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2021年12月19日日曜日

(a)世界3の無時間性、(b)世界3を本質的に人間精神の産物である、(c)世界3の自律性、(d)世界3は実在する、(e)世界3の歴史、(f)進化論と世界3、(g)世界3の一般化。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3

(a)世界3の無時間性、(b)世界3を本質的に人間精神の産物である、(c)世界3の自律性、(d)世界3は実在する、(e)世界3の歴史、(f)進化論と世界3、(g)世界3の一般化。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)世界3の無時間性
 もしはっきり定式化された言明がいま真であるならば、それは永遠に真で あり、また常に真であった。真理は無時間的である。
(b)世界3を本質的に人間精神の産物である。
(c)世界3の自律性
 世界3の諸対象がそれ自身の固有なまたは自律的な法則をもっていて、我々の意図せ ぬ、また予期もしなかったもろもろの結果を生みだすということは、より一般的な通則、すなわち、我々のすべての行為はそのような結果を生みだすという通則の一例に過ぎない。
(d)世界3は実在する
 世界3は人間の作った他の産物と同様に実在的であり、記号体 系と同様に実在的であり、大学とか警察といった社会制度と同様に実在的である。
(e)世界3の歴史
 世界3は歴史をもっている。それはわれわれの観念の歴史である。
(f)進化論と世界3
 進化論においても、世界3の概念を持ち込めるよう にさせもする。人間的世界3の先駆のみなせる動物的産物が存在する。
(g)世界3の一般化
 問題、理論、批判的 議論の世界を世界3の特殊ケース、狭義の世界3、あるいは世界3の論理的または知的領域とみ なせる。そしてより広い一般的意味での世界3に、もろもろの道具、制度、芸術作品といった 人間精神のすべての産物を含めることができる。



「自律性の問題といささか関連した、しかし私の思うに重要さに劣るものに、世界3の無時 間性の問題がある。もしはっきり定式化された言明がいま真であるならば、それは永遠に真で あり、また常に真であった。真理は無時間的である(また偽もそうである)。矛盾性とか両立 性といった論理的諸関係もまた無時間的であり、ずっとはっきりそうである。こういうわけ で、世界3の全体を、プラトンが形相またはイデアの世界についていったように、無時間的な ものとみなすのは、たいした苦労を要さないであろう。われわれはけっして理論を発明するの でなく、常に理論を発見するのである、と仮定しさえすればよいのである。そうすれば、生命 が発生する以前から存在し、すべての生命が消滅したあとにも存在し続ける無時間的な世界 3――人間がそこここでそのごく一部分を発見するところの世界――があることになろう。  このような見解をとることは可能である。だが、私はこの見解をとらない。それは世界3の 存在論的資格の問題を解決するのに失敗するだけでなく、この問題を合理的な見地から解決で きなくさせてしまう。それというのも、この見解は世界3の対象を「発見する」ことをわれわ れに許すけれども、これらの対象を発見する際にわれわれがそれらと相互作用するのか、それ ともこれらの対象がわれわれに作用しかけるだけなのか、また――特に、もしわれわれがそれら の対象に働きかけることができないのだとすれば――それらの対象はどのようにしてわれわれに働きかけることができるのか、を説明できないからである。この見解はプラトン的または新プ ラトン的直感主義にいきつき、多くの困難にぶつかることになると私は思う。それというの も、この見解は、私の思うに、世界3の諸対象の《あいだの論理的関係》の特質がこれらの対 象そのものに具備されていなければならないという誤った理解に立脚しているからである。  私はこれとは異なった考え方――驚くほど実り豊かだと私が認めたもの――を提案する。《私は 世界3を本質的に人間精神の産物だとみなす》。世界3の諸対象を創造するのはわれわれであ る。これらの諸対象がそれ自身の固有なまたは自律的な法則をもっていて、われわれの意図せ ぬ、また予期もしなかったもろもろの結果を生みだすということは、より一般的な通則――われ われのすべての行為はそのような結果を生みだすという通則――の一例(きわめて興味のある例 だが)にすぎない。  こうして私は、世界3を人間活動の産物とみなすと同時に、われわれの物理的環境と同じく らい、あるいはそれ以上に、反作用を及ぼす産物であるとみなす。すべての人間活動には一種 のフィードバックがある。行為しながら、間接的に、われわれは常にわれわれ自身に働きかけ ているのである。  もっと正確にいうと、私は問題、理論、批判的議論の世界3を人間言語の進化の諸結果の一 つと、そしてこの進化に作用し返しているものとみなす。  この見方は真理および論理的諸関係の無時間性と完全に両立する。またそれは世界3の実在 性を理解できるようにさせる。世界3は人間の作った他の産物と同様に実在的であり、記号体 系――言語――と同様に実在的であり、大学とか警察といった社会制度と同様に(おそらくはそれ よりもずっと)実在的である。  また世界3は歴史をもっている。それはわれわれの観念の歴史であるが、それら諸観念の発 見の歴史であるばかりでなく、どのようにしてわれわれがそれらの観念を発明したか――どのよ うにしてわれわれがそれらを作り出したか、それらがどのようにわれわれに作用し返したか、 またわれわれ自身の手になるこれらの産物にわれわれがどのように反作用したかの歴史でもあ る。  世界3のこのような見方は、人間を動物として見る進化論の領域内に世界3を持ち込めるよう にさせもする。人間的世界3の先駆のみなせる(巣のような)動物的産物があるのだ。  そして最後に、この見方は別の方向での一般化を示唆する。われわれは問題、理論、批判的 議論の世界を世界3の特殊ケース、狭義の世界3、あるいは世界3の論理的または知的領域とみ なせる。そしてより広い一般的意味での世界3に、もろもろの道具、制度、芸術作品といった 人間精神のすべての産物を含めることができる。」
(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,38 世界3または第三世界, (下),pp.161-163,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





