2023年5月29日月曜日

言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言語ゲームは生活様式の一部

言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


(a)記号、語句、文を使ったあらゆる活動を含む。
(b)もちろん、数学のあらゆる分野も、言語ゲームの一種である。
(c)命令、記述、構成、報告、推測、仮説、検証、表や図による表現、物語の創作、演劇、輪唱する、謎をとく、冗談、噂、算術、翻訳、乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る。


「二三 
 しかし、文章にはどのくらい種類があるのか。陳述文、疑問文、それに命令文といった種類だろうか。―――そのような種類なら無数にある。すなわち、われわれが「記号」「語句」「文章」と呼んでいるものすべての使いかたには、無数の異なった種類がある。しかも、こうした多様さは、固定したものでも一遍に与えられるものでもなく、新しいタイプの言語、新しい言語ゲームが、いわば発生し、他のものがすたれ、忘れられていく、と言うことができよう。(この点の《おおよその映像》を、数学の諸変化が与えてくれよう。) 
 「言語《ゲーム》」ということばは、ここでは、言語を《話す》ということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならない。
  言語ゲームの多様性を次のような諸例、その他に即して思い描いてみよ。
命令する、そして、命令にしたがって行為する――― 
ある対象を熟視し、あるいは計量したとおりに、記述する―――
 ある対象をある記述(素描)によって構成する―――
 ある出来事を報告する―――
 その出来事について推測を行なう―――
 ある仮説を立て、検証する――― 
ある実験の諸結果を表や図によって表現する―――
 物語を創作し、読む―――
 劇を演ずる――― 
輪唱する―――
 謎をとく―――
 冗談を言い、噂をする―――
 算術の応用問題を解く――― 
ある言語を他の言語へ翻訳する―――
 乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る。 ―――
 言語という道具とその使いかたの多様性、語や文章の種類の多様性を、論理学者が言語の構造について述べていることと比較するのは、興味ぶかいことである。(さらにまた『論理哲学論考』の著者が述べていることとも。)」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学探究』二三、全集8、p.215、藤本隆志)

2023年5月28日日曜日

言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

言語ゲーム( language game )

 言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「思考とは本質的には記号を操作することだと言うとき、君の最初の質問は、「では記号とは何か」であるかもしれない。―――この質問に何らかの一般的な答をする代りに、「記号を操作する」と言いうる具体的ケースのあれこれを君に注意深く観察することを求めたい。言葉[という記号]を操作する簡単な一例をみてみよう。私が誰かに「八百屋からリンゴを六つ買ってきてくれ」と命じる。このような命令を[実地に]果たす仕方の一つを描写してみよう。「リンゴ六つ」という字句が紙切れに書かれていて、その紙が八百屋に手渡される、八百屋は「リンゴ」という語をいろんな棚の貼札とくらべる。彼はそれが貼札の一つと一致するのを見つけ、一から始めてその紙片に書かれた数まで数える、そして数を一つ数える毎に一個の果物を棚から取って袋に入れる。―――これは言葉が使われる一つの仕方である。以後たびたび私が言語ゲーム( language game )と呼ぶものに君の注意をひくことになろう。それらは、我々の高度に複雑化した日常言語の記号を使う仕方よりも単純な、記号を使う仕方である。言語ゲームは、子供が言葉を使い始めるときの言語の形態である。言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態すなわち原初的言語の研究である。我々が真偽の問題、[すなわち]命題と事実との一致不一致の問題、肯定、仮定、問の本性の問題、を研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。これらの[問題での]思考の諸形態がそこでは、高度に複雑な思考過程の背景に混乱させられることなく現われるからである。言語のかような単純な形態を観察するときには、通常の言語使用を蔽っているかにみえるあの心的な[ものの]霧は消失する。明確に区分された、くもりのない働きや反応が見られる。それにもかかわらず、それらの単純な過程の中に、もっと複雑な[通常の]言語形態に連続している言語形態をみてとれる。この原初的形態に漸次新しい形態を付け加えてゆけば、複雑な形態を作り上げられることがわかる。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.45、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]



