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2020年9月3日木曜日

結果としての道徳:自己満足、自己浄化、復讐のための道徳、病気としての道徳、真の目的の誤解、自己隠匿、仮面としての道徳、偽善、自己弁護のための道徳、おのれの意志に他者を服従させようとする道徳。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

結果としての道徳

【結果としての道徳:自己満足、自己浄化、復讐のための道徳、病気としての道徳、真の目的の誤解、自己隠匿、仮面としての道徳、偽善、自己弁護のための道徳、おのれの意志に他者を服従させようとする道徳。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)に追記。

道徳的諸価値(良心の権威)
 問題:道徳的諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきた諸条件と事情とを解明すること。無意識の徴候、病気、真の目的の誤解、隠蔽する仮面、偽善としての道徳、あるいは、薬剤、興奮剤、抑制剤、毒物としての道徳。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 道徳的諸価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきた諸条件と事情とを解明すること。
 (1)結果としての道徳
  (a)無意識の徴候としての道徳
   ・主唱者の心を安らわせ自己満足を覚えさせようとするための道徳
   ・自己を浄化して高くはるかな天上へとのぼろうとするための道徳
   ・主唱者が復讐しようとするための道徳
  (b)病気としての道徳
   ・主唱者が自分自身を磔に処し屈辱にまみれさせようとするための道徳
  (c)真の目的の誤解としての道徳
   ・主唱者が他のものを忘却せしめるのに役立つ道徳
  (d)真の目的を隠す仮面としての道徳
   ・自己を隠匿しようとするための道徳
   ・主唱者が自己あるいは自己のあるものを人に忘却せしめるのに役立つ道徳
  (e)偽善としての道徳
   ・主唱者を、他の者に対して弁護することを意図した道徳
  (f)おのれの意志に他者を服従させようとする道徳
   ・人類のうえに権力と創意に富んだ思いつきとを実行してみようとする道徳
   ・自分が敬重し服従し得ることは、他者も服従すべきとする道徳
 (2)原因としての道徳
  (a)薬剤としての道徳
  (b)興奮剤としての道徳
  (c)抑制剤としての道徳
  (d)毒物としての道徳


 「「われわれの内には定言的命法がある」、というような主張の価値については措いて問わぬとしても、なおわれわれはこう問うことができる、そもそもこうした主張はその主張者について何を証言しているのか、と。道徳のなかには、この主唱者を他の者に対して弁護することを意図したものもある。また、主唱者の心を安らわせ自己満足を覚えさせようとするための道徳もある。さらには、主唱者が自分自身を磔に処し屈辱にまみれさせようとするための道徳もある。なおまた、主唱者が復讐しようとするための道徳、自己を隠匿しようとするための道徳、自己を浄化して高くはるかな天上へとのぼろうとするための道徳もある。ある道徳は、その主唱者が他のものを忘却せしめるのに役立ち、またある道徳は、その主唱者が自己あるいは自己のあるものを人に忘却せしめるのに役立つ。人類のうえに権力と創意に富んだ思いつきとを実行してみようとする多くの道徳家もいるし、他方また多くの道徳家は、ほかならぬカントもその仲間だが、自分の道徳論によって次のようなことをほのめかす、「私において敬重さるべきことは、私が服従しうるという一事だ。―――されば、あなたたちも私とまったく同じように《あるべき》である!」と。―――要するに、もろもろの道徳とても《情念の符号》にすぎないのだ。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『善悪の彼岸』第五章 道徳の博物学について、一八七、ニーチェ全集11 善悪の彼岸 道徳の系譜、p.154、[信太正三・1994])
(索引:道徳)

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2020年6月8日月曜日

7.否定的および肯定的裁可によって社会性を維持するための諸感情を洗練してきた人類は、他者の感情と期待を表現する、より一般的な道徳記号を生成した。そして、道徳記号への違反と同調が、感情を喚起する。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))

道徳的記号化

【否定的および肯定的裁可によって社会性を維持するための諸感情を洗練してきた人類は、他者の感情と期待を表現する、より一般的な道徳記号を生成した。そして、道徳記号への違反と同調が、感情を喚起する。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))】

(1.7)追記

(1)人類の歴史
 (1.1)社会性と集団が無ければ生存できなかった
 (1.2)感情能力が強化されることで社会性が獲得された
 (1.3)社会性を強化するための、感情能力に依存する6つの仕組み
 (1.4)その1:感情エネルギーの動員と経路づけ
 (1.5)その2:対面反応の調整
 (1.6)その3:裁可
  (1.6.1)否定的裁可
   (1.6.1.1)怒りの表出
   (1.6.1.2)恐怖の喚起
   (1.6.1.3)否定的裁可の効果
   (1.6.1.4)否定的裁可の離反的効果
  (1.6.2)否定的裁可の内在化、恥と罪の感情
  (1.6.3)記憶による感情の持続化、激情化と肯定的感情の発展
   (1.6.3.1)記憶による感情の持続化と激情化
   (1.6.3.2)肯定的感情の必要性
  (1.6.4)肯定的裁可の内在化、誇りの感情
  (1.6.5)自己像の形成と自尊心の感情の誕生
  (1.6.6)悲しみなどの否定的感情の役割
   (1.6.6.1)恥や後悔などの感情と動機づけ
   (1.6.6.2)他者の悲しみの感知と連帯
 (1.7)その4:道徳的記号化
  (1.7.1)道徳的記号化
   (a)人間は他者の期待に注意を払い、同調性を高めなければならなかった。
   (b)人間は他者の表現する全方向の感情に対して、敏感でなければならなかった。
   (c)人間は感情と期待を、より一般的な行動記号(たとえば、規範、価値)を生成できるような方法で結合する必要があった。
  (1.7.2)道徳記号の機能
   (a)道徳記号に違反が発生すると、違反者に対する怒りが同調を要求する他者を興奮させ、また違反者に向けられた。
   (b)違反者に向けられる怒りは、同調の努力を喚起させるであろう。
   (c)道徳記号が守られるとき、同調に向う満足-幸せは、同調の継続に肯定的強化物を与えるであろう。
 (1.8)その5:資源評価と資源交換
 (1.9)その6:合理的意思決定

 「アフリカ・サヴァンナで組織を作ろうとする相対的に社会性の低い動物を想像するとき、選択はこの動物の神経解剖学的構造にどのように関与しなければならなかっただろうか。

