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2019年9月10日火曜日

単に私の善、他者たちの善ではない、諸関係に共に参加する私と他者の共通善が存在する。共通善を追求する自立した実践的推論者は、与えることに関する諸徳と共に、受け取ることに関する諸徳を持つ。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

与えることに関する諸徳と受けとることに関する諸徳

【単に私の善、他者たちの善ではない、諸関係に共に参加する私と他者の共通善が存在する。共通善を追求する自立した実践的推論者は、与えることに関する諸徳と共に、受け取ることに関する諸徳を持つ。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)善とは何か。
 (1.1)他者たちの善ではない、私の善
  ただもっぱら利己的であるような欲求に基づく善。
 (1.2)私の善ではない、他者たちの善
  利他的な、善意にもとづく行動である。善意の対象である他者は、私たちが自分自身に親切心が備わっていることを確認して安心できるというような他者として考えられている。
 (1.3)他者たちの善である限りにおいて、私のものでもありうる善
  現に成立している諸関係に、他者と共に参加し続け、共通善を分ちあうことによって求められる善。
(2)徳とは何か。
 徳とは、私たちが自立した実践的推論者になることを可能にしてくれるものである。
 (2.1)自立の諸徳――与えることに関する諸徳
  (a)気前のよさと正義という二つの側面を同時に備えている。
  (b)「気前のよさ」ではない。人は正しくなくても、気前が良い場合がある。
  (c)「正義」だけではない。人は気前が良くなくとも、正しかったりすることがある。
 (2.2)承認された依存の諸徳――取ることに関する諸徳

 「一方における利己心にもとづく市場での行動と、他方における利他的な、善意にもとづく行動との間のアダム・スミスの対比は、次のようなタイプの活動を私たちの目から覆い隠してしまう。すなわち、そこにおいて達成されるべき善が、〈他者たちのものではない、私のもの〉でも〈私のものではない、他者たちのもの〉でもなく、むしろ、与えることと受けとることのネットワークの善がそうであるように、〈他者たちのものであるかぎりにおいて私のものでもありうる善〉、すなわち、本当の意味での共通善であるような、そうしたタイプの活動である。しかし、もしも私たちが理性的動物としての私たちの開花を達成するために、そのような共通善をめざして行動する必要があるとすれば、その場合私たちは、欲求というものを単純に利己的と利他的の二種類に分類することの不適切さを認識できるようなかたちに、私たちの当初の欲求のありようを変容させておく必要もある。ただもっぱら利己的であるような欲求の限界や視野の狭さについては、これまでもかなり頻繁に論じられてきた。それに対して、のっぺりと一般化された善意というもののそうした問題点が注目されることはあまりにも少なかった。そのような善意が私たちに提示しているのは、ある一般化された他者――そのような他者と私たちとの関係はただ、《私たちの》善意を発揮する機会を彼らが与えてくれるという点に、またその結果、私たちは自分自身に親切心が備わっていることを確認して安心できるという点にのみ存する――であって、次のような特定の他者たちではない。すなわち、私たちにとって、彼らとともに共通善をわかちあうことを学ばねばならない、そして、現に成立している諸関係に彼らとともに参加し続けなければならない、そうした特定の他者たちではないのである。では、そのような諸関係に参加するうえで必要とされる資質とはどのような資質であろうか。
 この問題を問うことは、私たちを、徳に関する議論に、また、それらはなぜ必要とされるのかに関する議論に連れ戻す。徳に関するこれまでの説明において私が強調してきたのは、私たちが、主として両親や教師といった他者たちの推論能力に依存している状態から、独力で実践的推論をおこなう状態へと移行するうえで、諸徳がその移行に不可欠な役割を果たしているということであった。また、その場合、私が主として注目してきた諸徳は、正義、節制、誠実、勇気といった、アリストテレスやその他の人々が掲げた徳の目録において馴染み深い諸徳であった。しかし、私たちは諸徳というものを、私たちが自立した実践的推論者になることを可能にしてくれるものとして理解すべきであり、それというのもまさに、諸徳は、実践的推論者としての私たちが参加することを可能にしてくれるがゆえであるとすれば、私たちは次のことを認識することによって、私たちの探究をよりいっそう拡張する必要がある。すなわち、徳へと導く適切な教育とは、それがどんなものであれ、〈自立の諸徳 virtues of independence〉にとって不可欠な対をなす〈承認された依存の諸徳 virtues of acknowledged dependence〉という一連の諸徳に私たちがしかるべき位置を与えることを可能にしてくれるものであろう、ということである。
 諸徳に関する伝統的な理解はおそらくこの点の認識に役立たないし、諸徳の伝統的な呼称さえそうであろう。たとえば、与えることと受けとることの諸関係において示されるべき中心的な徳にふさわしい呼称を探す場合、私たちは「気前のよさ〔大度〕 gererosity」も「正義」も、これまで通常理解されてきた意味においては、ここで求められていることがらを十分にあらわすことばではないことに気づく。というのも、これらの徳に関する一般的な理解によれば、人は正しくなくても気前がよかったり、気前がよくなくとも正しかったりすることがある。ところが、ここで述べているような〈与えることと受けとること〉を維持するうえで要求される中心的な徳は、気前のよさと正義という二つの側面を同時に備えているからである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第10章 承認された依存の諸徳,pp.169-171,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:与えることに関する諸徳,受けとることに関する諸徳)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

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