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2019年7月31日水曜日

義務の感情の客観的基盤:(a)他者の快苦や状態に配慮する感情、(b)為すべき行為に関して、情念や感情の限界を超えて、経験や理論に基づく理性による判断をする能力、(c)教育や統治により自らを変える能力。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

義務の感情の客観的基盤

【義務の感情の客観的基盤:(a)他者の快苦や状態に配慮する感情、(b)為すべき行為に関して、情念や感情の限界を超えて、経験や理論に基づく理性による判断をする能力、(c)教育や統治により自らを変える能力。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
(4)義務の感情には、客観的な根拠があるのか。
 (4.1)義務の感情は、主観的なものであって人間の意識の中にある。
 (4.2)義務の感情は、人間の行為を不十分にしか拘束しない。大きな選択の余地が残されている。
  (4.2.1)義務の感情がなくなったら、義務ではなくなるのだろうか。実際に、感じない人もいる。
  (4.2.2)義務の感情が自分にとって不都合だと感じたら、それを無視してもよいのだろうか。実際、多くの人の心のなかで、良心が簡単に沈黙させられたり、抑圧させられている。
 (4.3)しかし、人間に義務の感情が存在しうるということは、この宇宙、自然、生命体に関する、客観的実在の何らかの諸法則に根拠があるに違いない。
  (4.3.1)配慮の感情:人間には、他者の快や苦痛を感じ、それに配慮するという感情が存在する。(種々の共感や、一般的博愛、他者の状態の認識に起因する諸感情など。)
  (4.3.2)道徳感情は、人間によって作り上げられるものである。しかし、そうだからといって、この感情が自然なものでなくなるわけではない。話したり、推論したり、都市を建設したり、土地を耕したりすることは後天的能力だけれども、人間にとって自然なことである。
   参照:義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断であり、議論に対して開かれている。道徳論と感情は、経験と知性に伴い進歩し、教育や統治により陶冶される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   参照: 義務や正・不正を基礎づけるものは、特定の情念や感情ではなく、経験や理論に基づく理性による判断である。情念や感情は、慣習、教育、世論により制約されており、一般原理と論理による判断はその限界を超越し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))


◆説明図◆

┌──────────────────┐
│ この宇宙、自然、生命体に関する、 │
│ 客観的実在の何らかの諸法則    │
└──────────────────┘
    ↓
┌───────────────────────┐
│┌─────┐                │
││統治体制 │ 配慮の感情          │
││教育、慣習│ 種々の共感、一般的博愛    │
││世論   │ 他者の状態の         │
│└──┬──┘ 認識に起因する諸感情     │
│   ↓      ↓            │
│┌─────────────────────┐│
││経験や理論に基づく理性による判断……(a) ││
││(道徳論:例えば、全体の幸福の増進)   ││
││ ↓                   ││
││ある道徳の基準……(b)          ││
││(例:泥棒、殺人、裏切り、詐欺の禁止)  ││
│└─────────────────────┘│
│   ↓                   │
│┌─────────────────────┐│
││特定の個人                ││
││(a)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?││
││(b)…義務の感情が呼び起こされるか、否か?││
││ 人間には、大きな選択の余地が残されている││
││                     ││
││その他の強制力              ││
││(c)…苦痛と損害を避け、快と幸福を求める ││
││   欲求によって作用する利害の力    ││
││(d)…法律に基づく賞罰によって作用する力 ││
││(e)…宗教的な強制力           ││
│└─────────────────────┘│
└───────────────────────┘