第一に、選択はこの動物の神経解剖学的構造を強化する必要があった。そのためこの動物は他者の期待に注意を払い、そして同調性を高めなければならなかった。

第二に、その動物は他者の表現する全方向の感情に対して敏感でなければならなかった。

第三に、その動物は感情と期待を、より一般的な行動記号(たとえば、規範、価値)を生成できるような方法で結合する必要があった。

恐れ、怒り、そして満足といった原基感情はこの過程を開始するのに十分であった。

選択はこれらの原基感情を道徳記号にするための変種に、そしてその変種によって作られる感情をいっそう複雑かつ精妙に拡張したと仮定することは可能である。

したがって道徳記号に違反が発生すると、違反者に対する怒りが同調を要求する他者を興奮させ、また違反者に向けられた。これと同様に、違反者に向けられる怒りは、同調の努力を喚起させるであろう。

道徳記号が守られるとき、同調に向う満足-幸せは同調の継続に肯定的強化物を与えるであろう。

こうした原基感情のより微妙な変種と組み合わせが進化すると、記号そのものとその裁可が結果的にますます複雑になり、これによってヒト科類人猿の祖先に適した、いっそう柔軟な社会的構成が可能になった。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の起源』第2章 選択力と感情の進化、pp.76-77、明石書店 (2007)、正岡寛司(訳))
(索引:道徳的記号化)

感情の起源 ジョナサン・ターナー 感情の社会学



(出典:Evolution Institute
ジョナサン・H・ターナー(1942-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「実のところ、正面切っていう社会学者はいないが、しかしすべての社会学の理論が、人間は生来的に(すなわち生物学的という意味で)《社会的》であるとする暗黙の前提に基づいている。事実、草創期の社会学者を大いに悩ませた難問――疎外、利己主義、共同体の喪失のような病理状態をめぐる問題――は、人間が集団構造への組み込みを強く求める欲求によって動かされている、高度に社会的な被造物であるとする仮定に準拠してきた。パーソンズ後の時代における社会学者たちの、不平等、権力、強制などへの関心にもかかわらず、現代の理論も強い社会性の前提を頑なに保持している。もちろんこの社会性については、さまざまに概念化される。たとえば存在論的安全と信頼(Giddens,1984)、出会いにおける肯定的な感情エネルギー(Collins,1984,1988)、アイデンティティを維持すること(Stryker,1980)、役割への自己係留(R. Turner,1978)、コミュニケーション的行為(Habermas,1984)、たとえ幻想であれ、存在感を保持すること(Garfinkel,1967)、モノでないものの交換に付随しているもの(Homans,1961;Blau,1964)、社会結合を維持すること(Scheff,1990)、等々に対する欲求だとされている。」(中略)「しかしわれわれの分析から帰結する一つの結論は、巨大化した脳をもつヒト上科の一員であるわれわれは、われわれの遠いイトコである猿と比べた場合にとくに、生まれつき少々個体主義的であり、自由に空間移動をし、また階統制と厳格な集団構造に抵抗しがちであるということだ。集団の組織化に向けた選択圧は、ヒト科――アウストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サビエンス――が広く開けた生態系に適応したとき明らかに強まったが、しかしこのとき、これらのヒト科は類人猿の生物学的特徴を携えていた。」
(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『社会という檻』第8章 人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬、pp.276-277、明石書店 (2009)、正岡寛司(訳))

ジョナサン・H・ターナー(1942-)
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2020年5月31日日曜日

道徳的原則の基礎には根拠づけ不能な信念があり強制力がないとされるが,特定の権威,宗教的信条には依らず,理性と経験のみに基づいて全ての人が納得できない原則ならば,道徳的という分類からは強制的に排除されよう.(ディーター・ビルンバッハー(1946-))

道徳的原則は強制力を持つか?

【道徳的原則の基礎には根拠づけ不能な信念があり強制力がないとされるが,特定の権威,宗教的信条には依らず,理性と経験のみに基づいて全ての人が納得できない原則ならば,道徳的という分類からは強制的に排除されよう.(ディーター・ビルンバッハー(1946-))】


(1)基礎づけ倫理学の方法
 倫理学の基礎づけモデルは、中程度の一般性のレベルで実践を導く原則を、さらに基本原則にまで還元する。
(2)基礎づけ倫理学の根本問題
 根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」があるのではないか。
 参考: 事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))
 (2.1)強制力のある根拠
  強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。強制力のある根拠では、aを言った者は、もしも理性的であることを引き続き認められたいのならば、bも言わなければならない、という構造がある。
 (2.2)蓋然性による根拠
  蓋然性による根拠の場合には、選択の余地が残されている。蓋然性による根拠は強制力がなく、単に、根拠づけられたものへの賛同を促すだけである。
 (2.3)倫理学にも、強制力のある根拠が在る
  (2.3.1)「道徳的」原則とは何か(メタ倫理学的規範)
   (2.3.1.1)道徳的原則は、論理的普遍性を持つこと
    (a)すなわち、その原則には論理的一貫性がなければならない。
    (b)原則は、理性と経験のみに基づいて納得することができる。
   (2.3.1.2)道徳的原則は、普遍的妥当性を持つこと
    (a)すなわち、あらゆる人々が、その道徳規範に納得できるようでなくてはいけない。
    (b)すなわち、特定の権威や宗教的信条に基礎を置いてはならない。特別な宗教的信条または世界観に関わる信条を持っていても、あらゆる人々が納得できるのが、道徳的原則である。
  (2.3.2)ある特定の原則や根拠づけを排除する
   (a)必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を、道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論が可能である。
   (b)生命倫理学では、道徳規範に固有の普遍妥当性要求とは両立できない特別に神学的な論法が展開されることが多いので、否定的な作用でも批判に有効である。

 「倫理学の基礎づけモデルと再構成的モデルの違いは、中程度の一般性のレベルで実践を導く原則を基礎づけモデルが全然考えないという点ではなく、むしろ、基礎づけモデルがこのような中程度の一般性レベルでの原則を、さらに基本原則にまで還元するという点にある。ただし、こうした根拠づけの主張が、すでに、〔次のような意味で、〕基礎づけ倫理学の根本問題を含んでいる。ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている(Wittgenstein 1984,§253)。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。強制力のある根拠では、aを言った者は、もしも理性的であることを引き続き認められたいのならば、bも言わなければならない、という構造がある。これに対して、蓋然性による根拠の場合には、選択の余地が残されている。蓋然性による根拠は強制力がなく、単に、根拠づけられたものへの賛同を促すだけである。
 そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。
 つまり、こうした議論は、もともと道徳的な方向づけを探し求めている人を対象にしている(断固とした非道徳主義者に向かって、このような議論をしても無駄である)。そのうえまた、この種のメタ倫理学的議論は、つねに、否定的な効力を発揮するだけである。このようなメタ倫理学的議論は、ある特定の原則や根拠づけを排除するためのフィルターの役割を果たすのであって、特定の規範にもとづく倫理的または道徳的な立場の優位を肯定的に表示するためには役立たないのである。それでも、このような形での否定的なメタ倫理学の議論は、道徳上の立場および議論に対する相当に強力な批判の手段となりうるのである。これは、とりわけ生命倫理学に当てはまる。生命倫理学では、道徳規範に固有の普遍妥当性要求とは両立できない特別に神学的な論法が展開されることが多いのである。〔さて、否定的なメタ倫理学の議論が強力な批判の道具となり得る〕というのも、道徳規範が普遍妥当性要求を申し立てる場合には、原則として、あらゆる人々がその道徳規範に納得できるようでなくてはいけないからである。したがって、道徳規範は、権威や宗教的信条に基礎を置いてはならない。カントの言葉を借りれば、道徳的命令の遵守を「要求」される者は、誰でも皆、特別な宗教的信条または世界観に関わる信条とは独立に、すなわち、理性と経験のみにもとづいてこの要求の意味に納得することができる、という権利を有するのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-52,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:道徳的原則の強制力,生命倫理学,基礎づけモデル,原則)

