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2020年4月21日火曜日

国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得るが、実際は、これは事実ではない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.3)追加。


(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 (2.3)国際法の事実にあっていない。
  (a)体系はすべて合意から成りたつ形態であるということは、諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが明らかにし得る。
  (b)実際は、これは事実ではなく、理論上、合意が黙示的に存在すると推定されたりする。
  (c)また、新しい国家が成立した場合や、以前には適応対象とならなかった領域において、国家がその領域に該当することになった場合を考えると、合意のみによって成立するというのは、事実に反することが分かる。

 「第三に事実の問題がある。われわれは、国家は自己に課した責務にのみ拘束さ《れう》るという今批判した《先験的な》主張と、国家は異なった体系の下では他の方法で拘束されうるのだけれども、実際に今日の国際法のルールの下では国家にとって他の形態の責務は存在しないという主張とを区別しなければならない。もちろんその体系はすべて合意から成りたつ形態であるということも可能である。合意により成りたつという見解に対する賛成と反対は、法学者の論文、裁判官の意見、さらに国際裁判所の裁判官の意見、および国家の宣言のなかに見い出される。諸国の実際の慣行の客観的な究明のみが、上の見解が正しいかどうかを示しうる。現代国際法は、たしかに大部分は条約法であり、したがって前もっての合意なしに国家に対し拘束力をもつと思われるルールが、実際は合意にもとづいていることを示すため念入りな試みがなされた。もっともその合意は「黙示的に」のみ与えられ、あるいは「推定」されなくてはならないのだけれども。国際的責務の諸形態を一つのものに還元しようとする試みは、すべてが虚構であるわけではないが、少なくともそのいくらかは、「黙示の命令」tacit command の観念と同じ疑惑を呼び起こす。それは、すでに見たように、はるかにもっともらしいものであるが、同様に国内法の単純化を形成するためにもくろまれたものである。
 すべての国際的責務は拘束される当事者の合意から生じるという主張の詳細な検討はここではできないが、この理論に対する二つの明白で重要な例外に注意しなければならない。第一は新国家の場合である。1932年にイラクが、1948年にイスラエルがしたように、新しい独立国家が成立したとき、それがなかんずく条約に拘束力を与えるルールを含んだ国際法の一般的責務に拘束されることは決して疑われたことはない。ここにおいて新国家の国際的な責務を「黙示の」あるいは「推定された」合意におく試みは、まったく古くさいように思える。第二の場合は、領土を得たり他の何らかの変化をなした国が、以前にはそれを順守したり、違反したりする何らの機会をもたず、またそれに対して合意を与えたり指し控えたりする何らの機会をもたなかったルールのもとにおける責務の影響を、そのことによってはじめて受ける場合である。もし以前には海に接していなかった国家が海岸の領土を得たとしたら、そのことによってその国家は、領海および公海に関するすべての国際法のルールに従わなければならないことは明らかである。その他に、主として一般条約あるいは多辺的条約の非当事者に対する効果に関して、もっと議論の余地のある場合がある。しかしすべての国際的責務はみずから課したものであるという一般理論は、あまりにも多くの抽象的な独断と、あまりにも事実をかえりみないことによって想定されたという疑念を、これら二つの重要な例外は、正当化するのに十分である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.243-245,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月20日月曜日

国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法の意思主義,自己制限論

【国際法の意思主義、自己制限論は誤りである。なぜなら(a)協定や条約の不履行を何ら義務違反と考えないのは事実に反するし(b)自ら課した責務という観念は、既にあるルールの存在を前提にしているからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)国際法の意思主義、自己制限論
 国家は絶対的な主権を持っており、すべての国際的責務は、自ら課した責務から生じる。
(2)国際法の意思主義、自己制限論への反論
 (2.1)なぜ、約束から国際的責務が生じるのかを、説明することができない。
 (2.2)論理的に首尾一貫していない。
  (a)絶対的な主権を持っているのに、なぜ制約を受けるのか。
  (b)国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられないとすれば、論理的には一貫する。しかし、「不履行が何ら義務の違反とはならない」は、事実に反している。
  (c)自ら課した責務という観念は、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるようなルールがはじめから存在していることを前提にしているが、いま前提したルールの存在は、自ら課したものではなく、矛盾している。

