2020年4月16日木曜日

道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法批判の源泉としての道徳的基準

【道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:法体系が成立しており、人々が法的責務を承認している場合でも、その体系が道徳的な拘束力を持っているとは限らないし、法的責務の履行に反対する道徳的ないしはその他の決定的理由が存在する場合もあり得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

参考:制定法は(a)受けいれられた社会的道徳(b)広範な道徳的理想の双方から、多くの点で影響を受け、その安定性の一部を道徳に依存する。立法や司法過程、制定法を補填する原則など多様な方法で、法は道徳を反映する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「(iv)法の批判 法と道徳には必然的な関連があるという主張が、《よい》法体系は、前のパラグラフですでにのべた点において、正義と道徳の要請に合致しなければならないという主張と同じようなものになることがときにはある。ある人々はこのことを自明の真理とみなすかもしれないが、それはトートロジーではない。事実、法を批判するさい、道徳的基準として何が適切であるかについても、またどの点でこれに合致しなければならないかについても、意見の相違が見られるかもしれないのである。法がもしよいものであろうとすれば合致しなければならない道徳とは、その法を有する集団の受けいれられた道徳を意味するのであろうか。たとえそれが迷信にもとづいたものであり、あるいは奴隷や臣民層から利益や保護を奪い去るものであっても。それとも道徳とは、事実に関する合理的な信念にもとづき、あらゆる人間を平等な配慮および尊敬に値するものとして受けいれるという意味で啓蒙的な基準のことを言うのだろうか。
 法体系はその範囲内のすべての人々を一定の基本的な保護と自由の資格があるものとして取り扱わなければならないという主張は、法を批判するさいの非常に適切な理想をのべたものとして今や一般的に受けいれられていることは明白である。実際にはそんなことが行なわれていないところでも、この理想に対する口先だけの約束はいつも行なわれている。すべての人々が平等な配慮を受ける権利があるというこの見解をとらない道徳は、何か内的な矛盾、独善ないしは不合理を含むと、哲学によって示されることさえあるくらいである。もしそうだとするならば、これらの権利を認める啓蒙道徳は、真の道徳としての特別の信任状をもつことになるし、群小の道徳の単なる一つではなくなるだろう。この主張をここで吟味することはできないが、たとえその主張が認められるとしても、第1次的および第2次的なルールという特徴的な構造をそなえた国内法体系が、これらの正義の原則を尊重しないのに、長い間存続してきたという事実は、その主張によって変えられないし、曖昧にされるべきでもない。邪悪なルールでも法であるということを否定することによって何か得るところがあるかを、以下で考察しよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.223-224,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法批判の源泉としての道徳的基準,法批判,道徳的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法解釈への道徳的原則の影響

【半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.3)を書き換えた。


(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)在る法と「在るべき」ものとの区別
  在る法と、様々な観点からの「在るべき」ものとの間に、区別がなければならない。
 (1.2)批判の基準の存在
  「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
   たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。その体系のルールの中核は、難解な事案における司法的決定が合理的であるかどうかの基準を提供できる程度に、十分確定している。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)この基準は、司法的決定がそれを逸脱すれば、もはや合理的とは言えなくなるような限界があることを示している。
  (b)司法的決定が合理的であるかどうかの限界を定めるルールは、「在る法」として保証されていなくとも、また逸脱や拒否の可能性が常にあるとしても、存在するかどうかは、事実問題として決定できる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (i)ルールは、「在る法」として保証されていなくとも、ルールとして存在し得る。
   (ii)ルールから逸脱する可能性が常にあるからといって、ルールが存在しないとは言えない。何故なら、いかなるルールも、違反や拒否がなされ得る。人間は、あらゆる約束を破ることができるということは、論理的に可能なことであり、自然法則と人間が作ったルールの違いである。
   (iii)そのルールは、一般的には従われており、逸脱したり拒否したりするのは稀である。
   (iv)そのルールからの逸脱や拒否が生じたとき、圧倒的な多数により厳しい批判の対象として、しかも悪として扱われる。

