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2019年7月31日水曜日

35.司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

何らかの観点による「在るべきもの」

【司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(b)追記。

(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
   たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)大部分の裁判官が任務を果たす際の基準として、どのようなルールを受け入れているのかは、事実問題である。
   (b.1)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
   (b.2)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言えない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破ることができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違いである。
   (b.3)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀である。
   (b.4)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる。

  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものだろうか。
  (a)このケースでの「べき」は、道徳とは関係のないものであろう。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これも恐らく違うだろう。
  (c)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。
 「判決を最終的で権威あるものとしているルールのうしろに隠れて、裁判官達が一緒になって現行のルールを拒否し、議会のもっとも明白な立法さえも裁判官の判決に何らかの制約を課しているとみなさなくなることはもちろん可能なのである。裁判官のなす裁定の過半数がこのような性質をもっており、しかも受けいれられていたとすれば、これがその体系を変形させることになるのであって、それはあるゲームをクリケットから「スコアラーの裁量」に変更させたのと同様である。しかしこのような変形の可能性が常にあるからといっても、現存する体系が、それについてその変形がなされた場合に考えられるような体系と同じだということにはならない。いかなるルールも、違反や拒否がなされないように保証することはできないのであって、それは人間というものが、心理的、物理的にルールを破ったり、拒否したりすることがありえないとはいえないからである。そして、もしそのようなことが十分長期間にわたって行なわれたとすれば、そのルールは存在しなくなるだろう。しかし、およそルールが存在する場合、破壊に対して何が何でも保証がなくてはならないということは必要ではない。ある時点で、裁判官が国会や議会の立法を法として受けいれるよう要求するルールが存在すると言うときには、そこではまずその要求が一般的に従われており、個々の裁判官が逸脱したり拒否したりするのは稀であること、また第二に、逸脱や拒否が生じたときまたは生じたならば、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる、または扱われるであろうということが含まれる。そして第二の場合については、たとえ、特定の事件に関してそこから生じる判決の結果は、立法がその正しさではなくてその妥当性を認める場合を別とすれば、判決の最終性に関するルールがあるために打ち消されないとしても、そのように扱われ、扱われるだろうということが含まれる。人はあらゆる約束を破ることができるだろうということは、論理的に可能であって、おそらく最初はそうすることは悪いという意識をもつが、やがてこのような意識をもたないでそうするだろう。その場合には、約束を守ることは義務であるとするルールは存在しなくなるといえよう。しかしこのことは、このようなルールが現に存在せず、約束は現に拘束力をもたないという見解を支持するには薄弱である。裁判官が現行の体系を破壊しうるということにもとづいて、同じようなことを彼らについてしてみても、それ以上にはできないのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.159-160,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:在るべきもの,半影的問題,在る法,ルールの存在)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月9日金曜日

17.難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

難解な事案と在る法、在るべき法

【難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))】

(1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
 (1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
 (1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
(2)日常言語においても、次のような事実がある。
 (2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
 (2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
 (2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
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 「もし倫理学における「非認知主義的」理論やその他類似の理論を反証することが、在る法と在るべき法との区別に関係するもので、この区別をある点で破棄したり、何か弱めたりすると主張するためには、一層突っ込んだそして厳密な議論をしなければならない。

ハーバード・ロー・スクールのフラー教授(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))がそのさまざまな著作の中で展開している以上に、この方向での議論をはっきりと展開している人物はいない。そこで、その主要な論点だと思われるところを批判することで、この論文を終えたい。

その論点は、意味が明確で議論を呼ぶことのない法的ルールないし法的ルールの意味の明確な部分ではなく、当初から問題があることが感じられており、具体的ケースにおいてルールの意味について議論がなされる場面でのルールの解釈を考察するときに再び私たちの前に現われてくるものである。

どのような法体系においても、法的ルールの適用される範囲が、立法者が現実に考えたこと、あるいは、考えたと思われる具体的な事例の範囲に限られることはない。

これが実際のところ、法的ルールと命令との重要な違いの一つである。

ところが、立法者が考えた事例、もしくは、考えたであろう事例を超える事例にルールを適用していると考えられる場合に、このような新しいケースへのルールの拡張は、しばしば、ルールを解釈する者の意識的な選択や命令のようには見えない。