価値は生命とともに世界に登場する。無意識的な問題による価値から自由な想像力と知性によるあらゆる創造物までの中で、世界3の中核的部分に存在する人間的価値の世界は、客観的真理の増大という価値が支配している。なぜなら、それが価値であるというのは真実なのかという問題が立ち現れるからである。(カール・ポパー(1902-1994))

客観的真理の増大という価値

価値は生命とともに世界に登場する。無意識的な問題による価値から自由な想像力と知性によるあらゆる創造物までの中で、世界3の中核的部分に存在する人間的価値の世界は、客観的真理の増大という価値が支配している。なぜなら、それが価値であるというのは真実なのかという問題が立ち現れるからである。(カール・ポパー(1902-1994))


「かつて生命のない物的世界があったという推測が正しいとすれば、この世界は、私の思う に、問題なき、それゆえ価値なき世界であったろう。価値は意識とともにはじめて世界に登場 する、としばしばいわれてきた。私の見解はそうではない。価値は生命とともに世界に登場す る、と私は考える。もし意識なき生命があるとすれば(動物や人間の場合でさえ十分ありうる ことだと思う。それというのも、夢のない眠りのようなものがあるらしいからである)、意識 がなくてさえ、そこには客観的価値もあるであろう、と私はいいたい。  したがって、二種類の価値がある。生命によって、無意識的な問題によって生みだされる価 値と、人間の心によって、先の解決をふまえて、多少ともよく理解された問題を解決しようと する試みにおいて生じる価値と、である。  事実の世界において私が価値を認めるのはここのところである。そこは世界3のうちの歴史 的に生まれる問題と伝統の領域であり、この領域は事実の世界――世界1に属する事実の世界で はなく、人間の心によって部分的に生みだされた事実の世界であるけれども――の一部である。 価値の世界は、価値なき事実の世界――いわば生のままの事実の世界――を超越している。  世界3の最も奥深い中核的部分は、私の見るところでは、問題、理論、批判の世界であ る。価値はこの中核的部分には属さないが、この部分は価値によって支配されている。《客 観的真理およびその増大》という価値がそれである。世界3に他のもろもろの価値が入るのを 認めなければならないけれども、この価値はある意味で人間のこの知的な世界3の全体をつう じてすべてのうちで最高の価値であり続けるといえる。なぜなら、持ち出されるすべての価値 とともに次のような問題が生じるからである。それが価値であるというのは《真実》である か、それが価値の階層においてそれ固有の地位をもっているということは《真実》であるか、 親切が正義より価値があるというのは真実であるか、そもそも親切は正義と比較できるのか。 (それゆえ私は真理を恐れる人たち――知識の木の実を食べたのは罪であったと考える人たち―― にまったく反対する。)  広義の世界3がわれわれの知性の諸産物――それらの産物から生じる意図せぬ結果をも含めて ――だけでなく、もっとずっと広い意味でのわれわれの心の諸産物――たとえば、われわれの想像 の産物――をも包含するように、われわれは人間的た世界3の観念を一般化した。われわれの知性 の産物たる理論でさえ、われわれの想像の産物たる神話を批判することから生じる。理論は神 話なしにはありえなかったであろうし、批判は事実と虚構、真と偽との区別の発見なしには不 可能であったろう。神話と虚構が世界3から排除されるべきでない理由もここにある。それゆ え結局われわれは芸術および――われわれの観念のあるものを注入したところの、また《批判》 (単なる知的批判よりもずっと広い意味での批判)の結果を取り込んだところの――すべての人 間的産物を含めることになる。われわれは先行者たちの考えを吸収し、批判し、われわれ自身 を陶冶しようと努めているので、われわれ自身がこれに含まれうる。そしてまたわれわれの子 供や教え子、われわれの伝統や制度、われわれの生活様式、われわれの意図や目的もこれに含 まれよう。」

