2022年2月25日金曜日

民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴動の制度化、忌まわしい鏡

民衆的な意思決定とは暴力的で混沌としていて恣意的な暴徒支配にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化すべく、エリート層によって促進され支持された諸々の制度は、忌わしい鏡とでも呼べる暴動の制度化である。こうした制度は権威主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと思われる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



(a)民主主義的アテネ
 決定的な公的行事とは広場での集会だった。アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた。
(b)権威主義的ローマ 
 (i)決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった。
 (ii)剣闘士競技に関して魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。そこでは、民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義、英雄崇拝、気ちがいじみた情熱。
 (iii)それはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるなら、どのような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。



「暴動の制度化というこの現象が、実際にどの程度国家によって奨励されていたのかという のは、歴史的検討に値する問題だ。もちろん、ここで私が想定しているのは文字通りの暴動で はなく、「忌まわしい鏡」と呼ぶことができそうな何か――つまり、民衆的な意思決定とは暴力 的で混沌としていて恣意的な「暴徒支配」にしかなりえないものなのだ、という感覚を強化す べくエリート層によって促進され支持された、諸々の制度のことである。こうした制度は権威 主義的諸体制にはまったく一般的なものなのではないかと、私は思っている。例えば、民主主 義的アテネにおける決定的な公的行事とは広場での集会だったのに対して、権威主義的ローマ における決定的な公的行事とはサーカスだった。サーカスとは、競争や剣闘士の競技や大量処 刑を目撃するための平民たちの寄り集いにほかならない。こういった競技は直接国家により資 金提供されることもあったが、より多くの場合にはエリート層の特定諸個人が出資者となった (Veyne 1976; Kyle 1998; Lomar & Cornelle 2003)。とりわけ剣闘士競技に関して 魅惑的なのは、それが一種の民衆的意思決定を内包していたということだ。剣闘士たちの命が 奪われるか救われるかは、民衆の喝采次第だった。けれども、アテネのアゴラが民衆の尊厳を 最大化すべく、また彼らの討議が最大限に思慮深いものとなるべく設計されていた――基底をな すのは強制力の原理であり、それが時として恐ろしくも血まみれの決定を可能にしていたとい うことはあるにしても――のに対して、ローマのサーカスはほとんど正反対の機能を果たしてい た。サーカスはアゴラには似ても似つかず、むしろ正規化され国家により主催されたリンチの ようなものだったのだ。民主主義に敵意を抱くのちの著作家たちによって普通「暴徒」のもの とされる性質のほとんどすべてが――気まぐれさ、あからさまな残酷さ、派閥主義(競いあう戦 車チームを応援する人びとが路上で乱闘するのは日常茶飯事だった)、英雄崇拝、気ちがいじ みた情熱――、ローマの円形闘技場では単に許容されていたばかりか実際に奨励されていた。そ れはまるで、権威主義的なエリート層が、大衆が権力を手中に収めるようなことがあるならど のような混沌が生じてしまうのかを大衆自身に示すべく、悪夢のような映像を絶えず与えてお こうと試みていたかのようなのだ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.50-51,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

多数派民主主義とコンセンサスによる意思決定

人々が集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在し、かつ、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在するとき、多数派民主主義が成立する。しかし、採決は屈辱、恨み、憎しみを残す。コンセンサスによる意思決定はいかにして可能かが問題である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(1)多数派の決定を強制する手段が存在しない社会
 (a)コンセンサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。
 (b)平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。

(2)強制力を備えた機関が存在する社会
 強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかった。
(3)多数派民主主義の発生条件
 人類の歴史の大部分において、以下の両条件が同時に満たされることは極めて稀であった。
 (a) 人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚が存在する。
 (b)決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置が存在する。
(4)コンセンサスによる意思決定のために
 (a)採決は屈辱、恨み、憎しみを残す
  採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。
 (b)コンセンサスによる意思決定
  (i)コンセンサスによる意思決定とは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。
  (ii)重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて、立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  


