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2019年9月10日火曜日

全ての国民が、他者と競合する個人と家族の利益だけを考える偏狭さから解放され、自己と他者が共有する利益を考え、良い統治のための積極的な関与が国民の義務であると考えるような、制度的な仕組みが必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治体制への関与

【全ての国民が、他者と競合する個人と家族の利益だけを考える偏狭さから解放され、自己と他者が共有する利益を考え、良い統治のための積極的な関与が国民の義務であると考えるような、制度的な仕組みが必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3.2)追加。

(3)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化できる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)国民の徳と知性を育成できる統治体制
  この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、国民の徳と知性が良い統治を維持、発展させ、良い統治がさらに国民の徳と知性を促進するという良い循環が生まれるからである。

 (3.2)すべての国民が参加する統治体制
  (3.2.1)普通の人々の日常生活の圧力
   (i)人々の仕事は、決まりきった繰り返しの仕事である。
   (ii)仕事は、愛からなされる仕事ではなく、日々の必要を満たすという、最も原初的な形をした自己利益のための労働である。その結果、個人を超えて広がる思考や感情を精神にもたらさない。
   (iii)啓発的な書物が手近にあっても、読む気にさせる刺激がない。
   (iv)自分よりもはるかに優れた教養を持つ人物に接する機会を持たない。
  (3.2.2)統治体制への関与
   (a)良い統治
    (i)自分も関与していて、不適当と思うならば公然と異議を唱え、変更のために積極的に努力できる。
    (ii)例えば、市民が一時的に交替で、何らかの社会的役割を果たすよう時折要求される。
    (iii)例えば、私人としての市民が、公的職務に参加する。
   (b)悪い統治
    自分が属していない集団の感情や性向に阿ることができるかどうかに、自分の成功がかかっている。国制の外に置かれ、ドアの内側で協議するのではなく、その外から自分の運命の裁定者に懇願するしかない。
  (3.2.3)公共の利益
   (a)良い統治
    自分が公共の一部であって、公共の利益は何であれ自分の利益でもあると考える。
   (b)悪い統治
    目的とは、他者と競合するもの、何らかの程度で他者を犠牲にするようなものと考える。
  (3.2.3)社会に対する義務
   (a)良い統治
    私人は、法を遵守し政府に服従する以外にも、社会に対する義務を負っている。
   (b)悪い統治
    利益や義務に関するあらゆる思考や感情は、個人と家族の中に吸い込まれてしまう。