それは、そのルールに新しい、拡張的な意味を与える決定とも見えないし、また、立法者が、たとえば18世紀に死んだのだがもし20世紀まで生きていたならば、言うであろうことの推測とも見えない。

そうではなく、そのルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある特定の現存、物故の人物にというよりもルール自体に(ある意味で)帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。

功利主義者は、このような古いルールの新しいケースへの解釈的な拡張を、司法立法と記述するのだが、これはこの現象を正しく扱っていない。

これでは、新しいケースを過去のケースと同様に扱うという意識的な承認や決定と、ルールの下に新しいケースを包摂することが、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化することになるという認識(この認識には意識的なところはほとんどないし、また、任意的なところすらほとんどない)との違いについての手掛かりが与えられない。


 おそらく、多くの法律家や裁判官は、補完し明確化するという言いまわしの中に、彼らの経験にぴったり合致するものを感じるであろう。

そうでない者は、これは、功利主義者の表現では司法「立法」、現代のアメリカの用語で言えば「創造的選択」という言葉でうまく語られている事実を、ロマンティックに解釈したものだと考えるかもしれない。

 この問題点を明確にするために、フラー教授は、法とは無関係な例を哲学者のウィトゲンシュタインから借りてきているが、啓発的な例であると思われる。
 『ある人が私に向かって「その子供たちにゲームを教えてやりなさい」と言う。そこで私はダイスを使うゲームを教える。すると、相手は「私はその種のゲームを考えていなかった」と言う。彼が私に命令した時に、ダイスを使うゲームを排除することが彼の念頭になければならないのだろうか。』

 この例はたいへん重要なことに触れているように私には思われる。おそらく次のような(区別可能な)論点がある。

第一に、私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、仮定的な人間に共通の目的を考慮して解釈しているので、反対のことが明示的に指示されるまでは、幼い子供にゲームを教えろという指図を、他の文脈では「ゲーム」という言葉が自然にギャンブルの意味に解釈されることもあろうが、ギャンブルを教えてやれという命令とは解釈しない。

第二に、たいへんしばしばあることだが、話し手がその言葉のそのような解釈を聞いて、「そうだ、それが私の言いたかったことだ。〔ないし「それが私がずっと考えていたことだ。」〕あなたがこの具体的なケースを私に示してくれるまでは思い至っていなかったがね」ということがある。

第三に、前もってはっきりと心に描かれていなかった個別具体的なケースが曖昧に表現された指図の範囲の中に入ると、たいてい他人と議論したり相談したりした後でのことだが、認識したとしよう。この認識のあり方を記述するのに勝手にそのケースをそのように扱うように決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。

これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのかを、ないし、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。――これらの言い回しはフラー教授が同じ論文の後の部分で使用している。

 フラー教授が例に挙げた種類のケースに注意を向けることで、道徳的議論の性格についての哲学的議論は、多くの実りを得るものと私は信じている。

このようなケースに注目することは、「目的」と「手段」との間は鋭く分離しており、「目的」について議論するときには互いに非合理的に働きかけることができるだけで、合理的議論は「手段」についての議論のためのものであるという見解を矯正するものを提供する助けになろう。

しかし、この論点が、在る法と在るべき法との区別の主張が正しいものかどうかとか賢明なものかどうかという問題にどれほど関係しているかといえば、私は実際にはほとんど関係していないと考える。

よく考えてみると、法的ルールを解釈する際に、ある解釈がルールのたいへん自然な精密化や明瞭化なので、それを「立法」だとか「法創造」だとか「命令」だとか考えたり呼んだりすることがうまくそぐわないもののように思える場合があるというのがこの議論の趣旨である。

そして、そのような場合について、在るルールと在るべきルールを区別することは――少なくとも「べき」の持つある意味においては――誤解を招くであろう、という議論である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.92-94,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:難解な事案,在る法,在るべき法,半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月4日日曜日

16.仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3)、(4)追記。

(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.3)存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の区別が、議論と検討と反省が無駄だという根拠として使われるとき、この区別は有害なものとなる。個別具体的なものについての争いに関し、当事者が議論し詳細に検討し反省してみることによって、当初は曖昧なまま感知されていた諸原則が、当事者双方が合理的に受け容れられるような明確なものとして、理解できるようになる。
(4)しかし、それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
 (4.1)ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
 (4.2)逆に、法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。