「私としては、次のような説明を提案したいと思う。対面関係から成り立っているコミュニ ティにおいては、構成員の大部分が望んでいるのは何かを突き止めることのほうが、それを望 まない少数者の心を変えるにはどうしたらいいかを考えることよりもずっと簡単なのだ。コン センサスによる意思決定が典型的に見られる社会とは、少数派に対して、多数派の決定への同意を強制する手段が見出せないような社会である。強制力を独占する国家が存在しない場合で あれ、国家が局所的になされる意思決定に無関心であるか介入傾向を持たない場合であれ。多 数派の決定を快く思わない人びとを当の決定に従うよう強制する手段が存在しないのであれ ば、採決を取るというのは最悪の選択だ。採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこで は誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や恨みや憎しみを確 実にするのに最適な手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねな い。現代的な直接行動グループをやっていくためのファシリテーション・トレーニングを受け たことのある活動家であれば誰でも心得ているはずのことだけれど、コンセンサス・プロセス は議会での討論と同じものではなく、コンセンサスを見出すのは投票による採決とはまったく 別のなにかだ。反対に、そこにあるのは、誰ひとりとして同意を拒もうと思うほどには異議を 感じないような決定を生み出すためになされる、妥協と総合のプロセスである。それはつま り、私たちが普通行っている二つの水準――意思決定とその実施――の区別が、ここではなし崩し になっているということだ。もちろん、誰もが同意しなければならない、ということではな い。コンセンサスの諸形態のほとんどにおいては、程度を異にする不合意の多様な形態が認め られる。重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて立ち去ってしまう者が誰もいな いようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、 受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである。  言ってみれば、多数派民主主義が発生するのは以下の二つの条件が同時に満たされた場合の みなのだ。  一、人びとが集団的意思決定に際して平等な発言権を持つべきだという感覚の存在、そして  二、決定事項を実行に移すことができる強制力を持った装置の存在。  人類の歴史の大部分において、両者が同時に満たされることは極めて稀であった。平等志向 の社会が存在するところでは、普通は、一律に強制を課すのは良くないことだと考えられてい た。反対に、強制力を備えた機関が存在するところでは、何であれ民衆の意志の実現に尽くそ うなどということは、そうした機関を行使する人びとの脳裏に浮かぶことさえなかったの だ。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『民主主義の非西洋起源について』,第2章 民主主 義はアテネで発明されたのではない,pp.45-47,以文社(2020),片岡大右(訳))

【中古】民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義/デヴィッド・グレーバー、片岡大右





デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






民主化運動弾圧の標準的な戦術:(a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝、(b)中産階級の支持者を分断、(c)治安紊乱を意図的につくりあげる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

民主化運動弾圧の標準的な戦術

民主化運動弾圧の標準的な戦術:(a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝、(b)中産階級の支持者を分断、(c)治安紊乱を意図的につくりあげる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


 (a)相手が卑劣で暴力的だと宣伝
 まず最初に、運動を事実上率いているラディカル派が卑劣で、(少なくとも 潜在的には) 暴力的であるという筋書きを立て、道徳的権威を落とす。
 (b)中産階級の支持者を分断
 次に、中産階級の支持者を引き剥がすために、計算づくの譲歩と恐ろしいストーリーをつくりあげる。
 (c)治安紊乱を意図的につくりあげる
 本当に革命的状況が起きそうな場合には治安紊乱を意図的につくりあげる。周知のとおり、これは エジプトのムバラク政権が、数百人の犯罪者たちを刑務所から釈放し、中産階級の地区から警 察を引き上げ、革命は単なる混乱に終わるだけだと住民たちを納得させようとした際に行った ことである。



「1999年、2000年そして01年のグローバル・ジャスティス運動を抑え込むためのさまざま な試みは明らかに組織的なものであり、01年9月11日以降、アメリカ政府は社会秩序への脅威 とみなすものすべてに統一的に対応するという明確な目的のもと、新たなセキュリティ官僚制 度を幾層にも構築したのだ。これらの諸機関を運用する者が、大規模かつ急速に拡大する潜在 的に革命的な全国規模の運動に何の関心も示さずただ傍観したままだとしたら、かれらは何ら 職務を遂行していないということになる。  かれらはどのように事をすすめたのか。たしかにこれもわからないし、おそらく今後もずっ とわからないだろう。60年代の公民権運動、平和運動を転覆しようとしたFBIの役割が正確に わかるまでには数十年かかった。それでもやはり、起こるべくして起こったことの大枠を掴む のは特に難しいことではない。実際には民主化運動を弾圧しようと試みる政府のほとんどが採 用している標準的な戦術があり、今回もほぼ定石通りに行われたのは明らかだ。その脚本はこ のように展開する。まず最初に、運動を事実上率いているラディカル派が卑劣で(少なくとも 潜在的には)暴力的であるという筋書きを立て、道徳的権威を落とす。次に、中産階級の支持 者を引き剥がすために、計算づくの譲歩と恐ろしいストーリーをつくりあげる、あるいは本当 に革命的状況が起きそうな場合には治安紊乱を意図的につくりあげる(周知のとおり、これは エジプトのムバラク政権が、数百人の犯罪者たちを刑務所から釈放し、中産階級の地区から警 察を引き上げ、革命は単なる混乱に終わるだけだと住民たちを納得させようとした際に行った ことである)。このように攻撃されるのだ。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第II章 なぜうま くいったのか,pp.160-161,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳)) 


