を真に確保する唯一のものである諸々の影響力の対立を維持すること。
 (a)社会全般の繁栄は、それを促進するために動員される個人の活力の量や多様性に比例して高度になり広汎になる。
 (b)いったん確立したものが神聖化されれば、改善への障壁となる。
 (c)才能と道徳感情において最も卓越した人々が、保護されること。
 (d)社会的に権威のある意見や道徳観であっても、自由な批判が許され、いっそう優れた意見や道徳観への進歩の道が閉ざされないこと。

(6)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
  国民全体の徳と知性を育成することと共に重要なことは、社会成員のうちの優れた資質を、統治機構に組織化することである。代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。
 (a)集団的事業のために、個々の社会成員に現存する優れた資質の一定部分を組織化する。
 (b)代議制は、社会に現存している平均水準の知性と誠実さを、最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに、統治体制に集約する方法である。
 (c)代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。

 「言うまでもないが、理想の上での最善の統治形態が意味するのは、文明のどんな状態でも実施可能であるとか実施に適している統治形態ということではなく、実施可能で実施に適している環境において、現時点でも将来的にも最大限の有益な結果をもたらす統治形態である。全面的に民主政的な統治体制は、こうした性格のものだとあらゆる面から主張できる唯一の政体である。それは、政体の優秀性を二つの部門に分ける観点から見て、どちらの部門でも優秀である。他のどんな政体と比べても、現時点でのよい統治という点でまさっているし、また、いっそうすぐれた高度な形の国民性を促進する。
 現時点での有益な結果という点でまさっているのは、二つの原理によってである。いずれも、人間生活に関して成立可能なあらゆる一般命題と同程度に、普遍的な真理であって普遍的に適用可能である。第一の原理は、どの人間の権利や利益にしても、なおざりにされるのを確実に防止できるのは、当人がそれらの権利や利益を守ることができ、また、つねに守ろうという気持ちを持っている場合に限られる、ということである。第二の原理は、社会全般の繁栄はそれを促進するために動員される個人の活力の量や多様性に比例して高度になり広汎になる、ということである。
 ここでの応用に合わせて、より具体的にこれら二つの命題を述べ直すとこうなる。他者の手による害悪からの防護が確実になるのは、もっぱら、自己《防衛》の能力を持ちその能力を行使することに比例する。また、自然との闘いで高度な成功が確実になるのは、もっぱら、他者が自分のためにしてくれる物事に頼るのではなく《自立して》自分から個人としてあるいは他者と協力してできる物事を頼りにすることに比例する。
 各人は自分の権利と利益の唯一確実な守り手であるという第一の命題は、思慮の基本原則の一つであり、自分のことを自分でできるあらゆる個人が、どんなことに関心を持つにしても、暗黙のうちに行動原則としているものである。たしかに、多くの人々は、これが政治原則になっている場合は大いに嫌悪し、すべての行動を利己的なものとみなす理論だと非難することに賛同する。それに対してはこう答えてよいだろう。人間は概して他者よりも自分を優先し、縁遠い人々よりも身近な人々を優先する、ということが真理でなくなるときはいつでも、それ以降は、共産主義が実行可能となるばかりでなく、唯一擁護可能な社会形態にもなるのであり、その時点が到来すれば間違いなく実現されるだろう。私自身としては、すべての行動が利己的だとは考えていないので、人類のエリートの間でなら現在ですら共産主義は実行可能であり、人類の他の部分でも実行可能となっていくかもしれない、と認めるのは困難ではない。しかしこの見解は、自己利益が概して優勢だとする理論を非難しつつ既存制度を擁護する人々には、必ずしも人気があるわけではない。とすると、こうした人々は〔利己性の克服を前提としている共産主義を非現実的と批判しているのだから〕実際には、大方の人間の配慮は他人よりも自分を優先させている、と信じているのではと考えたくなる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第3章 理想の上で最善の統治形態は代議制統治である,pp.50-52,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治,活動的資質)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月7日土曜日

良い統治体制を選択するための諸条件は、(a)体制を維持できる国民の最低限の資質、(b)進歩の障害を克服するできること、(c)既存の良いものを壊さないこと、(d)次の次の段階を考えること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治体制を選択するための諸条件