 「このような見解(もちろん、このような大雑把な検討で伝えられるよりもはるかに精密な議論である)に反対して、これらすべての存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の厳密な区別は間違いであると主張する者もいる。

究極的な目的ないし道徳的価値を認めるときに、私たちは、何が起こっているのかということについての事実判断の真理性と同様、選択や態度や感覚や感情の問題ではなく、しかも、私たちが生きている世界の性格によって受け入れざるを得ないものを認識している。

典型的に道徳的な議論というのは、議論している当事者が互いに、感覚や感情を表現したり抑制したり、勧告や命令を発する議論ではなく、議論することで当事者が、詳細に検討し反省してみると最初に争っていたケースが曖昧なまま感知していた原則(それ自体、他のどのような分類の原則に比べても、少しも「主観的」でも「意志の命令」でもない原則)の範囲に入ると認め、そして、それが個別具体的なものについて最初に争われた他のどのような分類よりも「認知的」「合理的」と呼ばれるに値すると認めるに至る議論であるとされる。

 以上のような道徳に関する「非認知的」理論への批判や、在るものと在るべきものについての言明の徹底的な区別の否定を認めて、道徳的な判断は他のタイプの判断と同じく合理的に擁護できるものであるとしよう。

そう考えたとして、在る法と在るべき法との連関の本質に関して何か導かれるものがあるだろうか。これだけからでは何も導かれはしないと断定できる。法は、いかに道徳的に邪悪であっても、なお(この点に関する限り)法である。道徳的判断の本質についてのこの見解を受け入れることで生じる唯一の違いは、そのような法の道徳的邪悪さが証明できるものとなるというだけのことであろう。

あるルールが道徳的に悪であり法たるべきでないということ、また逆に、道徳的に望ましく法たるべきであるということが、そのルールが要求していることについての言明だけからたしかに導き出されるだろう。 

しかし、これを証明したとしても、そのルールが法でない(または、法である)ことを示したことにはならない。

私たちが法を評価したり非難したりする際に用いる原則が合理的に発見可能なものであり、たんなる「意志の命令」ではないことが保障されても、法は、さまざまな程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続けることがあるという事実には変わりはない。また逆に、法であるべきすべての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。」


(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.91-92,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月3日土曜日

15.在るべき法の由来:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示によるか、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【在るべき法の由来:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示によるか、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)在るべき法は、主観主義的、相対主義的、非認知的なものであるという考え。
 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 (1.1)ある哲学は、価値言明が感覚や感情や態度などの主観的選好の表現であると考えた。
 (1.2)ある哲学は、価値言明というものは、ある個別具体的なケースが、行為の一般的な原則や方針の下に包摂されることを示すものであると考えた。そして、この一般的な原則や方針は、人間に対して何かしら一種の普遍的な命令として直感されるようなものとして理解された。
 (1.3)ある哲学は、価値言明というものが、ある特定の目的を促進するものであると理解する。そして、私たちは、その目的のために何が適切な手段であるかを合理的に議論したり発見したりできる。しかし、目指される目的自体は、意志の命令あるいは感情や選好や態度の表現であるとされる。
(2)在るべき法には、何らかの普遍的な根拠があるという考え。
 しかし、人間の感覚や感情、態度の主観的選好は何に由来するのか。何かしら命令的なものとして与えられる一般的な原則や方針は、何に由来するのか。目指されるものとして感知される目的は、何に由来するのか。
 (2.1)道徳原則は、功利に関する実証可能な命題である。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (2.2)究極的な道徳原則は、啓示によって、またその指標としての功利を通して知ることができる。(ジョン・オースティン(1790-1859))
(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4)在るべき法は、(3)の意味で、ある社会における社会的ルールの存在の事実の有無として客観的に論証可能なものであり、その社会の内においては相対主義的なものではない。ただし、異なる社会は、異なるルールを持ち得る。この意味では、相対的なものである。しかし、人類全体において認められる社会的ルールは、事実上、普遍的なものとなる。それでもなお、これら普遍的な諸ルールが、自然を支配している諸法則に、いかに由来しているのかと問うことができる。(未来のための哲学講座)

 「「法実証主義」に対して強く抵抗している人びとに最も反感を持たせていると思われるものを、結論を述べるにあたって考察しないならば、片手落ちであろう。

在る法と在るべき法との区別の強調は、道徳的判断、道徳的区別、また、「価値」のまさに本質に関しての「主観主義的」「相対主義的」ないし「非認知的」な理論と呼ばれるものに基礎を置き、それを必要としている、と受け取られるかもしれない。