  (c)すなわち裁判官は、たとえ最高裁判所の裁判官でさえ、一つの体系の部分をなしている。そして、その体系のルールの中核は、合理的な判決の基準を提供できる程度に、十分確定しているのである。
 (1.3)基準は、どのようなものか
  (a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われる。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
  (c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないようなものである。理由は、以下の通りである。
   (i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、そのルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて行なわれる。
   (ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
  (d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
  (e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
   (i)選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性
   (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
   (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心
 「(iii)解釈 法は、具体的なケースに適用しようとすれば解釈されなければならない。そして司法過程の性質を曖昧にしている神話が、リアリスティックな研究によって追い払われてからは、第7章で示したように、法の開かれた構造のために、立法的とも言われる創造的活動をする広大な余地が残されているということは明らかである。制定法または先例のどちらを解釈する場合にも、裁判官は、無分別の恣意的な選択をするか、あらかじめ決められた意味をもつルールからの「機械的な」演繹をするかの二者択一だけを行なうわけではない。彼らの選択は、よくあることだが、ある前提、つまり彼らが解釈しているルールの目的は合理的なものなので、そのルールが不正な働きをしたり確定した道徳的原則に反するはずがないという前提にもとづいて行なわれる。司法的決定、とくに、高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。というのは、法の意味に疑問がある場合、道徳が常に一つの明確な答えを出すと考えることは馬鹿げているからである。ここでもまた裁判官は、恣意的でも機械的でもない選択を行なうであろう。そしてこの点において、しばしば司法に特徴的な長所が発揮されるのであって、それが法的決定に特に適しているため、そのような司法的活動を立法的と呼ぶのに躊躇を感じる者もいるのである。その長所とは、選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性、影響されるであろうすべての者の利益の考慮であり、また、決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心である。明らかにそのような原則はいつも複数あるので、ある決定だけが正しいと論証することはできない。しかしそれは、広い知識にもとづいた偏らない選択の所産であるから、合理的なものとして受けいれることも可能であろう。このようにしてわれわれは、あい争う利益を正しく扱うための努力に特徴的な「秤重」および「衡量」をもつことになるのである。
 決定を容認できるものとするさい、「道徳的」と呼んでもさしつかえないようなこれらの要素が重要であることを否定する者は、ほとんどいないであろう。そして、たいていの体系において解釈の支えとなっている、ゆるやかで変わりやすい伝統と標準のなかには、しばしばこれらの要素が、漠然とした形で含まれている。しかしこれらの事実を、法と道徳とが《必然的》に関連する証拠として提出する場合、法に従わないときも従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきたということを思い起こす必要がある。というのは、オースティンから現在にいたるまで、司法的な法創造が社会的価値にしばしば目を向けず、「自動的」で、また十分に推論されていないことを批判した人のなかから、主としてそのような要素こそ決定を導く《べきである》と思い出させる人々があらわれているからである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.222-223,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法解釈と道徳的原則,法解釈,道徳的原則)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

言論の自由

【仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「つぎに、議論の第二の部分に話を進めよう。つまり、主流の意見のいずれかが間違っている可能性があるとの想定を捨て、主流の意見は正しいと想定したうえで、その正しさが公然と自由に議論されていない場合に、人びとがその意見に対してとるであろう姿勢が価値のあるものになるかどうかを検討していこう。ある意見を強く信じている人は、その意見が間違っている可能性を認めるのをどれほど嫌っていても、次の点を考慮すれば、考えを変えるはずである。まったく正しい意見であっても、十分に、頻繁に、大胆に議論されていなければ、生命を失って独断的な教条にすぎなくなり、生きた真理として使われることはなくなるという点である。
 幸いなことに以前ほど多くはなくなったが、いまでもかなりの人がこう考えている。自分たちが正しいと考えている意見に世間の人びとが無条件に同意しさえすれば、その意見の根拠をまったく知らず、ごく表面的な反論に対してすら自説の正しさを主張できないとしても、とくに問題はないと。こうした人は当然ながら、自分たちの意見を権威者が教え込むことができれば、その意見に疑問を差し挟むのを許すのは害悪になるだけで、何の益もないと考える。こうした人が強い影響力をもっている地域では、主流の意見に対して考え抜かれた賢明な批判がだされるのをほとんど不可能にすることができるだろうが、それでも、無知なために軽率に主流の意見を拒否する人がでてくることはある。議論を完全に排除できることはまずなく、議論がはじまれば、確信に基づいていない信念は、反論ともいえないほど根拠薄弱な反論を受けただけで屈服することになりやすいからである。しかし、このような可能性は無視して、正しい意見がいつまでも維持されるが、一種の先入観として、議論とは無関係に、議論を受けつけない信念として維持されると想定しても、これは理性ある人間が真理に対してとるべき姿勢ではない。これでは真理を知っているとはいえない。このような形で信じているのであれば、それは迷信のひとつにすぎず、迷信がたまたま、言葉のうえでは真実を表現しているにすぎない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.78-80,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:言論の自由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

言論の自由の抑圧は、陳腐な決まり文句、権力や世間に阿る言説を蔓延らせる。知的能力の開花のためには、異端的な意見を排除しない公正で徹底した議論が守られ、率直で恐れを知らない知的勇気の醸成が必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

