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2022年1月19日水曜日

27.法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する。不干渉を弁護する社会的ダーウィニズムは、その極端な思想である。社会立法や福祉国家の基礎付けは、歴史的には積極的自由の概念を基礎としたが、消極的自由の概念でも基礎付けることができる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(a)不干渉を弁護する社会的ダーウィニズム
 社会的ダーウィニズムのように不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のに使われてきたことはいうまでもない。

(b)社会立法や福祉国家の基礎付けは消極的自由の概念でも可能
 社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟である積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。

(c)積極的自由による基礎付け
 歴史的 に消極的自由による福祉国家の基礎付けによることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。

(d)双方の自由概念はそれぞれ重要
 統制と干渉が度を過ごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な市場経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。






「消極的自由の信条は、重大かつ持続的な害悪を生ぜしめることとも両立するし、また(観 念が行動に影響を与える限りでは)現にそうした害悪を生ぜしめるのに一役かってきたこと は、勿論忘れない方がよい。しかし、私が言いたいのは、消極的自由の信条は、最も陰険な形 をした《積極的》自由のチャンピョンたちが自分の信条を弁護するのによく使うような見せか けの議論や詐術によって、弁護されたり偽装されたりすることがはるかに少なかったというこ とである。(《社会的ダーウィニズム》のように)不干渉を弁護する議論は、人情家や弱きも のに対して、強気なもの野蛮なもの無鉄砲なものを、また能力のないもの不運なものに対して、 有能で情け容赦のないものを武装強化するような、政治的・社会的に破壊的な政策を支持する のにつかわれてきたことはいうまでもない。狼にとっての自由は、羊にとってしばしば死を意 味した。経済的個人主義や止まるところのない資本主義的競争についての血なまぐさい物語 は、今日ことさら強調する必要もないと思いたいところだ。にもかかわらず、私を批判する人 たちが私に着せた、おどろくべき濡れ衣を眺めてみると、私の議論のある部分をとくに気をま わして力説しておくべきであったようだ。無制限の《レッセ・フェール》の害悪、それを許す ばかりか更にそれを奨める社会・法体系の害悪は、《消極的》自由や基本的人権(これは抑圧 者に対する壁としてつねに《消極的な》観念である)、表現や結社の自由を含めた基本的人権 の、野蛮な侵害になってしまうのだということを、更に一層明らかにさえしておくべきであっ た。この基本的人権がなくても、正義、同胞愛、それにある種の幸福さえ、存在し得るかもし れないが、デモクラシーは在りえないのである。更にまた、私は、(言う必要もないほど明ら かであると思っていたのだが)つぎのようなことをおそらく強調しておくべきだったであろ う。即ち、個人や集団が、意義ある程度の《消極的》自由を行使できるための必要最小限の条 件、理論的には自由をもっている人にも、それなくしては自由がほとんど何の価値もなくなっ てしまうようなミニマムの条件、こうした条件を、この社会・法体系は提供しそこなっている ということを。というのは、権利を持っていたところで、それを実行に移すだけの力がなけれ ば何になるか。この問題に関心をもつ近代のまじめな著作家たちのほとんどすべてが、無制限 の経済的個人主義の体制下において、個人の自由がどんな運命を辿ったかについては十分に述 べている、と私は思っていた。とりわけ都市において、いたましい多くの人びとの境遇、子供 たちは鉱山や工場で損なわれ、両親たちは貧困、病い、無知のうちに過ごす、こうした境遇で は、貧乏なものも弱気ものも、好きなように金を使い欲するような教育を選べる法的権利があ るということなどは(コブデンやハーバート・スペンサー及び彼らの弟子たちが、全く大真面 目に説いてきかせたことだが)、おぞましい茶番となってしまったのである。こうしたことは すべて、まことに遺憾ながら事実であって、法的自由は、搾取、蛮行、不正の極とも両立する のである。国家やその他の実行機関が、積極的自由、および少なくとも最小限の消極的な自由 を個々人に保障するために介入することは、圧倒的に支持されている。トクヴィルやミル、そ れに(近代のいかなる著述家よりも強く消極的自由を支持した)パンジャマン・コンスタンの ような自由主義者さえ、このことを知らないではなかった。社会立法や社会計画、福祉国家や 社会主義を擁護する立場は、消極的自由からの要求を考察することによっても、その兄弟であ る積極的自由からの要求の考察によるのと同じくらい妥当に、基礎づけうるのである。歴史的 に前者によることが少なかったのは、消極的自由の概念を武器として立ち向かうべき当の外敵 は、レッセ・フェールではなくて専制主義だったからである。二つの概念の消長は、大抵、あ るグループや社会を一定の時点でもっともおびやかしている特定の危険に原因を求めうる。統 制と干渉が度をすごすときには、消極的自由の概念が優勢となり、また逆に、野放図な《市 場》経済がのさばるときには、積極的自由の概念が優勢となるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『自由論』,序論,II 積極的自由対消極的自 由,pp.68-70,みすず書房(2000),小川晃一(訳),小池銈(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年1月15日土曜日