生命倫理学: 自然と利害関心の間 (叢書・ウニベルシタス)


(出典:dieter-birnbacher.de
ディーター・ビルンバッハー(1946-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ウィトゲンシュタインは、根拠には終わりがあり、根拠づけられた信念の根底には「根拠づけられていない信念」がある、と言っている。われわれもまた、他でもない倫理学において、すぐにウィトゲンシュタインと同じことを言わなければならない地点に到達せざるをえないのではないだろうか。
 ここで一つの重要な区別をしておく必要がある。それは、強制力のある根拠と蓋然性による根拠の区別である。強制力のある根拠の場合には、理性的に思考する者ならば選択の余地がない。」(中略)
 「そもそも、倫理学に強制力のある根拠が在りうるだろうか。私は、在ると思う。しかも、道徳という概念の意味論から導き出される条件、つまり、ある原則に付与された「道徳的」原則という標識と概念分析的に結び付いている、メタ倫理学的規範の総体から導き出される条件、たとえば、論理的普遍性という条件および普遍的妥当性の主張を考慮したうえで、〔倫理学には強制力のある根拠が〕在ると思うのである。必要な論理的普遍性を示していないか、あるいは、信頼に足る仕方で普遍的妥当性要求を申し立てないような原則を道徳的原則と認めることは全然できない、という強制力をもった議論は可能なのである。」
(ディーター・ビルンバッハー(1946-),アンドレアス・クールマン序文,『生命倫理学:自然と利害関心の間』,第1部 生命倫理学の根本問題,第1章 どのような倫理学が生命倫理学として役に立つのか,4 基礎づけモデル――原則の根拠づけおよび原則の応用,pp.50-51,法政大学出版局(2018),加藤泰史(翻訳),高畑祐人(翻訳),中澤武(監訳),山蔦真之)
(索引:)

ディーター・ビルンバッハー(1946-)
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2020年5月18日月曜日

当該犯罪者と類似する潜在的犯罪を抑止するという前方視的な処罰理論と、応報または公正な報いのための後方視的な処罰理論に対して、人々は双方に理解を示すが、特定の事例では後者の理論に突き動かされる傾向がある。(スコット・M・ジェイムズ(19xx-))

応報または公正な報いか、抑止か

【当該犯罪者と類似する潜在的犯罪を抑止するという前方視的な処罰理論と、応報または公正な報いのための後方視的な処罰理論に対して、人々は双方に理解を示すが、特定の事例では後者の理論に突き動かされる傾向がある。(スコット・M・ジェイムズ(19xx-))】
 「しかしながら、処罰に関するこれらの研究のすべては、《なぜ罰するのか》という、より深遠な質問には答えていない。我々が他人を罰するとき、何が我々を突き動かしているのか。悪事を働く人に償わせることを、我々はいかにして(たとえば、自分自身に対して)正当化するのか。これらの疑問は、我々の道徳感覚における処罰の役割をより真剣に考えるように我々を促し、また我々の道徳感覚はやはり適応であったという考えを支持する一つの独立した論拠を提供するかもしれない。処罰の心理学は研究の非常に新しい領域であるが、いくつかの知見は示唆的である。
 心理学者のケビン・カールスミス、ジョン・ダーレイ、ポール・ロビンソン(2002)は、次の実験によって、我々の「処罰に対する素朴な真理」の本質を掴もうとした。そのテストは処罰の決定にあたって、道徳規範の侵犯がもつどの特徴が、我々に最も影響を与えるかを見るものであった。もっと正確に言えば、このテストは処罰についての競合する哲学理論のうちのいずれを人々が一般に支持しているのかを明らかにするようにデザインされていた。一つの処罰の哲学は、《抑止》モデルであって、「前方視的(forward-looking)」である。すなわち、我々は今後生じるよい結果のために罰する。それは《この》犯罪者のみならず、潜在的な犯罪者が将来似たような違法行為をすることを抑止するものである。もう一つの処罰の哲学は《応報または公正な報い》モデルであって、「後方視的(backward-looking)」である。すなわち、不正が犯されたがゆえに、また悪事を働いた者は罰せられるに値するがゆえに、我々は罰する。罰は罪と釣り合っている。なぜなら、狙いは「不正を正す」ことだからである。興味深いことに、被験者がこれら二つの処罰のモデルを与えられたときに、被験者は概して「両方に肯定的な態度」を持ち、「他方を犠牲にして一方を好む傾向をそれほど示さなかった」(Carlsmith et al.2002:294)しかしながら、被験者が、特定の悪事の行為への応答として、実際に処罰(全然厳しくないものから非常に厳しいものまで、あるいは無罪から終身刑まで)を与える機会が与えられると、被験者は「主として公正な報いという動機から」行動した(2002:289)。つまり、被験者はほぼ排他的に公正な報いモデルによって特徴づけられる点(たとえば、罪の深刻さと情状酌量の欠如)に反応しており、抑止モデルによって特徴づけられる点(たとえば、〔犯罪の〕発覚の可能性と〔事件の〕知名度)を無視しているように見えた。結論は次のとおりである。人々は異なる処罰の正当化に対して一般的な支持を表明するかもしれないが、特定の事例を扱うときには、ほとんど常に「処罰に値する罪を犯したかどうかに限定した立場」によって突き動かされている(2002:295)。」
(スコット・M・ジェイムズ(19xx-)『進化倫理学入門』第1部「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ、第4章 公正な報い、pp.104-105、名古屋大学出版会(2018)、児玉聡(訳))
(索引:応報または公正な報い,処罰の抑止モデル,道徳規範)