言論の自由

【言論の自由の抑圧は、陳腐な決まり文句、権力や世間に阿る言説を蔓延らせる。知的能力の開花のためには、異端的な意見を排除しない公正で徹底した議論が守られ、率直で恐れを知らない知的勇気の醸成が必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「社会が不寛容な姿勢をとっているというだけでは、誰も処刑するわけではないし、どのような意見も根絶するわけではない。社会が嫌う意見をもつ人が自分の意見を隠すか、自分の意見を積極的に広める努力を控えるようになるだけである。その結果イギリスでは、異端の意見は十年、三十年という単位でみたとき、目にみえて勢力が拡大することはないが、縮小することもない。燃え上って遠く広く光を注ぐことはなく、その意見を生み出した研究熱心な思索家の狭いサークルのなかでくすぶりつづけ、正しいにせよ間違っているにせよ、人類全体にとっての問題に一石を投じることはない。こうして、ある種の人びとにとって満足できる状態が保たれていく。誰に対しても罰金や禁固などの刑罰を科す不愉快な手段を使わなくても、社会で支配的な意見が表面上、波風がたたないまま維持され、しかも、思想上の病をもつ異端者に対して、理性を使って考えるのを完全に禁止するような方法もとっていないからである。思想の世界で平和を維持し、その世界でのすべての動きを現状のまま継続させるには、まったく便利な方法である。だが、このようにして思想の対立を避けたために、人間の知的な勇気がすべて犠牲にされている。とくに活発で探究心が強い知識人の大部分が、自分の信念の一般原則や根拠を胸のうちに秘めておく方がいいと考え、自分の意見を発表する際には、内心では否定している原則にできるかぎりあわせようとしている状況では、かつて思想の世界に光輝いていたような率直で恐れをしらない思想家や、論理的で首尾一貫した思想家が登場するはずがない。そうした状況で登場すると期待できるのは、陳腐な決まり文句をならべるだけの人か、権力や世間におもねって真理を曲げ、重要な問題について論じる際にも、自分が確信している点を主張するのではなく、聞き手が喜ぶように話そうとする人である。そうなるのを避けようとする人は、自分の思考と興味の対象を狭め、原理原則の領域にあえて立ち入らなくてもいい問題だけを論じようとする。つまり、小さな現実的な問題、人類の知性が強化し拡大しさえすれば自然に解決するが、そうならなければまともに解決することがない問題だけを論じて、人類の知性を強化し拡大する問題、つまり、もっとも高度な問題に関する自由で大胆な思索は放棄するのである。
 異端者の側がこのように控え目な姿勢をとっていれば害悪を流すこともないと考える人は、何よりもまず、その結果、異端の意見について公正で徹底した議論が行われなくなることを考慮すべきである。また、異端の意見のうち、公正で徹底した議論に耐えられないものも、広まるのは防げても、消滅はしないことを考慮すべきである。だが、正統的な意見を支持する結論に達するもの以外の議論をすべて禁止したとき、そのためにものごとを考えなくなり、知性がとくに堕落するのは異端者の側ではない。とくに大きな損害を受けるのは異端ではない人たちであり、こうした人たちは異端だとされるのを恐れるため、知的能力の自由な発展が妨げられ、理性をはたらかせるのに臆病になる。優れた知性をもちながら臆病な人たちが、宗教か道徳に反するとされうる結論に達するのを恐れて、大胆に、積極的に、自由に考えぬくのを控えているために、世界がどれほどのものを失っているのかは、推測すらできないほどである。そういう集団のなかにも、きわめて誠実な心と、洗練された鋭い理解力をもつ人がいることがある。そういう人はおさえがたい知性を詭弁のために使いつづけ、自分の良心と理性が示す見方と正統的な意見との矛盾を解決しようとして思考力を使いはたし、おそらくは矛盾を解決できないまま終わることになる。思想家にとって、どのような結論に達するとしても、自分の知性にしたがってどこまでも考え抜くのが第一の義務であり、この点を理解しないかぎり、偉大な思想家にはなれない。十分に研究し準備したうえで自分で考え抜く人は、その意見が間違っていた場合ですら、自分で考えようとしないために正しい意見を鵜呑みにしているにすぎない人よりも、真理に大きく貢献する。思想の自由が必要なのは、偉大な思想家を生み出すにはそれが不可欠だからだけではないし、この点が主要な理由だというわけですらない。それどころか、思想の自由はごく普通の人が知的能力を最大限に高められるようにするためにも必要であり、そのためにこそ必要不可欠である。社会全体としては思想の自由のない隷属的な環境であっても、偉大な思想家があらわれた例は過去にあるし、これからもあるだろう。だがそうした環境で、国民が旺盛な知識欲をもった例はかつてないし、今後もないだろう。ある国民が知識欲旺盛だといえる状況に近づいた時期があれば、それは、異端の思想とされることへの恐怖心が一時的に消えていたからである。原理や原則については異を唱えてはならないという暗黙の了解がある場合や、人間にとっての最大の関心事はすでに議論の決着がついたとされている場合には、国民全体の知的な活動が高水準になる状況、歴史上のいくつかの時期が輝かしい時代になった状況が生まれるとは期待できない。人びとが情熱を燃やすほど重要な大問題を論争の対象にしないようにしているときには、人びとの心が根底から揺り動かされることはないし、ごく普通の知性をもったものが強烈な刺激を受けて、考える人としての気高さを備えるまでになることもない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.72-77,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:言論の自由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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真理には力があり常に迫害に勝つというのは事実ではなく、根拠のない感傷にすぎない。歴史を見ると、何世紀にも渡って圧殺され続けたこともあった。ただし、長年のうちには、必ず同じ真理が再発見される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