16.各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由と積極的自由

各個人の選択において、干渉や妨害を加えずに放任しておくという消極的自由と、その選択が各個人自らの統治すなわち自己支配を基礎とした自由な選択かを問う積極的自由との概念がある。弱者の積極的自由の保護のためには消極的自由の制限が必要となるが、積極的自由が歪曲され悪用されることが多かった。(アイザイア・バーリン(1909-1997))




 「―――自由について話すとなると、まずあなたが積極的自由と消極的自由の間に引いた区別 を、あなた自身の口から説明したいただけませんか。

バーリン
  二つの別々の問題があります。一つは、「私にはいくつのドアが開いているか」 もう一つは、「誰がここの責任者か、誰が管理しているのか」です。この二つの問題はからみ 合ってはいるが、同じ問題ではありません。別の答えを必要としているのです。

私にはいくつのドアが開いているのか。消極的自由の範囲という問題は、私の前にどのような障害があるか にかかっています。他の人々によって――故意にか間接的にか、意図的でなく制度的にか――私が 何をするのを妨害されているのかという問題です。

もう一つの問題は、「誰が私を統治してい るのか、他の人が私を統治しているのか、それとも私が自分を統治しているのか。もし他の人 が統治しているとすれば、いかなる権利、いかなる権威によってか。

もし私が自己支配、自治 の権利を持っているとすれば、私はこの権利を失うことができるのか、放棄できるのか。また 取り返せるのか。どのようにしてか。誰が法を作るのか、あるいは誰がそれを執行するのか。 私は協議に参加できるのか。多数が統治しているのか。何故そうなのか。それとも神が、聖職 者が、政党が統治しているのか。それとも世論の圧力なのか。伝統の圧力なのか。いかなる権 威によってなのか。」

それは別の問題です。両方の問題、それに付随する問題は、それぞれに 中心的な問題、正統な問題です。両方に答えねばなりません。

私は、積極的自由に反対して消 極的自由を擁護し、消極的自由の方が文明社会に相応しいと主張したという嫌疑をかけられて いますが、その理由は唯一つ、積極的自由という観念――もちろん、まともな生存のためには本 質的に必要なものです――の方が消極的自由の観念よりも悪用ないし歪曲されることが多かった からという理由です。

二つとも真の問題であり、避ける訳にはいきません。そして、この二つ の問題にたいする答えが社会の性質――それが自由主義的か権威主義的か、民主的か専制的か、 世俗的か神政的か、個人主義的か共同主義的か等々を規定します。

二つの自由概念は、政治 的、道徳的にねじ曲げられて逆のものに変えられてきました。

この点では、ジョージ・オー ウェルが見事です。「私があなたの真の願望を表明する。あなたは、自分が何を望んでいるか 自分で知っていると思っているかもしれないが、私、指導者、われわれ、共産党中央委員会 は、あなたが自分で知っているよりもあなたのことをよく知っており、あなたが自分の「真 の」必要を認識するならば、あなたの欲するものを与えよう。」

虎と羊にとって、自由は平等 でなければならぬ、虎が羊を喰うことができるようになっても、そこで国家の強制を発動して はならぬというのなら、これは避けられない事態なのだと言い出してしまうと、消極的自由が ねじ曲げられることになります。

もちろん、資本家にとっての無制限の自由は労働者の自由を 破壊し、鉱山所有者や親の無制限の自由は子供を鉱山労働に使うのを許すでしょう。弱者を強 者に対して守らねばならないし、その限りで自由を制限しなければならない、これは確実なこ とです。