(カール・ポパー(1902-1994),『果てしなき探求』,40 諸事実の世界における諸価値の一, (下),pp.178-183,岩波書店(1995),森博(訳))

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カール・ポパー(1902-1994)





2021年12月12日日曜日

社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))

実在するものとしての思想

社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)社会の経済組織、すなわち自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は概ね正しいが注意すべき点がある。
(b)ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。
(c)思考実験:あらゆる機械やあらゆる社会的組織も含めて、我々の経済体制が、ある日壊滅させられたと想像せよ。だがしかし技術上の知識、科学上の知識が保存されたと想像してみよ。
(d)思考実験:一方で、これらの事柄についてのすべての知識が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ。


「第二は経済学主義(もしくは「唯物論」)であり、社会の経済組織、われわれと自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度、特に制度の歴史的発展にとって基礎的であるという 主張である。私の信じるところでは、この主張は、「基礎的」という用語が日常的な漠然とし た意味で受け取られ、過度に強調されることがない限り、完全に健全である。換言すれば、実 際上あらゆる社会研究は、制度的な研究であるにせよ歴史的な研究であるにせよ、社会の「経 済的諸条件」を顧慮に入れて遂行されるならば、有益なものになりうることには何の疑問も挟 みようがないのである。数学のような抽象的科学の歴史でさえ例外ではない。この意味で、マ ルクスの経済学主義は社会科学の方法に極めて価値のある前進を示していると言えるのであ る。  しかし、私が前に言ったように、われわれは「基礎的」という用語をあまり重大に受けとるべきではない。マルクス自身は疑いもなくそうしたのである。マルクスはヘーゲル主義の下で 育ったから、「実体」と「現象」との古代の区別、またそれに対応している「本質的」なもの と「偶然的」なものとの区別によって影響されていた。マルクスは、自分がヘーゲル(そして カント)に加えた改良は、「実体」を(人間の物質交代を含む)物質界と同一視したこと、そ して「現象」を思想や理念の世界と同一視したことにある、と見がちであった。それゆえ、す べての思想や観念は、基礎になっている本質的な実体、すなわち経済的諸条件に還元されて説 明されねばならないということになろう。こうした哲学的見解が他の何らかの形態の本質主義 より格段に優れているわけではないのは確かである。そしてそれが方法の領域に及ぼす効果 は、経済学主義の過度の強調とならざるをえないのである。なぜなら、《マルクスの経済学主 義の一般的重要性はいくら評価してもまず評価しきれるものではないが、個々の特殊的な事例 では、経済的諸条件の重要性が過大に評価されやすいからである》。経済的諸条件についての ある知識は、例えば数学の問題史にかなり寄与するであろうが、しかし数学の問題の知識その ものの方が、こうした目的にとってははるかに重要である。つまり、数学上の問題の「経済的 背景」にいっさい言及せずとも、十分に行き届いた数学の問題史を著述することさえ可能なの である(私見によれば、科学の「経済的諸条件」もしくは「社会的諸関係」というのは、すぐ 使いすぎになって陳腐に堕しやすいテーマである)。  しかし、これは、経済学主義を過度に強調する危険の矮小な例でしかない。経済学主義は、 しばしば十把一からげにされて、すべての社会的発展は経済的諸条件の発展とりわけ物理的生 産手段の発展に依存するのだ、という学説であると解釈されている。しかしこうした学説は明 白に誤りである。経済的諸条件と思想には相互作用が存在するのであって、単純に後者が前者 に一面的に依存するのではない。それどころか、われわれは、以下の考察から知ることができ るように、ある種の思想、われわれの知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。あらゆる機械やあらゆる社会的組織 も含めて、われわれの経済体制がある日壊滅させられたと、だがしかし技術上の知識は科学上 の知識は保存されたと想像してみよ。こうした場合でも、(多数の人々が餓死してしまった後 で小規模に)経済体制が再建されるまでに相当に長い期間が費やされることはおそらくないで あろう。だが、これらの事柄についての《すべての知識》が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ! このことは、未開民族が高度に産業化されてはいるが人々のいなくなっ た国を占領した場合に生じることに等しいであろう。それはすぐさま文明のあらゆる物質的残 存物の完璧な消滅につながるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第15章 経済学的歴史信仰,第3節,pp.102-104,未来社(1980),内田詔 夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