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






二つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

不平等を支える構造的暴力

二つの競合し均衡する暴力の場合、両者は互いを理解しようとする。しかし一方が圧倒的に有利であるとき、解釈労働の必要性はなくなり、暴力それ自体が 見えにくくなる。構造的暴力とは、不均衡な実力の脅威によって支えられ、不平等の構造が深く内面化された状況である。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))




「ここでぜひとも重要な条件をひとつ導入する必要がある。ここではすべてが諸力の均衡に かかっているということだ。二者が相対的に平等である暴力の競合に関与している場合――たと えば、対立する軍隊を率いる将軍のような――、かれらがたがいの頭の中身を調べようと努力す るのは当然である。そうする必要がもはやなくなるとしたら、それは、一方の側が物理的危害 を与える能力において圧倒的に有利であるときのみである。しかしこれは、きわめて深遠なる 効果をもたらす。というのも、それが意味しているのは、暴力のもっとも固有の効果、すなわ ち、「解釈労働」の必要を除去する力能がもっとも顕著なものになるのは、暴力それ自体が もっともみえにくいようなとき、めざましい物理的暴力行為の起きる可能性としてはもっとも 低いときであるということである。わたしが先に、実力の脅威によって究極的に支えられた体 系的不平等の状況、として規定した「構造的暴力」とは、まさにこうした事態である。このた めに、構造的暴力の状況は、例外なく、きわだって不均衡な、想像力による同一化の構造を生 み出してしまうのである。  これらの効果は、不平等の構造がきわだって深く内面化された形態をとる場合、しばしば もっとも可視となるのである。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.97-98,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]






デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

予測可能な結果を得る手段としての暴力

物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、その効果は限定的とはいえ、互いの理解を省略して、予測可能な結果を得ることができる唯一の手段である。このため、暴力は頻繁に愚か者に好まれる武器となり切り札となる。それは知的対応の最も困難な愚かさであり、人間存在の悲劇の一つである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「なるほど、だれかに障害を加えたり、だれかを殺害したりすることによって与えることの できる効果は、きわめて限定されている。しかし、それらは十分に現実的である。そして、決 定的なことには、その効果がどのようなものであるのかが前もって正確に予測可能なのであ る。それ以外のいかなる行為の形態も、共有された意味や了解に訴えることなしには、いかな る予測可能な効果もいっさいうることはできない。さらにいえば、暴力の脅威で他者に影響を 与えようとする試みが、あるレベルの共有された了解を必要とするにしても、それはまったく 最小限のものである。ほとんどの人間の関係は――それが長期の友人のあいだであろうと敵同士 のあいだであろうと、とりわけ継続中のそれは――、とんでもなく複雑なものであり、歴史と意 味を濃密にはらんでいるものである。それを維持するには、想像力とか世界を他者の観点から みる終わりのない努力といった、恒常的でたいてい繊細な作業を必要とする。先に「解釈労 働」として述べたものはこれである。物理的危害をもって他者に脅威を与えることは、こうし たすべてを省略することを可能にする。それははるかに単純で図式的であるような関係を可能 にするのである(「この線をふみ超えたら撃つぞ」とか「もう一言でもいってみろ、刑務所に ぶちこむぞ」とか)。もちろん、このために、暴力はひんぱんに愚か者に好まれる武器となる のである。暴力は愚か者の切り札であるとすらいえるかもしれない。というのも(そしてこれ は人間存在の悲劇のひとつであることはたしかだが)、それが知的な対応のもっとも困難であ る愚かさの一形態だからである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.96-97,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







暴力行為がコミュニケーション行為でもあるということは、間違いない。しかし、およそ人間の行為ならば、いかなる形態であってもコミュニケーション行為でもある。暴力について本当に重要なことは、この行為形態のみが、コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす可能性を提供することである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

暴力行為の特徴付け

暴力行為がコミュニケーション行為でもあるということは、間違いない。しかし、およそ人間の行為ならば、いかなる形態であってもコミュニケーション行為でもある。暴力について本当に重要なことは、この行為形態のみが、コミュニカティヴであることなしに社会的諸効果をもたらす可能性を提供することである。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

(a)暴力行為の特徴付け
 暴力は、自分が何も理解していな い人間の行為に、相対的に予測可能な諸効果をもたらすであろうなにごとかを施すことを可能 にする、ただひとつの方法である。
(b)解釈労働の必要性
 他者の行為に影響を及ぼそうとする暴力以外の方法の大部分では、他者が何者であるのか、その他者はあなたを何者とみなしているのか、この状況から彼らはなにを欲しているのか、かれの嫌悪、好みなどについて、少なくとも、何がしかの考えをもつ必要がある。