【良い統治体制を選択するための諸条件は、(a)体制を維持できる国民の最低限の資質、(b)進歩の障害を克服するできること、(c)既存の良いものを壊さないこと、(d)次の次の段階を考えること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2)追加。
(5)追加。

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々

(2)良い統治体制を選択する諸条件
 (a)体制を維持できる国民の最低限の資質
  統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあること。
 (b)進歩の障害を克服するできること
  その国民の欠点や短所の中で、進歩に直接的な障害となるものを見分け、その障害を乗り越えるために必要なものを、国民に与える傾向が最も強い統治形態を、選択する。
 (c)既存の良いものを壊さないこと
  改善や進歩を目的とする場合、既に手に入れているものに損害を与えないようにする。
 (d)次の次の段階を考えること
  一国民を進歩の次の段階に前進させるのに最も効果的な統治形態でも、さらにその次の段階に対して、障害となる、あるいは、国民を明らかに不適合にしてしまうのであれば、その統治形態は、やはりきわめて不適当なものである。

(3)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化できる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (a)国民の徳と知性を育成できる統治体制
  この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、国民の徳と知性が良い統治を維持、発展させ、良い統治がさらに国民の徳と知性を促進するという良い循環が生まれるからである。

(4)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (4.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (4.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (4.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与える。

(5)継続的進歩を真に確保する唯一のものである諸々の影響力の対立を維持すること。
 (a)いったん確立したものが神聖化されれば、改善への障壁となる。
 (b)才能と道徳感情において最も卓越した人々が、保護されること。
 (c)社会的に権威のある意見や道徳観であっても、自由な批判が許され、いっそう優れた意見や道徳観への進歩の道が閉ざされないこと。

(6)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
  国民全体の徳と知性を育成することと共に重要なことは、社会成員のうちの優れた資質を、統治機構に組織化することである。代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。
 (a)集団的事業のために、個々の社会成員に現存する優れた資質の一定部分を組織化する。
 (b)代議制は、社会に現存している平均水準の知性と誠実さを、最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに、統治体制に集約する方法である。
 (c)代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。

