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2022年1月9日日曜日

およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

唯一の正しい解釈が存在するのか

およそ判断は、選択には違いない。しかし純一性の理念は限定された選択肢だけを許容する。また、判断するのは裁判官個人には違いない。しかし彼は自分が負っている連帯責務に基づき、全体としてより公正で正義にかなっていると信ずる最善の解釈を選択するとき、純一性に導かれているといえる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(6.3.4.3)唯一の正しい解釈が存在するのか
(a.1)純一性の原理で唯一の解釈に到達できるのか
 事例について二つの解釈を発見し、しかも適合性という「中立的」な根拠によって は、一方の解釈を他方の解釈より善いと見なすことができないのであるから、いかなる裁判官も 純一性の司法上の原理によってどちらか一方の解釈を採用するように拘束されることはない。 

(b.1)本質的に、選択しかないのではないか
 解釈のどちらがより公正か、あるいは正義 によりかなっているかという問題に対して正しい答えがありうることをそれが示唆することは誤りである。政治道徳は主観的なものであるから、この問題には正しい単一の答えなど存在せず、た だ複数の答えがあるにすぎない。

(c.1)従って、単に自らの政治的判断ではないのか
 明らかに政治的な根拠によって一方の解釈を選択したのである。つまり彼の 選択は単に彼自身の政治道徳を反映しているにすぎない。

(d.1)在る法ではなく在るべき法ではないのか
 彼は何が法であるかを発見したと言っているが、彼が実際に発見したのは何が法 たるべきかということに過ぎないのではないのか。

(d.2)現に存在する責務
 純一性の精神は、同胞関係の基礎を持つ。すなわち、総体的な政治道徳の観点からみて最善と信ずる解釈を選択することは、裁判官が自分の属する共同体から現に負っている責務である。
(c.2)選択は責務に従っている
 全体としてより公正で正義にかなっており、公正と正義を正しい関係において捉えていると彼が信ずる解釈を最終的に選択するとき、この選択は、純一性へと彼が当初にコミットしたことの結 果なのである。すなわち、自らの恣意的な道徳理念を持ち込んで判断しているのではない。
(a.2)判断は、純一性が許容し要求するもの
 およそ判断は、選択には違いない。しかし、純一性の理念は明確でそれが許容する選択肢は、恣意的なものではない。また、より適正と判断するのは裁判官個人には違いない。しかし、彼は自分の属する共同体への連帯責務を基礎に判断しており、恣意的なものではない。



