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2018年9月23日日曜日

21.私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(カール・ポパー(1902-1994))

私以外のものが存在すること

【私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(カール・ポパー(1902-1994))】

参照: 私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 「他人の心の問題をめぐる議論は、近年、主として認識論の用語のもとで果てしなくつづいている。

それらの議論をすべて読んだわけではないので、他人の心の存在を擁護したわたくしの単純な議論をほかの人がすでに使っていたということもありえないわけではない(たぶんないと思うが)。

だが、その議論には十分満足している――というのもおそらく、この種の研究では、いつにせよどんな議論も決定的ではありえないと思われるからである。

 わたくしの議論とはこうである。

わたくしは、バッハやモーツァルトの音楽を自分で作曲したのではないし、またレンブラントの絵やボッティチェリの絵を自分で描いたわけでもないことを知っている。そんなことができるわけがない。わたくしには、そのようなことをする才能のかけらさえない。」(中略)

「しかし独我論の仮説ではこれらの創造物はみな、わたくし自身の夢の創造物となってしまう。それらは、みずからの想像力がうみ出した産物ということになろう。なぜなら、他人の心などないというのだから。

自分の心のほかにはなにもないというわけである。だがこれが真実でないのはわかりきっている。

 この議論は、もちろん決定的ではない。わたくしは、ことによると夢のなかで自分自身を過小評価(そして同時に過大評価)しているのかもしれない。
換言すれば、創造と言う範疇を適用してはいけないのかもしれない。

そうしたことはよくわかる。それにもかかわらず、以上の議論でまったく十分だと思っている。」
(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,7 形而上学的実在論,(上),pp.120-121,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:私以外のものが存在すること)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2017年12月28日木曜日

06.私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

存在そのもの

【私の精神が、いかに完全な物体の観念を知性の虚構によりつくり上げたとしても、私の精神と物体が存在する原因として、存在そのものがその本質に属するようなあるものの存在を、想定せざるを得ない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 仮に、完全な物体の観念が得られたとしても、それが知性の虚構により複合されたものである限り、それが必然的に存在するかどうかは、わからない。また、明晰かつ判明に存在することが知られているわれわれの精神が、これら物体と、おそらくは、どれほど必然的に相互に結合しているかに気づくにせよ、有限であるわれわれの精神は、通常はそれらの完全性を分離してでなければ考察することがなく、その全体が、必然的に存在するかどうかは、やはり、わからない。これら物体の観念や、知性が虚構したようなものではない、存在するということが、そのものの真で不変な本質に属するようなものが、存在する。
 「残るところは独り小前提のみですが、そこにおいて困難が小さくはないことを私は認めます。なぜならば、まず、われわれはそれ以外のすべてのものにおいては存在本質から区別することにあまりにも慣れているので、十分にわれわれは、存在が他の事物の本質によりはいっそう神の本質に属するのはどういうふうにしてなのであるか、に気づくことがない、からであり、つぎには、或る事物の真で不変な本質に属するものを、知性の虚構によってでなければ本質に帰せしめられることのないものから、区別しないでいるために、十分にわれわれは存在が神の本質に属することに気づきはするにもせよ、それでもそのことからわれわれは、神が存在するとは結論しない、からで、それというのも、われわれは、神の本質が不変で真であるか、われわれによって虚構されたものにすぎないか、を知らないからなのです。」(中略)
 「しかしながら、この困難の第一の部分を除き去るためには、可能的存在必然的存在との間が区別されなければならない」。(中略)
 「次に、困難の他の部分を除き去るためには、真なる不変の本性を含んでいなくて、単に虚構され、知性によって複合された本性のみを含んでいる観念は、その同じ知性によって分割されうるということ、それも単に抽象〔あるいは思惟の制限〕によってだけではなくて、明晰かつ判明な作用によっても分割されうるということ、に気づかなければなりません。」(中略)
 「しかし私が、この上もなく完全な物体の観念のうちには存在が含まれる、と考察するとしたとしても、それというのもつまり単に知性のうちにのみあるよりは事物と知性の両方の中にある方がいっそう大きな完全性であるからですが、そのことからは私には、そのこの上もなく完全な物体が存在すると結論することはできず、ただ単に存在しうると結論することができるだけなのです。」(中略)
 「今しかしわれわれが、物体についてではなくて、結局のところそれがどのようなものであれ、同時に存在しうるすべての完全性をもつ事物について問うとするならば、存在がそれら完全性の中に数えられるべきかどうかについて、なるほど一見したところではわれわれは疑いをもちもするでしょう。なぜならば、有限であるわれわれの精神は、通常はそれらの完全性を分離してでなければ考察することがないのですから、おそらくは、どれほど必然的にそられが相互に結合しているかに、直ちに気づくことはないでしょうから。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察 第一答弁』デカルト著作集[二]、pp.143-145、[宮内久光・1993])

デカルト著作集(全4巻)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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05.私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))

私以外のものの存在

【私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 もし私の有する観念のうちの或るものの客観的実在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また従って私自身がこの観念の原因であり得ぬことが私に確実であるほど大きいものであるならば、ここから必然的に、私のみが独り世界にあるのではなく、かかる観念の原因であるところの或る他のものがまた存在するということが帰結する。
 「私が私の有する観念のうちにおいて考察するところの実在性は単に客観的なものであるからして、この実在性がこの観念の原因のうちに形相的に有ることは必要でなく、かえってこの原因のうちにおいても客観的に有れば十分であろう、と忖度してはならない。というのは、この客観的な存在の仕方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同じように、形相的な存在の仕方が観念の原因に、―――少なくともその第一にして主要なる原因には―――この原因の本性上、合致するからである。そしてたとい恐らく一の観念は他の観念から生まれることができるにしても、これはしかしこのようにして無限に遡ることができないのであって、遂にはいわば或る第一の観念に達しなくてはならず、しかしてこの観念の原因は、観念のうちにおいてはただ客観的に有る一切の実在性を形相的に自己のうちに含むところの、原型ともいうべきものなのである。かようにして観念は私のうちにおいて恰も或る影像の如きものであって、これは、たしかに、これを得てきたもとのものの完全性に及ばぬことは容易にあり得るが、或るより大きなものまたはより完全なものを含み得ないことは、自然的な光によって私に明瞭である。
 そしてこのすべてのことは、これを考量することが長ければ長いだけ、注意深ければ注意深いだけ、いよいよ明晰に、いよいよ判明に、その真であることを私は認識するのである。しかし私は何を結局これから結論しようとするのであるか。言うまでもなく、もし私の有する観念のうちの或るものの客観的実在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また従って私自身がこの観念の原因であり得ぬことが私に確実であるほど、大きいものであるならば、ここから必然的に、私のみが独り世界にあるのではなく、かかる観念の原因であるところの或る他のものがまた存在するということが帰結するということである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察』省察三、pp.63-64、[三木清・1949])
(索引:私ではないものの存在)

省察 (岩波文庫 青 613-2)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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