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2018年9月8日土曜日

一本の樹木が、生身の存在として私と向き合い、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。これは、私の全てがその樹に捉えられているような状態であり、単なる印象、想像、情緒によるものではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

汝としての樹木

【一本の樹木が、生身の存在として私と向き合い、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。これは、私の全てがその樹に捉えられているような状態であり、単なる印象、想像、情緒によるものではない。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

一本の樹
(a)対象物としての樹、《それ》としての樹
 (a1)形象、色彩、運動
 (a2)分類学上のある種属、構造や生存様式
 (a3)化学的組成、物質の化合と分離とを支配する法則の表現
 (a4)純粋な数式
(b)生身の存在として私と向き合い私と関係する、一つの全体としての樹、《汝》としての樹
 (b1)(a)で知られる全てのことは、その樹のなかに存在し、ひとつの全体性のうちに包まれている。
 (b2)その樹と私の間に、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。
 (b3)関係が成立しているとき、私の全てがその樹に捉えられているような状態にあり、その樹も何らかの仕方で私と関わりを持っている。
 (b4)もちろん、その樹に意識のようなものがあるわけではない。
 (b5)その樹が私に及ぼす印象は、この関係性とは別のものである。
 (b6)その樹についての私の想像力が、この関係性を作り上げているわけではない。
 (b7)その樹が私に引き起こした情緒が、この関係性そのものというわけではない。

 「私は一本の樹を観察する。
 私はそれを形象(Bild)として受けとることができる。陽光をはね返して屹立している柱として、あるいは青味がかった銀色のおだやかな輝きが背後から流れこんでくるゆたかな緑の噴出として。
 私はそれを運動として感じとることができる。固着した、しかも伸びあがってゆく髄を流れている脈管として、根の吸引として、葉の呼吸として、大地や大気との限りない交流として、――また幽暗な生長の運動そのものとして。
 私はそれを分類学上のある種属に組みいれ、一個の標本として、その構造や生存様式を観察することができる。
 私はその現在相や形態には目もくれずに、その樹をたんに法則の表現として、――すなわち、たえず対立的にはたらいている諸力を一定の均衡に保つ法則、あるいは物質の化合と分離とを支配する法則の表現としてのみ認識することができる。
 私はその樹を数へと、純粋な数式へと揮発させて恒久化することができる。
 これらすべての場合においてその樹は私の対象物であり、その場所と時点、性質と状態とを有する一個の客体である。
 しかし、私にその意志があり、また同時に恩寵のはたらきが受けられるなら、私がその樹を観察しながら、その樹との関係のなかへ引きいれられることも起こり得る。このとき、その樹はもはや《それ》ではない。このとき私は、専一性(Ausschließlichkeit)の力にとらえられてしまっているのだから。
 しかも、その樹との専一的な関係にはいるために、私は私の観察のさまざまな方法のどれひとつとして断念する必要がない。ひとつの全体としてその樹を見るために、その樹のことで私があえて無視せねばならぬようなものは何ひとつなく、また忘れねばならぬ知識も何ひとつなく、また忘れねばならぬ知識も何ひとつない。むしろ、形象も運動も、種属性も標本価も、法則も数も、すべてがその樹のなかで分かちがたく合一しているのだ。
 その樹に属しているすべては、その形相も機構も、色彩も化学的組成も、その諸原素との語らいも、星辰との語らいも、ともにその樹のなかに存在し、すべてがひとつの全体性のうちに包まれているのである。
 その樹は印象ではない、私の想像力のたわむれでもなく、情緒的価値でもない。その樹は生身の存在として私に向いあい、私がその樹と関わりをもつように、その樹もまた――ただことなった仕方によってだか――私と関わりをもつのである。
 関係の意味からその力を殺ぐようなことをしてはならない。関係とは相互的なもの(Gegenseitigkeit)なのである。
 それでは、その樹にもわれわれの意識に似た何らかの意識があるのだろうか? 私はそんなものに出会いはしない。だが、きみたちは、そのことにきみたちが成功しそうだからといって、またしても分析し得ぬものを分析しようとするのだろうか? 私が出会うのは樹の魂や、樹の精ではなく、樹そのものなのだ。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第1部(集録本『我と汝・対話』)pp.11-12、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝としての樹木)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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