考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

表現する過程

 考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「そこでの私の意図のすべては、考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在しなければ《ならぬ》と考える誘惑を取除くことであった。 
 諸君に要領を一つ教えたい。君が、思考、信念、知識等の本性に困惑している場合には、思想の代りに思想の表現を置き換えてみること。この置き換えで厄介なところ、同時にまたそれがこの置き換えの狙いでもあるが、それは信念や思想その他の表現は或る文(センテンス)に過ぎないということである。―――その文は或る言語体系に属するものとしてのみ、すなわち或る記号系の中の一つの表現としてのみ、意味を持ちうる。そこで、この記号系を我々が述べる文のすべてに対するいわば恒久的な背景だと考え、紙の上に書かれ声に出された文こそ独立してはいるものの、心の考える働きの中には記号系が全部ひっくるめて存在している、と思いたくなるのだ。この心の働きは、記号のどんな手動操作にもできないことを奇跡的な方法でやってのけるように見える。しかし、何らかの意味で全記号系が同時に現在していなければならなぬという考えの誘惑が消えた時には、もはや表現と並んでそれらとは別な奇妙な心の働きの存在を《想定する》意味もなくなる。しかしこれはもちろん、特有の意識の働きが思想の表現には一切伴わない!ことを示したというのではない。ただ、前者が後者に伴わねば《ならぬ》、ともはや言わないだけなのである。
  「しかし、思想の表現は常に偽でもありうる。或ることを言い別のことを意味できるからである。」だが、或ることを言い別のことを意味する時におこる、場合場合で違うさまざまなことを考えてみ給え。―――次の実験をしてみ給え。「この部屋は暑い」という文を口にしながら「寒い」を意味してみる。そして何をやっているかを精しく観察してみ給え。
  こういう生き物を想像するのはたやすい。その生き物はプライベートな思考を「傍白」の形でする、そして嘘をつくには一つのことを正面きって話しついでその逆のことを傍白する。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.83-84、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは表現する行為そのもの

 思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


(a)「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。
(b)声にも出さず、内語もしないで、「明日は多分雨だろう」と考えることができるか。
(c)少なくとも、考えること抜きで話すことはできないだろうか。もちろんできる。
(d)掛算 7 × 5 = 35 を言うと共に、それを考える。
(e)今度は、考えることなしに言ってみる。


「次の実験をしてみ給え。或る文、例えば、「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。つぎに、同じことを考え、今意味したことをもう一度意味してみる、しかし今度は何も言わない(声にもださず、内語もしない)。つまり、明日は雨だろうと考えることが明日は雨だろうと言うことに伴う[それとは別の]ことならば、始めのことだけをやって二番目の行動を差控えてみよ、ということである。―――考えることと話すこととが歌の歌詞とメロディの関係にあるならば、丁度歌詞抜きで節だけを歌えるように、話すことをしないで考えることだけをやれよう。
  だが少なくとも、考えること抜きで話すことはできはすまいか。もちろんできる―――しかし、君が考えることなく話す場合、どんな種類のことを君はしているのかよくみてみ給え。まっさきに注目してほしいのは、「話し且つその中味を意味する」と呼びたい過程と、考えなしに話すと呼びたい過程とを区別するものは必ずしも、《話している時点で》起きることではない、ということである。この二つを区別するものが、話しの以前と以後に起きることである場合も十分にありうる。
  私が今慎重に、考えることなしに話すことをやってみるとしよう―――実際私はどういうことをするだろう。例えば、或る本から一つの文を読み上げる、だが自動的に読もうとする、すなわち、他の場合なら読むことで生まれてくるイメージや感情と一緒にその文を読まないように極力つとめる。その一つの方法は、朗読している間何か他のことに注意を集中する、例えば、朗読の間皮膚を強くつねることであろう。―――次のように言おう。考えることなしに文を話すとは、話にスイッチを入れ、話に伴うものごとの方のスイッチを切ることである。では、考えてほしい。その文を言うことなしに考えることはこのスイッチを逆にすることであろうか(前には切ったスイッチを入れ、入れたものを切る)、と。つまり、その文を言うことなしに考えるとは、今度は単に、言葉に伴ったものごとの方を留めて言葉の方を取り除くことか、と。或る文の思想をその文なしで考えようと実際に試みて、そしてこれが現に起きることかどうかをみてみ給え。 
 要約してみよう。「考える」「意味する」「願う」等のような言葉の使い方を吟味するならば、この吟味を経過することによって、思想を表現する行為とは別に何か奇妙な媒体の中にしまいこまれた奇妙な思考作用を探し求めたい誘惑から解放される。また、もはや既成の表現形式には妨げられることなく、思考の経験とは単に言表の経験である場合も《ありうるし》、言表の経験プラスそれに伴う他の経験からなっている場合もあることを認めることができる。(また次の場合を検討するのも有益である。掛算が文の一部である場合。例えば、掛算 7 × 5 = 35 を言うと共にそれを考える、今度は考えることなしに言ってみる、これらがどういったものであるか考えて見給え。)語の文法を吟味することで、偏りのない眼で事実を見ることを妨げていたその表現の固定化したしきたりが弱められる。我々の探究はこの偏りを取り去ろうとしてきたのである。この偏りが、我々の言語に埋めこまれている或る挿し画に事実の方が合わねば《ならぬ》という考えを強いるのである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.84-86、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




