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2020年4月1日水曜日

最広義の「記憶」には、生得的なもの(遺伝子、神経系、免疫系、その他の諸能力)も含まれるし、試行錯誤、問題解決、行為と選択による能動的な学習によって獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))

記憶の種類

【最広義の「記憶」には、生得的なもの(遺伝子、神経系、免疫系、その他の諸能力)も含まれるし、試行錯誤、問題解決、行為と選択による能動的な学習によって獲得された広大な領域も含まれる。(カール・ポパー(1902-1994))】
(1)保持時間に基づく記憶の分類
 (出典:記憶の分類脳科学辞典
 (1.1)心理学
  感覚記憶、短期記憶(保持期間が数十秒程度)、長期記憶
 (1.2)臨床神経学
  即時記憶(情報の記銘後すぐに想起させるもの)
  近時記憶(情報の記銘と想起の間に干渉が介在される)
  遠隔記憶(臨床場面では個人の生活史(冠婚葬祭や旅行など)を尋ねることが多い)
(2)内容に基づく記憶の分類
 (出典:記憶の分類脳科学辞典
 (2.1)陳述記憶(宣言的記憶)
  イメージや言語として意識上に内容を想起でき、その内容を陳述できる。
  (2.1.1)エピソード記憶
    個人が経験した出来事に関する記憶で、例えば、昨日の夕食をどこで誰と何を食べたか、というような記憶に相当する。
   (a)関連:「連続性形成記憶」。アンリ・ベルクソンの《純粋記憶》に関連しているように思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録である。(カール・ポパー(1902-1994))

  (2.1.2)意味記憶
    知識に相当し、言語とその意味(概念)、知覚対象の意味や対象間の関係、社会的約束など、世の中に関する組織化された記憶である。
  (例) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習(カール・ポパー(1902-1994))
   生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》と、背景にある《何であるかの知識》とによって導かれる能動的探究
   (a)新しい推測、新しい理論の作成
   (b)その新しい推測や理論の批判とテスト
   (c)その推測の拒絶と、それがうまくいかないという事実の記録
   (d)もとの推測の修正や新しい推測を用いての(c)から(a)への過程の反復
   (e)新しい推測がうまくいくようだという発見
   (f)補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
   (g)その新しい推測の実際的で標準化された、反復的な使用

 (2.2)非陳述記憶(非宣言的記憶)
  意識上に内容を想起できない記憶で、言語などを介してその内容を陳述できない記憶である。
  (2.2.1)手続き記憶
   手続き記憶(運動技能、知覚技能、認知技能など・習慣)は、自転車に乗る方法やパズルの解き方などのように、同じ経験を反復することにより形成される。一般的に記憶が一旦形成されると自動的に機能し、長期間保たれるという特徴を持つ。
  (2.2.2)プライミング
   プライミングとは、以前の経験により、後に経験する対象の同定を促進(あるいは抑制)される現象を指し、直接プライミングと間接プライミングがある。
  (2.2.3)古典的条件付け
   古典的条件付けとは、梅干しを見ると唾液が出るなどのように、経験の繰り返しや訓練により本来は結びついていなかった刺激に対して、新しい反応(行動)が形成される現象をいう。
  (2.2.4)非連合学習
   非連合学習とは、一種類の刺激に関する学習であり、同じ刺激の反復によって反応が減弱したり(慣れ)、増強したり(感作)する現象である。

(3)獲得方法に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)生得的な記憶
  (a)遺伝子に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラム
  (b)生得的神経路の構造
  (c)機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは歩いたり話したりすることを学ぶためのさまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もまたここに挙げることができる。
  (d)泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のためのその他の生得的能力。
 (3.2)何らかの学習過程を通して獲得される記憶
  (a)無意識的で受動的な学習過程によって獲得される記憶
  (b)意識的で能動的な学習過程によって獲得される記憶
(4)想起の様相に基づく記憶の分類(カール・ポパー(1902-1994))
 (4.1)能動的に随意に想起できる記憶
 (4.2)随意に想起できず、求められなくとも想起されてしまう記憶