 「自然の必然性や、自分も関与していて不適当と思うならば公然と異議を唱え変更のために積極的に努力できるような社会の命令以外には、外的な束縛を何も人々が感じていない場合は、人間の諸能力の状態はまったく異なってくる。たしかに、部分的にしか民主政的でない統治体制の下で、市民としての特権を十分には得ていない人々でも、このような自由を行使することはあるだろう。しかし、平等なスタート地点に立って、自分が属していない集団の感情や性向におもねることができるかどうかに自分の成功がかかっていると感じなくてもよいのであれば、どんな人の自助や独立独行にも大きな刺激が付け加わる。国制の外に置かれ、ドアの内側で協議するのではなくその外から自分の運命の裁定者に懇願するしかないのなら、一人の個人も、また、はるかにそれ以上に一つの階級も、大いに意気阻喪する。性格に対して活気を与えるという自由の効果の最大値が得られるのは、当人が他者と同様に十分な特権を持つ市民として振る舞っているときか、そうなることを期待しているときだけである。
 こうした感情の問題以上にいっそう重要なのは、市民が一時的に交替で何らかの社会的役割を果たすよう時折要求されることで、実践的訓練が市民の性格に及ぶことである。大半の人々のの日常生活に考え方や感じ方を広げるものがどれほど少ないかは、十分に考慮されていない。人々の仕事は決まりきったくり返しの仕事である。愛の労働ではなく、日々の必要を満たすという、最も原初的な形をした自己利益のための労働である。仕事の結果も仕事の過程も、個人を超えて広がる思考や感情を精神にもたらさない。啓発的な書物が手近にあっても、読む気にさせる刺激がない。しかも、ほとんどの場合、個人は自分よりもはるかにすぐれた教養を持つ人物に接する機会を持たない。こういう人に、公共のための何らかの仕事を与えることは、ある程度は、これらすべての不足を補う。もし事情が許して相当量の公的な職責が許されれば、それでこの人は教育ある人物となる。」(中略)
 「これ以上にもっと有益なのは、ときたまであっても私人としての市民が公的職務に参加することで与えられる教育の道徳的部分である。この職務にある間は、市民は自分の利益以外の利益を秤量するよう求められる。主張が対立する場合は自分の個人的な好き嫌いとは別のルールに従うことが求められ、共通善が存在理由となっている原理原則をどんな局面でも適用するよう求められる。また、同じ職務の中で、こうした考え方や物事の進め方にいっそう馴染んでいる人たちと一緒になるのがふつうである。そうした人たちの研鑽のおかげで、自分の理解に理由が与えられ、一般的利益への自分の想いが刺激される。自分が公共の一部であって、公共の利益は何であれ自分の利益でもあると実感させられるのである。公共精神のこうした学校が存在しない場合は、切迫した社会状況でなくても、私人は法を遵守し政府に服従する以外にも社会に対する義務を負っている、という自覚は出てこない。公共と自分を同一視する非利己的な感情も生まれない。利益や義務に関するあらゆる思考や感情は、個人と家族の中に吸い込まれてしまう。こういう人は、集団的利益や他者と共同追求する目的を考えず、他者と競合する目的や何らかの程度で他者を犠牲にするような目的しか考えない。隣人は共同利益のための共通の営みに従事していないので、味方や仲間ではなく競争相手でしかない。こうして、公的道徳が本当に消滅してしまう一方で、私的道徳ですら損ねられてしまう。仮にこれが物事の普遍的で唯一可能な状態であるならば、立法家や道徳家が望めるせいぜいのところは、社会の大部分を無邪気に並んで草を食べている羊の群れにすることだろう。
 これまでの考察の積み重ねから明らかなように、社会のあらゆる必要を十分に充足できる唯一の統治体制は、すべての国民が参加する統治体制である。どんな参加でも、最小限の公的職務への参加でさえ、有益である。どこであってもその社会での改善全般の程度が許容する限りで、参加は最大であるべきである。また、万人が国家の主権的権力の分有を認められることほど、最終的に望ましいことはない。とはいえ、一つの小さな町よりも大きな社会では、公共の行うの何かごく小さな部分以外に全員が直接に参加することは不可能だから、完全な統治体制の理想型は、代議制でなければならない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第3章 理想の上で最善の統治形態は代議制統治である,pp.62-64,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治の条件,統治体制への関与,公共の利益)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月8日日曜日

良い統治の一条件として、社会を構成する人々の資質のうち活動的資質の例:権利や利益を自ら守り、害悪からの防衛能力を持ち、単に他者に依存するのではなく、自立した個人として他者と協力すること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

国民の活動的資質

【良い統治の一条件として、社会を構成する人々の資質のうち活動的資質の例:権利や利益を自ら守り、害悪からの防衛能力を持ち、単に他者に依存するのではなく、自立した個人として他者と協力すること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4.3)追記。

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々

(2)良い統治体制を選択する諸条件
  良い統治体制を選択するための諸条件は、(a)体制を維持できる国民の最低限の資質、(b)進歩の障害を克服できること、(c)既存の良いものを壊さないこと、(d)次の次の段階を考えること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (a)体制を維持できる国民の最低限の資質
  統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあること。
 (b)進歩の障害を克服するできること
  その国民の欠点や短所の中で、進歩に直接的な障害となるものを見分け、その障害を乗り越えるために必要なものを、国民に与える傾向が最も強い統治形態を、選択する。
 (c)既存の良いものを壊さないこと
  改善や進歩を目的とする場合、既に手に入れているものに損害を与えないようにする。
 (d)次の次の段階を考えること
  一国民を進歩の次の段階に前進させるのに最も効果的な統治形態でも、さらにその次の段階に対して、障害となる、あるいは、国民を明らかに不適合にしてしまうのであれば、その統治形態は、やはりきわめて不適当なものである。

(3)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化できる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (a)国民の徳と知性を育成できる統治体制
  この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、国民の徳と知性が良い統治を維持、発展させ、良い統治がさらに国民の徳と知性を促進するという良い循環が生まれるからである。

