2021年12月12日日曜日

(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))

科学的方法

(1)知識の究極的根源は存在しない、(2)事実との一致、(3)観察結果との一致、内部無矛盾性、(4)知識の源泉としての伝統、(5)批判的検討、(6)知識の進歩、(7)誤謬や虚偽は知ることができる、(8) 観察も理性も権威ではない、(9)明瞭さと精密さは異なる、(10) 世界の謎(カール・ポパー(1902-1994))


(1)知識の究極的根源は存在しない
 知識の究極的根源など存在しない。事実かどうかが問題なのであって、情報の根源(出所)が問題なのではない。
(2)事実との一致
 言明が事実と一致しているかどうか、直接テストしたり、その諸帰結をテストする。
(3)観察結果との一致、内部無矛盾性
 典型的な手続きは、観察結果との一致を確認したり、内部に相互の矛盾がないかの確認したりする。
(4)知識の源泉としての伝統
 知識の重要な源泉は、伝統である。知識の内容だけでなく、知識の習得方法や態度なども、伝統を通じて獲得される。
(5)批判的検討
 伝統が無ければ知識の習得があり得ないにもかかわらず、全ての知識は批判的検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもあり得る。
(6)知識の進歩
 知識の進歩は、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。観察から始まるのではない。白紙から始まるのでもない。
(7)誤謬や虚偽は知ることができる
 真理の基準は、われわれの手の内にはない。しかし、誤謬や虚偽を認知させてくれるような規準がある。不明瞭や混乱、不整合や矛盾である。
(8) 観察も理性も権威ではない
 観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力も非常に重要であるが、真理の決め手ではない。真理の基準は、われわれの手の内にはない。
(9)明瞭さと精密さは異なる
 明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がない。
 言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けである。
(10) 世界の謎は汲み尽くされることはない


「さて、以上の議論の認識論的帰結を整理しておくべき段階に達しているように思う。以下 それらを10のテーゼの形で述べてみよう。  1、知識の究極的根源など存在しない。どのような根拠、どのような提案も提示されてよい が、どのような根拠、どのような提案も、批判的検討を受けなくてはならない。歴史の場合を 除いて、われわれは通常、事実そのものを検討するのであって、その情報の根源(出所)を検 討するのではない。  2、関わるべき認識論の問題は、根源に関するものではない。むしろ、われわれは、なされ た言明が真であるか否か――すなわち、その言明が事実と一致しているか否か――を問う。(事実 に対応しているという意味での客観的真理という概念を、矛盾に陥ることなく操作しうること は、アルフレッド・タルスキーの労作によって示されている。)そして、われわれは、言明そ のものを検討したりテストしたりすることによって、すなわち、直接にか、あるいはその諸帰 結かを検討し、テストすることによって、できるかぎり、この一致ないし対応を見出そうとす るのである。  3、こうした検討に関しては、あらゆる種類の議論が関係してくるであろう。その典型的な 手続は、われわれの論理が観察結果と矛盾していないかどうかを調べることである。しかし、 また、たとえばわれわれの歴史資料(根源)が相互に内的に無矛盾であるかどうかを調べるこ ともできる。  4、量的かつ質的に、われわれの知識のはるかに重要な源泉と言えば、それは――生得の知識 を別にすれば――伝統である。われわれの知っている事柄の大部分は、範例を示されたり、こと ばで教えられたり、あるいは、批判のしかたや、その批判の受けとりかたや、真理に対する敬 意の払いかたを学んだりすることによって習得したものである。  5、われわれの知識の根源のほとんどが伝統に由来するという事実は、反伝統主義を無益の わざと見なす。しかし、この事実が伝統主義的な態度を支持するものと考えられてはならな い。われわれの伝統的な知識の一つ一つ(さらにはわれわれの生得的知識さえも)が、批判的 検討に対して開かれており、その結果、放棄されることもありうるのである。にもかかわら ず、伝統がなければ、知識は不可能となろう。  6、知識は無から――白紙の状態から――出発するものでもなければ、観察から出発するのでも ない。知識の進歩というものは、主として、それ以前の知識の修正によって成り立つ。時に は、たとえば考古学においては、偶然の観察によって知識が進展することがあるけれども、その発見の意義は、通常、それによってそれ以前の理論を修正できるかどうかによって決まるの である。  7、悲観的な認識論も、楽天的な認識論も、ともに同じくらい間違っている。プラトンの悲 観的な洞窟の比喩は真理であるが、その楽天的な想起説はそうでない(たとえすべての人間 が、他のすべての動物とか、場合によってはすべての植物と同様に、生得的な知識を所有して いるということを認めるとしても)。なるほど見かけの世界は、洞窟の壁に映った単なる影の 世界なのであろうが、しかし、われわれは、すべて不断にその世界を超え出ようと努めてい る。デモクリストが言ったように、真理は奥深く隠されているものであるが、われわれはその 深みへさぐりを入れることができる。真理の基準は、われわれの手の内にはない。そして、そ の事実がペシミズムを支えている。しかし、われわれには、《運さえよければ》、誤謬や虚偽 を認知させてくれるような規準がある。明瞭性や判然性は真理の基準ではないが、不明瞭や混 乱のような事柄は誤りのしるしで《ありえよう》。同様にして、整合性があるからといって真 理が確定するわけではないけれども、不整合や矛盾があれば虚偽が確定する。そして、それら が認識されたときには、われわれ自身の間違いがおぼろげながらも赤信号となり、われわれが 洞窟の闇から手さぐりで抜け出す手助けになってくれるのである。  8、観察も理性も権威ではない。知的直感や想像力は非常に重要であるが、それらも頼りに ならない。それらは事物を極めて明白に示してくれるだろうが、われわれを過たせもする。そ れらはわれわれの理論の主たる根源として不可欠ではあるが、われわれの理論の大部分は、と もかくも真理であるとは言えない。観察と理性能力、さらには直感と想像力の、最も重要な機 能は、われわれが未知の事柄をさぐる際の手段となるような、思い切った推測を批判的に検討 するのに役立つということである。  9、明瞭さはそれ自体価値のあるものであるが、精密さや正確さはそうではない。すなわ ち、われわれの問題が要求する以上に正確であろうとしても意味がないのである。言語上の正 確さというのは妄想であり、ことばの意味や定義に関わる問題は重要でない。だから既述の観 念表(33ページ)は、その対称性にもかかわらず、重要な半分と重要でない半分に分たれ る。」