 「関連した問題の一般的な展望を得るために、最も広い意味での《記憶》という語に含まれる現象を枚挙するのが有益であると思われる。
 磁化の《経験》に関しての鉄棒、または成長する結晶が示すような《断層》に関しての前有機的《記憶》から始めることもできよう。だが、このような前有機的効果の目録は長いわりに啓発的でない。
(1) 生物の最初の記憶に似た効果は、十中八九、遺伝子(DNAまたはたぶんRNA)に暗号化された蛋白質(酵素)合成のプログラムの維持であることはほとんど間違いない。それは、とりわけ、記憶の誤りの出現(突然変異)と、そのような誤りが持続する傾向を示している。
(2) 生得的神経路は本能、行動の仕方、そして技能からなる一種の記憶を構成するようである。
(3) この構造的または解剖的エングラム(2)に加えて、機能的性格をもった付加的な生得的記憶がある。これは(歩いたり話したりすることを学ぶための)さまざまな機能を十分に発達して生得的能力を含むようである。免疫学的記憶もまたここに挙げることができる。
(4) 泳ぎ方、描き方、教え方を学ぶような、成熟とは密接に結びついていない学習のためのその他の生得的能力。
(5) 何らかの学習過程を通して獲得される記憶
(5.1) 能動的に獲得される (a)意識的に (b)無意識的に
(5.2) 受動的に獲得される (a)意識的に (b)無意識的に
(6) 前述のものと部分的に結びつく、それ以上の区別
(6.1) 随意に思い起こせる
(6.2) 随意に思い起こせない(が、いわば、《期待波》(expectancy waves)として求められなくても起こる)
(6.3) 手の技能とその他の身体的技能(水泳、スキー)
(6.4) 言語で表現された理論
(6.5) 会話、語彙、詩の学習」(中略)「
(7) 連続性形成記憶。これと関連して、いくつかの興味深い理論がある。それは、アンリ・ベルクソン〔1896〕、〔1911〕が(《習慣》と対立させて)《純粋記憶》と呼んだものと関連しているように思われる。すなわち、われわれの経験すべての正しい時間的順序による記録だが、この記録は、ベルクソンによれば、大脳中に、つまりどのような物質中にも記憶されていない。それは純粋に精神的な実体として存在する。(大脳の機能は純粋記憶に対してフィルターとして働き、それがわれわれの注意に侵入しないようにする。)」(中略)「
(8) 試行錯誤、問題解決、あるいは行為と選択による能動的学習の過程については、われわれは少なくとも次のような異なる段階を区別すべきであると思われる。
(8.1) 生得的な、そして獲得した《いかに行動するかの知識》(knowledge how)と、(背景にある)《何であるかの知識》(knowledge that)とによって導かれる能動的探究
(8.2) 新しい推測、新しい理論の作成
(8.3) その新しい推測や理論の批判とテスト
(8.4) その推測の拒絶と、それがうまくいかない(《そうではない》)という事実の記録
(8.5) もとの推測の修正や新しい推測を用いての(8.4)から(8.2)への過程の反復
(8.6) 新しい推測がうまくいくようだという発見
(8.7) 補足的なテストを含む、その新しい推測の適用
(8.8) その新しい推測の実際的で標準化された使用(その採用)
 これらの段階の中で、(8.8)の過程のみが反復という性格をもつ、と私は思っている。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P4章 自我についてのいくつかの論評、41――記憶の種類(上)pp.213-216、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:記憶の種類)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2019年3月26日火曜日

世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))

世界1に具現化されていない世界3の存在

【世界1の中に符号化、具現化されているものだけが、世界3ではない。人間は、未だ世界1の中に具現化されていない世界3の対象を、把握したり理解したりすることができる。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「具現化されていない世界3の対象の存在が重要であると私が考える主要な理由はこうである。もし具現化されていない世界3の対象が存在すれば、世界3の対象を把握したり、理解したりすることは常に、その対象の物質的に具現化されているものとの感覚的な結びつきに依存する、例えば書物の中の一つの理論の言明をわれわれが読むことに依存すると主張するのは正しい考えではない。この考えに反対して、私は世界3の対象を把握する最も特徴的な仕方は、それらの具現化やわれわれの感覚の使用にほとんど依存しない方法によってであると主張する。私のテーゼは、人間の心は、常に直接的にというのでなければ、間接的な方法(これは後に議論されることになる)によって世界3の対象を把握する、というものである。この間接的方法とは、対象の具現化とは独立した方法であり、そして(書物のような)世界1にも属する世界3の対象の場合には、それら対象の具現化された事実から抽象する方法である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、12――具現化されていない世界3の諸対象(上)p.72、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年11月19日月曜日

23.生命は、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているが、命をかけ暴力を使うことなく、試行し、誤りを排除できる方法が発現し、圧倒的な優位を獲得した。それは、人間の心と、文化(世界3)の発現である。(カール・ポパー(1902-1994))

自然淘汰の結果としての心と文化

【生命は、激烈な闘争と自然淘汰の結果として存在しているが、命をかけ暴力を使うことなく、試行し、誤りを排除できる方法が発現し、圧倒的な優位を獲得した。それは、人間の心と、文化(世界3)の発現である。(カール・ポパー(1902-1994))】