もちろん、功利主義者たち自身は、彼らの道徳哲学が私たちからみていかに不十分なものであるにせよ、(ケルゼンのような後の実証主義者とは異なり)そのような理論を支持していない。

オースティンは究極的な道徳原則は、啓示によってそして功利という「インデックス」を通して知ることのできる神の命令であると考えていたし、ベンサムは道徳原則を功利に関する実証可能な命題であると考えていた。

しかるに、私の考えるところでは(証明はできないのだが)、在る法と在るべき法との区別の主張は、「実証主義」という一般的題目の下で、ある道徳理論、すなわち、何が起こっているのかという言明(「事実の言明」)はどうあるべきかという言明(「価値言明」)とは根本的に異なるカテゴリーないしタイプに属するという道徳理論と混同された。

したがって、この混同の源を取り除いておく方がよいと思う。

 このタイプの道徳理論は、現在さまざまなものが存在している。

ある理論によれば、在るべきこと、なされるべきことについての判断は、「感覚」や「感情」や「態度」の、また、「主観的選好」の表現であるか、または、それらを本質的要素として含んでいる。

別の理論によれば、そのような判断は、感覚や感情や態度の表現であるとともに他人にそれらを共有するように命令するものである。

また別の理論によれば、そのような判断は、行為の一般的な原則や方針の下に、ある個別具体的なケースが包摂されることを示すものである。

この原則や方針というのは、判断者が自ら「選択」し、「遵守すると決心」し、そして、それ自体何が起こっているかという認識ではなく、判断者自身も含めたすべての人へ向けられた一般的「定言命令」ないし命令とでもいうべきものである。

これら各説が共通して主張しているのは、なされるべきことについての判断は、「非認知的」要素を含んでいるので、事実の言明のように合理的な方法で議論、論証することはできず、また、事実の言明から導かれることを示すこともできず、なすべきことについての判断を事実の言明と結合したところから導かれるにすぎない、ということである。

このような理論に依拠するならば、たとえば、ある行為は悪いということを証明しようとすると、その行為は行為者が自己満足のためだけに故意に苦痛を加えるものであることを示すだけでは足らない。

そういう実証可能な「認知的」な事実の言明に、そのような状況の下での苦痛を加える行為は悪い、なすべきではないという原則、それ自体は実証可能でも「認知的」でもない一般的な原則を付け加えてはじめて、その行為が悪いということを示すことができる。

在るものと在るべきものとのこの一般的な区別に加えて、手段についての言明と道徳的目的についての言明との間でもそれに平行する厳格な区別がなされる。

私たちは、何かが与えられた目的にとって適切な手段であるかを、合理的に発見したり議論したりできるが、しかし、目的というものは、合理的に発見したり議論したりできるものではない。

それは、「意志の命令」であり、「感情」や「選好」や「態度」の表現であるとされる。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.90-91,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月26日金曜日

7.12.在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

在る法と在るべき法の区別

【在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

(3.1)~(3.4)追記

(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムはこの区別を主張するのに、道徳を神と関連させて特徴づけるのではなく、言うまでもなく、功利の原則のみに関連させて議論した。

二人がこの区別を主張した主要な理由は、道徳的悪法の存在の引き起こす問題の正確な論点をしっかりと把握するためであり、また、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するためであった。

ベンサムの言う法の支配の下での生活の一般的な処方は簡単で、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であった。

しかし、ベンサムは、フランス革命を心配しながら観察しており、この処方では十分ではないということを非常にはっきりと意識していた。どのような社会においても、法の命令があまりに悪いために、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかもしれず、そして、その時点で直面する問題をあまりに単純化したり曖昧にしたりしないことが大切であることを意識していた。

法と道徳を混同することで、このしてはならないことがまさになされてきたのであった。ベンサムは、この混同が人をまったく向きの異なる二つの方向に進ませると考えた。

一方でベンサムの念頭にあるのは、「これは法であるべきではない。したがって法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストであり、他方で彼が考えているのは、「これは法である。したがってこれは在るべき法である」と言い、それでもって提起される前に批判を潰してしまう反動家である。