(33ページ、再掲)
        観念(IDEAS)
指示記号          陳述
ないし名辞      ないし判断
ないし概念      ないし命題
     が表現されるのは
語                      断定文
     によってであり、これらは
有意味              真
     であり得、その
意味                  真理
     は、
定義                  導出
     という手段を介して、
未定義概念      原始命題
     の意味ないし真理へ還元し得る。
     こうした方法によって、
意味                 真理      を還元しようとせず、むしろこれらを確定しようとする試みは、無限後退に陥る。

 「すなわち、左側(ことばとその意味)が重要でないのに対して、右側(理論とその真偽に 関わる諸問題)のほうは全部重要なのである。ことばが有意義なのは理論構成の道具としてだ けであって、ことばの問題は万難を排して回避すべきである。  10、一つの問題を解決しても、必ず未解決の問題が生じてくる。そうであればあるほど、元 の問題は深みを増し、その解決は一層大胆になる。われわれが世界について学べば学ぶほど、 われわれの学問が深くなればなるほど、自分の知らないことに関するわれわれの知識、すなわ ち自己の無知に関する知が、もっと意識され、明細になり、はっきりしてくるであろう。なぜ なら、このこと――すなわち、われわれの知識は有限でしかありえないのに、われわれの無知は 必然的に果てしがないという事実――こそ、われわれの無知の主たる根源なのだからである。」 

(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,序章 知識と無知の源泉について,16,pp.48-50,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳))

カール・ポパー
(1902-1994)









社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))

実在するものとしての思想

社会の経済組織が社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は、真理の一面を捉えている。しかし同時に、ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)社会の経済組織、すなわち自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度の歴史的発展にとって基礎的であるという主張は概ね正しいが注意すべき点がある。
(b)ある種の思想、我々の知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。
(c)思考実験:あらゆる機械やあらゆる社会的組織も含めて、我々の経済体制が、ある日壊滅させられたと想像せよ。だがしかし技術上の知識、科学上の知識が保存されたと想像してみよ。
(d)思考実験:一方で、これらの事柄についてのすべての知識が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ。