積極的自由を充分に実現しなければならないとすれば、消極的自由を制限しなければ なりません。

この二つの間にバランスがなければなりませんが、このバランスについては何か 明確な原理を打ち出すことはできません。

積極的自由、消極的自由は、ともに完全に有効な概 念ですが、歴史的に見て現代世界ではインチキ積極的自由の方がインチキ消極的自由よりも大 きな損害をもたらしてきました。」

 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハ ンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,二つの自由概念,pp.66-68,みすず書房 (1993),河合秀和(訳))


2019年11月20日水曜日

5.(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由の基礎づけ

【(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1.3)追加。
(1.4)追加。

(1)消極的自由
  消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
 (1.3)いかに自由でも、最低限放棄しなければならない自由
  (a)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由は、すべての個人が持つ権利である。
  (b)従って、その自由を奪いとることは、他のすべての個人に禁じられなければならない。
 (1.4)いかに不自由でも、最低限守らなければならない自由
  (a)これを放棄すれば人間本性の本質に背くことになる自由は、放棄することができない。
  (b)では、人間本性の本質とは何か。自由の範囲を定める規準は、何か。
   自然法の原理、自然権の原理、功利の原理、定言命法、社会契約、その他の概念
  (c)個人の自由は、文明の進歩のために必要である。
   (i)文明の進歩の源泉は個人であり、個人の自発性、独創性、道徳的勇気が、真理や変化に富んだ豊かなものを生み出す。
   (ii)これに対して、集団的凡庸、慣習の重圧、画一性への不断の傾向が存在する。あるいはまた、公的権威による侵害、組織的な宣伝による大量催眠など。
  (d)自分で善しと考えた目標を選択し生きるのが、人間にとって一番大切で本質的なことである。
   仮に、本人以外の他の人が、いかに親切な動機から、いかに立派な目標であると思えても、その目標以外の全ての扉を本人に対して閉ざしてしまうことは、本人に対して罪を犯すことになる。


 「われわれは絶対的に自由であることなどできぬ。

自由のうちのあるものを護るために他を放棄しなければならない。けれども、全面的な自己放棄は自滅である。

ではいったい、その最小限とはなんでなければならないか。それは、これを放棄すれば人間本性の本質にそむくことになるものである。

その本質とはなにか。それがもたらす規準とはなんであるか。これは果てしのない論争のたねであったし、おそらくいつまでもそうであるだろう。

しかし、干渉を蒙らない範囲を定めるところの原理がなんであれ、それが自然法の原理であれ自然権の原理であれ、あるいはまた功利の原理であれ定言命法の宣告であれ、社会契約の神聖であれ、その他ひとびとが自分の確信を明確化し正当化しようとしてきた概念であれ、この意味における自由は《から》の自由 liberty from のことである。

移動はするけれどもつねに認識はできる境界線をこえて干渉を受けないということだ。

「自由の名に値する唯一の自由は、われわれ自身の仕方でわれわれ自身の善を追求することである」と、もっとも有名な自由主義のチャンピョンはいっている。

もしそうであるならば、はたして強制は正当化されるであろうか。ミルはそれが正当化されることになんの疑問も抱かなかった。

すべての個人が最小限の自由をもつ権利があるとは正義の要求するところであるから、だれかからその自由を奪いとることは必然的に他のすべての個人に禁じられなければならない、必要があれば力をもってしても禁じられなければならないというのである。

実際、法律の全機能はまさにそのような衝突を防止することにあった。国家は、ラッサールが侮蔑的に名づけた夜警あるいは交通巡査の機能にまで縮小されてしまったのだ。

 個人の自由の保護ということをミルにとってかくも神聖なものたらしめたものは、なんであったか。

かの有名なエッセイでかれはこう述べている――そもそも人間が「ただ自分だけに関わりのある道を通って」欲するがままの生き方ができるのでなければ、文明は進歩することができない。

観念〔思想〕の自由市場がなければ、真理はあらわれてはこないだろう。そして自発性、独創性、天才の、精神的エネルギーの、道徳的勇気の、はけ口がなくなってしまうだろう。