2020年4月4日土曜日

29.形而上学的信念、宗教的信念、道徳的信念、科学的知識が「私の経験」から構築されると考える理論は誤っている。「私の」知識、信念は、それらが属する世界3との相互作用、能動的な学習と探究の成果の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の所産としての自我

【形而上学的信念、宗教的信念、道徳的信念、科学的知識が「私の経験」から構築されると考える理論は誤っている。「私の」知識、信念は、それらが属する世界3との相互作用、能動的な学習と探究の成果の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))】

(6)自我、人格とは、世界3の所産である。
 (a)世界3の能動的な学習と、探究の成果の所産である。
  (i)例えば、科学的知識は「私の」知識ではない。
  (ii)宗教的信念、道徳的信念、形而上学的信念も、ある伝統を吸収した結果である。
  (iii)伝統のいくつかを自ら批判することは、「自分の知識」であると信じているものを形成するのに重要な役割を演じるであろう。
  (iv)そうした批判はほとんどいつでも、伝統の内部や、様々な伝統のあいだに不整合を発見することから引き起こされてくる。
  (v)自らの観察経験が伝統的理論を本当に反証する機会などめったにない。
  (vi)もちろん、「私自身の経験」による「個人的知識」は存在する。しかし、その経験を表現する言語の由来まで考えれば、完全に「私自身の経験」の結果だと言えるものなどほとんどない。
 (b)物質的環境との相互作用の所産である。
 (c)他者との相互作用の所産である。

 「こうしたことに対して、科学的知識は、まちがいなく《わたくしの》知識ではないと主張したい。

なぜなら、わたくしは、自分がいかになにも知らないかを知っているからである――「科学には知られている」が、自分の知らないことが(知りたいとは思うが)、じつになん千もあることを知っているからである。わたくしにとって(そしてほかのだれにとっても、と予想するが)、この事実は、それだけで科学的知識の主観主義的理論を拒否するのに十分である。

 しかし、たまたまわたくしが所有しているそうした科学的知識や常識的知識の断片でさえ、主観主義的な知識論においてあらかじめ考えられている図式にはあてはまらない。

そのような断片のなかには、完全に《わたくし自身の》経験の結果だと言えるものなどほとんどない。むしろ、それらの大部分は、一部には意識的に、一部には無意識のうちに、(たとえば、ある本を読むなどして)なんらかの伝統を自分で吸収した結果である。

そしてそれらの知識は、(たとえば宗教的信念とか、道徳的信念といった)形而上学的信念と同様、自分自身の観察結果と密接に結びついているわけではない。そうした形而上学的信念にしても、ある伝統を吸収した結果である。

どちらの場合でも、そうした伝統のいくつかをみずから批判することは、自分の知識であると信じているものを形成するのに重要な役割を演じるであろう。

しかし、そうした批判はほとんどいつでも、伝統の内部や、さまざまな伝統のあいだに不整合を発見することから引き起こされてくる。

(伝統と自分自身の観察経験のあいだに不整合を発見したから批判が呼び覚まされるなどということはほとんどない。というのは、みずからの観察経験が伝統的理論を本当に反証する機会などめったにないからである。)

 このように、科学的知識は《わたくしの》知識と同じものではない。そして、《わたくしの》知識であるもの――《わたくしの》常識的知識とか科学的知識――は、大部分、伝統や(望むらくは)なんらかの批判的思考を吸収した結果である。

 もちろん、「わたくしのもの」と呼べるかもしれない第三の種類の知識がある。インク瓶をどこに探せばよいか、自室のドアがどこにあるかをわたくしは知っている。鉄道の駅までの道も知っている。遅刻したときには靴紐が切れそうになることも知っている。

この種の(「個人的知識」とでも呼べるかもしれない)知識は、《わたくし自身の経験》からの結果なので、ほとんど伝統によるものではない。したがって、それは主観主義的理論によって思い描かれていた種類の知識にもっとも近い。

しかし、この「個人的知識」でさえ、その主観主義的理論には適合しない。なぜなら、それは――インク瓶、靴紐、鉄道の駅などといった、伝統を吸収することで学ばなければならない――伝統的なものごとについての常識的知識にぎっしり取り囲まれているからである。