進化倫理学入門


(出典:UNC Wilmington
スコット・M・ジェイムズの命題集(Propositions of great philosophers)  「道徳的生物を道徳的たらしめるものには、いくつかのことが関係していると考えられる。以下のものが道徳判断の形成についての概念的真理を表すと思われる。
(1)道徳的生物は禁止というものを理解する。
(2)道徳的禁止は我々の欲求に依存しないように思われ、
(3)法律のような人間の取り決めに依存するようにも思われない。むしろ、それらは主観的ではなく客観的なもののように思われる。
(4)道徳判断は動機と密接に結びついている。ある行為は間違っていると心から判断することは、少なくともその行為をするのを《差し控えたい》という欲求を含意しているようである。
(5)道徳判断は功罪の観念を含意する。道徳的に禁止されていると知っていることをすることは、処罰が正当化されうるということを含意する。
(6)我々のような道徳的生物は、自身の悪事に対して、ある特有の《感情的》反応を示し、そしてこの反応はしばしば我々を、その悪事の償いをするよう駆り立てる。」
(スコット・M・ジェイムズ(19xx-)『進化倫理学入門』第1部「利己的な遺伝子」から道徳的な存在へ、第3章 穴居人の良心、p.81、名古屋大学出版会(2018)、児玉聡(訳))
(索引:)

スコット・M・ジェイムズ(19xx-)
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2020年5月10日日曜日

"道徳言明に特有の意味は、情動を表出するために言明されるところから生じる"とする情動主義は、道徳言明の真偽を問うことはできず、道徳的議論は単に効果的に相手の情動を喚起する心理戦とみなしてしまう。(大庭健(1946-2018))

道徳の情動主義

【"道徳言明に特有の意味は、情動を表出するために言明されるところから生じる"とする情動主義は、道徳言明の真偽を問うことはできず、道徳的議論は単に効果的に相手の情動を喚起する心理戦とみなしてしまう。(大庭健(1946-2018))】
(出典:古書店三月兎之杜
大庭健(1946-2018)の命題集

「“道徳言明に特有の意味は、情動を表出するために言明されるところから生じる”とするスチーヴンソン(Stevenson,C.)の理論であった。この考えは、情動主義(emotivism)と呼ばれ、多くの理論家によって彫琢が加えられたが、やはり大きな欠陥をかかえていた。すなわち、言明の意味が「情動の表出」に尽きるのなら、言明の真偽を問うことはできず、したがって道徳言明を用いた議論は、より効果的に情動を表出して相手を動かそうとする「心理戦」にすぎなくなる、という危惧である。」
(大庭健(1946-)、以下の著作の解説:ジョン・マクダウェル(1942-)『徳と理性』、p.259、勁草書房(2016)、大庭健(監訳)・(訳))
(索引:道徳の情動主義,情動,道徳)

徳と理性: マクダウェル倫理学論文集 (双書現代倫理学)


2020年5月8日金曜日

集団間の衝突を激化させる6要因:(a)自集団の優先(b)独自の社会観,価値観,感情(c)独自の道徳観,約束事,伝統(d)独自の公正,正義観(e)利害や社会的力関係から歪みやすい諸信念(f)他者に与える危害の過小評価(ジョシュア・グリーン(19xx-))

集団間の衝突を激化させる6要因

【集団間の衝突を激化させる6要因:(a)自集団の優先(b)独自の社会観,価値観,感情(c)独自の道徳観,約束事,伝統(d)独自の公正,正義観(e)利害や社会的力関係から歪みやすい諸信念(f)他者に与える危害の過小評価(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

(4)追加。

(1)偏狭な利他主義、部族主義
  人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ポール・ブルーム(1963-))
(出典:Yale University
ポール・ブルーム(1963-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ポール・ブルーム(1963-)
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 人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。
 (a)協力集団は、部外者による搾取から自分たちを守らなくてはならない。
 (b)そのために、協力できる集団内の他者と、そうでない集団外の他者を区別する。すなわち、《私たち》を《彼ら》から見分ける必要がある。
 (c)そして、《彼ら》より《私たち》をひいきにする。
(2)社会的な位置の識別、表示、行動調整
 人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちに、より近い人をひいきにする傾向がある。
 (a)私たちは、自分の社会的な位置を表現する能力を持っている。
 (b)私たちは、他者の社会的な位置を読み取る能力を持っている。
 (c)私たちは、読み取った内容に応じて行動を調整する能力を持っている。
 (d)私たちには、自分に近い人をひいきにする傾向がある。
(3)同心円状に広がる複数の部族
 私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。
 (a)もっとも近い血縁者や友人たち
 (b)遠い親戚や知人たち
 (c)種類や規模も様々な集団の一員となることで関係をもつ他人
  例えば、村、氏族、部族、民族集団、ご近所、街、州、地方、国。教会、宗派、宗教など
 (d)所属政党、出身校、社会階級、応援しているスポーツチームや好きなもの嫌いなもの
(4)集団間の衝突を激化させる6つの心理的性向
 (a)他集団より自集団を優先させる
  人間の部族は部族主義であり、《彼ら》より《私たち》を優先させる。
 (b)集団独自の社会観、価値観、諸感情
  社会の組織のあり方、個人の権利と集団のより大きな善のどちらをどの程度優先させるかについての考えは、部族ごとにまったく異なる。部族の価値観は、脅威に対する反応の仕方を定める名誉の役割のような、その他の側面についても異なる。
 (c)集団独自の道徳的約束事、個人、文書、伝統、神
  部族には独特の道徳的約束事がある。典型的なものが宗教的約束事で、これによって、他の集団が権威として認めない、ローカルな個人、文書、伝統、神などに道徳的権威が授けられる。
 (d)集団独自の公正、正義
  部族は、バイアスのかかった公正に陥りがちであり、集団レベルでの利己主義によって、正義感が歪められる場合がある。
 (e)集団独自の信念は、利害や社会的力関係から歪みやすい
  部族の信念には、簡単にバイアスがかかる。ある信念がひとたび文化的な旗印になると、部族の利益を損なうものであっても長く続く場合がある。
  (i)単純な利己心から生じる場合
  (ii)複雑な社会的力関係から生じる場合
 (f)他者に与える危害を過小評価
  周囲の出来事に関する情報処理の方法が原因で、他者に与える危害を過小評価し、対立をエスカレートさせる場合がある。