 「だから現在の異議に対するもっとも簡単な答は、それが考察すべき問題の順序を逆にしているということである。われわれは、国際法の諸形態がどのようなものであるか、そしてそれらは単なる空虚な形態なのかどうかを知ってはじめて、諸国家はどのような主権をもっているかを知りうるのである。この原則が無視されたため、多くの法的議論は混乱してきた。だから「意思主義」あるいは「自己制限」の理論として知られている国際法の理論を、この考えの下で考察することは有益である。これらの理論は、すべての国際的責務を約束から生じる義務のようにみずから課したものとして取り扱うことにより、国家の(絶対)主権を国際法の拘束力あるルールの存在と調和させようと試みた。実際このような理論は、政治学における社会契約論を国際法に当てはめたものである。政治学における社会契約論は、法に従う責務は拘束される人々がお互いになし、あるいは場合によっては彼らの支配者となした契約から生じる責務であるとすることによって、個人は「本来」自由で独立であるにもかかわらず、国内法に拘束されるという事実を説明しようとした。われわれはここにおいては、この理論が文字通り受けとられた場合になされる周知の異議を考察しないし、また単に理解に役立つ類比として受けとられる場合のこの理論の価値をも考察しない。その代わりにわれわれは、国際法の意思主義理論に反対する3つの議論をその歴史から引き出すことにしよう。
 まず第一に、これらの理論は、諸国家はみずから課した責務にのみ拘束され「うる」ということをどうして知るのか、あるいは国際法の実際の性質の検討に先だって、国家の主権に関するこの見解がなぜ受けいれられるべきなのかということを、まったく説明することができない。そのことがしばしば繰り返されてきたという事実のほかに、その見解を支持するものが何かまだあるだろうか。第二に、諸国家は主権をもつのでみずから課したルールにのみ従いまた拘束され《うる》ということを示そうとする議論には、何か一貫しないものがある。「自己制限」理論の非常に極端な形態においては、国家の協定あるいは条約の取り決めは、国家がもくろんでいる将来の行動の単なる宣言であるとされ、その不履行は何ら義務の違反とは考えられない。これは事実とはたいへん矛盾しているけれども、少なくとも一貫性という長所をもっている。すなわちこれは、国家の絶対主権はいかなる種類の責務とも両立しないのであり、だから国家はイギリス議会のように、自己を拘束できないという単純な理論である。しかしながら、国家は約束、協定あるいは条約によってみずから責務を課すことができるとするあまり極端でない説は、国家はみずから課したルールにのみ従うという理論とは矛盾する。なぜなら、話されたものであれ、書かれたものであれ、ある言葉が一定の状況において約束、協定あるいは条約として機能し、その結果責務を生じ、請求可能な権利を相手方に与えるためには、ルールがはじめから存在し、それは国家がしかるべき言葉によって行なうと約束したことを行うよう国家は拘束されると規定していなければならないからである。みずから課した責務という観念そのもののなかに前提されているそのようなルールは、《その》義務的な性質をそのルールに従うというみずから課した責務から引き出せないことは明らかである。
 ある国家が行なうように拘束されているすべての個々の《行動》は、理論的には、たしかに約束からその義務的な性質を引き出すだろう。それにもかかわらず、そう言えるのは、約束その他が責務を生じるという《ルール》が何らかの約束とは別に、国家に適用されている場合にのみである。個人あるいは国家からなる社会において、約束、協定あるいは条約の言葉が責務を生じるために何が必要かつ十分であるかを言えればそれは、そのことを規定し、それらの自己拘束作用のための手続を明記したルールが、普遍的である必要はないが一般的に認識されていることである。それらが認識されているところでは、それらの手続を意識的に用いる個人あるいは国家は、欲しようと欲しまいと、そのことによって拘束されるのである。このように社会的責務のもっとも自発的な形態でさえ、それらに拘束される当事者の選択とは関係なしに、拘束力をもつルールを含んでいる。だからこのことは、国家の場合においては、国家主権はすべてのそのようなルールからの自由を要求するという仮定とは一致しない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第3節 責務と国家の主権,pp.242-243,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法の意思主義,国際法の自己制限論,国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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