(4)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (4.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (4.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (4.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与える。
  (a)どの人間の権利や利益にしても、なおざりにされるのを確実に防止できるのは、当人がそれらの権利や利益を守ることができ、また、つねに守ろうという気持ちを持っている場合に限られる。
  (b)他者の手による害悪からの防護が確実になるのは、もっぱら、自己防衛の能力を持ち、その能力を行使することに比例する。
  (c)自然との闘いで高度な成功が確実になるのは、もっぱら、他者が自分のためにしてくれる物事に頼るのではなく、自立して自分から個人として、あるいは他者と協力してできる物事を頼りにすることに比例する。

(5)継続的進歩を真に確保する唯一のものである諸々の影響力の対立を維持すること。
 (a)社会全般の繁栄は、それを促進するために動員される個人の活力の量や多様性に比例して高度になり広汎になる。
 (b)いったん確立したものが神聖化されれば、改善への障壁となる。
 (c)才能と道徳感情において最も卓越した人々が、保護されること。
 (d)社会的に権威のある意見や道徳観であっても、自由な批判が許され、いっそう優れた意見や道徳観への進歩の道が閉ざされないこと。

(6)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
  国民全体の徳と知性を育成することと共に重要なことは、社会成員のうちの優れた資質を、統治機構に組織化することである。代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。
 (a)集団的事業のために、個々の社会成員に現存する優れた資質の一定部分を組織化する。
 (b)代議制は、社会に現存している平均水準の知性と誠実さを、最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに、統治体制に集約する方法である。
 (c)代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。

 「言うまでもないが、理想の上での最善の統治形態が意味するのは、文明のどんな状態でも実施可能であるとか実施に適している統治形態ということではなく、実施可能で実施に適している環境において、現時点でも将来的にも最大限の有益な結果をもたらす統治形態である。全面的に民主政的な統治体制は、こうした性格のものだとあらゆる面から主張できる唯一の政体である。それは、政体の優秀性を二つの部門に分ける観点から見て、どちらの部門でも優秀である。他のどんな政体と比べても、現時点でのよい統治という点でまさっているし、また、いっそうすぐれた高度な形の国民性を促進する。
 現時点での有益な結果という点でまさっているのは、二つの原理によってである。いずれも、人間生活に関して成立可能なあらゆる一般命題と同程度に、普遍的な真理であって普遍的に適用可能である。第一の原理は、どの人間の権利や利益にしても、なおざりにされるのを確実に防止できるのは、当人がそれらの権利や利益を守ることができ、また、つねに守ろうという気持ちを持っている場合に限られる、ということである。第二の原理は、社会全般の繁栄はそれを促進するために動員される個人の活力の量や多様性に比例して高度になり広汎になる、ということである。
 ここでの応用に合わせて、より具体的にこれら二つの命題を述べ直すとこうなる。他者の手による害悪からの防護が確実になるのは、もっぱら、自己《防衛》の能力を持ちその能力を行使することに比例する。また、自然との闘いで高度な成功が確実になるのは、もっぱら、他者が自分のためにしてくれる物事に頼るのではなく《自立して》自分から個人としてあるいは他者と協力してできる物事を頼りにすることに比例する。
 各人は自分の権利と利益の唯一確実な守り手であるという第一の命題は、思慮の基本原則の一つであり、自分のことを自分でできるあらゆる個人が、どんなことに関心を持つにしても、暗黙のうちに行動原則としているものである。たしかに、多くの人々は、これが政治原則になっている場合は大いに嫌悪し、すべての行動を利己的なものとみなす理論だと非難することに賛同する。それに対してはこう答えてよいだろう。人間は概して他者よりも自分を優先し、縁遠い人々よりも身近な人々を優先する、ということが真理でなくなるときはいつでも、それ以降は、共産主義が実行可能となるばかりでなく、唯一擁護可能な社会形態にもなるのであり、その時点が到来すれば間違いなく実現されるだろう。私自身としては、すべての行動が利己的だとは考えていないので、人類のエリートの間でなら現在ですら共産主義は実行可能であり、人類の他の部分でも実行可能となっていくかもしれない、と認めるのは困難ではない。しかしこの見解は、自己利益が概して優勢だとする理論を非難しつつ既存制度を擁護する人々には、必ずしも人気があるわけではない。とすると、こうした人々は〔利己性の克服を前提としている共産主義を非現実的と批判しているのだから〕実際には、大方の人間の配慮は他人よりも自分を優先させている、と信じているのではと考えたくなる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第3章 理想の上で最善の統治形態は代議制統治である,pp.50-52,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治,活動的資質)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年9月7日土曜日