2023年5月27日土曜日

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考とは記号操作

思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「こうして、思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている、[君の言い方で]心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味である、ということに注意を向けてもらうだけだ。
  更にもし、思考がおこなわれる場合を云々するなら、その場所は書いている紙、喋っている口だと言う権利がある。ここでもし、頭や脳を思想の場所だと言うとすれば、それは「思考の場所」という表現を違った意味で使っているのである。頭を思考の場所と呼ぶ理由は何であるか検討してみよう。そういう表現の形を批判したり適切でないことを示すのがその意図ではない。なすべきことは、その表現の働き、その表現の文法を理解することである。例えば、その文法が、「口で考える」また、「紙上の鉛筆で考える」という表現とどういう関係にあるかをみることである。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.30、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]





記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

記号の意味とは何か

 記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。  (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))


「しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用( use )であると言うべきであろう。 
 仮に記号の意味(簡単に言えば、記号で大切なもの)が、記号を見聞きするとき我々の心の中に作り上げられるイメージであるとしても、先に述べたやり方で、この心的イメージを我々の眼に見える外的事物、例えば描かれたイメージ[つまり画]や模造されたイメージ[つまり模型]で置き換えてみよう。すると、書かれている[無機的な]記号がそれだけでは死んでいると言うのであれば、それに描かれたイメージをつけ加えたところでそれらが一緒になったものが生きる道理はない。
 ―――事実、君が心的イメージを例えば描かれたイメージで置換えて見たとたん、またそれによってイメージが神秘的性格を失ったとたん、そのイメージは文にいかなるものであれ命を附与するとは思えなくなるのである。(実のところ、君が自分の目的に必要としたのはまさにこの心的イメージの神秘的性格だったのである。)
  我々のおちいりやすい誤りを次のようにも言えよう。我々の探しているのは記号の使用であるが、それを何か記号と《並んで存在》しているもののように考えて探すのだ、と。(この誤りのもとの一つはまたしても、「名詞に対応する物」を求める、ということである。)
 記号(文)はその意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。簡単に言えば、文を理解することは言語を理解することである。 
 文は言語体系の部分としてのみ命をもつ、とも言えよう。だのに人は、文に命を与えるものはその文に随伴する、神秘的な領域にある何かであると想像する誘惑に負けるのである。しかし、たとえ文に随伴するものがありとしても、すべてそれは我々にとってまた一つの記号にすぎぬであろう。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.27-28、大森荘蔵)

思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

思考過程を可視化する

 思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))