 「本章では、部族間の衝突を激化させる6つの心理的性向を考えてきた。
 1.人間の部族は部族主義であり、《彼ら》より《私たち》を優先させる。
 2.社会の組織のあり方、個人の権利と集団のより大きな善のどちらをどの程度優先させるかについての考えは、部族ごとにまったく異なる。部族の価値観は、脅威に対する反応の仕方を定める名誉の役割のような、その他の側面についても異なる。
 3.部族には独特の道徳的約束事がある。典型的なものが宗教的約束事で、これによって、他の集団が権威として認めない、ローカルな個人、文書、伝統、神などに道徳的権威が授けられる。
 4.部族は、その中の個人と同様に、バイアスのかかった公正に陥りがちであり、集団レベルでの利己主義によって、正義感が歪められる場合がある。
 5.部族の信念には簡単にバイアスがかかる。バイアスのかかった信念は、単純な利己心から生じる場合もあれば、より複雑な社会的力関係から生じる場合もある。ある信念がひとたび文化的な旗印になると、部族の利益を損なうものであっても長く続く場合がある。
 6.周囲の出来事に関する情報処理の方法が原因で、他者に与える危害を過小評価し、対立をエスカレートさせる場合がある。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第3章 あらたな牧草地の不和,岩波書店(2015),(上),pp.128-129,竹田円(訳))
(索引:偏狭な利他主義,部族主義,社会観,価値観,感情,道徳観,正義観,信念)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

ジョシュア・グリーン(19xx-)
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2020年4月14日火曜日

制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法に対する道徳の影響

【制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】
 「(ii)法に対する道徳の影響 あらゆる現代の国家の法は、受けいれられた社会的道徳および広範な道徳的理想の双方からの影響を、たいへん多くの点で受けていることを示している。こういった影響は、立法によって突然に公然と法に入ってくるか、あるいは司法過程を通じて静かに少しずつ法に入ってくるかである。合衆国のようないくつかの体系においては、法的妥当性の究極の基準のなかに、正義の原則あるいは実質的な道徳的価値が明らかに含まれている。最高の立法府の権限に関して、形式的な制約の存在しないイギリスのような他の体系においても、その立法は正義あるいは道徳に注意深く従っているといえよう。法が道徳を反映する仕方はさらに多様であり、その研究はまだ十分されてはいない。制定法は法的な外被にすぎず、道徳的原則の助けをかりて補填されるよう明文で要求するかもしれない。強行可能な契約の範囲が、道徳や公正の概念によって限定されるかもしれない。民事的、刑事的に不法な行為に対する責任が、道徳的責任に関する広く行きわたった見解に照らして調整されることがあるかもしれない。どのような「実証主義者」も、これらが事実であり、法体系の安定性が、部分的には道徳とのそのような一致に依存していることを否定できないであろう。法と道徳には必然的な関連があるということをこの意味にとるならば、両者にこのような関連のあることは認められなければならないであろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,p.222,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法に対する道徳の影響,道徳,社会的道徳,道徳的理想,制定法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年11月16日土曜日

道徳教育においては、(a)自らの判断を押しつけず、(b)学生の判断力の養成を目的に、(c)各教説に含まれる最良の真理に焦点を合わせ、(d)人類に影響を与え続けてきた主要な教説を材料として提供すること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳教育

【道徳教育においては、(a)自らの判断を押しつけず、(b)学生の判断力の養成を目的に、(c)各教説に含まれる最良の真理に焦点を合わせ、(d)人類に影響を与え続けてきた主要な教説を材料として提供すること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.6)道徳教育
  (5.6.1)道徳に関する教説の特徴
   (a)各教説は、何らかの真理を含む
    全体としては誤っているかもしれない体系ですら、何らかの真理を含んでいる。
   (b)各教説固有の無視し得ない真理
    各教説に含まれる真理は、他の体系でそれが無視されたり、過小評価される場合には、その体系の著しい欠点となるような重要な真理であることがある。
   (c)懐疑主義と折衷主義は誤っている
    道徳に関する教説には、正解がないという懐疑的な折衷主義は、誤っている。
  (5.6.2)道徳の教育方法
   (a)自らの判断を押しつけないこと
    教師は、ある一定の倫理体系の立場に立ち、他の体系すべてを排撃し、その体系のみを強く擁護することはしないこと。
   (b)学生の判断力を養成すること
    教師は、学生の判断を助長し陶冶することが、重要な任務であると考えること。
   (c)各教説の最良の真理に焦点を合わせる
    各教説に含まれる真理を理解するには、その教説に反対する人々の意見ではなく、各々の体系を支持する人々の意見に、耳を傾けるべきである。
   (d)重要な教説を、材料として提供すること
    人類に実際に影響を与え続けてきた道徳哲学の主要な体系について、最も有益な行為規則の確立と保持に役立て得るように、解説すること。

 「大学には道徳哲学の専門的な講義があるべきであり、また現にほとんどの大学にはそれがあります。しかし、私は、この講義が従来のものと少し違った形式のものであってほしいと思っております。つまり、できることなら、その講義は、論争的にならずに、かつまた独断に陥ることなく、もっと解説的であってほしいのです。学生に、今日まで人類に実際に影響を与え続けてきた道徳哲学の主要な体系についての知識を授けるべきでありますし、また学生は各々の体系を支持する人々の意見に耳を傾けるべきであります。その主要な体系とは、アリストテレス学派、エピクロス学派、ストア学派、ユダヤ教、キリスト教などの倫理体系のことです。但し、キリスト教はその解釈の違いから色々な教派に別れ、各教派の間には、キリスト教と古代ギリシャの各学派との間の相違と同じ程度の相違があります。また、学生に、倫理の基礎として採用されてきた種々の善悪の基準、例えば、一般的功利性、自然的正義、自然権、道徳感覚、実践理性の原理、等についての知識をも持たせるべきであります。これらのことを教える際、特に教師のなすべきことは、ある一定の倫理体系の側に立ち、他の体系すべてを排撃し、その体系のみを強く擁護することではなく、むしろ、それらすべての体系を人類に最も有益な行為規則の確立と保持に役立てる努力をすることであります。そのような倫理体系のなかで、長所のないものは一つもありません。また、ある体系の支柱になっていて、他の体系でそれが無視されたり、過小評価される場合、その体系の著しい欠点となるような重要な真理が、必ずしも常に明瞭であるとは言えないが、鋭い直感によって示唆されていないものは一つもありません。全体としては誤っているかもしれない体系ですら、そのなかで示唆されている部分的な真理に人類の関心を向けさせる力が十分ある限り、それは依然として価値があります。倫理学の教師は、他の体系のなかでより明確に認識されている真理をすべて考慮に入れることによって、各々の体系が自らの根底を揺るがすことなくいかに強化されうるか、その可能性を指摘するならば、自己の任務を立派に果たしていることになります。とは申しましても、教師は全く懐疑的な折衷主義を学生に奨励すべきであるなどと言うつもりはありません。教師が、各体系の最良の側面にできる限り焦点を合わせ、それらすべての体系から倫理学の本質と矛盾しない最も有益な結論を導き出そうと努める限り、それらのなかのどれか一つを優先させ、しかも自己の論法を駆使して、強く主張したとしても、私はそれを押し止めようとは決して思いません。理論的には誤っている体系でも、時として、正しい理論の完全性にとって欠くことのできない特殊な真理を含む場合もあります。無論、それらの体系がすべて真であるということはありえませんが。しかしながら、特にこの道徳の問題に関しては、先に取り上げた問題にもまして、自らの判断を学生に押しつけることなく、むしろ学生の判断を助長し陶冶することが、教師の重要な任務となります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,6 道徳教育と宗教教育,pp.69-71,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:道徳,道徳教育,道徳教育の方法)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2019年11月15日金曜日

