2019年4月29日月曜日

社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能なルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識、直感的な行為自体が示すルールもあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

記述可能なルールと、行為が示すルール

【社会的ルールの存在は、外的視点、内的視点における事実問題であるが、記述と表明が可能なルールだけでなく、状況に応じた行為者の無意識、直感的な行為自体が示すルールもあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.1)追加。
(2.3)追加記載。
(2.4)追加。

(2)社会的ルール
 ある習慣が存在しても、社会的ルールが存在しているとは限らない。
 人が、あるルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更されえないものとしてこれを受けいれているとは、どのようなことか。
 (2.1)ルールの存在は事実の問題
  ルールが存在するかどうかは、ある状況における行為の仕方、心理的な思考過程に関する、ある事実が存在するかどうかの問題であり、証拠によって裏付けられるようなものである。
 (2.2)外的視点
  (a)観察可能な行動の規則性:ある集団の大部分の人々において、ある一定の状況においては、特定の行動が繰り返される。
  (b)ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が観察される。
  (c)ただし、少数の常習的違反者は、つねに存在する。
 (2.3)内的視点
   「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化されても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)行動様式に関する共通の基準が存在する。
  (b)行為の正当な理由:なぜ、その行為が正しいのかと理由が求められたとき、そのルールが参照される。また、行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当化される。
  (c)批判的態度:基準からの逸脱は、一般的に「過ち」や「失敗」と考えられ、批判の十分な理由として受け容れられている。
  (d)反省的態度:批判や要求をされる者も、これを正当なものとみなしている。
  (e)一致への要求
   逸脱が生じそうな場合、基準への一致の要求が、正当なこととして受け容れられている。
  (f)ルールからの逸脱に対する社会的圧力が存在する。
   (e.1)圧力が存在しない、単なる習慣も存在するだろう。
   (e.2)分散している敵対的、批判的な社会的反作用に、任されている場合もあるだろう。
   (e.3)個人の、恥、自責の念、罪の意識という感情の働きに、任されている場合もあるだろう。
   (e.4)ルール違反に対して、中央に組織された刑罰の体系が組織されている場合もあるだろう。
  (g)社会的ルールの存在を示す規範的な表現が存在する。
   批判、要求、是認を表現するために、広範囲の「規範的な」言語が使用される。例えば、「すべきである」、「しなければならない」、「するのが当然だ」、「正しい」、「誤っている」。

 (2.4)記述・表明可能なルールと、行為自体が示すルール
  (a)ルールについて、行為者が意識的に考慮すること、またルールの容認を表明することとは、必ずしもルールの存在の要件ではない。
  (b)状況に応じた無意識的、直感的な行為が、あるルールの存在を示している場合もあり得るだろう。
  (c)別のルールに動かされている人が、見せかけやごまかしで、あるルールの容認を表明する場合もあり得るだろう。
  (d)事実として存在し、また同時に明確な基準として意識されているルールに、一致しようとする真の努力によって、行為が導かれている場合もあり得るだろう。
  (e)一般的でしかも仮定的な用語で記述され得るルールも存在するし、記述するのが難しいルールも存在し得るだろう。

 (2.5)感情
  (a)個人は、社会の批判と一致への圧力によって、束縛または強制の感覚、感情を経験する。
  (b)社会的ルールと感情との関係
   感情は、「拘束力ある」ルールの存在にとって、必要でも十分でもない。すなわち、ルールの存在の根拠が特定の感情そのものというわけではない。また、人々があるルールを受け容れていながら、強いられているという感情を経験しないこともある。