「思考過程のこの神秘的な外見の少なくとも一部を避ける方法がある。それは、これらの過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみるのである。例えば、「赤」という語を聞いて理解するときに、少なくともある種の場合には、心眼の前に赤いイメージがあることが不可欠のように思えよう。だが、赤の斑点を想像することを、赤い紙切れを見ることで置き換えてもいいではないか。[違いは]目で見る[赤紙の]像(イメージ)の方がずっと生き生きしていようだけのことである。色名が色斑と対応付けられている紙をいつもポケットに持ち歩いている男を想像してほしい。君は、そんな色サンプルの表を持ちまわるのはさぞ面倒だろう、連想機構こそその代りにいつも我々が使っているものだ、と言うかもしれない。しかしそういうのは見当違いだ、また、それは真実でない場合すら多くある。例えば、君が「プルシャン ブルー」という特定の色合いの青を塗るように命じられたとしたら、表を使って「プルシャン ブルー」の語から或る色サンプルに導かれ、それを君の色見本にする、ということをやらなければならない場合もあるだろう。
  我々の目的にとっては、想像の過程をすべて、物を目で見る過程、絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換えるのは一向に差支えない、また、内語を声を出して喋ることや書くことで置き換えるのも。」 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、p.26、大森荘蔵)

ウィトゲンシュタイン全集(6) 青色本・茶色本 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

線で描かれた絵

 何のことか分からない線のもつれが「Xである」と分かるとは、どのような状態なのか。既知感があること、記録(目録など)があること、対象に関する様々な関連情報が連想されること、または記録があること。既知感がなくとも規則性、対称性、安定感、装飾性などを感じさせること。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))



「一二五 こんな種類の判じ絵のことを考えてみよう。そこで見いだすべきなのは、何か《一つの》特定の対象なのではない。そうではなくて、最初に見たときはその全体が、何のことかわからない線のもつれとみえるのだが、しばらく探っているうちに、例えば一つの風景画として現われてくるのである。―――この解がえられる前と後とで、この画像の眺めの相違はどこにあるのか。その二つの場合においてわれわれが画像を違ったふうに見ることは明らかである。しかし、解がえられた後で、今はこの画像はわれわれにあることを語るが、以前には何も語りはしなかった、と言いうるのは、どの範囲でのことか。
 この問を次のように立てることもできる。解が見いだされたということの一般的な特徴は何か。
 その判じ絵が解かれたときには、私はそのなかのある線を強くなぞり、いわば明暗の度合いを導入することによって、その解がわかるようにする、と、こう考えたい。では君は、君が描き入れた像を何故に解とよぶのか。
(a)それは一群の空間的諸対象を明らかにあらわしているから。
(b)それはある規則的な形の物体をあらわしているから。
(c)それは左右対称の形状だから。
(d)それは私に装飾的な印象をあたえる形状だから。
(e)それは私にとって既知のものと思われる物体をあらわしているから。
(f)いろんな解の目録があり、この形状(ないしこの物体)がそこに載っているから。
(g)それは私がよく知っている種類の対象をあらわしているから。すなわち、その対象は一瞬にして私に熟知のものだという印象をあたえる。私は一瞬のうちにあらゆる可能な連想をそれに結びつける。私はその対象が何というものか知っている。私はそれをしばしば見かけたことを知っている。私はそれが何のために使われるかを知っている、等々。
(h)それは私にとって既知のものと思われる顔をあらわしているから。
(i)それは私がそれとして認知する顔をあらわしているから。(α)それは私の友人某氏の顔である。(β)それは私がしばしば肖像で見たことのある顔である、等々。
(j)それは私がかつて見たことがあるのを覚えている対象をあらわしているから。
(k)それは私が(どこで見たかはわからないが)よく知っている装飾模様だから。
(l)それは、私がよく知っており、その名も、どこで前に見たかもわかっている装飾模様だから。
(m)それは私の部屋の調度をあらわしているから。
(n)私は本能的にこの線をなぞり、それで安定した感じをもつから。
(o)私はこの対象について話してきかされたことがあるのを覚えているから。
(p)私はその対象をよく知っているように思われるから。すなわち、ある言葉がそれの名前としてただちに私の心に浮んでくる。(ただしその言葉は既存の言語のどれにも属してはいない。)私は心のなかで言う、「そうだとも。それは甲であって、いくども乙で見たものだ。人はそれで丙を丁して、戊にするのだ」と。こうしたことは例えば夢のなかでおこる。等々。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法1』一二五、全集3、pp.240-242、山本信)
(索引:)



ウィトゲンシュタイン全集(3) 哲学的文法 1 [ ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ]




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