「第二の反論はもっと洗練されている。今度は批判者は次のように主張する。「情緒的損害 の諸事例の解釈として何らかの唯一の正しい解釈が存在するという想定は不合理である。我々 はこれらの事例について二つの解釈を発見し、しかも適合性という「中立的」な根拠によって は一方の解釈を他方の解釈より善いと見なすことができないのであるから、いかなる裁判官も 純一性の司法上の原理によってどちらか一方の解釈を採用するように拘束されることはない。 ハーキュリーズは明らかに政治的な根拠によって一方の解釈を選択したのである。つまり彼の 選択は単に彼自身の政治道徳を反映しているにすぎない。確かに、この種の状況において彼に はそのような仕方で法を宣言する以外に選択の余地はない。しかしこの場合、彼が自らの政治 的選択によって何が《法》であるかを発見したのだと主張することは詐欺である。彼は、何が 法であるべきかについて自分自身の意見を示しているにすぎないのである」と。  この反論は多くの読者にとって強力なものに見えるだろう。そして我々も、この反論が実際 に主張している以上のことを主張していると思わせることによって、当の反論の説得力を弱め ないように注意すべきである。この反論は、慣例主義の考え方を、つまり、慣例が尽きたとこ ろで裁判官は立法の正しい規準に従って自由に法を改善することができる、という考え方を復 権しようと試みているわけではないし、ましてやプラグマティズムの考え方を、すなわち、裁 判官は常に法を自由に改善することができ、ただ戦略上の考慮によって抑制されるにすぎな い、という考え方を復権しようと試みるわけでもない。この反論は、適合性のテストを通過し た複数の解釈のどれか一つを裁判官が選択しなければならないことを認めている。ただそれ は、このテストを通過する解釈が複数あるときは最善の解釈など存在しえないと主張する。こ の反論は、上で私が構成したようなかたちをとるかぎり、純一性としての法という一般的な観 念の内部からの反論であり、純一性としての法という観念を詐欺による腐敗から守ろうとして いるのである。  この反論は正鵠を射ているだろうか。ハーキュリーズが自分の判断を法についての判断とし て提示することがどうして詐欺になるのだろうか。ここでも再び、少々異なる二つの答えが―― 反論を更に具体的に展開する二つの方法が――ありうるだろう。これら二つを区別し、それぞれ につき考察を加えないかぎり、我々は前記の反論の正しさを保証することはできない。まずこ の反論をより具体的に展開する一つのやり方は、次のように述べることである。「ハーキュ リーズの主張が詐欺的である理由は、(5)と(6)の解釈のどちらがより公正か、あるいは正義 によりかなっているかという問題に対して正しい答えがありうることをそれが示唆するからで ある。政治道徳は主観的なものであるから、この問題には正しい単一の答えなど存在せず、た だ複数の答えがあるにすぎない」と。これは私が第2章で詳しく論じた道徳的懐疑論からの挑 戦である。この挑戦については今ここで更に何がしかのことを付言しないわけにはいかない が、このために私は新しい批判者を利用することにし、この批判者について独自の一節をもう けて道徳的懐疑論の挑戦を考察することにしたい。これに対して、前記の反論を更に具体的に 展開する第二のやり方は、懐疑論には依拠しない。それは次のように主張する。「たとえ道徳 が客観的なものであっても、そして、ハーキュリーズが最終的に採用した予見可能性の原理は 客観的により公正であり、正義に一層かなっているという彼の見解が正しいとしても、彼は詐 欺師である。彼は何が法であるかを発見したと言っているが、彼が実際に発見したのは何が法 たるべきかということにすぎず、それゆえ彼は詐欺師なのである」と。私がここで考察しよう と思うのは、この第二のタイプの反論である。」(中略)  「我々は純一性の精神を同胞関係の中に位置づけた。しかし、ハーキュリーズが総体的な政 治道徳の観点からみて最善と信ずる解釈を選択する方法をとらずに、何か別の方法を用いて判 決を下すべきことになれば、この精神は踏みにじられてしまうだろう。我々は自分たちの政治 共同体原理の共同体として取り扱うことを欲しており、だからこそ純一性を一つの政治理念と して受容するのである。そして、原理の共同体の市民は、あたかも画一性が彼らの望むすべてであるかのごとく、単に共通の原理を目指しているのではなく、政治が見出しうる最善の共通 原理を目指すのである。純一性は正義と公正から区別されるが、次のような意味でこれら二つ の価値と結合している。つまり、純一性以外に公正と正義をも欲する人々の間でのみ純一性は 意味をもちうる、ということである。それゆえ、ハーキュリーズが全体としてより適正と信ず る――より公正で正義にかなっており、公正と正義を正しい関係において捉えていると彼が信ず る――解釈を最終的に選択するとき、この選択は、純一性へと彼が当初にコミットしたことの結 果なのである。彼は、まさに純一性がそれを許容すると同時に要求するような時点と方法にお いて当の選択を行う。それゆえ、まさにこの時点において彼は純一性の理念を放棄したのだ、 という主張は深い誤解に基づいていることになる。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第7章 法における純一性,幾つかの周 知の反論,未来社(1995),pp.403-405,407小林公(訳))
ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)

2022年1月5日水曜日

正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて、市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなければならない。これは、たとえ意見の違いがあっても互いに尊重しあい自らの信念に従って誠実に対応するという個人的な道徳理念と関連する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

政治理念としての純一性

正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて、市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなければならない。これは、たとえ意見の違いがあっても互いに尊重しあい自らの信念に従って誠実に対応するという個人的な道徳理念と関連する。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


「実際には、この政治道徳の特別な要求は、同様の事例は同様に取り扱わなければならない といった標語ではうまく言い表わされていないのである。私はこれにもっと厳めしい呼び名を 与えたい。すなわち、それを政治的純一性(integrity)の徳と呼ぶことにする。私がこの呼 び名を選んだのは、これとパラレルな関係にある個人的な道徳理念と当該の政治的な徳との連 関を示すためである。我々は隣人たちと日常生活において様々な交渉をもつとき、我々が正し いと思う仕方で行動してくれるように彼らに対し要求する。しかし、行動の正しい原則につい て人々の間である程度まで見解の不一致が存在することを我々は知っており、それゆえ、我々 はこの要求を別の(もっと弱い)要求から区別するのである。後者の別の要求とは、人々は重 要な事柄においては純一性をもって――すなわち、気紛れやむら気な仕方ではなく、彼らの生活 の総体に浸透し、これに形を与えるような信念に従って――行動しなければならない、というも のである。正義について人々の見解が異なることを知っている者たちの間で後者の要求が有す る実践的重要性は明白である。そして我々が、道徳的な行為者として理解された国家や共同体 に対して同じ要求をするとき、すなわち、正義と公正の正しい原理が実際には何であるかにつ いて市民の見解が対立している場合でさえ、国家は一組の整合的な諸原理に従って行為しなけ ればならないと我々が主張するときに、純一性は一つの政治理念となるのである。個人の場合と政治の場合の双方において我々は、公正さや正義や礼儀正しさに関する何らかの特定の観念 を外的に表現するものとして他人の行為を認めうること、そして、我々自身は当の観念を是認 しなくても他人の行為をそのようなものとして我々が認めうることを想定している。我々のこ のような能力は、他人を尊敬の念をもって扱う我々のより一般的な能力の重要な一部分であ り、それゆえ、文明の欠くべからざる条件なのである。」
 (ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『法の帝国』,第5章 プラグマティズムと擬人化,純 一性の要求,未来社(1995),p.265,小林公(訳))


ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)




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