社会は「集団的凡庸」 collective mediocrity の重みのためにおしつぶされてしまうであろう。変化に富んだ豊かなものはすべて、慣習の重圧、画一性への不断の傾向性によってうちくだかれてしまい、慣習や画一性は「衰弱した凡才」、「痩せこけて偏屈な」、「締めつけられゆがめられた」人間しか産み出さないであろう。

「異教的な自己主張は、キリスト教的自己否定と同じく価値のあるものだ」。

「忠告とか警告とかにさからってひとが犯しがちなあらゆる過ちは、他人が善しと考えたものに自分を束縛することを容認する悪よりは、はるかにまさっている」。

自由の擁護とは、干渉を防ぐという「消極的」な目標に存する。

自分で目的を選択する余地のない生活を甘受しないからといって迫害をもってひとを脅かすこと、そのひとのまえの他のすべての扉を閉ざしてしまってただひとつの扉だけを開けておくこと、それは、その開いている扉のさし示す前途がいかに立派なものであり、またそのようにしつらえたひとびとの動機がいかに親切なものであったにしても、かれが人間である、自分自身で生きるべき生活をもった存在であるという真実に対して罪を犯すことである。

このような自由が、エラスムス(オッカムというひともあるかもしれない)の時代から今日にいたる近代世界において自由主義者たちの考えてきた自由なのだ。

市民的自由とか個人の権利のためのあらゆる抗弁、搾取や屈辱に対する、公的権威の侵害に対する、あるいはまた慣習ないし組織的な宣伝による大量催眠に対するすべての抗議は、みなこの議論の多い個人主義的な人間観から発したものなのである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,pp.17-19,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:消極的自由,個人の自発性,独創性,道徳的勇気,目標の選択)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2019年11月19日火曜日

4.消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由

【消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)消極的自由
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。


 「自由という言葉(わたしは freedom も liberty も同じ意味で用いる)の政治的な意味の第一は――わたくしはこれを「消極的」negative な意味と名づけるのだが――、次のような問いに対する答えのなかに含まれているものである。

その問いとはつまり、「主体――一個人あるいは個人の集団――が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている、あるいは放任されているべき範囲はどのようなものであるか」。

第二の意味――これをわたくしは「積極的」positive な意味と名づける――は、次のような問い、つまり「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。

この二つの問いは、それへの解答は重複することがあるにしても、それぞれ明らかに区別されるちがった問いなのである。

 「消極的」自由の観念

 ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だといわれる。

この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。

もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができる。

しかしながら、強制とは、することのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。

強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。

あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。

このことは、「経済的自由」とか、その反対の「経済的隷従」とかいう最近の用語法からも引き出せる。

もしあるひとがたいへん貧乏であって、法律的になんら禁じられていないもの――たとえば一塊のパンとか世界旅行とか法廷への依頼とか――を手に入れたり、やったりできないときには、そのひとはそれがかれに法律によって禁じられているときと同じように、それを手に入れたりやったりする自由がないのだ、とまことにもっともらしく主張されている。

もしもわたくしの貧乏が一種の病気のようなもので、これによってわたくしが、ちょうど跛で走れないというのと同じく、パンを買ったり世界旅行の費用を支払ったり、あるいは訴訟を審理させたりすることができないというのであるならば、このできない状態は決して自由の欠如と呼ばれない、ましてや政治的自由の欠如とは呼ばれないのはもちろんのことであろう。

自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ、自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられるからなのである。

いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。

手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているという(たんに貧乏のことをいうのではなくて)のは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。

さらにいえば、自分が不正ないし不公平と考えている特定の社会のしくみによって窮乏状態におかれているのだと信ずる場合に、この経済的隷従とか抑圧とかが口にされるわけである。

「事物の自然はわれわれを怒らせたり狂乱させはしない。ただ悪意のみがそうさせるのだ」と、ルソーはいっている。

抑圧であるかどうかの規準は、わたくしの願望をうちくだくのに直接・間接に他の人間によって演じられると考えられるその役割にある。

この意味において自由であるとは、他人によって干渉されないということだ。

 干渉を受けない範囲が広くなるにつれて、わたくしの自由も拡大されるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,pp.9-12,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由,消極的自由,故意の干渉や妨害,放任,物理的制約,身体的制約,病気や障害)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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