もちろん、自分の観察、つまり目や耳は、この吸収の過程で大いに役に立つ。だが、主観主義的理論は、《自分の》知識から、さらには自分の観察経験から出発することを要求しているのだから、伝統の吸収過程は、主観主義的理論が思い描くものとは根本的に異なる過程となる。」

(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,9 なぜ主観主義的な知識論は失敗するのか,(上),pp.132-133,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:世界3の所産としての自我)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2020年4月2日木曜日

27.未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3の自律性

【未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。(カール・ポパー(1902-1994))】

(7)への補足

世界3とは何か

(1)世界3は、世界1のなかに符号化されている
(2)世界3の存在
(3)世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である
(4)世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する
(5)人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる
(6)世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である
(7)世界3の自律性
 未だ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、私たちの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。それは、自身の内的法則、制約、規則性を持ち、私たちの思考過程に決定的な影響を与える。

 「ほとんどの人は二元論者である。世界1と世界2の存在を信じることは、常識の重要な一部である。しかし、ほとんどの人にとって世界3の存在を受け容れることは容易ではない。

もちろん、そうした人でも、印刷された本とか、音声の言語的音響からなる世界1のまさに特殊な部分が存在することを認めるであろうし、また大脳過程や主観的な思考過程を認めるであろう。

しかし、彼らは、本を樹木のような他の物体から区別させるもの、あるいは、人間の言語を狼の遠吠えといった別種の音響から区別させるものがあるとすれば、それはつぎのような事実《でしかない》と主張するであろう。

すなわち、われわれはそれらを手がかりとして、ある種の特殊な世界2の経験、すなわち、まさにそうした本とかそうした言語的音響に相関する特殊な(おそらく大脳過程に平行する)思考過程をもつのだという事実である。

 この見解はまったく不十分であると思う。

わたくしは、世界3の自律的な部分の存在が認められるべきことを示したいと思う。それは、主観的あるいは個人的な《思考過程》からは《独立》しているとともに、明確に区別されるものでありながら、思考過程によって把握されるとともに、その把握に因果的に影響しうるような客観的な《思想内容》からなる部分のことである。

したがって、わたくしの主張はこうなる。まだ世界1の形態あるいは世界2の形態をとってはいないが、にもかかわらず、われわれの思考過程と相互作用する自律的な世界3の対象が存在する。じっさい、それらはわれわれの思考過程に決定的に影響する。

 初等算術から例を挙げてみよう。自然数の無限系列、0、1、2、3、4、5、6、……は人間の考え出したものであり、人間精神の産物である。そのようなものとして、それは自律的《ではなく》、世界2の思考過程に依存していると言われるかもしれない。

ところで、偶数あるいは素数をとりあげてみよう。それらは、われわれによって考案されたものではなく、《発見》された、あるいは見出されたものである。われわれは、自然数列が偶数と奇数からなり、そしてそれについてなにを考えようが、思考過程は世界3のこの事実を変更できないということを《発見》する。

自然数列は、われわれが数えあげることを学んだ結果である――つまり、人間の言語の内部において考案されたものなのである。

しかしそこには、変更不可能な内的法則あるいは制約もしくは規則性が存在する。しかもそれらは、人間が作った自然数列からの《意図されなかった帰結》、つまり、人間精神のすばらしい産物からの意図されなかった帰結なのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた宇宙―非決定論の擁護』,付録1,世界3の実在と部分的自律性,pp.153-155,岩波書店(1999),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:世界3の自律性)

開かれた宇宙―非決定論の擁護


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2019年3月26日火曜日

25.世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))

世界1に具現化されていない世界3の存在

【世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「具現化されていない世界3の対象の存在が重要であると私が考える主要な理由はこうである。

もし具現化されていない世界3の対象が存在すれば、世界3の対象を把握したり、理解したりすることは常に、その対象の物質的に具現化されているものとの感覚的な結びつきに依存する、例えば書物の中の一つの理論の言明をわれわれが読むことに依存すると主張するのは正しい考えではない。

この考えに反対して、私は世界3の対象を把握する最も特徴的な仕方は、それらの具現化やわれわれの感覚の使用にほとんど依存しない方法によってであると主張する。

私のテーゼは、人間の心は、常に直接的にというのでなければ、間接的な方法(これは後に議論されることになる)によって世界3の対象を把握する、というものである。この間接的方法とは、対象の具現化とは独立した方法であり、そして(書物のような)世界1にも属する世界3の対象の場合には、それら対象の具現化された事実から抽象する方法である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、12――具現化されていない世界3の諸対象(上)p.72、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年11月22日木曜日