良い統治体制を選択するための諸条件は、(a)体制を維持できる国民の最低限の資質、(b)進歩の障害を克服するできること、(c)既存の良いものを壊さないこと、(d)次の次の段階を考えること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治体制を選択するための諸条件

【良い統治体制を選択するための諸条件は、(a)体制を維持できる国民の最低限の資質、(b)進歩の障害を克服するできること、(c)既存の良いものを壊さないこと、(d)次の次の段階を考えること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2)追加。
(5)追加。

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々

(2)良い統治体制を選択する諸条件
 (a)体制を維持できる国民の最低限の資質
  統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあること。
 (b)進歩の障害を克服するできること
  その国民の欠点や短所の中で、進歩に直接的な障害となるものを見分け、その障害を乗り越えるために必要なものを、国民に与える傾向が最も強い統治形態を、選択する。
 (c)既存の良いものを壊さないこと
  改善や進歩を目的とする場合、既に手に入れているものに損害を与えないようにする。
 (d)次の次の段階を考えること
  一国民を進歩の次の段階に前進させるのに最も効果的な統治形態でも、さらにその次の段階に対して、障害となる、あるいは、国民を明らかに不適合にしてしまうのであれば、その統治形態は、やはりきわめて不適当なものである。

(3)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化できる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (a)国民の徳と知性を育成できる統治体制
  この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、国民の徳と知性が良い統治を維持、発展させ、良い統治がさらに国民の徳と知性を促進するという良い循環が生まれるからである。

(4)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (4.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (4.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (4.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与える。

(5)継続的進歩を真に確保する唯一のものである諸々の影響力の対立を維持すること。
 (a)いったん確立したものが神聖化されれば、改善への障壁となる。
 (b)才能と道徳感情において最も卓越した人々が、保護されること。
 (c)社会的に権威のある意見や道徳観であっても、自由な批判が許され、いっそう優れた意見や道徳観への進歩の道が閉ざされないこと。

(6)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
  国民全体の徳と知性を育成することと共に重要なことは、社会成員のうちの優れた資質を、統治機構に組織化することである。代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。
 (a)集団的事業のために、個々の社会成員に現存する優れた資質の一定部分を組織化する。
 (b)代議制は、社会に現存している平均水準の知性と誠実さを、最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに、統治体制に集約する方法である。
 (c)代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。