「第二は経済学主義(もしくは「唯物論」)であり、社会の経済組織、われわれと自然との 物質交換の組織が、あらゆる社会的制度、特に制度の歴史的発展にとって基礎的であるという 主張である。私の信じるところでは、この主張は、「基礎的」という用語が日常的な漠然とし た意味で受け取られ、過度に強調されることがない限り、完全に健全である。換言すれば、実 際上あらゆる社会研究は、制度的な研究であるにせよ歴史的な研究であるにせよ、社会の「経 済的諸条件」を顧慮に入れて遂行されるならば、有益なものになりうることには何の疑問も挟 みようがないのである。数学のような抽象的科学の歴史でさえ例外ではない。この意味で、マ ルクスの経済学主義は社会科学の方法に極めて価値のある前進を示していると言えるのであ る。  しかし、私が前に言ったように、われわれは「基礎的」という用語をあまり重大に受けとるべきではない。マルクス自身は疑いもなくそうしたのである。マルクスはヘーゲル主義の下で 育ったから、「実体」と「現象」との古代の区別、またそれに対応している「本質的」なもの と「偶然的」なものとの区別によって影響されていた。マルクスは、自分がヘーゲル(そして カント)に加えた改良は、「実体」を(人間の物質交代を含む)物質界と同一視したこと、そ して「現象」を思想や理念の世界と同一視したことにある、と見がちであった。それゆえ、す べての思想や観念は、基礎になっている本質的な実体、すなわち経済的諸条件に還元されて説 明されねばならないということになろう。こうした哲学的見解が他の何らかの形態の本質主義 より格段に優れているわけではないのは確かである。そしてそれが方法の領域に及ぼす効果 は、経済学主義の過度の強調とならざるをえないのである。なぜなら、《マルクスの経済学主 義の一般的重要性はいくら評価してもまず評価しきれるものではないが、個々の特殊的な事例 では、経済的諸条件の重要性が過大に評価されやすいからである》。経済的諸条件についての ある知識は、例えば数学の問題史にかなり寄与するであろうが、しかし数学の問題の知識その ものの方が、こうした目的にとってははるかに重要である。つまり、数学上の問題の「経済的 背景」にいっさい言及せずとも、十分に行き届いた数学の問題史を著述することさえ可能なの である(私見によれば、科学の「経済的諸条件」もしくは「社会的諸関係」というのは、すぐ 使いすぎになって陳腐に堕しやすいテーマである)。  しかし、これは、経済学主義を過度に強調する危険の矮小な例でしかない。経済学主義は、 しばしば十把一からげにされて、すべての社会的発展は経済的諸条件の発展とりわけ物理的生 産手段の発展に依存するのだ、という学説であると解釈されている。しかしこうした学説は明 白に誤りである。経済的諸条件と思想には相互作用が存在するのであって、単純に後者が前者 に一面的に依存するのではない。それどころか、われわれは、以下の考察から知ることができ るように、ある種の思想、われわれの知識を成立させているような思想は、非常に複雑な物理 的生産手段よりも一層基礎的であるとさえ主張できよう。あらゆる機械やあらゆる社会的組織 も含めて、われわれの経済体制がある日壊滅させられたと、だがしかし技術上の知識は科学上 の知識は保存されたと想像してみよ。こうした場合でも、(多数の人々が餓死してしまった後 で小規模に)経済体制が再建されるまでに相当に長い期間が費やされることはおそらくないで あろう。だが、これらの事柄についての《すべての知識》が消滅し、物質的なものは保存され たと想像してみよ! このことは、未開民族が高度に産業化されてはいるが人々のいなくなっ た国を占領した場合に生じることに等しいであろう。それはすぐさま文明のあらゆる物質的残 存物の完璧な消滅につながるであろう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第15章 経済学的歴史信仰,第3節,pp.102-104,未来社(1980),内田詔 夫(訳),小河原誠(訳))
カール・ポパー
(1902-1994)









規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。「人間の本性にかなう、本性を害する」も、一つの選択であり規範概念である。前提となる価値を選択すれば、我々が何をなすべきかは合理的な議論の対象となる。それでもなお、私が何をなすべきかは、完全に私に任されている。(カール・ポパー(1902-1994))

道徳判断、倫理的決定

規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。「人間の本性にかなう、本性を害する」も、一つの選択であり規範概念である。前提となる価値を選択すれば、我々が何をなすべきかは合理的な議論の対象となる。それでもなお、私が何をなすべきかは、完全に私に任されている。(カール・ポパー(1902-1994))