24.世界3とは何か?(カール・ポパー(1902-1994))

世界3とは何か

【世界3とは何か?(カール・ポパー(1902-1994))】

3 追加記載。

世界3とは何か

人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))

1【世界3は、世界1の対象でもある。】
 世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。

2【世界3は、単に世界1の特定の対象または個々の世界2の集まりとはみなせない、別の世界である。】
 2.1 しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。そして内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
 2.2 また、世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

3【世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である。】
 世界1に具現化されている世界3は、本のように符号化されたものもあれば、芸術作品のように世界1の対象の役割がより大きいものもあるが、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、物質化された世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面である。
 3.1 私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符号化、具現化されたものを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われる。
 3.2 特別な本ではない場合は、世界1の対象は単に付随的な符号と思われるかも知れないが、例えば、ダンテの稀覯本を扱う際の鑑識家の楽しみは、特定の対象としての世界1に依存している。しかし、その楽しみは歴史などの知識に基づく世界3に属している。
 3.3 例として、ミケランジェロの彫刻はどうだろう。この場合は、さらに世界1の対象の役割が大きくなる。しかし、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、物質化された世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面である。

4【世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する。】
 4.1 世界3は、物理的対象としての世界1としては常に存在するにしても、いずれかの世界2が存在するときだけ存在すると言えるのか。それとも、世界2の記憶、意図の対象としていっさい存在しないときにも、存在すると言えるのか。
 4.2 世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界3として存在する。
 4.3 したがって、一度も演奏されなかったとしても、楽譜やレコードのように、記号化した形でのみ存在している対象もまた、世界3として存在する。
 参照: 世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界3として存在する。また、世界3の実在性を理解することは、世界3での新発見や創造と、未解決の問題を解決する探究の、前提条件である。(カール・ポパー(1902-1994))

5【世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である。】
  人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))
 科学理論の構築は、科学者による既存の理論の理解、新しい問題の発見、解決法の提案、批判的な議論など長い知的な仕事によるものだが、ここには個々の科学者の世界2の寄せ集めを超える世界が存在する。これが、世界3である。そして、これら科学理論の応用である人工物が、世界1に実現されて、地球表面を覆っていることを考えてみよ。これらが世界1の中だけで実現されていると考えられ得るか。世界2の寄せ集めだけで実現されていると考えられ得るか。このように考えると、世界3の実在性は確かなものに思える。

6【世界3の自律性:世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。】
  世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))
 6.1 世界3は、確かに最初は人間が作ったものであり、また人間の心の所産である。
 6.2 しかし、いったん存在するようになると、それは意図しなかった結果を生み出す。それは、ある程度の自律性を持っている。
 6.3 また、今は誰も知らない未知の諸結果が客観的に存在していて、発見されるのを待っているかのようである。
 6.4 未知の諸結果が発見されるのを待っており、また、未解決の問題については、その解決が客観的に存在すると理解することが、発見と解決のための探究の重要な前提条件である。

 「P――世界3の対象が符号化されている世界1の成分と、世界2、世界3との間の関係についてつけ加えておきましょう。

もしわれわれがミケランジェロの彫刻をみるなら、われわれがみるのは、一方では、それが大理石の一片である限りで、もちろん世界1の対象であると考えられます。

他方、大理石の硬さのような、この彫刻の物質的側面でさえ、世界2が世界1の土台に符号化されたこの世界3の対象を観賞するためには無関係ではないでしょう。なぜなら、観賞は芸術家の物質との闘い、物質のもつ諸困難の克服にあり、それが世界3の対象のもつ魅力や意味の一部だからです。

ですから私は、符号化された世界3の対象がもつ世界1の側面を随伴現象に格下げすることを好みません――でもしばしばそうですが。

もしわれわれが、比較的よく印刷されてはいるがたいへんよいというわけではない本――例えば、特製本でないもの――を手にするなら、この本の世界1の側面はまったく不適当で、ある意味では随伴現象以上のものではなく、この本の世界3の内容に対する一種の興味のない付録以上のものではありません。

でも、ミケランジェロの像や本のいずれの場合でも、われわれ――われわれの世界2、われわれの意識的な自我――が真に接触するのは世界3の対象なのです。彫刻像の場合には、世界1の側面は重要ですが、それは世界1の対象を変化させ、形作ることにある世界3の仕事のゆえにのみ重要なのです。