 「既知のあらゆる社会状態のそれぞれにどんな統治形態が適合するかを探求しようとすれば、代議制統治についてではなく、政治科学全般についての書物を一冊書くことになる。われわれの現実的な目的にとっては、政治哲学から一般的原理だけを借用すればよい。ある特定の国民に最も適合した統治形態を決定するためには、その国民の欠点や短所の中で、進歩に直接的な障害となるものを見分けられなければならない。つまり、何が(言わば)道を阻むものかを見出さなければならない。その国民にとって最善の統治とは、それなしでは国民が前進できないか、あるいは跛行的な前進しかできない、そうしたものを国民に与える傾向が最も強い統治である。ただし、改善や進歩を目的とする万事に必要な留保を忘れてはならない。つまり、必要とされる善を追求する際に、すでに手に入れているものに損害を与えないようにする、あるいは、できるだけ損害を与えないようにする、ということである。未開国民は服従を教えられるべきではあるが、それは彼らを奴隷の国民に変えてしまうような仕方であってはならない。そして(この考察に、より高度の一般性を与えると)、一国民を進歩の次の段階に前進させるのに最も効果的な統治形態でも、さらにその次の段階に対して、障害となる、あるいは、国民を明らかに不適合にしてしまうのであれば、その統治形態は、やはりきわめて不適当なものである。そうした事例は頻繁にあり、歴史における最も憂鬱な事実の一つとなっている。エジプトの階層性や中国の後見的専制は、すでに到達していた文明化の地点にまで両国民を前進させるのには非常に適合的な手段であった。ところが、その地点にまで到達すると、いずれの国民も、改善の要件である精神的自由と個性の欠如のために、以後ずっと停止したままになってしまった。それらの改善の要件は、その地点にまで国民を前進させた制度のせいで、まったく充足できなかった。しかも、その制度が崩壊したり他の制度に代わったりしなかったので、そこから先の改善が止まってしまったのである。
 これらの国民と比較対照するために、オリエントの別の小国民であるユダヤ人が示している正反対の例を考えてみよう。ユダヤ人も絶対的君主政と階層制を持ち、その組織化された制度は、インド人の制度と同じように、明らかに司祭制を起源としていた。それらは、ユダヤ人にとってオリエントの諸民族と同じように、勤労と秩序へと服従させ一つの国民として暮らしていくことに役立った。ところが、ユダヤ人の王と聖職者はいずれも、オリエント諸国のように、国民性を唯一の鋳型にはめることはできなかった。ユダヤ人の宗教では、非凡な才能と高度に宗教的な気風をそなえた人物を天啓を受けた者と考えてよかったし、また、当人も自分をそう考えてよかった。そのような宗教によって、非常に貴重な非組織的制度、つまり、預言者という身分(と呼んでもよいもの)が生み出された。預言者は、その神聖な性格のために、必ずしもつねに実効性のある保護だったわけではないにせよおおむね保護され、国民の中の一つの権力、しばしば王や聖職者をしのぐ権力となり、諸々の影響力の対立という、継続的進歩を真に確保する唯一のものを地上のこの片隅で維持したのである。その結果、ここでは、宗教は他の多くの地域の場合とは異なり、いったん確立したもの一切を神聖化してさらなる改善への障壁となる、ということにはならなかった。預言者たちは教会と国家において近代の出版の自由に相当するものであったという、著名なヘブライ人、サルヴァドール氏の指摘は、ユダヤ人の生活におけるこの重要な要素がユダヤ国民史と世界史で果たした役割について、不十分ながら正当な見方を示している。