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2018年11月18日日曜日

精神とは、主観的な意識経験と、無意識の心理的機能の両方を含んだ、脳の全体的な特性であるという定義が有効である。無意識機能も、意識と類似の記述によって、臨床上の経験とも整合的な理論記述が可能となる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

無意識は精神事象か?

【精神とは、主観的な意識経験と、無意識の心理的機能の両方を含んだ、脳の全体的な特性であるという定義が有効である。無意識機能も、意識と類似の記述によって、臨床上の経験とも整合的な理論記述が可能となる。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

(1)無意識的な「精神事象」は、存在しないという考え方。
 (1.1)無意識的な機能は、特定のニューロン活動だけを伴うと考える。
 (1.2)ただしニューロン活動は、別の意識的な考えや感情に影響を与えることができる。
(2)無意識的な「精神事象」も、存在するという考え方。
 (2.1)無意識のニューロン活動
  アウェアネスがない以外は、質的に意識プロセスによく似ており、精神的特性と見てもよい機能属性を持ったニューロン活動が存在する。また、皮質活動の持続時間が最大0.5秒間ほど長引けば、無意識機能にアウェアネスを付加することができる。
 (2.2)無意識の機能
  無意識は、意識機能と基本的なところが似通って見える方法で、心理学的な課題を処理する。例えば、無意識ではあっても、経験を表象していると考えられる事象がある。また例えば、認知的で想像力に富んだ意思決定的なプロセスが、意識的である機能よりも、しばしばより独創的に、無意識的に進行する。
 (2.3)意識過程の機能の言語で記述された無意識理論の有効性
  機能的な記述をする場合にも、より単純で、生産的な記述が可能で、より想像力に富んだ予測も可能となり、臨床上の経験とも整合性があるように見える。

 「ここまでの中で、何が「心」であり、何が「精神的」なプロセスであるのかという議論を私は避けてきました。この話題についての非常に込み入った議論を、多くの場合哲学者の文献で見つけることができるでしょう。一介の実験神経学者として、私はこうした概念についての私たちの報告可能な見方や感情とも一致した、シンプルで直接的なアプローチをとることにしています。辞書を引くと、「心」の定義には人間の知性だけではなく、性癖や衝動といった情動プロセスの意味合いも含まれていることがわかります。
 かたや、「精神的」とは単に「心」の機能を示す形容詞であるとされています。このように、「心」の意味には意識経験も含まれますが、この定義にあてはまる無意識の機能もそこから除外することはできません。すると、「心」というのは、主観的な意識経験と無意識の心理的機能の両方を含んだ、脳の全体的な特性であるという定義が有効だと考えられます。
 しかし、このような意見に強く反対する者もいます。哲学者であるジョン・サール(1993年、156頁)は、「精神」は主観的な意識経験にのみあてはめるべきだ、と主張しています。無意識的な機能は他の何か、つまり無意識の精神事象を誘発する必要性なしに、特定のニューロン活動だけを伴うものであると彼は主張しています。その一方で彼は、このような活動が、それに続く意識的な考え、感情、そして行動に影響を与えることができることを認めています。
 それならばなぜ、私たちは無意識の心理的に重大なプロセスを、「精神的」プロセスと考えなければならないのでしょうか? そうした考えを受け入れる場合、私たちは、アウェアネスがない以外はある意味、質的に意識プロセスによく似た属性を、無意識プロセスに分け与えていることになります。(精神的または非精神的に無意識であるという)どちらの意見も、まだ立証されていない仮説です。しかし、無意識を精神的な特性と見る、それも無意識的機能のよく知られている特性を最も十分に説明できるような精神的特性と見るべき根拠がいくつかあるのです。また、こうした機能を扱うための、憶測にすぎないかもしれないがより想像力に富んだ予想図も得られるのです。
 無意識の機能は、アウェアネスがないこと以外は、意識機能と基本的なところが似通って見える方法で心理学的な課題を処理します。無意識の機能は、経験を表象し得るのです(キールストローム(1993年))。認知的で想像力に富んだ、そして意思決定的なプロセスはすべて、意識的である機能よりもしばしばより独創的に、無意識的に進行することができるのです。サールの意見とは反対に、こうした種類の無意識の心理的に重要な機能は、意識機能と同様に、ニューロンプロセスの《先験的な》知識によって説明、または予言することができません。さらに、無意識のプロセスを「精神機能」と考え、意識ある精神機能と関連はあるけれども、アウェアネスを伴わない現象であるとみなしたほうが、より単純、かつ生産的で、臨床上の経験とも、よりつじつまが合っているように見えます。(結局のところ、定義というのは、当該の問題について生産的な思考を推進するという限りにおいてのみ有益なのです。)皮質活動の持続時間が最大0.5秒間ほど長引けば、無意識機能にアウェアネスを付加することができるのです(次の節を参照)。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.115-117,下條信輔(訳))
(索引:無意識,精神,意識)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