 「各章であまり明示されていなかったが、明示すべき最後の点は次のことである。
 (9) 自然淘汰と淘汰圧は通常は、生命への多少とも激烈な闘争の結果として考えられる。
 しかし、心、世界3、理論の発現によってこれは変わる。われわれは理論を最後まで戦わす――われわれの代わりに理論を死に至らしめる。

自然淘汰の観点からは、心と世界3の主要な機能は、われわれ自身を暴力的に排除することなく、試行と、誤りの排除という方法を適用することを可能にすることである。この点に、心と世界3の偉大な生存価値があるのである。

したがって、心と世界3との発現をもたらすことで、自然淘汰は自らとその元来の暴力的性格を超越する。世界3の発現によって、淘汰はもはや暴力的である必要はなくなる。

われわれは非暴力的な批判によって誤った理論を排除できるのである。非暴力的な文化的進化はユートピア的な夢ではなく、むしろ、自然淘汰を通じての心の発現の可能な結果の一つなのである。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P6章 要約(上)pp.319-320、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:自然淘汰,心,文化,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年11月18日日曜日

22.先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))

「真理らしさ」の増大

【先行仮説を超える新しい問題を解決し、新しい予測を導出するような新しい仮説の自由な創造と、合理的批判、観察と実験による誤った仮説の消去という能動的方法により、仮説の「真理らしさ」が増大する。(カール・ポパー(1902-1994))】

(3.1.3.1)(6.3.1)~(6.3.3)(7)追加記載。

(1)真理の探究には、何ものにも勝る重要性があり、われわれの目的であり続ける。
(2)理論は、実践的な科学と理論科学にとって至高の重要性を持つ。
(3)しかし、真理が実際に見出されたということを示す実証的理由は、決して与えることはできない。
 参照: ある理論が真理であることを示す実証的理由は、決して与え得ない。合理的な批判と、妥当な批判的理由を示すことで先行の理論が真でないことを示し、新しい理論がより真理に近づいていることを信じることができるだけである。(カール・ポパー(1902-1994))
 (3.1)帰納の非妥当性の原理
  (3.1.1)どんな帰納推理も、妥当ではあり得ない。すなわち、単称の観察可能な事例、および、それらの反復的生起から、規則性とか普遍的な自然法則へ至る妥当な推論はあり得ない。
  (3.1.2)したがって、理論を信じる実証的理由は、決して得られない。
  (3.1.3)したがって、理論は当て推量、推測である。
   (3.1.3.1)科学も、人間の歴史の所産であり、多くの偶然に依存している。
(4)経験主義の原理
 (4.1)科学理論の採否は、観察と実験の結果に依拠すべきである。
(5)帰納の論理的問題
 参照: 帰納の非妥当性の原理と、経験主義の原理とが衝突し、そこに帰納の論理的問題があると、かつて考えられたが、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。批判的合理主義の原理が、解答を与える。(カール・ポパー(1902-1994))
 (5.1)かつて、(3.1)と(4)が衝突するように考えられたことがある。
 (5.2)この問題から、反合理主義的な結論を引き出すのは誤りである。
(6)批判的合理主義の原理
 (6.1)科学理論の採否は、批判的推論に依拠すべきである。
 (6.2)観察と実験は、ある理論が「真でない」ことを示す妥当な批判的理由を、与えることができる。
 (6.3)理論は、合理的批判の結果に照らして他の既知の理論よりもよりよい、あるいはより悪い理論として、暫定的に、拒否されたり、受け容れられたりする。
  (6.3.1)新しい仮説に要請される、後退を防ぐ保守的な条件。
   (a)新しい仮説は、先行仮説が解決した問題を、同じ程度にうまく解決せねばならない。
  (6.3.2)新しい仮説に望まれる、革命的な条件。
   (a)新しい仮説は、先行仮説からは導出されない予測を演繹する。
   (b)新しい仮説は、先行仮説と新しい仮説のいずれを支持するかの、決め手となる実験を構成する。
  (6.3.3)もし、決め手となる実験が新しい仮説に有利に決まるなら、より「真理らしさ」が増大した、科学理論は「進歩した」と言うことができる。
(7)科学理論は、理論や仮説に固有の傾向として、真理らしさの増大に「向かう」と言うべきではない。科学の進歩は、誤謬消去を基礎とした科学の方法と、我々の批判的で能動的な行為により支えられている。

 「一般に人間の思考というもの、そして特に科学というものは、人間の歴史の所産である。それゆえ、それらは多くの偶然に依存している。つまり、われわれの歴史が異なっていたならば、われわれの現在の考え方と現在の科学もまた(もしあったとすれば)異なっていたことであろう。


 多くの人はこのような論証によって相対主義的または懐疑論的な結論を出してきたが、この結論は避けられないものではけっしてない。

われわれは事実として、思考には偶然的(そしてもちろん非合理的)要素があることを容認できる。だが、われわれは相対主義的な結論を自滅的で、敗北主義的なものとして拒否できる。