この要素のおかげで、啓示に由来する経典はけっして完結することがなく、才能と道徳感情において最も卓越した人々は、全能の神の直接的権威を借りて、非難や譴責に値すると自分たちが見た一切の事柄を非難し譴責できたばかりでなく、ユダヤ教についていっそうすぐれた高度の解釈を与えることもできたのであり、それらの解釈はそのようにしてユダヤ教の一部となったのである。こういうわけで、聖書を一冊の本として読むという、近年までキリスト教徒と信仰を持たない人々のいずれにも等しく根強かった習慣を捨て去れる人は誰でも、モーゼ五書や史書(明らかにヘブライ人司祭身分の保守派の人々の手になるもの)の道徳と宗教が、預言者たちの道徳や宗教と大きく隔たっているのを見て驚嘆する。その隔たりは、預言者たちの道徳や宗教と福音書との間の隔たりと同じぐらい大きいのである。進歩にとってこれほど好都合な条件は簡単にはありえない。そのおかげでユダヤ人は、他のアジア人のように停滞してしまわずに、古代の最も進歩的な国民であったギリシャ人に次いで、またギリシャ人とともに、近代的教養の出発点となり、その主要な推進力となったのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.38-40,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治体制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月6日金曜日

37.個人は、統治体制の影響の中で形成され、自らの可能性を実現させる。優れた諸個人の影響力は、統治体制によって合流させられ、社会をより高い段階へと発展させる。人類が最初に習得したのは、服従と勤労生活であった。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制と諸個人

【個人は、統治体制の影響の中で形成され、自らの可能性を実現させる。優れた諸個人の影響力は、統治体制によって合流させられ、社会をより高い段階へと発展させる。人類が最初に習得したのは、服従と勤労生活であった。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)統治体制と諸個人
 (1.1)統治体制から個人への影響
  個人は、統治体制の大きな影響を受けて形成される。
  (a)個人に及んでいる権威の性質と度合
  (b)権力の配分、命令と服従の諸条件
  (c)宗教的信条
 (1.2)統治体制
  統治体制は、優れた諸個人の影響力を合流させ、支配下に置いている。
 (1.3)諸個人から社会への影響
  諸個人は、様々な可能性を実現へと導くことにより、社会を一つの段階から、それよりも高い段階へと発展させる。
(2)人類の歴史
 (2.1)各人が孤立した状態
  各人が孤立して生活し、一時的な場合を除いて外的統制を免れているような状態。
 (2.2)戦闘と略奪の世界
  単調に延々と続く労働は嫌悪され、戦闘と略奪が自由に許される状態。
 (2.3)服従の習得
  一人の絶対的支配者の宗教的、軍事的な功績により、あるいは外国軍隊により、国民が服従することを習得する。服従を習得するまでは、文明段階におけるどんな進歩も事実上不可能である。どんな程度にせよ、民主政的な性格を持つ国制は、社会の種々の構成員たちが、行動の個人的自由を自発的に放棄することに依存している。
 (2.4)勤労生活の習得
  単調に延々と続く勤労生活が、社会の圧倒的大部分がひたすら従事すべきものとして強制される。こうした労働がなければ、文明社会が必要とする習慣へと精神を規律することはできないし、文明社会の受容に向けて物質面を整備することもできない。