ベンジャミン・リベット(1916-2007)
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2017年12月28日木曜日

精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

能動と受動

【精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「また、わたしは次のことに注目する。精神が結合している身体以上に、わたしたちの精神に対して直接に作用する主体があるとは認められない。したがって、精神において「受動」であるものは、一般に身体において「能動」である、と考えねばならない。ゆえに、わたしたちの情念[受動]の認識に至る最良の道は、精神と身体の区別を検討することだ。それは、わたしたちのうちにある諸機能の各々を、精神と身体のいずれに帰するべきかを知るためである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二、p.6、[谷川多佳子・2008])
(索引:能動、受動、精神、身体、情念)

情念論 (岩波文庫)


ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

心身問題

【心身問題:我々は身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神と身体との合一の意味である。しかし、感覚を結果とし、その原因を身体と結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解してはいないのである。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))】
 我々がこれこれの身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しない。これが、精神が身体と合一しているということの意味である。このような抽象的な概念は、確実ではあるが、表象力によって混乱されることがあるから、特に用心しなければならない。我々は結果を感覚し、それにもとづいて原因を結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解していないのである。
 「ところで、他の事物から結論するというのは、次のような場合である。すなわち、我々がこれこれの身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しないことを明らかに知覚する時に、そのことから直ちに、我々は、精神が身体と合一しているということ、そしてその合一がこうした感覚の原因であることを明瞭に結論する。しかし我々は、一体その感覚とか合一とかがどんな種類のものであるかをそれから絶対的には理解できない。」(中略)「この例から、さっき私の注意したことが明瞭にわかる。なぜなら、その合一とはとりもなおさず感覚そのものを意味するにすぎないからである。すなわち、我々は結果を感覚し、それにもとづいて原因を結論したのだが、その原因については実は何ごとも理解していないのである。」(中略)「このような種類の結論は、なるほど確実ではあるが、特に用心しなければ、十分安全とは言えない。最善の配慮を用いなくては、たちまち誤謬に陥るであろう。というのは、物をその真の本質によってでなく、このように抽象的に概念する時には、直ちに表象力によって混乱されるからである。なぜなら、その際人々は、それ自体では一であるものを多様に表象するから、すなわち人々は、抽象的に、きれぎれに、且つ混乱して概念したものに対して、他のもっと親しいものを表示するのに用いる名称を与え、その結果として、はじめにこの名称が与えられたものを表象すると同じ仕方で、今度のものをも表象するからである。」
(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(二一)へのスピノザ自身の注、pp.23-24、[畠中尚志・1992])
(索引:心身問題、精神、身体、精神と身体との合一、感覚)

知性改善論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「どんなものも、その本性において見れば、完全だとも不完全だとも言われないであろう。特に、生起する一切のものは永遠の秩序に従い、一定の自然法則に由って生起することを我々が知るであろう後は。」(中略)「人間はしかし無力のためその思惟によってこの秩序を把握できない。だが一方人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能とは認めないから、この完全性[本性]へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは、適当な場所で示すであろうが、言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognitio unionis quam mens cum tota Natura habet)である。」
 「だから私の志す目的は、このような本性を獲得すること、並びに、私と共々多くの人々にこれを獲得させるように努めることにある。」(中略)「次に、出来るだけ多くの人々が、出来るだけ容易に且つ確実にこの目的へ到達するのに都合よいような社会を形成しなければならない。なお、道徳哲学並びに児童教育学のために努力しなければならない。また健康はこの目的に至るのに大切な手段だから、全医学が整備されなければならない。また技術は多くの難しい事柄を簡単なものにして、我々に、生活における多くの時間と便宜を得させてくれるから、機械学を決してなおざりにしてはならない。」(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677)『知性改善論』(12)(13)(14)(15)、pp.17-19、岩波文庫(1968)、畠中尚志(訳))