ベンサムは、このどちらの誤りもブラックストーンに見付けられると考えていた。ブラックストーンには、人の法は神の法に反するならば無効であるという不注意な語り方が見られる一方、「我らが著者〔ブラックストーン〕に基本的に見られる追従的な《キエティスム》の精神」が在ると在るべきの「違いを彼にほとんど認識できなくさせている」のである。 

これはまさにベンサムにしてみれば、法律家の職業的宿痾であった。「法律家にだまされやすい人すなわち非法律家の大多数はもちろん、法律家の目にも、《在る》と在る《べき》とは一にして不可分なものである。」だからこそ、在ると在るべきとの区別にこだわることが二つの危険の間隙をぬって進む助けになるのである。

一つの危険は、法とその権威を各人が抱く在るべき法についての見解と同一化してしまう危険であり、もう一つの危険は、存在する法が行為の最終的なテストとして道徳にとってかわり、その結果批判を受けつけなくなる危険である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.63-64,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月25日木曜日

6.11.在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

在る法と在るべき法

【在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))】

(1)在る法
 法が存在しているか存在していないかが問題である。好きか嫌いか、是認するか否認するかにかかわらず、現実に存在していれば、それは法である。
(2)在るべき法
 例えば、
 (2.1)道徳の根本的な原則が要求する命令
 (2.2)あるいは、その命令の「指標」である「功利」
 (2.3)あるいは、社会集団によって現実に受け入れられている道徳
(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 この区別を曖昧にする人は、在るべき法と対立する人の法は、義務ではないし拘束力を持たないという誤った考えに導かれてゆく傾向がある。
(出典:wikipedia
ジョン・オースティン(1790-1859)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジョン・オースティン(1790-1859)
検索(ジョン・オースティン)

 「ベンサムとオースティンは、街が燃えているのに言葉の区別をいじっている薄情な分析家ではなく、情熱的な勢いで活動し、より良い社会やより良い法をもたらすことに功績のあった運動の先鋒であった。

では、なぜ、彼らは在る法と在るべき法の分離を主張したのであろうか。何を彼らは言うつもりであったのか。まず彼らの言葉を見てみよう。

オースティンは次のようにこの原理を定式化している。

 『法の存在と、法の持つメリット、デメリットとは別のことである。法が存在しているか存在していないかを探るのは一つの探究であり、法がある基準に適合しているか否かを探るのは別の探究である。

法は、私たちがそれを嫌いに思おうが、また、私たちが是認するか否認するかを決める典拠にしているものと合致しまいが、現実に存在していれば、法である。

この真理は、抽象的命題として形式的に表明されてみれば、あえてそれを主張する理由もないことのように思われるほど単純で明白である。

しかし、単純で明白なものだから、抽象的な表現の中でそれが落ちてしまっている場合を数えあげたら一巻の書物になるほどの量である。

 たとえば、ブラックストーン卿は彼の『釈義』の中で次のように述べている。

神の法は他のどの法よりも優先的に遵守されなければならない。どのような人の法も神の法と矛盾することは認められない。人の法は神の法に矛盾するならば妥当性を持たない。すべての妥当する法はその力を神的な源から引き出している。

 ここで、彼が言いたいのは、すべての人の法は神的な法に合致していなければならないということ《かも》しれない。
もしこれが彼の意味するところならば、私は躊躇なくこれに同意する……。

おそらく、また、彼が言いたいのは、人の法を定める者たちは、神的な法によって、彼らが強制する法をかの究極の基準に適合させるように自ら拘束されているが、それはもしそうしなければ神が彼らを罰するからである、ということであろう。これに対しても私は完全に同意する……。

 しかし、このブラックストーンからの引用文の意味するところは、そもそも意味を持っているとすれば、むしろ次のようになると思われる。

神的な法と対立する人の法は義務ではないし拘束力を持たない。言い換えれば、神的な法と対立する人の法は《法ではない》……。』

 在る法と在るべき法との区別を曖昧にすることに対するオースティンの抗議は非常に一般的なものである。

彼は、在るべきものについての基準が何であれ、この区別を曖昧にすることは誤りであると説く。

ただし、彼の挙げている例は常に、在る法と道徳が要求する法とを混同している例である。

彼にとっては、道徳の根本的な原則は神の命令であり、功利はこの「指標」であったこと、さらに、これに加えて、社会集団によって現実に受け入れられている道徳、すなわち「実定」道徳の存在が考えられていた、ということが思い起こされなければならない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.61-63,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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