なぜなら、これはしばしば行なっていることだが、われわれは自身の誤りから学ぶことができ、これが科学の進歩の仕方であると指摘できるからである。われわれの出発点がいかに誤っていようと、それらを訂正し、したがって超えることができるのである。科学において行なわれるように、われわれが意識的な批判によって誤りをつきとめようとする場合は特にそうである。

したがって、科学的思考は多少とも偶然的な出発点をもつにもかかわらず、(合理的な観点からは)進歩的であり得る。

そしてわれわれは、批判することによって科学の前進を能動的に助けることができ、そのため真理に近づくことができる。

目下の科学理論は、多少とも偶然的な(またおそらく歴史的に決定された)われわれの偏見《と》批判的な誤謬消去の共通の所産である。批判と誤謬消去という刺激の下で科学理論の真理らしさは増大に向うのである。

 おそらく私は《向う》と言うべきではないだろう。

というのは、より真理らしくなるのはわれわれの理論や仮説に固有の傾向ではないからである。それはむしろ、新しい仮説が以前の仮説に比べて改良されているようにみえる時に限ってその仮説を承認するという、われわれの批判的態度からの結果なのである。

われわれが新しい仮説に対して、それを以前のものと置き換えることを承認する前に要求するのは次のことである。
 (1) それは先行仮説が解決した問題を、少なくとも先行仮説が行なったと同じ程度にうまく解決せねばならない。
 (2) それは古い理論からは出てこない予測の演繹を許すものでなければならない。望ましくは、古い理論に矛盾する予測を認め、決め手となる実験の構成を許すものでなければならない。

もし新理論が(1)と(2)を満足するなら、それは進歩が可能なことを示している。もし決め手となる実験が新理論に有利に決まるなら、進歩は現実のものとなるだろう。

 (1)は必要な要請であり、かつ保守的な要請である。それは後退を防ぐ。(2)は選択的で、望ましいものである。それは革命的である。科学におけるすべての重要な成功は革命的であるが、科学のすべての進歩が革命的性格をもっているわけではない。二つの要請がいっしょになり、科学の進歩の合理性、すなわち真理らしさ(verisimilitude)の増大を保証するのである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P5章 心身問題についての歴史的批評、43――われわれの宇宙像の歴史(上)pp.231-232、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:真理らしさ)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月30日木曜日

11.数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))

物理法則と論理学の法則

【数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.2)を追記。

(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

 (c1.1)もし、これが正しいならば、世界2での過程はすべて世界1の物理学、化学の法則に支配されているのか。しかし、たとえば数学の公理とか論理学の法則とは、いったい何なのか。これも、世界1の諸法則に従っているのか。
 (c1.2)コンピュータは、世界1の諸法則によって実現され、動作しているにもかかわらず、同時に論理的諸原理にも従っている。
 (c1.3)なぜ、(c1.2)のようなことが可能なのか。それは、コンピュータも論理学の法則も、世界3に属しているからである。参照:(b2)

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

 (b2.1)しかし、すべては物理的世界1における現象であることには、変わりないのではないか。
  (b2.1.1)進化と自然淘汰の産物として、人間の大脳が生まれた。
  (b2.1.2)環境に適応するこの過程のなかで言語活動が生まれた。
  (b2.1.3)適応的な行動を生むための思考と、適応的な推理のための性向的能力が習得された。
  (b2.1.4)やがて学校教育において、論理的思考が組織的に学習されることになった。
 (b2.2)(b2.1)が正しいとしても、ある論理法則が「正しい」とか「誤っている」という基準は、物理的世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する主観的経験の世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。
  (b2.2.1)たとえば、世界2における計算、または世界1に書き下した計算式、または、ある計算を行なっているコンピュータが「正しい」とか「誤っている」と言うことには、確かに意味がある。「正しい」論理法則とは、何なのか。
  (b2.2.2)「正しい」「誤っている」と言うためには、基準が必要であるが、この基準は、物理的世界1の中に具現化されているだろうか。たとえば、ある特定の論理学の書物が基準であるとか。
  (b2.2.3)あるいは、大多数の論理学者が正しいと判断するから「正しい」というような方法で、世界2の集合体が、その基準を具現化しているのだろうか。

 「I――コンピュータや大脳は誤りを犯さないのでしょうか。

 P――もちろん、コンピュータは完全ではありません、人間の大脳もまたそうです。言わずと知れたことですよ。

 I――でも、もしそうならば、あなたには世界1の中の対象に具現化または具体化されていない妥当性の基準のような、世界3の対象が必要になりますよ。《推論の妥当性》に訴えることができるためにはそれら基準が必要です。でもあなたはそのような対象の存在を否定しています。

