2018年6月23日土曜日

5.記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号、意義、意味の間の関係

【記号、意義、意味の間の関係(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
 記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応する。ただし、日常言語においては、この要請を満たさないことが多く、文脈の指定が必要になることがあるが、それで満足しなければならない。また、意義は持つが、意味を持つかどうか疑わしいこともある。逆に、一つの意味(すなわち、一つの対象)に付与される記号は必ずしも一つではない。そして、ある意義は意味の一面を我々に認識させる。すべての側面から意味を認識するためには、あらゆる意義を知る必要があるが、そのようなことは到底我々にはできない。また、同じ一つの意義は、異なる言語によってだけではなく、同一の言語においても異なる表現を有している。

記号、意義、意味の間の関係(1)

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味
             =一つの対象

 記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)

 ・上記の関係が成立するには、文脈の指定が必要になることがある。

記号、意義、意味の間の関係(2)

 一つの対象─┬→意義a→表現a1、表現a2、表現a3、……
=一つの意味 ├→意義b→表現b1、表現b2、表現b3、……
       └→意義c→表現c1、表現c2、表現c3、……

 「固有名の意義は、その固有名が属する言語もしくは表記法の全体に十分に通暁しているすべての人によって把握される。しかし、そのことによっては、固有名の意味は、たとえそれが存在するにせよ、依然としてその一面のみが明らかにされたにすぎない。意味をすべての側面から認識するためには、所与のすべての意義について、その意義がその意味に属するか否かを直ちに述べうることが必要である。しかしそのようなことは到底我々にはできない。
 記号、記号の意義、記号の意味というものの間の適法な関係は、記号に対して一つの定まった意義が対応し、その意義に対してまた一つの定まった意味が対応するが、しかし、一つの意味(すなわち、一つの対象)に付与される記号はかならずしも一つではないというものである。同じ一つの意義は、異なる言語によってだけではなく、同一の言語においても異なる表現を有している。もちろんこの適法な関係には、例外が存在する。確かに、完璧な記号体系の全体においてはすべての表現に対して、何らかの定まった意義が対応するのが当然であろう。しかし、人々の日常言語(Volkssprahe)は、この要請を満たさないことが多く、したがって、同一の文脈において同一の語が常に同一の意義を持つだけで満足しなければならない。あるいはまた、文法的に正しく構成され、かつ、固有名の代りとなる表現が常に一つの意義を持つということは承認することができるが、それにもかかわらず、その意義に対して一つの意味が対応するか否かということは、そのことによっては述べられていない。例えば、「地球からもっとも離れた天体」という言葉は、一つの意義を持つが、この言葉が一つの意味を持つかどうかは非常に疑わしい。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』27-28、フレーゲ著作集4、pp.73-74、土屋俊)
(索引:記号、意義、意味)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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無数の可能的世界とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

無数の可能的世界

【無数の可能的世界とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 モリナ主義は、以下の(a)(b)(c)を主張する。その困難と考えられるのは、(d)(e)である。私は、(a')と考える。このことによって、(d)(e)の困難は、(d')(e')のように解消される。しかしなお(e'')かも知れない。
(a) この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。
(a')可能的なものとして存在している事象は、条件的なものも含めて、無数のすべての可能的な世界が含まれている。
(b) 可能的なもののうち、宇宙の展開において現実に生じる現実的事象。神の「直視の知」、人間も現実的事象として知る。
(c) モリナ主義の「中知」
 この宇宙において、ある一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象。神にとっては、直視の知と叡智の知との間の「中知」、人間は自由意志の行使により、これを知る。すなわち、ある一定の条件が現実化すると、人間はその状況では「自由」に為し、しかもその自由意志には「誤用」もあり得る。

