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2021年12月14日火曜日

普遍言明の受容れ条件は、テストの厳しさであり、理論の単純性そのものではない。また合意は、何らかの基準による普遍言明についての合意ではなく、単称言明である基礎言明についての合意である。それは、直接経験による言明の正当化ではなく、科学的方法の目的に沿った自由な決定としての合意である。(カール・ポパー(1902-1994))

理論の単純性、合意の内容

普遍言明の受容れ条件は、テストの厳しさであり、理論の単純性そのものではない。また合意は、何らかの基準による普遍言明についての合意ではなく、単称言明である基礎言明についての合意である。それは、直接経験による言明の正当化ではなく、科学的方法の目的に沿った自由な決定としての合意である。(カール・ポパー(1902-1994))


「約束主義者にとっては、普遍言明の受容れは単純性の原理によって支配される。 彼はもっとも単純な体系を選ぶ。反対に私は、考慮されるべき第一の事柄はテストの厳しさで なければならない、と要求する。(私が「単純性」とよぶものとテストの厳しさとのあいだに は密接な結びつきがある。しかし、私の単純性の考えは約束主義者のそれとは非常に異なって いる。第46節を見られたい)。そして私は、理論の運命を最終的に決定するのはテストの結 果、つまり基礎言明についての合意である、と主張する。私は約束主義者とともに、なんらか の特定の理論を選ぶということが行為であり、実践の問題であると主張する。しかし私の場合 には、その選択は理論の応用およびこの応用に結びついた基礎言明の受容れによって決定的に 影響されるものである。これに反して、約束主義者の場合には、審美的動機が決定的である。  こうして私は、合意よって決定される言明が普遍言明でなく単称言明であると主張 する点で、約束主義と異なっている。また私は、基礎言明がわれわれの直接経験によって正当 化されるものではなく、論理的観点からすると行為、自由な決定(心理学的観点からすると、 これはおそらく、目的的なよく適応した反応であろう)によって受容れられるものであると主 張する点で、実証主義者と異なる。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,30 理論と実験,pp.136-137,恒星社厚生閣(1972),大内義一 (訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)








客観的科学の経験的基礎は、従って、科学についてなんら「絶対的」なものを持たない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。(カール・ポパー(1902-1994))

客観的科学の経験的基礎

客観的科学の経験的基礎は、従って、科学についてなんら「絶対的」なものを持たない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。(カール・ポパー(1902-1994))


「客観的科学の経験的基礎は、したがって、科学についてなんら「絶対的」なものをもたな い。科学は岩底に基礎をおくものではない。科学理論の大胆な構築物は、いわば沼地の上に聳 え立っているのである。それは杭の上に直立している建物のようなものである。杭は上から沼 地のなかに打ち込まれるが、いかなる自然的なまたは「既定の」基盤にも達しない。そしてわ れわれがより深い層に杭を打ち込もうとする企てをやめる時でも、それはわれわれが堅固な基 礎に達したからではない。われわれはただ、少なくとも差し当っては、杭が構築物を支えるに 足るほど堅固だと満足するときに、ストップするだけなのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,30 理論と実験,p.139,恒星社厚生閣(1972),大内義一(訳),森博 (訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)









科学においては、理論が確証されていない仮説にとどまるが、つねにテスト可能であるので単なる独断論ではない。また、理論の予測結果の確認が、知覚的経験に依存しているが、その情報は、言明の受け入れ可否の判断材料なので、経験内容によって事実を正当化しようとする単なる心理主義とは異なる。 (カール・ポパー(1902-1994))

科学と独断論、心理主義

科学においては、理論が確証されていない仮説にとどまるが、つねにテスト可能であるので単なる独断論ではない。また、理論の予測結果の確認が、知覚的経験に依存しているが、その情報は、言明の受け入れ可否の判断材料なので、経験内容によって事実を正当化しようとする単なる心理主義とは異なる。 (カール・ポパー(1902-1994))


(a)科学は独断論なのか
 理論が確証されていない仮説にとどまるという意味で独断論というなら、そうである。しかし科学における理論は全てこのようなものであり、また必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストを続行できるようなものである。
(a)科学は心理主義なのか
 理論が予測する結果の確認が、我々の知覚的経験に依存しているという意味で、心理主義というなら、その通りである。しかし科学においては、その知覚的経験によってある言明が事実であることを正当化するのではない。その知覚的経験の情報によって、言明の受け入れまたは拒否の判断の材料として使われるだけである。