 P――私は非物質的な世界3の対象の存在を断固否定します。しかし、私にはまだあなたの要点がよくわかったわけではないのです。

 I――私の要点はまったく簡単です。もしコンピュータや大脳が誤りを犯すことができるなら、それらは何に比べて劣っているのだろうか。

 P――他のコンピュータや大脳、あるいは論理と数学の書物の内容より劣っているのです。

 I――それらの書物は誤りを犯すことがないのでしょうか。

 P――もちろん、あります。でも間違いは稀です。

 I――それはあやしいが、そうだったとしましょう。でもまだ質問があります。もし間違いがあるなら――いいですか、それが論理的な間違いとしたら――どんな基準でそれは間違いなのですか。

 P――論理学の基準です。

 I――そのとおりです。でも、それら基準は非物質的世界3の基準ですね。

 P――それには賛成しかねます。それらは抽象的な基準ではなく、大多数の論理学者――事実、少数の過信派以外のすべて――がそのようなものとして受け入れる気になる基準や原理なのです。

 I――原理が妥当だから論理学者がその気になるのでしょうか。それとも彼らが受け入れる気になるから原理は妥当なのでしょうか。

 P――紛らわしい質問ですね。それへの明白な答え、そしてとにかくあなたの答えは、「論理的基準が妥当であるゆえに、論理学者はそれを受け入れる気になる」ということのようだ。だがこれは、私が否定する非物質的な、したがって抽象的な基準や原理の存在を認めることでしょう。

いや、私はあなたの質問に別の答えをしなければなりません。基準は、それらが存在する以上は、人々の大脳の状態や性向として存在するのです。状態や性向というのは人々に正しい基準を受け入れさせるものです。

するともちろん、あなたは次のように問うかもしれません。「《妥当な》基準以外の《正しい》基準は他にあるのだろうか、と。

私の答えは「言語行動のいくつかの仕方、あるいはいくつかの信念を他の信念と結び合わせるいくつかの仕方がその基準であり、それらの仕方は生存闘争で有用だとわかり、それゆえ自然淘汰によって淘汰されたか、またはたぶん学校教育その他で条件づけによって学ばれたものです」。

 これらの遺伝され、学習された性向は何人かの人々によって《われわれの論理的直感》と呼ばれるものです。私はそれらが(抽象的な世界3の対象と反対に)存在することを認めます。

私はまた、それらが常に信頼できるとは限らず、論理的な誤りが存在することも認めます。でもこれらの誤った推論は批判し、取り除くことができます。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、21――J・B・S・ホールディンの唯物論反駁の一修正形式(上)pp.121-122、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月29日水曜日

10.数学とか論理学も、物理的世界における人間の脳の進化と自然淘汰の産物ではないのか。環境に適応する過程のなかで、言語が生まれ、思考が生まれ、適応的な推理のための性向的能力が習得されたのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))

物理法則と論理学の法則

【数学とか論理学も、物理的世界における人間の脳の進化と自然淘汰の産物ではないのか。環境に適応する過程のなかで、言語が生まれ、思考が生まれ、適応的な推理のための性向的能力が習得されたのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.1)を追記。

(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

 (c1.1)もし、これが正しいならば、世界2での過程はすべて世界1の物理学、化学の法則に支配されているのか。しかし、たとえば数学の公理とか論理学の法則とは、いったい何なのか。これも、世界1の諸法則に従っているのか。
 (c1.2)コンピュータは、世界1の諸法則によって実現され、動作しているにもかかわらず、同時に論理的諸原理にも従っている。
 (c1.3)なぜ、(c1.2)のようなことが可能なのか。それは、コンピュータも論理学の法則も、世界3に属しているからである。参照:(b2)

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

 (b2.1)しかし、すべては物理的世界1における現象であることには、変わりないのではないか。
 (b2.1.1)進化と自然淘汰の産物として、人間の大脳が生まれた。
 (b2.1.2)環境に適応するこの過程のなかで言語活動が生まれた。
 (b2.1.3)適応的な行動を生むための思考と、適応的な推理のための性向的能力が習得された。
 (b2.1.4)やがて学校教育において、論理的思考が組織的に学習されることになった。

 「P――賛成です。しかし、私は、例えば論理や数学の書物が属し、そしてもちろんコンピュータも属している《物理的》世界3の存在しか認めません。あなたの言うこの世界3は実際は世界1の部分でしかないのです。

書物やコンピュータは男の人や女の人の産物です――それらは企図されたものであり、人間の《大脳》の所産なのです。

われわれの大脳の方はというと、これは真に企画されたものとは言えません――それらは大部分自然淘汰の産物なのです。大脳は淘汰されてその環境に適応するのです。推理に関する性向的能力はこの適応の結果です。