 「既知のあらゆる社会状態のそれぞれにどんな統治形態が適合するかを探求しようとすれば、代議制統治についてではなく、政治科学全般についての書物を一冊書くことになる。われわれの現実的な目的にとっては、政治哲学から一般的原理だけを借用すればよい。ある特定の国民に最も適合した統治形態を決定するためには、その国民の欠点や短所の中で、進歩に直接的な障害となるものを見分けられなければならない。つまり、何が(言わば)道を阻むものかを見出さなければならない。その国民にとって最善の統治とは、それなしでは国民が前進できないか、あるいは跛行的な前進しかできない、そうしたものを国民に与える傾向が最も強い統治である。ただし、改善や進歩を目的とする万事に必要な留保を忘れてはならない。つまり、必要とされる善を追求する際に、すでに手に入れているものに損害を与えないようにする、あるいは、できるだけ損害を与えないようにする、ということである。未開国民は服従を教えられるべきではあるが、それは彼らを奴隷の国民に変えてしまうような仕方であってはならない。そして(この考察に、より高度の一般性を与えると)、一国民を進歩の次の段階に前進させるのに最も効果的な統治形態でも、さらにその次の段階に対して、障害となる、あるいは、国民を明らかに不適合にしてしまうのであれば、その統治形態は、やはりきわめて不適当なものである。そうした事例は頻繁にあり、歴史における最も憂鬱な事実の一つとなっている。エジプトの階層性や中国の後見的専制は、すでに到達していた文明化の地点にまで両国民を前進させるのには非常に適合的な手段であった。ところが、その地点にまで到達すると、いずれの国民も、改善の要件である精神的自由と個性の欠如のために、以後ずっと停止したままになってしまった。それらの改善の要件は、その地点にまで国民を前進させた制度のせいで、まったく充足できなかった。しかも、その制度が崩壊したり他の制度に代わったりしなかったので、そこから先の改善が止まってしまったのである。
 これらの国民と比較対照するために、オリエントの別の小国民であるユダヤ人が示している正反対の例を考えてみよう。ユダヤ人も絶対的君主政と階層制を持ち、その組織化された制度は、インド人の制度と同じように、明らかに司祭制を起源としていた。それらは、ユダヤ人にとってオリエントの諸民族と同じように、勤労と秩序へと服従させ一つの国民として暮らしていくことに役立った。ところが、ユダヤ人の王と聖職者はいずれも、オリエント諸国のように、国民性を唯一の鋳型にはめることはできなかった。ユダヤ人の宗教では、非凡な才能と高度に宗教的な気風をそなえた人物を天啓を受けた者と考えてよかったし、また、当人も自分をそう考えてよかった。そのような宗教によって、非常に貴重な非組織的制度、つまり、預言者という身分(と呼んでもよいもの)が生み出された。預言者は、その神聖な性格のために、必ずしもつねに実効性のある保護だったわけではないにせよおおむね保護され、国民の中の一つの権力、しばしば王や聖職者をしのぐ権力となり、諸々の影響力の対立という、継続的進歩を真に確保する唯一のものを地上のこの片隅で維持したのである。その結果、ここでは、宗教は他の多くの地域の場合とは異なり、いったん確立したもの一切を神聖化してさらなる改善への障壁となる、ということにはならなかった。預言者たちは教会と国家において近代の出版の自由に相当するものであったという、著名なヘブライ人、サルヴァドール氏の指摘は、ユダヤ人の生活におけるこの重要な要素がユダヤ国民史と世界史で果たした役割について、不十分ながら正当な見方を示している。この要素のおかげで、啓示に由来する経典はけっして完結することがなく、才能と道徳感情において最も卓越した人々は、全能の神の直接的権威を借りて、非難や譴責に値すると自分たちが見た一切の事柄を非難し譴責できたばかりでなく、ユダヤ教についていっそうすぐれた高度の解釈を与えることもできたのであり、それらの解釈はそのようにしてユダヤ教の一部となったのである。こういうわけで、聖書を一冊の本として読むという、近年までキリスト教徒と信仰を持たない人々のいずれにも等しく根強かった習慣を捨て去れる人は誰でも、モーゼ五書や史書(明らかにヘブライ人司祭身分の保守派の人々の手になるもの)の道徳と宗教が、預言者たちの道徳や宗教と大きく隔たっているのを見て驚嘆する。その隔たりは、預言者たちの道徳や宗教と福音書との間の隔たりと同じぐらい大きいのである。進歩にとってこれほど好都合な条件は簡単にはありえない。そのおかげでユダヤ人は、他のアジア人のように停滞してしまわずに、古代の最も進歩的な国民であったギリシャ人に次いで、またギリシャ人とともに、近代的教養の出発点となり、その主要な推進力となったのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.38-40,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治体制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2019年8月22日木曜日

良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの権限の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治のための必要条件

【良い統治のための必要条件は、特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちの判断を、圧倒的多数の普通の人たちの権限の制御の下で、政治的問題の解決に活かすことである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)普通の人たち(人民、公衆)
 (a)特定の任務のための特別な教育を受けていない、圧倒的多数の普通の人たちである。
 (b)普通の人たちの判断は、きわめて不完全である。
 (c)普通の人たちは、問題それ自体を自ら判断するというよりも、彼らのために問題を解決すべき専門家の性格や才能に基づいて、判断してしまいがちである。
(2)選ばれた優れた人たち
 (a)特定の任務のための特別な教育を受けた、選ばれた優れた人たちである。
(3)良い統治とは何か。
 (3.1)選ばれた優れた人たちによる判断
  (a)有閑階級の集団であっても、下層の人々の集団であっても、普通の人たちの判断や意志による統治は、良い統治とは言えない。
  (b)選ばれた優れた人たちによる、普通の人たちの集団から独立して、慎重に形成された判断が、政治的問題の解決のために、必要である。
  (c)選ばれた優れた人たちに、普通の人たちに対する責任を負わせて、目的の公正さを最大限に保証できるような統治の仕組みを作ることが、政治学における重大な難問である。
 (3.2)普通の人たちの権限
  選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかなときは、彼らを解任する仕組が、普通の人たちにあること。
 (3.3)普通の人たちに求められること
  (a)自ら完全に賢明であることは不可能であるし、その必要もない。
  (b)優れた見識の価値を評価でき、優れた人を選ぶことができる。
  (c)選ばれた優れた人たちの行為を理解し、不明な場合には説明を求めるだけの見識を持つ。
  (d)選ばれた優れた人たちの行為が、公共の福祉と対立する目的や意図に導かれているときは、彼らを解任する権限を行使できるだけの見識を持つ。