 「道徳的義務のなかに先験的事実、つまり「物自体」の領域に属する客観的実在性を見いだす人の方が、それをまったく主観的なものであって人間の意識のなかにあるものと考えている人よりも、道徳的義務に従いやすいと信じる傾向があることを私は承知している。しかし、人がこのような存在論に関する論点についてどのような見解をもっているとしても、人を本当に駆り立てる力はその人自身の主観的感情であり、この力はまさにその強さによって評価されるものである。義務が客観的実在であるという信念は誰のものであっても、神が客観的実在であるという信念ほど強くはない。とはいえ、現実に賞罰を期待することを別にすれば、神への信仰であっても、主観的な宗教的感情を通じて、そしてそれに比例して、行為に作用を及ぼすにすぎない。強制力は、無私なものであれば、つねに心のなかに存在している。こう言うと、先験的道徳論者は、心の外にこの強制力の根拠があると信じられなければ、これは心の《なかには》存在しないだろうと考えたり、人は「自分を拘束していて良心と呼ばれているものは、自分の心のなかにある感情にすぎない」と自分で考えてみたら、この感情がなくなったら義務もなくなるだろうという結論を引き出すだろうと考えたり、人がこの感情が不都合なものだと感じたら、それを無視したり頭のなかから追い払おうと努めようとするだろうと考えたりするに違いない。しかし、この危険は功利主義道徳論にかぎられたものだろうか。道徳的義務の根拠は心の外にあるという信念を持つことによって、義務の感情は頭のなかから追い払えないほどに強くなるのだろうか。事実はまったく異なっており、大多数の心のなかで良心が簡単に沈黙させられ抑圧させられていることをすべての道徳論者が認めて嘆いている。「自分の良心に従う必要があるのだろうか」という疑問は、功利性の原理の支持者によるのと同じくらい頻繁に、その原理について耳にしたことのない人によって抱かれている。良心が弱いためにこのような疑問を問いかける人々がこの疑問に肯定的に答えたとしても、それは先験的な理論を信じているからではなく、外的強制力のためである。
 当座の目的のためには、義務の感情が生得的なものなのか教え込まれるものなのかについて判断を下す必要はない。それを生得的なものと想定するならば、それは本来どのようなものに付随していたのかということが問題になる。というのは、その理論を哲学的に支持する人々は、直感的に認識されるのは道徳の原理についてであってその細部ではないという点について今では一致しているからである。この問題に関して先験的なものがあるとすれば、どうして生得的な感情が他者の快苦に配慮するという感情であってはならないのか私にはわからない。強制力を直感的にもっているような道徳の原理があるとすれば、それはこの配慮という感情に違いない。そうだとすれば、功利主義倫理は直感主義倫理と一致し、両者の間で反目はもうなくなるだろう。現在でも、直感主義道徳論者はその他にも直感的な道徳的義務があると考えているけれども、この感情がそのような義務の一つであると実際に考えているのである。というのは、彼らは一致して道徳の大部分が同胞の利害について考慮することに関わっていると考えているからである。したがって、道徳的義務に先験的な源泉があると信じることによって内的強制力の効果がさらに高められるとするならば、功利主義的原理はその恩恵を受けているように思われる。
 他方で、私がそう考えているように、道徳感情が生得的ではなく後天的なものであるとしても、そうだからといってこの感情が自然なものでなくなるわけではない。話したり、推論したり、都市を建設したり、土地を耕したりすることは後天的能力だけれども、人間にとって自然なことである。たしかに、道徳感情は私たちすべてにはっきりとした形で存在しているわけではないという意味では私たちの本性の一部ではない。しかし、あいにくこのことはそのような感情が先験的起源をもっていることをきわめて強く信じている人々によって認められている事実である。先に言及した他のさまざまな後天的能力と同じように、道徳能力も、私たちの能力の一部ではないとしても、本性から自然に生み出されるものである。そして、他の能力と同じように、わずかではあっても自然発生的に生じてくることができるものであり、涵養することによって大いに伸ばすことができるものである。あいにく、この能力は外的強制力と幼少期に与えられる影響を十分に用いることによって、ほとんどあらゆる方向に涵養していくことができるものでもある。したがって、その影響力が良心のあらゆる権威に基づいて人間の精神に作用されないならば、これほど不合理で有害なものはほとんどないだろう。同じような手段によって功利性の原理にも同じような効果が与えられているということに疑問を抱くのは、それが人間本性に基礎をもっていないとしても、経験をまったく無視していることになるだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第3章 功利性の原理の究極的強制力について,集録本:『功利主義論集』,pp.295-297,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:義務の感情の客観的基盤,配慮する感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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