戦争に伴う犯罪と苦痛を防ぐには、全ての市民が国際法を学び、自らの政府の行為に絶えず注意を払い、批判的な世論の形成が必要である。無関心で自分の意見を持たず、必要な抗議をしないことは誤っており害悪を生む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

国際法の教育

【戦争に伴う犯罪と苦痛を防ぐには、全ての市民が国際法を学び、自らの政府の行為に絶えず注意を払い、批判的な世論の形成が必要である。無関心で自分の意見を持たず、必要な抗議をしないことは誤っており害悪を生む。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 (5.5)国際法
  (5.5.1)国際法とは何か
   (a)本来法律ではなく、倫理の一部、道徳的規則である。
   (b)起源においては、誠実と仁愛という道徳的原理が、国家間の交際に適用されたものである。
   (c)戦争が生み出す犯罪を減少させ、苦痛を軽減させるのが目的である。
   (d)この種の規則は、永遠に変化しないものではない。
   (e)この種の規則は、国民の良心が益々啓発され、社会の政治的要求が変化するに従って、時代とともに多かれ少なかれ変化してゆく。
  (5.5.2)国際法に関する知識と確実な判断力の必要性
   もちろん、外交官や法律家には必要なものである。
  (5.5.3)すべての市民が国際法を学ぶことの意義
   一国の行為が、国内的にも対外的にも、利己的で、背徳的で、圧政的であるか、それとも合理的かつ啓発的で、公正にして高貴であるかは、世論の一部を形成する個人個人が公的な業務に絶えず注意を払い、その細部にまで目を配る習慣を持っていることにかかっている。
   (a)黙認することの悪
    自分が選んだ代理人によって、もし、代理人に託した権限によって悪事が行われているにもかかわらず、そんなことに心を煩わしたくないという理由で、何の抗議もせず、黙認するようなら、正しいとは言えない。
   (b)関与しないことの悪
    自分がまったく関与しなければ、害になるはずがないというのは錯覚である。
   (c)意見を持たないことの悪
    また、自分が何の意見も持たなければ害になるはずがないというのも錯覚である。

 「以上のような学問に、更に国際法を付け加えたいと思います。国際法はすべての大学で教えられるべきであり、一般教養のなかの一科目になるべきであると私は固く信じています。この学問は、外交官や法律家だけにのみ必要とされるのでは決してなく、市民すべてにとっても必要なものであります。いわゆる「万民法」と言われているものは、本来法律ではなく、倫理の一部であります。つまり、文明国で権威あるものとして承認されている一連の道徳的規則に他なりません。確かに、この種の規則は、永遠に従う義務はありませんし、またそうあるべきではなく、国民の良心が益々啓発され、社会の政治的要求が変化するに従って、時代とともに多かれ少なかれ変化しますし、また変化しなければならないものであります。ところが、その規則の大部分は、その起源においては誠実と仁愛という道徳的原理が国家間の交際に適用されたその結果であり、また現在でもそうであります。つまり、この規則は、戦争が生み出す犯罪を減少させ、苦痛を軽減させるために、人類の道徳感情あるいは共通利益の認識から導入されたものであります。各々の国は世界の種々様々な関係にあり、多くの国々は――我が国もそのなかの一つでありますが――ある国に対して現実に権力を行使しています。それ故、国際的道義の確立された規則に関する知識は、すべての国にとって、従ってそのなかで国を構成し、その発言と感情とがいわゆる世論の一部を形成する個人個人にとっても、自らの義務を果たすための必要欠くべからざるものであります。自分がまったく関与しなければ、また何の意見ももたなければ害になるはずがないという錯覚で自己の良心をなだめるようなことは止めましょう。悪人が自分の目的を遂げるのに、善人が袖手傍観していてくれるほど好都合なことはないのです。自分の代理人によって、しかも自分が提供した手段が用いられて悪事が行われているにもかかわらず、そんなことに心を煩わしたくないという理由で、何の抗議もせず、黙認するような人間は善人ではありません。一国の行為が、国内的にも対外的にも、利己的で、背徳的で、圧政的であるか、それとも合理的かつ啓発的で、公正にして高貴であるかは、公的な業務に絶えず注意を払いその細部にまで目を配る習慣がその社会にあるかどうか、またその社会がその種の業務に関する知識と確実な判断力とをどの程度持ち合わせているかによることでしょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,5 精神科学教育,(5)国際法,pp.65-66,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:国際法,戦争,道徳,世論,国際法の教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年7月19日金曜日

18.義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

道徳の基準の強制力の源泉

【義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情には、慣習、教育、世論の制約があり、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)道徳の基準の強制力は何であるのか。義務の源泉は、何なのか。
 (1.1)それ自体が、義務的なものであるという感情を心に呼びおこす基準がある。例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないという基準を考えてみよう。
 (1.2)では、感情が義務の源泉なのか。感情が呼び起こされなければ、それは義務ではないのか。義務である。すなわち、感情が義務の源泉なのではない。
 参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.3)そこで例えば、泥棒、殺人、裏切り、詐欺を、「全体の幸福を増進しなければならない」という一般原理によって基礎づけてみよう。これは、強制力を持ちうるだろうか。なぜ、全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

(2)道徳の基準に関して、実際に生じている事実。
 (2.1)人間の情念や感情は、個別の道徳の基準を直接に把握することができる。しかし、それは正しいこともあれば、誤っていることもある。なぜなら、情念や感情は慣習、教育、世論により形作られるからである。
 (2.2)何が正しく、何が誤っているのか。それは、道徳の基準が何らかの一般原理から、首尾一貫した論理により基礎づけられるかどうかにかかっている。
 (2.3)一般原理そのものが、強い情念や感情を呼び起こさない場合もあるかもしれない。しかしこれも、慣習、教育、世論による制約を受けているという事実を、知らなければならない。もし、その一般原理が真実を捉えているのならば、いつしか、教育が進歩し慣習と世論が変わっていくことによって、情念と感情が直接に原理を把握できるようになるに違いない。

 「何らかの道徳の基準とみなされているものについては、次のような質問がしばしばなされるし、それは適切なことである。

その強制力は何であるか。それにしたがう動機は何か。よりはっきりと言えば、その義務の源泉は何か。どこからその拘束力をひきだすのか。

この問題にたいする答えを提示することは道徳哲学の必須の一部である。

これは、他の道徳論よりも功利主義道徳論にとりわけ当てはまるかのように、功利主義道徳論に対する反対論という形をしばしばとっているが、実際にはあらゆる基準について生じる問題である。

