2018年10月21日日曜日

人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ジョシュア・グリーン(19xx-))

偏狭な利他主義、部族主義

【人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。それは、自他の社会的位置を識別し、表示し、行動を調整する人間の能力を基礎とし、所属集団の利益を守るため、集団内部の協力を促し、外部に対抗する傾向である。(ジョシュア・グリーン(19xx-))】

(1)人間には、偏狭な利他主義、部族主義の傾向がある。
 (1.1)協力集団は、部外者による搾取から自分たちを守らなくてはならない。
 (1.2)そのために、協力できる集団内の他者と、そうでない集団外の他者を区別する。すなわち、《私たち》を《彼ら》から見分ける必要がある。
 (1.3)そして、《彼ら》より《私たち》をひいきにすること。
(2)人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちにより近い人をひいきにする傾向がある。
 (2.1)私たちは、自分の社会的な位置を表現する能力を持っている。
 (2.2)私たちは、他者の社会的な位置を読み取る能力を持っている。
 (2.3)私たちは、読み取った内容に応じて行動を調整する能力を持っている。
 (2.4)私たちには、自分に近い人をひいきにする傾向がある。
(3)私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。
 (3.1)もっとも近い血縁者や友人たち
 (3.2)遠い親戚や知人たち
 (3.3)種類や規模も様々な集団の一員となることで関係をもつ他人
  例えば、村、氏族、部族、民族集団、ご近所、街、州、地方、国。教会、宗派、宗教など
 (3.4)所属政党、出身校、社会階級、応援しているスポーツチームや好きなもの嫌いなもの

 「これはよくある問題だ。あらゆる協力集団は部外者による搾取から自分たちを守らなくてはならない。これを行うには、《私たち》を《彼ら》から見分ける能力と、《彼ら》より《私たち》をひいきにする傾向が必要だ。赤の他人を家族のように遇する人もまれにはいるが、それがあたりまえに行なわれている人間社会はないし、それには正当な理由がある。そんな社会は、自由にアクセスできる資源を潤沢に貯えていて、戸口に訪れた見ず知らずの人に、まるで彼らが長いあいだ音信不通だったきょうだいであるかのように、財宝を浴びせようと待ち構えているようなものだろう。このことと辻褄が合うのが、人類学者ドナルド・ブラウンの研究だ。彼は人類の文化の相違点と類似点を調査し、内集団バイアスと自民族中心主義が普遍的であることをつきとめた。
 私たちはみな、同心円状に広がる複数の社会的な円の中心にいる。私たちをまず囲んでいるのが、もっとも近い血縁者や友人たちであり、それをもっと遠い親戚や知人たちのより大きな円が取り囲む。知人や親戚の円の外側にいるのが、種類や規模も様々な集団(村、氏族、部族、民族集団、ご近所、街、州、地方、国。教会、宗派、宗教など)の一員となることで関係をもつ他人だ。こうした入れ子型の集団に加え、所属政党、出身校、社会階級、応援しているスポーツチームや好きなもの嫌いなもので自分を組織化する。社会的空間は複雑で多様な次元から成るが、常識と膨大な社会科学調査の両方から少なくともひとつのことがあきらかだ。人間は、自分を中心とする社会的宇宙の中で、人がどこに位置するかにきわめて鋭い注意を向け、自分たちにより近い人をひいきにする傾向がある。ときに《偏狭な利他主義》ともいわれるこの傾向を、部族主義と呼ぼう。
 もっとも内側の社会的円(家族、友人、知人)に属する人々を、自分の協力集団の成員と見なすのはたやすい。しかし、人間はもっと大きな集団の中でも、積極的にも(橋を建設する、戦争で戦うなど)、もっと消極的にも(不可侵であることによって)協力している。しかし、他人と協力するには、協力できる他者と、私たちにつけこむおそれのある他者を区別する手段が必要だ。言い換えると、私たちには社会的身分証(ID)を示す能力、読み取る能力、そして読み取った内容に応じて行動を調整する能力が必要なのだ。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第1部 道徳の問題,第2章 道徳マシン,岩波書店(2015),(上),pp.65-65,竹田円(訳))
(索引:偏狭な利他主義,部族主義)

モラル・トライブズ――共存の道徳哲学へ(上)


(出典:Joshua Greene
ジョシュア・グリーン(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが宇宙を任されていて、知性と感覚を備えたあらたな種を創造しようと決意したとする。この種はこれから、地球のように資源が乏しい世界で暮らす。そこは、資源を「持てる者」に分配するのではなく「持たざる者」へ分配することによって、より多くの苦しみが取り除かれ、より多くの幸福が生み出される世界だ。あなたはあらたな生物の心の設計にとりかかる。そして、その生物が互いをどう扱うかを選択する。あなたはあらたな種の選択肢を次の三つに絞った。
 種1 ホモ・セルフィッシュス
 この生物は互いをまったく思いやらない。自分ができるだけ幸福になるためには何でもするが、他者の幸福には関心がない。ホモ・セルフィッシュスの世界はかなり悲惨で、誰も他者を信用しないし、みんなが乏しい資源をめぐってつねに争っている。
 種2 ホモ・ジャストライクアス
 この種の成員はかなり利己的ではあるが、比較的少数の特定の個体を深く気づかい、そこまでではないものの、特定の集団に属する個体も思いやる。他の条件がすべて等しければ、他者が不幸であるよりは幸福であることを好む。しかし、彼らはほとんどの場合、見ず知らずの他者のために、とくに他集団に属する他者のためには、ほとんど何もしようとはしない。愛情深い種ではあるが、彼らの愛情はとても限定的だ。多くの成員は非常に幸福だが、種全体としては、本来可能であるよりはるかに幸福ではない。それというのも、ホモ・ジャストライクアスは、資源を、自分自身と、身近な仲間のためにできるだけ溜め込む傾向があるからだ。そのためい、ホモ・ジャストライクアスの多くの成員(半数を少し下回るくらい)が、幸福になるために必要な資源を手に入れられないでいる。
 種3 ホモ・ユーティリトゥス
 この種の成員は、すべての成員の幸福を等しく尊重する。この種はこれ以上ありえないほど幸福だ。それは互いを最大限に思いやっているからだ。この種は、普遍的な愛の精神に満たされている。すなわち、ホモ・ユーティリトゥスの成員たちは、ホモ・ジャストライクアスの成員たちが自分たちの家族や親しい友人を大切にするときと同じ愛情をもって、互いを大切にしている。その結果、彼らはこの上なく幸福である。
 私が宇宙を任されたならば、普遍的な愛に満たされている幸福度の高い種、ホモ・ユーティリトゥスを選ぶだろう。」(中略)「私が言いたいのはこういうことだ。生身の人間に対して、より大きな善のために、その人が大切にしているものをほぼすべて脇に置くことを期待するのは合理的ではない。私自身、遠くでお腹をすかせている子供たちのために使った方がよいお金を、自分の子供たちのために使っている。そして、改めるつもりもない。だって、私はただの人間なのだから! しかし、私は、自分が偽善者だと自覚している人間でありたい、そして偽善者の度合いを減らそうとする人間でありたい。自分の種に固有の道徳的限界を理想的な価値観だと勘違いしている人であるよりも。」
(ジョシュア・グリーン(19xx-),『モラル・トライブズ』,第4部 道徳の断罪,第10章 正義と公正,岩波書店(2015),(下),pp.357-358,竹田円(訳))
(索引:)

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