(d) 人間の自由意志がそこで発現するという、ある一定の条件が現実化するにしても、この条件の成就自体がやはり、この宇宙の法則によって支配されているだけでなく、この条件において人間の自由意志がいかにして発現するかについても、法則に支配されているはずであり、「行為を条件から切り離そうとしても、それはできないことであろう。」
(d')ある一定の条件が現実化して自由意志が発現するとき、その意志の決定に影響を与える一連の諸原因は、意志をある選択肢に一層強く傾けるが、意志は「決して強いられてその選択肢をとるのではない」。
(e) モリナ主義者は、条件から切り離された純粋な自由意志、すなわち「人間の良き資質」そのものが、この宇宙の原理・法則でもあり得ると考えたが、これは全宇宙を支配する統一的な法則という点から、満足できるものではない。
(e')ある一定の条件が現実化して自由意志が発現し、意志がある選択肢を現実化するとき、これら全ては、全宇宙を支配する原理・法則に従っており、無数の可能的な世界のうちの一つが現実化しているのである。すなわち、「神は、その偶然的未来に存在を与えようと決する前に、それを可能的なものの領域において然るべく見ている」。
(e'')無数の可能的世界そのものは、人間の意志による決定によって変わるか変わらないには、一切関わらない。しかし、人間の意志による決定は、宇宙の展開における現実に生じる現実的事象を変えているので、もし、現実化する可能的世界が一意に決まるような場合には、意志による決定にもかかわらず、すべては決まっていたと言える。
(f) ある人は、中知は単純叡智の知に包含されるべきだと考えた。

 「四二―――この問題での両陣営の議論の応酬に入り込むのは手間もかかるしうんざりしてくる。むしろ、私が両陣営の主張の中に真実があることをどのようにして把握したかを説明しさえすれば十分であろう。これをうまく果たすため私は、永遠真理の領域つまり神の叡智の対象において表わされた無数の可能的世界についての私の原理に依拠する。この領域には未来の条件的なものがすべて含まれているはずである。なぜなら、ケイラの攻囲戦の事態も一つの可能的世界の部分となっているからである。この可能的世界がわれわれの世界と異なるのはひとえにこの[可能的世界についての]仮説との関連においてのみである。この可能的世界の観念はかかる事態において生起するはずのことを表現する。それゆえわれわれは、現実に起きることであれ一定の事態において起きるべきことであれ、未来の偶然事についての確実な知の原理を有していることになる。というのも、可能的なものの領域においては偶然事は然るべきものとして、つまり自由なる偶然事として表現されているからである。したがって、われわれを困惑させ自由を損ないもし得るのは、偶然的未来の予知なのでもなければ、この予知の確実性の基礎なのでもない。また、たとえ理性的被造物の自由な行為の内に存する偶然的未来が神の決意からも外的原因からもまったく独立しているということは真実であり可能であるとしても、[神が]その未来を予見する方法はあるといえる。というのも、神は、その偶然的未来に存在を与えようと決する前に、それを可能的なものの領域において然るべく見ているからである。
四三―――しかし、神の予見がわれわれの自由な行為に依存しているか独立しているかに一切関わらないとしても、神の事前の命令や決意や、意志の決定に常に与ると思われる一連の原因などについてもそうだというわけではない。私は第一の点においてはモリナ主義者の立場に立つが、第二の点においては先定説論者の立場に立つ。ただし先定がいつも必要だとは考えない。一言で言うなら、私の考えは、意志は自ら選びとった選択肢に一層強く傾くが決して強いられてその選択肢をとるのではない、というものである。これは、〈星々は傾かせるが強いない〉という有名な諺をもじったものである。もっともここでは事情はまったく似ても似つかぬものではあるが。というのも、(通俗的な言い方をしてあたかも占星術に何らかの基礎があるかのように言うなら)星の動きがもたらす出来事は必ず起きるとは限らないが、一方意志は最も強く傾いた選択肢をとらざるを得ないからである。さらにまた、星はその出来事を起こすために協働するさまざまな傾向性の内の一つとなっているにすぎないが、人が意志にとって最も大きな傾向性について語るときには、すべての傾向性からの結果について語っているのである。これは、本書で前に神の帰結的意志について述べたことと幾分似ている。この意志はすべての先行的意志からの結果だからである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第一部]四二・四三、ライプニッツ著作集6、pp.153-154、[佐々木能章・1990])
(索引:自由意志、無数の可能的世界)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

善の泉

【自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第七巻、五九、p.134、[神谷美恵子・2007])
(索引:善の泉)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

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