 「社会は、諸々の影響力の合流によってのみ、これらの段階の一つからそれよりも高い段階へと発展できるのであり、そうした影響力の主なものが、諸々の影響力を支配下に置いている統治体制なのである。これまでに到達している人間改善のどの状態においても、個人を現にあるようにし、その将来の可能性を実現へと導くことができる影響力の中で、個人に及んでいる権威の性質と度合、権力の配分、命令と服従の諸条件は、宗教的信条を除けば最も強力な影響力である。特定の時代の発展段階に対する統治体制の適応に欠陥があるために、個人が発展の途中で突如停止することもある。だから、統治体制の長所には、他にかなり短所があっても、進歩とは両立するような短所であれば、その長所が必要不可欠だということに免じて大目に見てよい、といったものもある。つまり、国民がより高い段階へと向上するために踏み出す必要のある次の一歩に対して、国民に波及する統治体制の作用が有利に働く、あるいは不利に働かないという長所である。
 というわけで(以前の例をくり返すと)、未開の独立状態にあって、各人が孤立して生活し一時的な場合を除いて外的統制を免れている国民の場合、服従を習得するまでは文明段階におけるどんな進歩も事実上不可能である。したがって、この種の国民を対象として成立する統治体制に欠かせない特質は、国民を服従させるということである。これが可能となるためには、政体は専制に近いものであるか、あるいは完全な専制でなければならない。どんな程度にせよ民主政的な性格を持つ国制は、社会の種々の構成員たちが行動の個人的自由を自発的に放棄することに依存しているので、進歩のこの段階で生徒たちが必要としている最初の学習をさせることができない。したがって、こうした種族の文明化は、すでに文明化している他国民との隣接の結果でない場合は、ほとんどつねに、一人の絶対的支配者の仕事となる。その権力は宗教的あるいは軍事的な功績に由来しており、外国軍隊に由来する場合も非常に多い。
 さらに言えば、未開種族は単調に延々と続く労働を嫌悪する。最も勇猛で最も活力に富む種族は、とりわけそうである。しかし、真の文明はすべてこの対価を払っている。そうした労働がなければ、文明社会が必要とする習慣へと精神を規律することはできないし、文明社会の受容に向けて物質面を整備することもできない。しばらくの間、勤労を強制することでもなければ、こうした国民が勤労を受け容れるようになるには、諸々の状況の非常にまれな同時並存が必要であり、また、そのために非常に長い時間も必要になる。こういうわけで、奴隷制ですら、勤労生活の出発点を与え、勤労生活を社会の圧倒的大部分がひたすら従事すべきものとして強制することによって、戦闘と略奪の自由を超えた自由への移行を加速することもある。奴隷制のこの大義名分が、ごく初期の社会状態でしか成り立たないことは、ほとんど言うまでもない。文明化した国民の場合は、自分たちの影響下にある諸国民に文明を伝えるのにもっと別の方法がある。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.34-35,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:統治体制と諸個人,服従,勤労生活,統治体制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月4日水曜日

36.国民全体の徳と知性を育成することと共に重要なことは、社会成員のうちの優れた資質を、統治機構に組織化することである。代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治機構の質

【国民全体の徳と知性を育成することと共に重要なことは、社会成員のうちの優れた資質を、統治機構に組織化することである。代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4)追記。

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々
(2)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (a)統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあるという前提ではある。
 (b)この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。
 (c)この特定は、統治体制とそれを支える国民の徳と知性との間に、良い循環を生み出す。
(3)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (3.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (3.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (3.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与える。
(4)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。
 (a)集団的事業のために、個々の社会成員に現存する優れた資質の一定部分を組織化する。
 (b)代議制は、社会に現存している平均水準の知性と誠実さを、最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに、統治体制に集約する方法である。
 (c)代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。