「これらのポイントをひとつずつとりあげてみよう。暴力行為が一般的にいってコミュニ ケーション行為でもある、ということは、正しいのだろうか? 正しいのは、まちがいない。 しかし、このことは、人間の行為ならば、いかなる形態にもおおよそあてはまる。暴力につい て本当に重要なことは、おそらく、コミュニカティヴであること《なしに》社会的諸効果をも たらす可能性を提供することのできる、ただひとつの人間の行為の形態である、という点にあ るように、わたしにはおもわれる。より正確にいえば、暴力は、じぶんがなにも理解していな い人間の行為に、相対的に予測可能な諸効果をもたあすであろうなにごとかを施すことを可能 にする、ただひとつの方法である、ということだ。他者の行為に影響を及ぼそうとするそれ以 外の方法の大部分では、その他者が何者であるのか、その他者はあなたを何者とみなしている のか、この状況からかれらはなにを欲しているのか、かれの嫌悪、好みなどについて、少なく とも、なにがしかの考えをもつ必要がある。ところが、かれらの頭を殴り飛ばしてみよう、こ うしたすべてが不要になる。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,1 想像力の死角? 構造 的愚かさについての一考察,pp.95-96,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和 樹(訳))

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]



デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







企業による利潤のうちの益々大きな割合が、レント取得という形をとるようになる。規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、益々洗練し複雑なものになっていく。同時に、利潤は還流し、専門家、企業官僚幹部の養成のため投入され、ブルシットジョブが増殖する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

レント取得、ブルシットジョブの増殖

企業による利潤のうちの益々大きな割合が、レント取得という形をとるようになる。規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、益々洗練し複雑なものになっていく。同時に、利潤は還流し、専門家、企業官僚幹部の養成のため投入され、ブルシットジョブが増殖する。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)金融化とレント取得
 金融化の過程とは、企業による利潤のうちのますます大きな割合が、あれやこれやのレント取得という形をとるということである。
(b)強制力に担保された規則や規制の増殖
 規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、ますます 洗練し複雑なものになっていくのである。実際、あまりに遍在しているために、もはや私たちは自分が脅威にさらされていると認めないほどである。
(c)レント取得による利潤の還流とブルシットジョブの増殖
 同時に、レント取得による利潤のいくぶんかはリサイクルされ、専門家階級の選抜や事務処理専門の企業官僚新幹部の養成のため、投入されている。ここ数十年、一見して無意味で不要不急の仕事、戦略ヴィジョン・コーディネーター、人的資源コンサルタント、リーガル・アナリストなどなどの「クソしょうもない仕事」が、これらの職に就いている人間ですら事業にはなんの貢献もしていないと日頃ひそかに考えているにも かかわらず、増殖し続けている。



「現代にふさわしい官僚制の批判は、これらのより糸――金融化、暴力、テクノロジー、公的 なものと私的なものの融合――が、いかにたがいに織り合わされ、独立した単一の網の目を形成 しているのかを示さなければならないだろう。金融化の過程とは、企業による利潤のうちのま すます大きな割合が、あれやこれやのレント取得というかたちをとるということである。つき つめるなら、これはさしずめ合法化されたユスリといったところである。それゆえ、それにあ いともなって、規則や規制が増殖し、かつ、それらを強制する物理力による脅迫が、ますます 洗練し複雑なものになっていくのである。実際、あまりに遍在しているために、もはやわたし たちはじぶんが脅威にさらされていると認めないほどである。そうではない世界がどのような ものか、想像すらできないからである。それと同時に、レント取得による利潤のいくぶんかは リサイクルされ、専門家階級の選抜や事務処理専門の企業官僚新幹部の養成のため、投入され ている。わたしがべつのところで述べた現象を促進している要因は、これである。すなわち、 ここ数十年、一見して無意味で不要不急の仕事――戦略ヴィジョン・コーディネーター、人的資 源コンサルタント、リーガル・アナリストなどなどの「クソしょうもない仕事」――が、これら の職に就いている人間ですら事業にはなんの貢献もしていないと日頃ひそかに考えているにも かかわらず、増殖しつづけているという現象である。結局、これは1970年代、80年代に、企 業官僚制が金融システムの拡大に呑み込まれるにつれてはじまった階級的再結合の基本的論理 の延長にほかならない。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『官僚制のユートピア』,序 リベラリズムの鉄則と 全面的官僚制化の時代,p.59,以文社(2017),酒井隆史(訳),芳賀達彦(訳),森田和樹(訳)) 

官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則 [ デヴィッド・グレーバー ]


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)







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