(1)人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
 (a)我々によって可能なすべての行為は人間本性に基づくものである。不可能な行為であれば、もとより考慮外でよい。従って、意味のある問い方は次のとおりである。
 (b)人間本性のうちで、どの要素に従って、それを発展させるべきであるのか。
 (c)人間本性のうちで、どの側面を抑圧ないし制御すべきであるのか。
 (d)すなわち、これは規範概念である。簡単な例で考えよう。美味しいものと、まずいもの。美味しいからといって身体に良いとは言えない。情動が、規範概念を直接定義するわけではない。そこで、健康に良い食べものとして再定義してみる。すると、経験と理性と他者との批判的な議論によって、真偽の区別ができる概念になる。しかし、この概念は我々が選択したものである。また、その食べ物が健康に良いものかどうかにかかわらず、我々はどの食べ物も食べることができるし、食べないこともできる。また、真偽の判断は区別はできても、判断の難しい対象もあるし、そもそも私は、健康に良いという基準では食べ物を選ばないかもしれない。
(2)我々は、いかに行為すべきか
 (a)法規範
 (b)慣習としての道徳規範
 (c)宗教的信念
 (d)医療的知識
 (e)一般にあらゆる工学的知識
 (f)科学も一定の規範に支えられている
 (g)美的規範
(3)私はいかに行為すべきか
 (a)道徳判断、倫理的決定という意味が、この意味だとすれば、仮に法規範に反することでも、私は自分の考えに従って、自分で行為を選択できる。
 (b)人の決定を「裁くな」というのは、人道主義倫理の根本法則の一つである。
 (c)たとえ善、悪という言葉を使ったとしても、善という言葉の意味が「私がなすべきこと」という意味を持たない限り、私のなすべきことは導出できない。


「(1)私の考えでは、われわれの責任を分け合うための何らかの論拠ないし理論を得たいと いう希望が、「科学的」倫理学の基本的動機の一つである。「科学的」倫理学は、その絶対的な不毛性の点で、社会現象の中でも最も驚くべきものの一つである。それは何を目指すのであ ろうか。われわれが何をなすべきかを教えること、すなわち科学的土台の上に規範法典を建設 し、われわれが困難な道徳的決定に直面した場合に法典の索引を見さえすればいいようにする ことを目指すのであろうか。これは明らかにばかげたことであろう。もしこんなことができる ものだとしても、それはすべての個人的責任、およびそれゆえにすべての倫理を破壊すること になる、という事実は全く別にしてもである。それともそれは道徳的判断、すなわち「善」と か「悪」という用語を含む判断の真偽の科学的認定規準を与えようとするのであろうか。だが 道徳的《判断》が絶対的に的はずれなものであることは明らかである。人々やその行為を裁く ことに興味をもつのは悪口屋だけである。「裁くな」というのは、われわれのうちのある者に とっては、人道主義倫理の根本法則の一つであるとともにまたあまりにも評価されることの少 ない法則であるように思われる(われわれは犯罪者が犯罪を繰り返すのを防ぐために、彼の武 器を奪い投獄しなければならないかもしれないが、あまりにも多くの道徳的判断をすること、 とくに道徳的義憤をすることは、常に偽善とパリサイ主義のしるしである)。こうして、道徳 的判断の倫理学は、的はずれであるばかりでなく、実際に不道徳なことである。道徳問題の最 も重要な点は、もちろん、われわれが知的予見をもって行為することができ、またわれわれが 自分の目標は何であるべきか、すなわちわれわれはいかに行為すべきかを自問することができ るという事実によるのである。  われわれがいかに行為すべきかという問題を扱ったほとんどすべての道徳哲学者たち (ひょっとするとカントは例外となるが)は、「人間本性」への言及(カントでさえ、人間理 性に言及するときにはやっていることだが)によってか、または「善」の本性への言及によっ て、それに答えようとしてきた。これらのうちで第一の道はどこへも通じない。なぜならば、 われわれによって可能なすべての行為は「人間本性」に基づくものであり、それゆえ倫理の問 題は、人間本性のうちでどの要素に私は従ってそれを発展させるべきであるのか、またどの側 面を抑圧ないし制御すべきであるのかと問うことでも設定できるだろうからである。だがこれ らのうちの第二の道もまた、どこへも通じない。というのは「善」の分析が「善とはこれこれ のものである」(ないし「これこれのものが善である」)のような文の形で与えられるとすれ ば、われわれは常に、それがどうしたのか、これが私に何の関わりがあるのか、と問わなけれ ばならないからである。「善」という言葉が倫理的な意味で、すなわち「私がなすべきもの」 を意味するために用いられるときにのみ、「Xは善である」という情報から、私はXをすべきだ という結論を導出することができよう。換言すれば、善という言葉がいやしくも何らかの倫理 的意義をもつべきであるとすれば、それは「私(ないしわれわれ)がなすべき(ないし促進す べき)もの」として定義されなければならない。だがもしそのように定義されるならば、その 意味のすべては定義句で尽くされ、あらゆる文脈においてこの句によって置き換えることがで きる、すなわち「善」という用語の導入は実質的にわれわれの問題に寄与しえないのであ る。」

(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,註(18),pp.248-250,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))


カール・ポパー
(1902-1994)









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