 「統治体制の中の細々とした行政に関する仕組について論じてきたことは、統治体制の全体構造については、いっそう明確にあてはまる。よい統治体制であろうとする統治体制はすべて、集団的事業のために個々の社会成員に現存するすぐれた資質の一定部分を組織したものとなっている。代議制の国制は、社会に現存している平均水準の知性と誠実さを、最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに、他の組織方法よりも直接的に統治体制に集約し、また、他の組織方法よりも大きな影響力をこれらの資質に与える方法なのである。とはいえ、どの国制にあっても、これらの資質が持つ影響力は統治体制内のあらゆる善の源泉であり、統治体制内の害悪を未然に防止してくれる。一国の制度が組織化に成功しているこれらの有益な資質の総量が大きければ大きいほど、また、組織方法が適切であればあるほど、統治体制はよいものとなるのである。  以上により、われわれは今や、政治制度が持ちうる長所を二つに分ける区分法の基礎を得たことになる。その一方の部分は、知性や徳の発展、および実践面での活力や能力の発展という意味での、社会の全般的な精神的発展を促進する度合いである。もう一つの部分は、公的な仕事で最大効果を発揮させるために既存の道徳的、知的、活動的な力量を政治制度が組織化する際の、組織化の完成度である。統治体制は、人々に対する作用と、事物に対する作用とによって評価すべきである。市民をどう変えているか、そしてまた、市民を用いて何をしているかによって、つまり、国民そのものを改善したり劣化させたりする傾向と、国民のために国民を用いて行う仕事の善し悪しとで評価する、ということである。統治体制は人間精神に作用する大きな影響力であると同時に、公的業務のための一連の組織化された仕組である。前者の影響力に関しては、その有益な行動は主に間接的だが、だからといって重要性が劣るわけではない。他方、統治体制の有害な行動は直接的となることもある。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.31-32,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:統治機構の質,代議制,国民の徳と知性,優れた資質)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月3日火曜日

35.統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民によって維持、発展させられ、国民を育成し、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治とは何か

【統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民によって維持、発展させられ、国民を育成し、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々
(2)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
 (a)統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあるという前提ではある。
 (b)この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。
 (c)この特定は、統治体制とそれを支える国民の徳と知性との間に、良い循環を生み出す。
(3)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (3.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (3.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (3.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与えるからである。
(4)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。

 「自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしない、というのが国民全般の気風である場合には、そのような状態でのよい統治はつねに不可能である。よい統治のあらゆる要素を阻害する点で知性上の欠陥が及ぼす影響については、例示の必要もない。統治とは人間の行う行為に他ならないのであり、統治を担当する行為者、その行為者を選ぶ人々、その行為者が責任を負っている人々、あるいは、以上の人々すべてに意見によって影響を与え牽制を加える人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めにすぎないならば、統治のあらゆる働きがうまくいかない。他方、これらの人々がこの水準を上回るのに比例して、統治体制の質は向上する。自分自身もすぐれた徳と知性をそなえている統治担当者が、有徳で開明された世論という雰囲気に包まれている場所でしか達成できない、卓越した水準にまで到達することになる。
 したがって、よい統治の第一の要素は、社会を構成する人々の徳と知性であるから、統治形態が持ちうる長所の中で最も重要なのは、国民自身の徳と知性を促進するという点である。政治制度に関する第一の問題は、さまざまな望ましい知的道徳的な資質を社会成員の中でどこまで育成することに役立つかである。いやむしろ(ベンサムのもっと完成度の高い分類に従えば)、道徳的資質、知的資質、活動的資質の育成に役立つかである。この点で最善の貢献をしている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、あくまでもこれらの資質が国民の中にあるという前提での話だが、統治体制が実際に良好に機能する可能性全体を左右するのは、これらの資質に他ならないからである。
 そこで、集団的にも個人的にも被治者のすぐれた資質の総量を増大させるのに役立っている度合いを、統治体制のよさを判断する基準の一つと考えてよいだろう。なぜなら、被治者の幸福は統治の唯一の目的であるけれども、さらに言えば、被治者の高い資質は統治機構を動かす駆動力を与えるからである。
 統治体制の長所のもう一つの構成要素としては、機構それ自体の質が残されている。つまり、機構が、一定時点に現存する諸々のすぐれた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている度合いである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.28-29,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治,国民の徳と知性,統治,統治体制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月2日月曜日

34.制度や統治形態は、望むに値するものの創造力、信念、意志の力による選択の問題である。しかし、その実現、維持、発展のためには、人間と社会に関する諸法則を知り、社会的、政治的な諸力の利用が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