 「私たちが主張してきたことと時には矛盾しがちであっても重要性の点ではとにかくそれに匹敵するような唯一の目的――良い統治にとって不可欠な唯一の他の条件――は次のようなものである。

すなわち、集団としての公衆によってではなく、選ばれた人々によって統治されるということ、政治的問題が、直接的であっても間接的であっても、無知な集団――それが有閑階級の集団であっても下層の人々の集団であっても――の判断や意志へ訴えることによってではなく、少数者、とりわけこのような任務のために特別な教育をうけた少数者の慎重に形成された見解によって解決されるということである。

これが、不運なことに私たちのものにおいてではなかったが、多かれ少なかれいくつかの貴族政治においてこれまで存在してきた良い統治の一要素であり、それらの統治が分別あり熟練している政権というあらゆる評価を享受してきた理由となっているような要素である。

明確にそうなっていない貴族政治においてはこれはほとんど見出されない。(イングランドやフランスのような)貴族制を装った君主制はほとんどつねに怠け者による貴族政であったのに対して、(ローマやヴェネツィアやオランダのような)別の貴族制は熟達し勤勉な人々による貴族制としてある程度はみなされうるだろう。

しかし、すべての現代の政府のなかでもっとも顕著にこの卓越性を有していたのはプロイセンの政府――王国のなかでもっとも高度な教育を受けた人々によるきわめて力強くしっかりと組織された貴族政――である。インドにおけるイギリスの統治は(大幅に修正された形で)同じような性質を帯びていた。

 この原理がその他の幸運な状況と結びつけられたときには、そして、とりわけ(プロイセンにおけるように)政府に対する人民の支持をその安定のためのほとんど必要条件とするような状況と結びつけられたときには、人民に対する明確な説明責任が課されていないときでさえも、きわめて優れた統治がなされたことがあった。

しかしながら、そのような幸運な状況はめったに期待することはできない。

しかし、そのために特別に育成されてきた人々による統治という原則は良い統治を生み出すのに十分なものではないだろうけれども、良い統治はそれなしにはありえない。

今後長い間にわたって政治学における重大な難問は、良い統治を左右する二つの重要な要素をどのようにしてもっともよく調停するかということであり、また、特別に教育を受けた少数者による独立した判断から得られる利点を、多数者に対する責任をその少数者に負わせることによって目的の公正さを最大限に保証することとどのようにしてもっともよく結びつけるかということになるだろう。

 しかしながら、二つの目的を完全に調停可能なものとするために必要なのは、最初に想定されたかもしれないものよりも些細なことである。

多数者自らが完全に賢明である必要はなく、優れた見識の価値を認めるのに足る分別があれば十分である。

政治的問題の大部分は、多数者およびその目的のために訓練されていないあらゆる人々が必然的にきわめて不完全な判定者であるような考慮に左右されるものであるということや、概して彼らの判断が、問題それ自体というよりも、彼らのために問題を解決するべく任命した人の性格や才能に基づいてなされてしまいがちであるということを認識していれば十分である。

そうすれば、彼らは知識人たちが全般的に《もっとも》教育あると考えているような人を自分たちの代表者として選びだすことになるだろうし、彼らの行為に公共の福祉と対立するような利益や感情の影響を受けていることを示す兆候が明らかにならないかぎり、彼らを選び続けることになるだろう。

このことは、人民が十分に判断できるのはどのようなものであり、できないものはどのようなものであるかを知っているという、誰でももっているような分別さえもっていればよいということを含意している。

国民の大半がこの分別をかなりの程度共有しているとしたら、そのような人民に関するかぎり、普通選挙賛成論は反対しがたいものであろう。

というのは、年月を重ねた経験、とりわけあらゆる重大な国家的非常時における経験は、大衆は優れた知性をもった人が必要なことに本当に気づいているときにはいつでも、優れた知性をもった人を見分けそこなうことはほとんどないということを示しているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『論説論考集』,附論,集録本:『功利主義論集』,pp.362-364,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:良い統治のための必要条件,選ばれた優れた人,人民,公衆,普通の人たち)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
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