 「ときには、裁判所を拘束するルールの存在が否定されることがあるが、それは、一定の仕方で行動する人が、その行動により、彼にそうせよと要求するルールの容認を表明したのかどうかの問題が、当人が事前にか、または行為中にたどった思考過程に関する心理上の問題と混同されているためである。人がルールを拘束力のあるものとして、また彼や他の人々によっても勝手に変更されえないものとしてこれを受けいれるとき、彼はルールが一定の状況において要求することをまったく直感的に理解し、そのルールとルールの要求をまず考えることなしに、そうすることはよく見られることである。われわれが、ルールに従ってチェスの駒を動かしたり、赤信号で停止するとき、われわれの行動はルールに一致するとはいっても、しばしばその状況に対する直接の反応であって、ルールの観点からの考慮を経ていない。このような行動が、当該ルールの真の適用 genuine applications of the rule であるという証拠は、それらがある状況の下にあるということに見い出される。そのうちのいくつかは、個々の行為より先になされて、他がこれに追随しており、それらのいくつかのものは、一般的でしかも仮定的な用語でのみのべられるものである。行為するさいに、われわれがあるルールを適用したということを示すこれらの要素のうち、もっとも重要なものは、《もし》われわれの行動が非難されたなら、そのルールを参照して正当化しようとすることである。われわれが真にこのルールを受けいれていることは、過去から引き続いてこれを一般的に承認し、またこれに一致しているということによってだけでなく、われわれが自分達や他人の逸脱を批判することによっても、表明されているのである。このような証拠やこれに類似する証拠にもとづいて、われわれはたしかに次のように結論できるだろう。すなわち、われわれがルールのことを「考えることなく」これに一致して行動する前に、どうすることが正しいのか、その理由は何であるかを答えるよう求められていたとしたら、正直であるかぎり、そのルールをもち出して答えたであろうということである。あるルールを真に順守する行動と、たまたまルールと一致したにすぎない行動とを区別するのに必要なものは、そのような状況のもとにわれわれの行為があるということなのであって、そのルールについてはっきりと考えて行動するということではない。大人のチェス・プレーヤーが受けいれられたルールへの一致という形でチェスの駒を動かすことと、赤子がチェスの駒を押して正しい場所へ移動させたにすぎない行為とを区別するのは、こんなふうにしてである。
 こう言ったとしても、みせかけや「ごまかし」がありえないとか、それが成功しないこともあると言っているのではない。ある人が、《後になってから》自分はルールにもとづいて行動したのだというふりをしているかどうかのテストは、すべての経験的テストと同様に、本来誤りやすいものではあるが、しかし常にそうであるわけではない。ある社会では、裁判官がいつもまず直感的にまたは「勘により」決定に到達し、その後で法的ルールの目録から一つを選びだし、これこそ当該事件に似ているのだというふりをするにすぎないこともある。その場合、裁判官はその言動からすれば、選んだ法的ルールが彼らを拘束するものと考えているようなそぶりを何も示さないとしても、このルールこそは彼らの決定を命じているものだと彼らは考えていると主張することもあろう。いくらかの判決はこのようであるかもしれないが、大部分の判決の場合には次のようなことが確かに明らかなのである。すなわちそれらの判決は、大部分はチェス・プレーヤーの指し手と同様に、それぞれ判決を導く基準として意識的に採用したルールに一致しようとする真の努力によって得られるか、またはもし直感的に引き出されたとしても、その裁判官が以前から守ろうとしているルール、しかも当該事件にとっても重要であることが一般に認められているようなルールによって正当化されているのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第2節 ルール懐疑主義の多様性,pp.152-154,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:社会的ルール,ルールの外的視点,ルールの内的視点,記述可能なルール,行為が示すルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

法や社会制度、教育と世論の重要性

【人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3) 追記。

《目次》
(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)苦痛と快楽
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
 (1.3)幸福とは何か
 (1.4)平穏と興奮
 (1.5)人類全体への愛情
 (1.6)精神的涵養
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則


(1)人間の行為の究極的目的
 (a)行為の人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)苦痛と快楽
  できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽の量と質
  苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か
  幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
  (c)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。