どの場合でも、われわれが現実に見て、賞讃し、理解するのは、物質化された世界3の対象というより、むしろ物質化と無関係の種々の世界3の側面なのです。

例えば、古い版の書物は賞讃を受けるが、それはその歴史的重要性――これもまた世界3の一側面――のゆえにです。物質化された世界3の対象に対する世界2の楽しみ――ダンテの稀覯本を扱う際の鑑識家の楽しみ――は、大部分それらに対する《理論的な知識》に基づいています。この理論的な知識はまた、世界3の側面が主要な役割をもつことを意味しているのです。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DXI章、(下)pp.783-784、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年11月19日月曜日

23.生命は、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているが、命をかけ暴力を使うことなく、試行し、誤りを排除できる方法が発現し、圧倒的な優位を獲得した。それは、人間の心と、文化(世界3)の発現である。(カール・ポパー(1902-1994))

自然淘汰の結果としての心と文化

【生命は、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているが、命をかけ暴力を使うことなく、試行し、誤りを排除できる方法が発現し、圧倒的な優位を獲得した。それは、人間の心と、文化(世界3)の発現である。(カール・ポパー(1902-1994))】

 「各章であまり明示されていなかったが、明示すべき最後の点は次のことである。
 (9) 自然淘汰と淘汰圧は通常は、生命への多少とも激烈な闘争の結果として考えられる。
 しかし、心、世界3、理論の発現によってこれは変わる。われわれは理論を最後まで戦わす――われわれの代わりに理論を死に至らしめる。

自然淘汰の観点からは、心と世界3の主要な機能は、われわれ自身を暴力的に排除することなく、試行と、誤りの排除という方法を適用することを可能にすることである。この点に、心と世界3の偉大な生存価値があるのである。

したがって、心と世界3との発現をもたらすことで、自然淘汰は自らとその元来の暴力的性格を超越する。世界3の発現によって、淘汰はもはや暴力的である必要はなくなる。

われわれは非暴力的な批判によって誤った理論を排除できるのである。非暴力的な文化的進化はユートピア的な夢ではなく、むしろ、自然淘汰を通じての心の発現の可能な結果の一つなのである。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P6章 要約(上)pp.319-320、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:自然淘汰,心,文化,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月26日日曜日

7.言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

言語と心身問題

【言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))】

心身問題における言語の役割の考察。

世界1:自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ自然的過程
 言語を学習する強い必要性と、無意識的で生得的な動機
 言語を学習する能力

世界3:種々の言語と、その文化的進化
 様々な差異を持った数多くの言語が存在する。

世界2:個々の言語を実際に学習する過程
(1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている。
(2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である。
(3)言語は、以下に対して強いフィードバック効果を持っている。
 (3.1)自らの物質的環境への精通
 (3.2)他者との関係
 (3.3)自我、人格の形成
(4)すなわち、自我、人格とは、
  (4.1)能動的な学習と探究の成果の所産である。
  (4.2)世界3の所産である。
  (4.3)物質的環境との相互作用の所産である。
  (4.4)他者との相互作用の所産である。

(再掲)

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)


 「心身問題に関係した第三の論証は人間言語の地位と結びついている。

 言語を学習する能力は――そして言語を学習する強い必要性さえも――人間の遺伝的構造の一部であるようにみえる。

これとは対照的に、個々の言語を実際に学習することは、無意識の生得的な必要性と動機に影響されるとはいえ、遺伝子に制御された過程、したがって自然的過程ではなく、世界3に制御された、文化的過程である。

したがって、言語学習は自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ性質が、文化的進化に基づく探究と学習の意識過程といくらか入り組み合い、相互作用する過程である。これは世界3と世界1の相互作用という考えを裏づけており、さらにわれわれの以前の論証から、それは世界2の存在をも裏づけている。」(中略)

「種々の言語は、その数と差異が示しているように、人間が作ったものである。それらは文化的な世界3の対象である。

もっとも、それらは遺伝的に確立された能力、要求、目的によって可能となるものである。普通の子供はみな、楽しくそしてたぶん苦痛でもあるきわめて能動的な勉強によって、一つの言語を習得する。言語に伴う知的成果は多大なものである。

もちろん、この努力は子供の人格、他人への関係、自らの物質的環境への関係に対して強いフィードバックの効果をもっている。

 こうして、子供は部分的には彼自身の成果の所産であると言うことができる。

彼は自分自身ある程度まで世界3の所産である。子供の物質的環境への精通とその意識が、自分の新しく習得した話すという能力によって拡大されるが、それと同じことが彼自身の意識についても言える。