制度や統治形態は選択できる

【制度や統治形態は、望むに値するものの創造力、信念、意志の力による選択の問題である。しかし、その実現、維持、発展のためには、人間と社会に関する諸法則を知り、社会的、政治的な諸力の利用が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)国民は、統治形態や制度を選択できる。
 (a)政治的に言えば、すべての力の中で大きな役割を持つのは、意志の力である。
 (b)信念を持った一人の人間は、利害しか持たない99人に匹敵する社会的力である。
 (c)特定の統治形態なり、何らかの社会的事実なりが、望むに値するものだという見方を、社会全般に受け容れられる意見として創り出せる人は、最大の社会的力の一つである。
(2)「国民は、統治形態を選択できない」と考えるのは、誤りである。
 しかし、あらゆる事柄において、人間の力には極めて厳しい限界がある。
 (2.1)自然、人間、社会的な力の諸法則の利用が必要である。
  (a)ある目的、望まれている用途に適用できる力が存在していなければならない。
  (b)人間の力は、自然の力を一つ、あるいは幾つか動かすことによってしか作用しえない。
  (c)その力は、それ自体の法則に合うときにしか作用してくれない。
  (d)政治の技術も、他のあらゆる技術と同様の限界や条件の支配下にある。
 (2.2)国の統治は、その国における社会的力の諸要素の分布状況に大きく影響される。
  (a)社会的な力とは、物理的な強制力を発動する力のみではない。
  (b)財産と知性の力も、大きな影響力を持つ。
  (c)社会的な力は、組織化されたときに大きな力を持つ。
  (d)いったん政府を掌握した人々は、他の要素が弱くても、かなり優位となるし、またこれだけで長期的に優位を保つだろう。

 「これまでの議論の到達点は、何度も言及した三条件の枠内では制度や統治形態は選択の問題《である》、ということである。最善の統治形態を抽象的に探究すること(という言い方がされたりするが)は、科学的知性を妄想的にではなく、きわめて実践的に用いることである。どの国にせよ現状で相当程度に三条件を充足できる最善の統治形態をその国に導入することは、実践的努力がめざしうる最も合理的な目標の一つである。統治にかかわる問題で、人間の意志や目的の実効性を貶めて言えることのすべては、人間の意志や目的が適用される他の一切の事柄についても言えるだろう。あらゆる事柄において、人間の力にはきわめて厳しい限界がある。人間の力は、自然の力を一つあるいはいくつか動かすことによってしか作用しえない。したがって、望まれている用途に適用できる力が存在していなければならないし、その力はそれ自体の法則に合うときにしか作用してくれない。われわれは川を逆流させられないが、しかしだからといって、水車は「作られるものではなく、成長するものである」とも言わない。機械装置の場合と同様に政治においても、機構を動かし続ける力は、機構の《外部に》探し求めなければならない。そうした力が手近にない場合や、合理的に予測される障害を克服するのに不十分な場合、仕組みは動かない。これは何も政治の技術に特有のことではなく、政治の技術が他のあらゆる技術と同様の限界や条件の支配下にある、と言っているだけのことである。
 ここでわれわれは、別の反論、いや、別形式での同じ反論に出会うことになる。大規模の政治現象を左右している力は、政治家や哲学者の指図通りにはならない。一国の統治はすべての重要な点で、その国における社会的力の諸要素の分布状況によってあらかじめ固定され決定されている、という主張である。何であれ社会の中で最強の力となっているものが政治権力を獲得するのであり、政体の変化は、社会それ自体における力の分布の変化が先行あるいは並行しない限り持続しない。だから、国民は統治形態を選択できない。細目にすぎない点や実務的組織なら選択できるかもしれないが、全体の要、つまり最高権力の置かれる場所は、社会環境によって決定されるのだ、というのである。
 この説に部分的な真理があることは、私も即座に認める。しかし、これを何らかの形で応用するためには、明確な表現と適切な限界を与えなければならない。社会内の最強の力は統治体制においても最強の力になると論じるとき、その力は何を意味しているのか。腕力や筋力ではないだろう。そうした力ということであれば、純粋な民主政が唯一存在可能な統治形態になる。たんなる肉体的な力の他に、財産と知性という二つの要素を加えれば真理に近づくものの、まだ真理にはほど遠い。多数者が少数者に抑えられることもしばしばある。そればかりでなく、多数者が財産の点で優位にあり、それぞれ個人として知性の点でも優越していても、両者の点で劣位にある少数者が力ずくで、あるいはその他の仕方で多数者を従属させることもある。力のこれら多様な要素が政治的に有力になるには、組織化されねばならない。そして、組織化に際して有利な立場は当然のことながら、政府を掌握している人々の側にある。統治の諸権力が秤に加われば、他のすべての要素が弱くても、かなり優位となるし、またこれだけで長期的に優位を保つだろう。ただし、こうした状況にある政府は、尖端を下にして立ちながら均衡を保っている円錐形物体と同様に、力学では不安定的均衡と呼ばれる状態にあり、いったん均衡が乱されると均衡状態には復帰せず、均衡状態からますます離れていくことにはなる。
 しかし、統治のこの理論に対しては、通常この理論が論じられるときの観点の立て方であれば、さらに強力な反論がある。政治的な力へと転換しておくような社会的力は、静止した力、たんに受動的な力ではなく、能動的な力であり、言いかえれば実際に行使されている力である。それは、現存するすべての力の中では、ごく小さな部分でしかない。政治的に言えば、すべての力の中で大きな役割を持つのは意志の力である。とすれば、意志に対して作用するものを計算から除外しておいて、政治的力の諸要素を数え尽くすことなどできるだろうか。社会で力をふるう者が結局は政治でも力をふるうのだから、意見への働きかけによって統治の基本構造に影響を及ぼそうとする企ては無意味だという考えは、意見そのものが活力ある最大の社会的力の一つである点を忘れている。信念に持った一人の人間は、利害しか持たない99人に匹敵する社会的力である。特定の統治形態なり何らかの社会的事実なりが望むに値するものだという見方を、社会全般に受け容れられる意見として創り出せる人は、社会の諸力を味方につける可能性を持った最も重要な一歩をほぼ進めたことになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第1章 統治形態はどの程度まで選択の問題か,pp.11-13,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:制度や統治形態の選択,望むに値するものの創造,信念,意志の力,人間と社会に関する法則)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月1日日曜日