つまり、この問題は、人がある基準を《採用する》必要に迫られたり、習慣的に頼っていなかった何らかの根拠によって道徳論を論じるときにはいつでも生じている。

というのは、慣習的道徳論、つまり教育と世論が神聖なものとした道徳論のみが、《それ自体として》義務的なものであるという感情を心に呼びおこす唯一の道徳論だからである。

人がこの道徳論が慣習の後光のない何らかの一般原理からその義務力を《引き出している》ことを信じるように言われたとしても、このような主張は彼にとっては逆説的である。

もとの定理よりも、その系とされるものの方がより強い拘束力を持っているように思われ、土台とされるものがあるときよりもないときの方が上部構造がしっかりとしているように思われるのである。

人は次のように自問する。私は泥棒、殺人、裏切り、詐欺をしてはいけないと考えているが、どうして全体の幸福を増進しなければいけないのだろうか。自分自身の幸福が他の何かにあるときに、どうしてそちらを選び取ってはいけないのだろうか。

 功利主義哲学が道徳感覚の性質について採用している見解が正しいとすれば、道徳的性格を作り上げてきた力が原理からの帰結を把握したのと同じように原理[自体]を把握するまで、つまり、教育の進歩によって、普通によく育てられた若者にとって悪事を恐れる気持ちがそうであるように、同胞との一体感が完全に本性の一部となるくらいまで私たちの性格に深く根を下ろし、そのように意識されるまで(キリストがそうすることを意図していたことは否定できない)、この難問はつねにおこってくるだろう。

しかし、そうするまでの間、この難問は功利性の理論にのみ特有のものではなく、道徳を分析しそれを原理に還元しようとするあらゆる試みに内在するものである。

原理がそれが応用されたものと同じくらいの神聖さをもって人の心に抱かれていないかぎり、この難問はつねに原理の神聖さをいくらかは損なうように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.291-292,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳の基準の強制力の源泉)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年4月20日土曜日

8.理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

究極的目的と二次的目的

【理性による判断である義務や正・不正は、何らかの目的の連鎖と、行為が生み出す帰結によって評価される。究極的目的より導出されるはずの諸々の二次的目的・中間原理が、実践的には、より重要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追記。


(1)利害関心がもたらす偏見や、情念が存在する。
(2)「義務」とは何か、何が「正しく」何が「不正」なのかに関する、私たちの考えが存在する。
(3)(1)偏見や情念と、(2)義務は一致しているとは限らない。
(4)義務の起源や性質に関する、以下の二つの考え方があるが、(a)は誤っており(b)が真実である。
 (a)私たちには、「道徳感情」と言いうるような感覚が存在し、この感覚によって何が正しく、何が不正なのかを判定することができる。
  (a.1)その感覚を私心なく抱いている人にとっては、それが感覚である限りにおいて真実であり、(1)の偏見や情念と区別できるものは何もない。
  (a.2)その感覚が自分の都合に合っている人は、その感覚を「普遍的な本性の法則」であると主張することができる。

 (b)道徳、すなわち何が正しく、何が不正なのかの問題は、理性による判断である。
   義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (b.1)道徳は単なる感情の問題ではなく、理性と計算の問題である。
  (b.2)道徳問題は議論や討議に対して開かれている。すなわち、他のあらゆる理論と同じように、証拠なしに受け入れられたり、不注意に選別されたりするようなものではない。
  (b.3)道徳は、何らかの目的の連鎖として体系化される。
   (i)行為の道徳性は、その行為が生み出す帰結によって決まる。
   (ii)究極的目的、人間の幸福とは何かという問題は、体系的統一性、一貫性、純粋に科学的見地から重要なものである。しかし、これは複雑で難解な問題であり、様々な意見が存在している。
   (iii)究極的目的から導出され、逆にそれを基礎づけることになる二次的目的、あるいは中間原理、媒介原理が、道徳の問題において重要な進歩を期待できるような、実践的な諸目的である。
   (iv)このような二次的目的は、究極的目的については意見を異にしている人々の間でも、合意することがあり得る。なぜなら、人類は自分たちの「本性」について一つの見解を持つことが困難でも、事実として、現にある一つの本性を持っているだろうからである。

 究極的目的、人間の幸福
  ↓
 二次的目的、中間原理、媒介原理
  ↓
 行為が生み出す帰結:行為の価値

  (b.4)ベンサムは、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理として、「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」を置いた。

(5)以上から、どのように考えどのように感じる「べき」なのかという問題が生じ、人類の見解や感情を、教育や統治を通じて陶冶していくということが、意義を持つ。
 (5.1)道徳論は、不変なものではなく、人類の経験がより信頼に値するものとなり増大していくことで、知性とともに進歩していくものである。
 (5.2)倫理問題に取り組む唯一の方法は、既存の格率を是正したり、現に抱かれている感情の歪みを正したりすることを目的とした、教育や統治である。

 「可能な範囲でベンサムの哲学の概要を述べてきたが、他の何にもまして彼の名前と同一視されている彼の哲学の第一原理、すなわち「功利性の原理」、あるいは彼の後の呼び方では「最大幸福原理」についてほとんど述べてこなかったことに読者は驚かれたかもしれない。

もし紙幅があれば、あるいはベンサムについて正しい評価を下すために本当に必要ならば、この主題について論じられるべきことが多くある。

道徳の形而上学について論じるのにより適当な機会に、あるいはこのような抽象的な主題についての見解を分かりやすくするのに必要な説明をうまくおこなうことができるような機会に、この主題について私たちが考えていることを述べることにしよう。

ここで私たちが述べておきたいのは、その原理についてはベンサムとほとんど同意見であるが、彼がその原理に対して与えた重要性の度合についてはそうではないということだけである。

功利性、あるいは幸福はあまりにも複雑で漠然としすぎており、さまざまな二次的目的を媒介にすることなしには追求することができない目的であると私たちは考えている。

そして、これらの二次的目的に関しては、究極的基準については意見を異にしている人々の間でも合意することがありうるし、しばしば合意している。

また、これらの目的については、思想家の間に、道徳形而上学の重要な問題についてまったく相容れない見解の相違がみられることから想定されるよりもはるかに多くの意見の一致が実際に広く見られる。

人類は自分たちの本性について一つの見解をもつことよりも、一つの本性をもっているということの方がはるかにありうるから、中間原理、すなわち真の媒介原理(vera illa et media axiomata)とベーコンが呼んだものについて、第一原理についてよりも容易に一致するようになる。