自我、人格は、他我、彼の環境内の人工物ならびに他の対象との相互作用から生じる。これはすべて言語の習得に深く影響を与える。

その影響が強いのは、特に、子供が自分自身の名前に気づく時、彼の身体の種々の部分の名称を学ぶ時、そして最も重要な、彼が人称代名詞を用いることを学ぶ時である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)pp.80-82、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:言語,心身問題,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月20日月曜日

6.意識的思考が、世界1の諸法則に従いつつも、なぜ能動的に働き世界1に影響を与え得るように見えるのかを理解するのに、世界2が世界3を把握して新たな世界3を生成するという事実が、重要なヒントを与える。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3と心身問題

【意識的思考が、世界1の諸法則に従いつつも、なぜ能動的に働き世界1に影響を与え得るように見えるのかを理解するのに、世界2が世界3を把握して新たな世界3を生成するという事実が、重要なヒントを与える。(カール・ポパー(1902-1994))】

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b)世界3と世界1の相互作用
 世界3は、確かに世界1の対象としても存在してはいるが、世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。これは、すなわち新たに生成された世界1でもある。

(b1)世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。

 時間1 世界1・P1⇒世界3・C1
  ↓    ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界3・C2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(c)世界2と世界1の相互作用(心身問題)
(c1)精神状態は脳内のプロセスから生じるとすると?

 時間1 世界1・P1⇒世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界2・M2

 しかし、世界2は、世界1の対象を視覚により知覚する場合であっても、能動的で生産的な方法により知覚を作り出す。これは、無意識的な神経生理学的過程に支えられている。

(c2)意識的な思考過程は、どのように理解すればよいのだろうか。

 時間1 世界1・P1 世界2・M1
  ↓   ↓    ↓意識的な思考過程
 時間2 世界1・P2 世界2・M2

 もし物理的世界の諸法則が全てを支配しており(c1)が正しいとすると、(c2)のような意識的な思考過程が、どのように生じて、どのように物理的世界に影響を及ぼし得るのか、というのが心身問題である。(b2)が、それを「理解するのを少しは容易にしてくれる」。

 「第二の論証は第一のものに部分的に依存している。もしわれわれが三つの世界の相互作用を認め、したがって、それらの実在性をも認めるならば、いくぶんかはわれわれが理解できる世界2と世界3の相互作用は、心身問題の一部である、世界1と世界2の相互作用の問題をよりよく理解するためにわずかとはいえ、おそらく助けとなるであろう。

 なぜなら、われわれは、世界2と世界3の相互作用の一つ(《把握作用》)は、世界3の対象を作り出す働きとして、そして批判的な選択によってそれら対象を照合する働きとして解釈できるということをみてきた。

同じようなことは世界1の対象の視覚による知覚についても正しいように思われる。このことは世界2を能動的――生産的で批判的(製作的と調合的)――とみるべきであることを示唆している。

だが、ある無意識的な神経生理学的過程がまさにそれを行っているのだ、と考えるべき理由をわれわれはもっている。このことはおそらく、意識過程も同じ仕方で行なわれていることを《理解する》のを少しは容易にしてくれる。すなわち、神経過程によって意識的過程が行なわれていることは、行なわれているのと同じような仕方である程度まで《理解できる》。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)p.80、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:心身問題,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月19日日曜日

5.世界3についての考察は、心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3と心身問題

【世界3についての考察は、心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる。(カール・ポパー(1902-1994))】

(再掲)
1 人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))
1.1【世界3は、世界1の対象でもある。】
1.2【世界3は、個々の世界2の集まりを超える、何ものかである。】
1.3【世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する。】
1.4【世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。】
2【世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である。】
  人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))
3【世界3の自律性】
  世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))

 「世界3についての考察が心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる、というのが本書で提起される主要な推測の一つである。三つの論証を簡単に述べてみよう。
 第一の論証は次のようである。
(1)世界3の対象は抽象的である(物理的な力よりもいっそう抽象的である)が、それにもかかわらず実在的である。なぜなら、それらは世界1を変革する強力な手段なのである。(私はこのことが世界3の対象を実在的と呼ぶ唯一の理由であるとも、またそれらは手段以外の何物でもないとは思わない。)
(2)世界3の対象は人間がそれらの製作者として介在することを通してのみ世界1に影響を及ぼす。とりわけ、世界3の対象が把握されるということを通して世界1に影響を及ぼす。そして、把握とは、世界2の過程、または心的過程であり、より正確には世界2と世界3が相互作用する過程である。 
(3)したがって、われわれは世界3の対象と世界2の過程がともに実在的であることを認めねばならない――たとえ唯物論の偉大な伝統への尊敬から、これを認めることを好まなくともである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)p.79、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3,心身問題)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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