真理の力

【真理には力があり常に迫害に勝つというのは事実ではなく、根拠のない感傷にすぎない。歴史を見ると、何世紀にも渡って圧殺され続けたこともあった。ただし、長年のうちには、必ず同じ真理が再発見される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「抑圧しても真理を傷つけることはできないのだから真理の抑圧は正当だとする主張は、新たな真理の受容に頑迷に反対するものだと非難できるものではない。だが、新しい真理を見いだし伝えた功績を人類が感謝すべき人に対して過酷だとはいえる。世界にとって重要な意味をもっているのにそれまで知られていなかった点を発見すること、現世か来世に関するきわめて重要な点でそれまでの見方の間違いを証明することは、個人が人類になしうる貢献のなかで、もっとも重要なものである。そしてたとえば初期のキリスト教徒や宗教改革家の場合には、人類にとりわけ貴重なものを贈った人たちだと、サミュエル・ジョンソンに同意する人は信じている。それほどの利益を人類にもたらした人たちを迫害し、最悪の犯罪者として処刑することが、この主張によれば、人類が粗布をまとい灰をかぶって嘆き悲しむべき間違いでも不運でもなく、正常で正当な事態だというのである。この主張によれば、新たな真理を提唱するものは、古代ギリシャ人がイタリアに築いた植民都市、ロクリの法典で新法の提案者について規定されていたのと同じ扱いを受けることになる。ロクリでは市民の総会で新しい法律を提案するものは、綱を首にまきつけて登場し、理由を聞いた総会がその場で提案を採用しないかぎり、ただちに絞首刑にされると規定されていたのである。真理を伝えた恩人をこのように扱うのが正しいと主張する人が、真理の価値を十分に認めているとは考えにくい。このような見方をする人は、新しい真理は過去には望ましいものだっただろうが、いまでは真理が十分に理解されているので、学ぶべきものはないと考えている人だけだと思われる。
 しかし、真理はつねに迫害に勝つという格言は耳に心地よい嘘のひとつであり、繰り返し語られているうちに決まり文句になってはいるが、事実をみていけばこれが間違いであることがはっきりしている。歴史をみていくと、迫害によって真理が圧殺された例がいくらでもある。二度と主張されなくなるわけではなくても、何世紀にもわたって圧殺されたままになることがある。宗教に関する意見だけをみても、宗教改革はルター以前に少なくとも二十回は起こっており、そのたびに鎮圧されている。」(中略)
 「真理が真理であるからという理由で間違った意見にはない力をもともともっていて、地下牢にも処刑台にも打ち勝てるというのは、根拠のない感傷にすぎない。人は間違った意見に熱意をいだくこともあり、真理に対してそれ以上の熱意をいだくわけではないので、法律による刑罰を十分に活用すれば、そして社会による制裁をうまく使った場合すら、間違った意見であろうが真理であろうが、普及するのを阻止できるのが通常である。真理のもつ強みは違った点にある。ある意見が正しければ、一度や二度、あるいは何度も根絶されても、長年のうちに同じ真理が何度も再発見される。いずれは環境が良い時期に再発見され、迫害を受けることなく大きな勢力になり、その後に抑圧の動きがあっても耐えられるほどになるのである。
 いまの時代には新しい意見を紹介したものを処刑することはなく、昔とは違って預言者を殺すどころか、墓を建てて祭っているという意見もあるだろう。たしかに、異端者を処刑することはなくなった。いまではとりわけ不快な意見でも、人びとがおそらく許容する範囲の処罰は、その意見を圧殺できるほど重いものではない。だが、法律による迫害を受ける心配はなくなったなどと考えるべきではない。意見を罰する法律、少なくとも意見の発表を罰する法律はまだなくなっていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.64-68,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:言論の自由,真理の力)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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