「それではフリースのトリレンマ――独断論・無限後退・心理主義からの――三者択一(第25 節を参照)に関し、われわれはいかなる立場にあるのか。われわれが、満足すべきものとし て、また十分にテストされたものとして、受容れることを決定し、そこでストップするところ の基礎言明は、それらをわれわれがさらなる論証によって(あるいはテストによって)、正当 化するのを止めてよいというかぎりにおいてだけであるが、確かにドグマの性格をも つ。しかしこの種の独断論は無害である。なぜなら、必要とあれば、これらの基礎言明は容易 にテストをさらに続行できるからである。これはまた、演繹の連鎖を原則上無限なものにさせ るものであることを、私は認める。しかしこの種の無限後退もまた、無害である。なぜなら、 われわれの理論にあっては、なんらかの言明を立証しようとすることなど全然問題でないから である。そして最後に、心理主義について:基礎言明を受容れそれで満足するという決定が、 われわれの経験――とりわけわれわれの知覚的経験と因果的に結びついていることを、 私はふたたび認める。しかしわれわれは、これらの経験によって基礎言明を正当化し ようとは企てない。経験は決定を動機づけることはでき、したがって言明の受容れま たは拒否を動機づけうる、しかし基礎言明は経験によって正当化されえない――テーブルをた たくことによって正当化できぬのと同様に。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第2部 経験の理論の若干の構成要素, 第5章 経験的基礎の問題,29 基礎言明の相対性、フリースの三者択一の解決,pp.130-131, 恒星社厚生閣(1972),大内義一(訳),森博(訳))


科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]



カール・ポパー
(1902-1994)








2021年12月13日月曜日

科学には、相互主観的テスト可能ではない言明は存在しない。真なる言明にまで遡ることで科学を基礎付けようとする方法には、無限後退の困難があるが、演繹結果によるテストにはこの困難はない。各言明は、つねに無限のテスト可能性に向けて開かれている。(カール・ポパー(1902-1994))

相互主観的テスト可能性

科学には、相互主観的テスト可能ではない言明は存在しない。真なる言明にまで遡ることで科学を基礎付けようとする方法には、無限後退の困難があるが、演繹結果によるテストにはこの困難はない。各言明は、つねに無限のテスト可能性に向けて開かれている。(カール・ポパー(1902-1994))



(a)相互主観的テスト可能性
 科学的言明が客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならない。
(b)科学にはテスト不能な言明は存在しない
 なぜなら、そのその言明が理論において意味があるのなら、演繹の連鎖の中で、その言明が前提条件として登場するような、別の言明があることになるが、その言明がテスト可能なら元の言明もテスト可能だからである。
(c)演繹結果によるテストには、無限後退の困難は存在しない
 ある言明が真であるかどうかを、明らかに真である言明にまで遡らせようとする方法論には、無限後退の困難がある。しかし、テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな い。従って、無限後退の困難はない。
(d)無限のテスト可能性について
 しかし、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできない。これは問題ないのか。問題ない。なぜなら、無限のテスト可能性の要求は、受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬという条件とは異なるからである。


「経験的基礎の問題にたいするわれわれの最終的な答えがどんなものであるにせよ、次の一 事は明らかなはずである。すなわち、科学的言明は客観的でなければならぬ、という要求を固 持するとすれば、科学の経験的基礎に属する諸言明もまた客観的、つまり相互主観的にテスト 可能でなければならないということ、これである。相互主観的なテスト可能性とは、テストさ れるべき言明から他のテスト可能な言明が導きだせることを意味する。したがって、もし基礎 言明が立替って相互主観的にテスト可能にならなければならぬとすれば、科学においては 究極的な言明はありえない。すなわち、科学にはテストすることのできぬいかなる言明も ありえない。それゆえ、それらの言明から導出されうる諸結論のあるものを反証することに よって、原理上、論破することのできぬ言明はひとつもないのである。  こうして、われわれは次のような見解に達する。諸理論の諸体系は、それから普遍性のレベ ルのより低い言明を演繹することによってテストされる。それらの言明は、相互主観的にテス ト可能であるはずのものだから、翻ってまたそれ自体が同様の仕方でテスト可能でなければな らない。――これが無限に続いていく。  この見解は無限後退に導くものであり、それゆえ支持しがたいものだと考えられるかもしれ ない。第1節で帰納を批判したさい、私は帰納が無限後退をもたらすものだという反論を提起 した。ところが、それとまったく同じ批判が私の提唱する演繹的テストの手続にたいしてもあ てはまる、と読者は思うかもしれない。しかし、そうはならないのである。テストの演繹的方 法は、テストしようとしている言明を確立または正当化しえないし、またそうするつもりもな いのだ。だから、そこには無限後退の危険はない。しかし私が注意を喚起した状況――無限 のテスト可能性、およびテストの必要のない究極的言明は存在しないということ――が、 ある問題を生みだすことは認めなければならない。なぜなら、明らかにテストは事実上、無限に遂行することはできないからである。遅かれ早かれ、われわれは中止せざるをえな い。ここではこの問題を詳しく論じないで、次のことを指摘するだけにとどめたい。すなわ ち、テストをいつまでも続けていけないという事実は、すべての言明がテスト可能でなければ ならないという私の要求と矛盾するものではない、ということである。なぜなら、すべての科 学的言明は、それが受容れられるに先立って実際にテストされてしまっていなければ ならぬ、と私は要求しているのではないからである。私はただ、すべての科学的言明はテスト されうるものでなければならない、と要求しているだけなのである。いいかえれば、 テストすることが論理的理由から可能とは思われぬというただそれだけのことで、あきらめ て、真として受容れなければならない言明が科学には存在するのだという見解を、私は拒否す るのである。」

(カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第1部 科学の論理序説,第1章 若干の 基本的諸問題の検討,8 科学的客観性と主観的確信,pp.57-58,恒星社厚生閣(1972),大内義 一(訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)









いかに確実に思える経験でも科学的事実ではなく、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。従って、科学における客観性を確実な経験によって基礎付けようとする理論は、誤りである。(カール・ポパー(1902-1994))

確実に思える経験と科学的事実

いかに確実に思える経験でも科学的事実ではなく、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。従って、科学における客観性を確実な経験によって基礎付けようとする理論は、誤りである。(カール・ポパー(1902-1994))


(a)いかに確実に思える経験でも科学的事実ではない
 確信の感情がいかに強烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性をまったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理由にはならない。
(b)経験を表示する言明は心理学的な仮説
 経験を表示する言明(我々の知覚を叙述している言明、プロトコル文とも呼ばれるれる)は、科学においては心理学的言明であり、相互主観的テストが必要な仮説に過ぎない。
(c)経験への還元主義は誤りである
 従って、科学的言明の客観性を、経験を表示する言明に還元することによって基礎付けようとする理論は、誤りである。



「ここで、前節でとりあげられた問題点、つまり主観的経験または確信の感情は、けっして 科学的言明を正当化しえず、また科学の内部において経験的(心理学的)研究の対象として以 外のいかなる役割をも演じえないという私のテーゼ、に立ちもどろう。確信の感情がいかに強 烈であっても、それは言明をけっして正当化しえない。たとえば、私は、ある言明の真実性を まったく確信できる。私の知覚の明証は確かである。私の経験の強烈さは圧倒的だ。一切の疑 いは私には馬鹿らしく思える。しかし、このことは科学にたいして私の言明を受容れさせる理 由をいささかでも提供するであろうか。カール・ポパーが真なることを確信しているという事 実によって、なんらかの言明が正当化されうるであろうか。答は「否」である。これ以上のど んな答も、科学的客観性の観念と両立しえまい。私がこの確信感情を経験しているという事実 は、私にとってはきわめて堅固に確立されているにしても、客観的な科学の分野の内部では 心理学的仮説(もちろん相互主観的テストを要する)の形においてしかあらわれえな い。私がこの確信感情をもっているということから推測して心理学者は、心理学的その他の理 論の助けをかりて、私の行動について一定の予測を導きだせよう。そしてそれらの予測は実験 的テストの過程で裏付けられ、あるいは反駁されるかもしれぬ。しかし認識論の観点からすれ ば、私の確信感情が強いか弱いか、それが疑いをいれぬ確実性(あるいは「自己明証」)の強 いあるいは抗しがたい印象からきたのか、たんに疑わしい憶測からのものであるかということ は、まったくかかわりのないことである。いずれにしても、それらのことは科学的言明がいか にして正当化されうるかという問題には、いささかの意義ももたない。  このような考察は、もちろん、経験的基礎の問題に回答を提供するものではない。しかし、 少なくとも、問題の主な難所がどこにあるかを理解する助けになる。他の科学的言明にたいす るのと同じく、基礎言明にたいする客観性の要求において、われわれは科学的言明の真理性を われわれの経験に還元させようとするいかなる論理的手段をもみずから拒否する。さらにわれ われは、経験を表示する言明――われわれの知覚を叙述している言明(それらは時として「プロ トコル文」とよばれる)のごとき――に、いかなる特権的地位をも与えてはならない。これらの ものは、科学においては心理学的言明としてのみあらわれるのであって、このことは(心理学 の現状から考えて)相互主観的テストの基準が非常に高いとは明らかにいえない種類の仮説と してしか通用しないことを意味する。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『科学的発見の論理』,第1部 科学の論理序説,第1章 若干の 基本的諸問題の検討,8 科学的客観性と主観的確信,pp.56-57,恒星社厚生閣(1972),大内義 一(訳),森博(訳))

科学的発見の論理(上) [ カール・ライムント・ポパー ]


カール・ポパー
(1902-1994)








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