推理はある種の言語行動と、行為し話すことへ向う素質を習得することにあります。自然淘汰から離れて、われわれの行為や反応の成功、失敗を通しての正負の条件づけもまたその役割を演じます。

学校教育も同じです。それはわれわれに働きかける教師を通しての条件づけなのです――これはコンピュータの製作に従事する設計技師にいくぶん似ています。このようにして、われわれは条件づけられて、話し、行為し、合理的または理知的に推理するようになるのです。

 I――あなたと私はいくつかの点で一致しているようだ。われわれは自然淘汰《と》個人の学習が論理的思考の進化においてその役割を果たしていることで一致しています。

そしてわれわれは、合理的または理性的な唯物論は、信頼できるコンピュータのように、十分訓練された大脳が論理学の諸原理と物理学、ならびに電気化学の諸原理に従って働くように作られている、と主張しなければならないという点で一致しています。

 P――まさにそのとおり。もしこの見解が擁護できない場合には、ホールディンの論証は実際に唯物論をくつがえすであろう、ということを認めるつもりさえありますし、またその場合、唯物論は自らの合理性を過小評価していることを認めねばならないでしょう。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、21――J・B・S・ホールディンの唯物論反駁の一修正形式(上)pp.120-121、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:物理法則,論理学)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月28日火曜日

数学とか論理学は、世界3に属しており、世界2との相互作用によって新たな世界3を生成する。世界3は、物理的世界の中で実現されつつも、独自の諸法則に従って生成される。コンピュータは、分かりやすい事例である。(カール・ポパー(1902-1994))

物理法則と論理学の法則

【数学とか論理学は、世界3に属しており、世界2との相互作用によって新たな世界3を生成する。世界3は、物理的世界の中で実現されつつも、独自の諸法則に従って生成される。コンピュータは、分かりやすい事例である。(カール・ポパー(1902-1994))】

(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

 (c1.1)もし、これが正しいならば、世界2での過程はすべて世界1の物理学、化学の法則に支配されているのか。しかし、たとえば数学の公理とか論理学の法則とは、いったい何なのか。これも、世界1の諸法則に従っているのか。
 (c1.2)コンピュータは、世界1の諸法則によって実現され、動作しているにもかかわらず、同時に論理的諸原理にも従っている。
 (c1.3)なぜ、(c1.2)のようなことが可能なのか。それは、コンピュータも論理学の法則も、世界3に属しているからである。参照:(b2)

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

 「前節の終わりで述べた唯物論の論駁は、J・B・S・ホールディンによって簡潔に表現されている。ホールディン〔1932〕はそれを次のように述べる。

『……もし唯物論が正しいならば、われわれはその正しさを知ることができないように思える。もし私の持説が私の大脳で起こっている化学的過程の結果であるとすれば、それら持説は論理学の法則によってではなく、化学の法則によって決定されるのだ。』」(中略)

 「私は相互作用論者と物理主義者の対話という形式でこの修正論証を表現しよう。(I:相互作用論者、P:物理主義者)

 I――私はホールディンの論証に対するあなたの反駁を受け入れるのにやぶさかではありません。コンピュータはそのままでの論証に対する反例となります。

しかし、コンピュータは確かに物理的諸原理に従って、そして同時に論理的諸原理に従っても作動するが、それはこのように作動するように《われわれによって》――人間の《心》によって――《設計された》からである、ということを思い起こすのが肝要だと思えるのです。

実際、多量の論理的、数学的理論がコンピュータを作るのに用いられています。このことは、論理法則に従ってコンピュータが作動する理由を説明してくれます。物理法則に従うと同時に論理法則にも従って作動する物理的装置を一セット作るということは、けっして容易なことではありません。コンピュータも論理の法則もここで世界3と呼ばれるものに断固として属しているのです。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、21――J・B・S・ホールディンの唯物論反駁の一修正形式(上)pp.118-120、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:唯物論,物理法則,論理学の法則)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月27日月曜日

8.心身問題のまとめ:徹底的唯物論、同一説(中枢状態説)、随伴現象論、汎心論。(カール・ポパー(1902-1994))

心身問題のまとめ

【心身問題のまとめ:徹底的唯物論、同一説(中枢状態説)、随伴現象論、汎心論。(カール・ポパー(1902-1994))】

 (c1)徹底的唯物論、(c2)同一説(中枢状態説)、(c3)随伴現象論(epiphenomenalism)などの考え方の違いにもかかわらず、もし、物理的世界の諸法則が全てを支配しているのであれば、(c4)汎心論のような意識的な思考過程が、どのように生じて、どのように物理的世界に影響を及ぼし得るのか、というのが心身問題である。(b2)が、それを「理解するのを少しは容易にしてくれる」。