33..政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。(1)統治体制の受け容れ、(2)統治体制を守るための能力と行動、(3)統治目的を実現するための能力と行動(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制と国民の能力、資質

【政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。(1)統治体制の受け容れ、(2)統治体制を守るための能力と行動、(3)統治目的を実現するための能力と行動(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 政治機構は、人々の能力や資質の現状に適合していなければ、その目的を実現することができない。以下の3条件の全てが満たされている必要がある。
(1)統治体制の受け容れ
 特定の統治形態の適用対象となる国民は、それを進んで受け容れていなければならない。あるいは少なくとも、その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまでは嫌がってはいないことが必要である。
(2)統治体制を守るための能力と行動
 国民は、その統治形態の存続に必要な事物を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。例えば、自由な統治に必要な能力と行動は次のようなものである。
 (2.1)公共精神、注意深さ、勇敢さ、勤勉さ
  不適切な例:怠惰、不注意、臆病、公共精神の欠如のために、自由な統治の維持に必要な努力を行えない。
 (2.2)自由の侵害に対する戦い
  不適切な例:自由な統治が直接攻撃されているときに、自由な統治のために戦わない。
 (2.3)欺瞞を見破る知性
  不適切な例:国民を自由な統治から逸脱させようとして使われる欺瞞に、国民がのせられてしまう。
 (2.4)専制や独裁から国民の主権を守る
  不適切な例:国民が、一時的な落胆やパニックのために、あるいは一個人に対する発作的熱狂のために、大人物の足下に自分たちの自由を投げだしてしまう。あるいは、制度を転覆できるような権力をその人物に委ねたりする。
(3)統治目的を実現するための能力と行動
 国民は、その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。例えば、不適切な例は次のとおりである。
 (3.1)国民の義務の履行
  不適切な例:統治形態によって求められている義務を果たすのに消極的であり、その能力を欠いている。
 (3.2)法と統治への共感と法の遵守
  不適切な例:法に共感を持ち法の執行に進んで協力するのではなく、法に公然と背く人々よりも、法の執行者を邪悪な敵とみなす。
 (3.3)統治体制への関心と適切な投票
  不適切な例:選挙人の大半が、自分たち自身の統治体制に無関心なために投票しない。
 (3.4)公的な根拠に基づいた投票
  不適切な例:投票はするにしても、公的な根拠にもとづいて投票せずに、買収されて投票したり、自分を支配している人とか、私的な理由で機嫌をとりたいと思っている人の言いなりになって投票したりする。
 「他方、政治機構はひとりでには動かない、ということにも留意すべきである。最初に人間が作るのだから、人間が動かさねばならない。しかも、ふつうの人間がである。政治機構に必要なのは人々の服従だけではなく人々の活発な参加だから、政治機構は人々の能力や資質の現状に適合していなければならない。これは、三つの条件を含意している。〔第一に〕特定の統治形態の適用対象となる国民は、それを進んで受け容れていなければならない。あるいは少なくとも、その統治形態を確立するのに克服不可能な障害となる程度にまでは嫌がってはいないことが必要である。〔第二に〕国民は、その統治形態の存続に必要な事物を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。そして、〔第三に〕国民は、その統治形態の目的を達成するために国民に求められる物事を進んで行わなければならないし、かつ、行えなければならない。ここでの「行う」という語は、作為と不作為の双方を含むと解すべきである。すでに確立している政体を存続させるためには、あるいは、特定の政体を推奨する理由としてその政体ならば達成できるとされている目的を達成するためには、行為や自制の点で必要な条件を国民は満たせなければならない。
 これらの条件すべてが満たされるのであればどれほど望ましい見通しが得られる統治形態であっても、いずれかが満たされていない事例では適合性がない。
 特定の統治形態に対する国民の嫌悪という第一の障害は、理論上、見落としはありえないから、例解は不要だろう。こういう事態は絶えず生じている。」(中略)
 「しかし、ある統治形態を国民が嫌っていないにもかかわらず、おそらくは望んですらいるにもかかわらず、そのための条件〔第二の条件〕を積極的に満たそうとしない、あるいは満たせない、ということもある。統治体制を名目的にでも存続させるのに必要な物事ですら、国民が行えないこともあるだろう。国民が自由な統治を選好しているとしても、自由にまったく不向きなときがある。怠惰、不注意、臆病、公共精神の欠如のために、自由な統治の維持に必要な努力を行えない、自由な統治が直接攻撃されているときに自由な統治のために戦わない、あるいは、国民を自由な統治から逸脱させようとして使われる欺瞞に国民がのせられてしまう場合がそうである。国民が、一時的な落胆やパニックのために、あるいは一個人に対する発作的熱狂のために、大人物の足下に自分たちの自由を投げだしてしまったり、制度を転覆できるような権力をその人物に委ねたりする場合も同様である。こうした国民にとっても、たとえ短期間でも自由な統治を手にするのはよいことだろうが、しかし、彼らが長期にわたって自由な統治を享受する見込みはない。
 さらに、国民が自分たちの統治形態によって求められている義務を果たすのに消極的な場合や、能力を欠いている場合〔第三の条件を満たしていない場合〕もある。」(中略)「劣悪な統治が国民に、法は国民の善以外の目的のために作られていると教え、法に公然と背く人々よりも法の執行者を邪悪な敵とみなすように教えたのである。しかし、こうした精神の習慣がはびこってしまっている人々に責任はないとしても、また、よい統治によってこの習慣が最終的には克服可能だとしても、ともかくこの習慣が存在する限り、以上のような傾向のある国民は、法に共感を持ち法の執行に進んで協力する国民のように、わずかな権力行使で統治するのは不可能である。さらにまた、選挙人の大半が、自分たち自身の統治体制に無関心なために投票しない場合、あるいは、投票はするにしても、公的な根拠にもとづいて投票せずに、買収されて投票したり、自分を支配している人とか私的な理由で機嫌をとりたいと思っている人の言いなりになって投票したりする場合、代議制は無価値であり、暴政や陰謀のたんなる道具になってしまうだろう。そのようにして行われる民主的選挙は、悪政の防止策どころか、悪政の装置の追加部品でしかない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第1章 統治形態はどの程度まで選択の問題か,pp.4-7,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:統治体制,国民の能力・資質,統治体制の受容,統治体制維持能力,統治目的実現能力)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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