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2021年12月27日月曜日

司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の懐疑主義的理論

司法的自制の懐疑主義的理論には、道徳的諸権利を個人の選好に過ぎないと否定する道徳的懐疑主義、諸権利を社会全体の利益に還元して説明しようとする功利主義的懐疑、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させてしまう全体的懐疑主義がある。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))


(5.3.2.2)道徳的懐疑主義による司法的自制
 ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味である。
 例としてラーニド・ハンド裁判官の主張
 (i)道徳的諸権利に関する主張が、話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。
 (ii)もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、道徳的諸権利によって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。
 (iii)何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。 


(5.3.2.3)功利主義的懐疑による司法的自制
 我々がある行為を正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼすインパクトである。
(5.3.2.4)全体主義的懐疑による司法的自制
 この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。


「この種の国家に対する権利の可能性そのものに反論したいと思う懐疑主義者にとって、そ の論証は困難なものとなるであろう。私の考えでは、彼は次の三つの一般的立場の一つに依拠 しなければならない。  (a)彼は、ある行為が道徳的に正しいとか誤っているとか言うことさえ無意味であると主張 する、より徹底した道徳的懐疑主義を表明することができよう。もしいかなる行為も道徳的に 誤りでないとすれば、ノース・キャロライナ州政府は、学童に白黒共学のためのバス通学をさ せることを拒んでも誤っているはずがないのである。  (b)彼は、ある断固たる形態の功利主義をとることもできよう。それは、我々がある行為を 正しい、あるいは誤っているとみなしうる唯一の理由は、当該行為が社会全体の利益に及ぼす インパクトであると考える。この理論の下では、たとえ強制バス通学が社会を全体として益す ることはないにせよ、それは道徳的に要求されうる、と言うことは首尾一貫しないことになる であろう。  (c)彼は、何らかの形態の全体主義理論を受け容れることもできよう。この理論は、個人の 諸利益を社会全体の福利に没入させ、したがって両者の衝突の可能性を否定する。  これら三つの根拠のいずれであれ、これを受け容れることのできる政治家はアメリカにはほ とんどいないであろう。」(中略)  「しかしながら、私は、何人もの実際上懐疑主義の根拠に基づいて司法的自制を支持する論 証を行わないであろう、と示唆したのではない。それどころか、最もよく知られた自制論者の 幾人かは、彼らの論証を全面的に懐疑主義的根拠の上に打ちたててきたのである。たとえば 1957年には、偉大な裁判官であるラーニド・ハンドがハーヴァード大学においてオリヴァ・ ウェンデル・ホウムズ講義を行なった。ハンドはサンタヤナに学び、ホウムズに師事した。そ して道徳における懐疑主義は彼の唯一の宗教であった。彼は司法的自制論を説き、最高裁が 「ブラウン」事件において公立学校の人種隔離を違法と宣言したのは不当であると述べた。彼 の語ったところによれば、道徳的諸権利に関する主張が話し手の選好以上のものを表明すると 想定することは誤っている。もし最高裁が自らの判決を、実定法に依拠することによってでは なく、このような主張をなすことによって正当化するのであれば、最高裁は立法府の地位を簒 奪しているのである。何となれば、誰の選好が支配すべきかを決定することは、多数派を代表 する立法府の仕事だからである。  民主制に対するこの単純な訴えは、もし懐疑主義的前提が受け容れられれば、成功を収め る。もちろん、もし人々が多数派に対していかなる権利も有しないとすれば、またもし政治的 決定が単に、誰の選好が優先すべきかという問題だとすれば、まさに民主制は、その決定を裁 判所より民主的な諸機関に委ねる――たとえこれらの諸機関が裁判官達自身の嫌悪する選択を行 う場合でもそうする――十分な理由を提供することになるでああろう。しかし、もし司法的自制 が懐疑主義ではなく敬譲に基づくのであれば、司法的自制を支持するためには、非常に異なっ た――はるかにより脆弱な――民主制からの論証が必要とされるのである。次に私はこの点を明ら かにしようと思う。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.181-182,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]




ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)


仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法的自制の理論

仮に憲法諸原理の適用において不整合がある決定であっても、統治機構の決定の存続を許容する司法的自制の理論には2種類ある。道徳的原理と権利の客観的を認めない政治的懐疑主義と、原理と権利の存在は認めても、その性格と強さには議論の余地があるため裁判所以外の政治的諸機関へ決定を委ねる司法的敬譲理論とである。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))




(5.3.2.1)司法的自制の政治的懐疑主義の理論
 (a)司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利を有することを前提としている。
 (b)何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。
 (c)ところが、個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  

(5.3.2.2)司法的自制の司法的敬譲理論
 (a)実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有する。
 (b)しかし道徳的諸権利の性格と強さには議論の余地が ある。
 (c)従って、裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う。


「もしニクスンが法理論をもつとすれば、それは決定的に何らかの司法的自制の理論に依拠 すると思われるかもしれない。しかしながら、ここで我々は、二つの形態の司法的自制の間の 区別に注意しなければならない。というのは、司法的自制の政策には二つの相異なる、そして 実際上両立しがたい根拠が存在するからである。  第一は、政治的「懐疑主義」の理論であって、それは次のように記述することができよう。 司法積極主義の政策は、道徳的原理の一定の客観性を前提としている。時にそれは、市民が国 家に対して一定の道徳的諸権利――たとえば、公教育の平等性や警察による公正な取り扱いに対 する道徳的権利――を有することを前提としている。何らかの意味でこのような道徳的諸権利が 存在する場合にのみ、積極主義は裁判官の個人的選好を超えた何らかの根拠に基づく一つの綱 領として正当化されうる。懐疑主義的理論は、積極主義をその根元において攻撃する。それ は、実際上個人は国家に対してこのような道徳的諸権利を有しない、と論ずる。個人は憲法典 が彼らに認めるような「法的」諸権利のみを有するのであり、これらの権利は、起草者達が実 際に念頭においていたはずの、あるいはその後一連の先例において確立された、公共道徳の明 白で議論の余地のない侵害に限定される。  自制の綱領のいま一つの根拠は、司法的「敬譲」の理論である。懐疑主義的理論と違ってこ の理論は、実定法によって明示的に認められた諸権利を超えて、市民が国家に対して道徳的諸 権利を有することを前提とする。しかしそれは、これらの権利の性格と強さには議論の余地が あることを指摘し、かつ裁判所以外の政治的諸機関が、いずれの権利が承認されるべきかを決 定する責任を負う、と論ずる。  これは一つの重要な区別である。たとえ憲法の文献が何ら明確にそのような区別をしていな いとしても、そうである。懐疑主義的理論と敬譲の理論は、それらが前提する正当化の種類 において、また、それらを奉ずると公言する人々が抱くより一般的な道徳理論に対してそれら の理論が有する含蓄において、劇的に異なる。これらの理論は非常に異なっており、したがっ て大多数のアメリカの政治家達が一貫して受け容れることができるのは、第一の懐疑主義的理 論ではなく、第二の敬譲の理論である。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第4章 憲法の事案,3,木鐸社 (2003),pp.179-180,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

権利論増補版 [ ロナルド・ドゥウォーキン ]



ロナルド・ドゥオーキン
(1931-2013)



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