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b)世界3と世界1の相互作用
 世界3は、確かに世界1の対象としても存在してはいるが、世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。これは、すなわち新たに生成された世界1でもある。

(b1)世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。

 時間1 世界1・P1⇒世界3・C1
  ↓    ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界3・C2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(c)世界2と世界1の相互作用(心身問題)
(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

(c2)同一説(中枢状態説)
 世界1は、次の2つの世界に区別することができるとする。意識的過程と同一である物理過程の世界 1mと、それ以外の世界 1pである。世界 1mと、世界 1pには、相互作用が可能である。
 徹底的唯物論とは異なり、心的世界2も実在すると考える。心的世界2と、身体・大脳の物理的過程 1m とは、世界1のなかの同一の実体についての、異なる二つの記述方法である。したがって、随伴現象論とは異なり、心的世界2も、世界1の実体として物理過程と相互作用することができる。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 1m・状態1
  │   │     =世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 1m・状態2
            =世界2・M2

(c3)随伴現象論(epiphenomenalism)
 精神状態は、脳内のプロセスに随伴する。ただし、因果関係にはかかわらない。
 また、汎心論とは異なり、生命のある対象のみが、内的または主観的経験を持つと考える。

 時間1 世界1・P1 ⇒ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⇒ 世界2・M2

 しかし、次の疑問がある。例えば、視覚による知覚は無意識的な神経生理学的過程に支えられているとしても、そこには、能動的で生産的なものが存在している。

(c4)汎心論
 純粋な物理的対象も、多かれ少なかれ我々自身の内的意識に類似の内面を持っている。

 時間1 世界1・P1 世界2・M1
  ↓   ↓    ↓意識的な思考過程
 時間2 世界1・P2 世界2・M2


 「既に10節で、私は歯医者を訪れるという例を手短に論じることで、そのような行為が物理状態(世界1)、われわれの意識的な自覚(世界2)、計画と制度(世界3)のすべてを含む仕方を明らかにした。われわれの四つの唯物論的理論の性格は、それらがこのような出来事を説明する仕方によって明らかにできるであろう。この出来事は、例えば、われわれが歯を悪くし、歯痛が起こり、歯医者に予約の電話をし、その後治療を受けるために歯医者に行くというようなことを含んでいるであろう。
 (1)徹底的唯物論の解釈:私の歯の中には私の神経系の過程に通じる過程が存在する。起こることすべては世界1に制限された物理過程から成立している(この過程には私の言語行動――電話で話すこと――も含まれている)。
 (2)汎心論的解釈:(1)と同様に、物理過程が存在する。だが、これに対してまた別の側面がある。すなわち、われわれが経験するがままのことを語る《平行的な》説明(種々な汎心論者が異なる仕方で説明する)がある。われわれの経験はある仕方で(1)で与えられたような物理的説明に《対応している》ばかりでなく、そこに含まれる(電話のような)明らかに純粋な物理的対象もまた、多かれ少なかれわれわれ自身の内的意識に類似の《内面》をもっている、と汎心論は説く。
 (3)随伴現象論の解釈:(1)と同様に、物理過程が存在する。その他の側面も(2)と異なっていない。だが、次のような(2)とは異なる点がある。
  (a)《生命のある》対象のみが《内的》または主観的経験をもつ。
  (b)(2)ではわれわれは二つの異なった、しかし同等に妥当な説明をもてたが、随伴現象論者は物理的説明に優位性を与えるばかりでなく、主観的経験は因果的に余分なものであることを強調する。私が感じた痛みは話の中では何の因果的役割も演じないし、私の行為の動機とはならないのである。
 (4)同一説:(1)と同様であるが、しかしここではわれわれは、意識経験と同一でない世界1の過程(世界 1p:下に書いたpは《純粋に物理的》を示す)と、経験された過程ないし意識的過程と同一である物理過程(世界 1m:下に書いたmは《心的を示す》)とを区別できる。世界1の二つの部分(つまり、部分世界 1pと 1m)はむろん相互作用が可能である。したがって、私の痛み(世界 1m)は私の記憶の蓄積に作用して、電話番号を調べさす。すべてのことは相互作用論者の分析と同じように生起する。(私の考えでは、これがこの見解を魅惑的なものにしている)。ただ、(主観的な知識を含んだ)私の世界2だけが世界 1m、すなわち世界1の部分と同一視され、世界3は世界1の他の部分と、すなわち、電話帳や電話のような《道具ないし装置》と同一視される(あるいは、おそらく大脳過程と同一視される。というのは、同一論者にとっては、私の世界3の核心となる《抽象的な知識内容》は存在しないからである)。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、16――4つの唯物論的あるいは物理主義的な立場(上)pp.91-92、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:)
 「(3)随伴現象論(epiphenomenalism)は汎心論の修正の一つとして解釈できる。