そして、中間的目的と照らし合わせることよりもむしろ、究極的目的に照らし合わせることによって行為の意味を明らかにしたり、人間の幸福に直接照らし合わせることによって行為の価値を評価したりする試みは、一般的には、本当に重要な結果ではなく、もっとも簡単に指摘できたり個別に特定できたりする結果をもっとも重視することに終わる。

功利性を基準として採用している人々は、二次原理を媒介としないかぎりは、それを正しく適用することはめったにできないし、それを拒否している人々は、一般的には二次原理を第一原理へ昇格させているだけである。

 したがって、私たちは功利主義に関する議論を実践上の問題というよりも配列と論理的従属についての問題であり、倫理に関する哲学としての体系的統一性と一貫性のために、主として純粋に科学的見地から重要なものと考えている。

この主題についての私たち自身の見解がどのようなものであっても、私たちが倫理理論においてなされるに違いないと信じている重大な進歩を期待するのはこのようなものからではない。

しかし、ベンサムが成し遂げたあらゆることは功利性の原理に負っていること、自明のものとして受け入れることができ、他のあらゆる理論を論理的帰結としてそこに帰結させることができるような第一原理を見つけだすことが必要であったこと、彼にとって体系的統一性が自身の知性に対して確信をもつために不可欠な条件であったことなどは確かなことである。

さらに指摘しておくことがある。すなわち、幸福が道徳の目指すべき目的であってもなくても――道徳が何らかの《目的》を目指していること、道徳が漠然とした感情や説明不能な内的な確信のうちに放置されないこと、道徳が単なる感情の問題ではなく理性と計算の問題であることなどは、道徳哲学の観念そのものにとって本質的な要素であり、現実に道徳問題に関する議論や討議を可能にしているものなのである。

行為の道徳性はそれが生み出す傾向にある帰結によって左右されるという事は、あらゆる学派の理性的な人々によって認められている理論である。

そして、こうした帰結の善悪はもっぱら快楽と苦痛によって判定されるということは、功利性を支持する学派によって全面的に認められている理論であり、これはこの学派に特有のものである。

 ベンサムが功利性の原理を採用したことによって行為の道徳性を確定するために考慮するべきこととしてその《帰結》に注意を向けたという点に関するかぎり、少なくとも彼は正しい道を進んでいた。

とはいえ、迷うことなくこの道を進んでいくためには、性格形成や行為が行為者自身の精神構造に与える影響についてベンサムがもっていたよりもいっそう深い知識が必要であった。

彼にこのような種類の影響を評価する能力が欠如していたことは、この主題に関する人類の経験が具現化されている伝統的な考えや感情に当然払うべき(盲従とはまったく違う)適度な敬意が足りなかったこととあいまって、彼を実践倫理上の問題に関してまったく信頼のおけない案内役にしてしまっているように思われる。」

(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.152-154,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳,目的,究極的目的,二次的目的,中間原理,媒介原理)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2018年11月18日日曜日

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

道徳や倫理的規準と、ルールと原理

【道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

道徳や倫理的規準は、ルールではなく原理である。

参照: 論証における原理の作用の特徴:(a)特定の決定を必然的に導くことはない、(b)論証を一定方向へ導く根拠を提供する、(c)互いに逆方向の論証へと導くような諸原理が、相互に作用しあう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
参照: 見掛け上抵触する法準則には、優先法を規律するルールが存在するのに対して、原理においては互いに抵触しあう諸原理が、並立する。原理には重みとか重要性という特性があるが、しばしば議論の余地のあるものとなる。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 「確かに道徳的な人間は、嘘をつくか約束を破るかを選択しなければならない場合、困難な状況に置かれることになるだろう。だからといって、当該問題に関し衝突するに到った両者をルールとして彼が容認していたことにはならない。単に彼は嘘言と約束違反を両者とも原則として不正なものとみなしたにすぎない、と考えられるのである。
 もちろん我々は、彼が置かれている状況を二つの倫理的規準のいずれかを選択せざるを得ない状況として記述し、たとえ彼自身は当該状況をこのように表現しなくとも我々はこれを正しい記述と考えるかもしれない。しかしむしろこの場合、既に私が使用した区別を用いれば、彼は競合する二つのルールではなく、二つの原理について解決を見出すように迫られていると考えるべきなのである。何故ならば、この法が彼の状況をより正確な仕方で記述していると考えられるからである。彼はいかなる倫理的考慮もそれ自体では圧倒的に優勢な効力をもちえないこと、そしてある行為を禁ずるいかなる根拠も状況によってはこれと競合する別の考慮に屈せざるをえないことを認めている。それ故、彼の倫理的実践を社会規準のコードを用いて説明しようとする哲学者や社会学者は、彼にとり道徳がルールの問題ではなく原理の問題であることを認めざるをえないのである。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第2章 ルールのモデルⅡ,5 法準則は本当に原理とは別のものか,木鐸社(2003),p.86,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:道徳,倫理的規準,ルール,原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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2018年5月10日木曜日

14.ある感情を、他の感情によってどう制御し変化させるかについての研究は、道徳と政治に関することがらに特別に役だつ。想像力により感情が静められ、あるいは燃え立たされ、行動が抑制され、あるいは発動する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

想像力と感情

【ある感情を、他の感情によってどう制御し変化させるかについての研究は、道徳と政治に関することがらに特別に役だつ。想像力により感情が静められ、あるいは燃え立たされ、行動が抑制され、あるいは発動する。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
想像力と感情、感情どおしの相互作用の研究は、道徳と政治に関することがらに特別役だつものである。
(a) 想像力により、どのように感情が燃え立たされ、かき立てられるか。抑えられていた感情が、どのようにして外に出るか、それがどう活動するか。
(b) 想像力により、感情がどのように静められ、抑えられるか。感情が行動に発展するのをどう抑制されるか。
(c) それらの感情がどのように重なりあうか、どのようにたがいに戦い対立し合うか。ある感情が、他の感情によってどのように制されるか。どう変化するか。

 「詩人と歴史の著述家がこの認識の最上の教師であって、われわれは、そこにつぎのようなことがいきいきと描かれているのを見る。

すなわち、どのように感情がもえたたされ、かきたてられるか、それがどのようにしずめられ、抑えられるか、そしてまた、それが行動に発展するのをどう抑制されるか、抑えられたものがどのようにして外に出るか、それがどう活動するか、どう変化するか、それがどうつのってはげしくなるか、それらの感情がどのように重なりあうか、それらがどのようにたがいに戦い角つきあうかなどといったことが一つ一つ描かれている。

それらのうち、最後にあげたことが、道徳と政治に関することがらには特別に役だつものである。

くりかえしていえば、それは、どのようにして感情をたがいに対立させあい、他方によって一方を制するかということである。」 

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、二二・六、pp.293-294、[服部英次郎、多田英次・1974]) 

(索引:感情、情念、道徳、政治、想像力)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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