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心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))

心身問題

【心身問題:この存在するすべてが精神である。そして、身体すなわち延長、形、運動という別のものも存在するならば、身体が精神として現れているという意味で、すべてはまた感覚であるとも言える。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「これら三種類の概念の間には次の点で大きな違いがあると認めます。つまり、精神は純粋知性によってしか理解されません。身体すなわち延長、形、運動は純粋知性のみによっても理解されますが、想像力に助けられた知性によってはるかによく理解されます。最後に精神と身体との合一に属することがらは、知性だけによっても、想像力に助けられた知性によっても漠然としか理解されませんが、感覚によってきわめて明晰に理解されます。それゆえ、まったく哲学したことがなく感覚しか使わない人は、精神が身体を動かし身体が精神に作用することを少しも疑わないのです。彼らは両者を一つのものと見なします。つまりそれらの合一を理解しています。というのは、二つのものの間の合一を理解するとは、それらを一つのものと理解することだからです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四三年六月二八日、p.29、[山田弘明・2001])
(索引:心身問題、精神、身体、精神と身体との合一、感覚)


デカルト=エリザベト往復書簡 (講談社学術文庫)




ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2017年12月26日火曜日

およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

無意識とは何か?

【およそ意識のうちに現われるすべてのものは、潜勢的に存在している精神の能力が、作用として発現することで、意識されるものである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも存在しない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 意識に現われるすべてのものは、精神の働き、言うなら精神の作用を、意識していると言える。また、すべての作用に対応して、われわれの精神の能力あるいは力能が、存在していると言える。しかし、能力あるいは力能については、言わば潜勢的に存在しており、われわれがある能力を使用しようとする場合に、ただちに、現実的に意識されるようなものなのである。したがって、決して意識することができないなら、それは潜勢的にも精神のうちには存在しない。
 「われわれのうちには、われわれのうちにそれがあるのと同じその瞬間にわれわれがそれを意識することがないようないかなる思惟も、ありえないのです。ですから、私は、精神は嬰児の身体に入りこむやすぐさま、思惟しはじめ、と同時に、自らの思惟を自らに意識する、ということを疑いません。そうした思惟の形象[ども]は記憶に刻みつけられることはありませんから、後になってからその事物を精神が、想起することはありませんが、よしそうだとしてもです。しかしながら、銘記すべきは、われわれの精神の働き、言うなら作用をこそ、われわれは常に現実的に意識しているということ、〔しかし〕われわれの精神の能力あるいは力能については、潜勢的にというならばともかく、常に[現実的に意識している]というわけではなく、すなわち、われわれが或る能力を使用しようとする場合には、その能力が精神のうちにあるとするならば、ただちに、われわれはそれを現実的に意識するというようになっているということです。だからこそ、その能力が精神のうちにあることを、われわれは、それについて意識することができないならば、否定することができるのです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『省察 第四答弁』デカルト著作集[二]、pp.295-296、[廣田昌義・1993])


デカルト著作集(全4巻)



ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))

無意識

【精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうるのではないか。(アントワーヌ・アルノー(1612-1694))】
 「書き落としたことをひとつ付け加えておきます。尊敬すべき著者が確実であると断定なさっていること、すなわち、「思惟する事物としての、彼[デカルト]のうちには、彼が意識していないものは、何ものもありはしない。」ということは、虚偽であると私には思えるのです。と申しますのも、思惟する事物としての彼[という言葉]によって、著者は、身体と区別されている限りにおいての、彼の精神だけを知解しているのです。ですが、精神のうちには、精神が意識してはいない多くのものがありうることを、分からない人がいるでしょうか? 胎児の精神は、思惟する力を有していますが、それを意識してはいないのです。これに類する多くのことは省くことにいたします。」
(アントワーヌ・アルノー(1612-1694)『省察 第四反論』デカルト著作集[二]、p.260、[廣田昌義・1993])
(索引:無意識)

デカルト著作集(全4巻)



アントワーヌ・アルノー(1612-1694)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
アントワーヌ・アルノー(1612-1694)


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