そこでは《汎》という要素は消去され、《心論》は心を持っている生物に制限される。

汎心論と同様、それは通常の形態では一種の平行論である。つまり、心的過程はある物理過程と平行してある、という見解である――つまり、平行であるのは、それらの過程はある(未知の)第三の存在者を内面と外面とから見た二つの眺めだからである。
 しかし、平行論でない形態をとる随伴現象論もある。

私が随伴現象論において本質的とみなすものは、物理過程《のみ》がそれ以後の物理過程に《因果的に関連》しており、心的過程は存在するにしても因果的にはまったく無関係であるというテーゼである。

 (4)同一説または中枢状態説は、心身問題に答えようと展開された理論の中では現在最も有力なものである。

これは汎心論と随伴現象論の修正の一つとみることができる。

随伴現象論のように、《汎》のない汎心論とみることができる。だが、随伴現象論とは反対に、心的事実を重要で因果的に効果のあるものと考える。

この理論は、心的過程と一定の大脳の過程の間に、ある種の《同一性》(identity)が存在する、と主張する。

この同一性は理論的意味での同一性ではなく、金星という唯一の惑星の別の名前である《宵の明星》と《明の明星》の間にあるような同一性である。この二つの名前は金星の異なる外観をも示している。

M・シュリック(Schlick)とファイグルによる同一説の形式では、心的過程は(ライプニッツ同様)内側から感得的に(by aquaintance)知られる物自体として考えられている。

一方、われわれの大脳過程――理論的記述によってのみ知られる過程――に関する理論は同じ物を外側から記述することになる。

随伴現象論とは対照的に、同一論者は心的過程は物理過程と相互作用するということができる。なぜならば、心的過程は単に物理過程《であり》、より正確には、特殊な大脳過程にすぎないからである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、16――4つの唯物論的あるいは物理主義的な立場(上)pp.90-91、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:心身問題,徹底的唯物論,同一説,中枢状態説,随伴現象論,汎心論)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月26日日曜日

7.言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

言語と心身問題

【言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))】

心身問題における言語の役割の考察。

世界1:自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ自然的過程
 言語を学習する強い必要性と、無意識的で生得的な動機
 言語を学習する能力

世界3:種々の言語と、その文化的進化
 様々な差異を持った数多くの言語が存在する。

世界2:個々の言語を実際に学習する過程
(1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている。
(2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である。
(3)言語は、以下に対して強いフィードバック効果を持っている。
 (3.1)自らの物質的環境への精通
 (3.2)他者との関係
 (3.3)自我、人格の形成
(4)すなわち、自我、人格とは、
  (4.1)能動的な学習と探究の成果の所産である。
  (4.2)世界3の所産である。
  (4.3)物質的環境との相互作用の所産である。
  (4.4)他者との相互作用の所産である。

(再掲)

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)


 「心身問題に関係した第三の論証は人間言語の地位と結びついている。

 言語を学習する能力は――そして言語を学習する強い必要性さえも――人間の遺伝的構造の一部であるようにみえる。

これとは対照的に、個々の言語を実際に学習することは、無意識の生得的な必要性と動機に影響されるとはいえ、遺伝子に制御された過程、したがって自然的過程ではなく、世界3に制御された、文化的過程である。

したがって、言語学習は自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ性質が、文化的進化に基づく探究と学習の意識過程といくらか入り組み合い、相互作用する過程である。これは世界3と世界1の相互作用という考えを裏づけており、さらにわれわれの以前の論証から、それは世界2の存在をも裏づけている。」(中略)

「種々の言語は、その数と差異が示しているように、人間が作ったものである。それらは文化的な世界3の対象である。

もっとも、それらは遺伝的に確立された能力、要求、目的によって可能となるものである。普通の子供はみな、楽しくそしてたぶん苦痛でもあるきわめて能動的な勉強によって、一つの言語を習得する。言語に伴う知的成果は多大なものである。

もちろん、この努力は子供の人格、他人への関係、自らの物質的環境への関係に対して強いフィードバックの効果をもっている。

 こうして、子供は部分的には彼自身の成果の所産であると言うことができる。

彼は自分自身ある程度まで世界3の所産である。子供の物質的環境への精通とその意識が、自分の新しく習得した話すという能力によって拡大されるが、それと同じことが彼自身の意識についても言える。

自我、人格は、他我、彼の環境内の人工物ならびに他の対象との相互作用から生じる。これはすべて言語の習得に深く影響を与える。

その影響が強いのは、特に、子供が自分自身の名前に気づく時、彼の身体の種々の部分の名称を学ぶ時、そして最も重要な、彼が人称代名詞を用いることを学ぶ時である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)pp.80-82、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:言語,心身問題,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
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