 (1.4)平穏と興奮
  平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。

 (1.5)人類全体への愛情
  自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
   この世界にある不幸との戦いへの参画は、気高い楽しみを与えるだろう。人類全体の幸福への献身は、自らの幸福を超越し得る。しかし、極めて不完全な社会では、徳自体が与えてくれるストア的な幸福もあり得よう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
   (b.1)この世界には、さらに是正し改善すべきものが多くある。
    (b.1.1)貧困、病気など、避け難く、未然に防ぐこともできず、緩和することもできないと思われるような、様々な肉体的・精神的苦悩の源泉が存在する。
   (b.2)運命の変転や自分の境遇について失望してしまう原因。
    (b.2.1)甚だしく慎慮が欠けていること。
    (b.2.2)欲が大き過ぎること。
    (b.2.3)悪い、不完全な社会制度のために、自由が認められていないこと。
   (b.3)改善への希望。
    (b.3.1)これら苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろう。
    (b.3.2)貧困は、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって、完全に絶つことができるだろう。
    (b.3.3)病気は、科学の進歩と優れた肉体的・道徳的教育によって、有害な影響を限りなく縮小できるだろう。
   (b.4)自己犠牲とは何か。
    (b.4.1)なぜ、自らの幸福を犠牲にし得るのか。それは、他者の幸福や、世界の幸福の総量を増大、あるいは幸福の何らかの手段への献身だと信じるからである。
    (b.4.2)「目的は、幸福ではなく徳である」は、正しいだろうか。しかし、自らの犠牲によって、他の人々も同じような犠牲を免れ得ると信じていなかったとしたら、その犠牲は払われたであろうか。
    (b.4.3)誰かが、自らの幸福を完全に犠牲にすることによってしか、他の人々の幸福に貢献できないというのは、世界の仕組みがきわめて不完全な状態にあるときだけである。

 (1.6)精神的涵養
  精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
 (1.7)きわめて不完全な状態の社会における幸福の実現
  (a)意識的に、幸福なしにやっていくことが、到達可能な幸福を実現することについての、最良の見通しを与えてくれる場合がある。「目的は、幸福ではなく徳である」。
  (b)それは、宿命や運命が最悪であっても、それが人を屈服させる力を持っていないと感じさせてくれる。
  (c)その結果、人は人生における災難について、過剰に不安を抱くことがなくなる。
  (d)また、手の届くところにある満足の源泉を、平穏のうちに涵養することができるようになる。
  (e)それは、死をも超越する。

(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。


 「功利主義を攻撃する人がめったに正しく認めようとしてくれないことを私は再び繰り返して言っておくが、何が正しい行為なのかを決める功利主義的基準を構成している幸福とは、行為者自身の幸福ではなく関係者すべての幸福である。自分自身の幸福か他の人々の幸福かを選ぶときには、功利主義は利害関係にない善意ある観察者のように厳密に公平であることを当事者に要求している。ナザレのイエスの黄金律に、私たちは功利性の倫理の完全な精神を読み取る。人にしてもらいたいと思うことを人にしなさいというのと、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいというのは、功利主義道徳の理想的極致である。その理想にもっとも早く近づく手段として功利性は次のことを求めるだろう。第一に、法や社会制度があらゆる個人の幸福や(あるいは実際的に言えば)利害をできるかぎり全体の利害と一致させるようなものであること、第二に、人間の性格にたいして大きな力をもっている教育や世論が、自らの幸福と全体の善の間には、とりわけ全体の幸福が求めるような行為を消極的にでも積極的にでも実行することと自らの幸福の間には切ることのできない結びつきがあるということを各人の心に抱かせるためにその力をもちいることである。そうすれば、全体の善に反するような行為を押し通して自らの幸福を得ようと考えることはできなくなるだけでなく、全体の善を増進するという直接的な衝動があらゆる個人にとって行為の習慣的な動機のひとつとなり、それに伴う感情が各人の感情のなかで大きく重要な位置を占めるようになるだろう。功利主義道徳論を非難する人がこのような正しい特徴によってそれを心に思い描くならば、彼らが支持するであろう他の道徳論がもっている長所のうち功利主義道徳論に欠けているものが何なのか、他の倫理体系が促すと考えられている、より美しくより賞賛すべき形での人間本性の発展というのはどのようなものなのか、そして、その体系は功利主義者が利用できないどのような行為の動機にもとづいて指令を実行させるのか、私には分からない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.279-280,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:法,社会制度,教育,世論)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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