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2018年1月11日木曜日

存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))

悟性と想像力

【存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「精神が、魔法の宮殿とかキマイラ(頭がライオン、胴体がヤギ、尻尾が蛇のギリシア神話の怪物)を思い描くときのように、存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なもの、たとえば精神そのものの本性を考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚は主として、それらを精神に知覚させる意志によるものだ。ゆえに通例、これらの知覚は、受動でなく能動とみなされる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第一部 二〇、p.22、[谷川多佳子・2008])
(索引:認識力、想像力、想像、理解)


情念論 (岩波文庫)


ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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08.認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

認知、想起、想像、悟性

【認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 ある特定の外部感覚と、これに影響を受けたより広い範囲の身体の能動を、精神において受動した共通感覚とに、精神の能動(想像力)が共同して作用し、「何々である」という認識が成立する。これが、「見る」とか「触れる」等の認知である。外部感覚や、それがより広い範囲の身体に影響を与えて生じた共通感覚が身体に印象づけられた記憶をもとに、精神の能動(想像力)が種々の形や観念をつくり、「何々である」という認識が成立する。これが、記憶を「想起する」ことである。精神の能動(想像力)が、新たな形や観念をつくり、「何々である」という認識が成立する。これが、「想像する」とか「表象する」ことである。外部感覚、記憶の想起や想像なしに「何々である」という認識が成立するとき、これが「理解する」こと(純粋悟性)である。
 「第五に、最後に、われらがよって以って本来の意味で事物を認識する力は、純粋に精神的なものであって、それが身体(物体)全体と分たれていること、あたかも血が骨と、手が眼と分たれているがごとくである、と考うべきである。」(中略)
 「この認識力は、或る時は受動的、或る時は能動的である、すなわち或いは印章を、或いは蝋板を、模倣するのである。けれどもこのことは、ここでは類比的にのみ解せねばならない。というのは、物体的事物の中に、この力に似たものは決して見出されないからである。かくて、全く同一の力が、想像力と共同して共通感覚に働きかける時は、「見る」(videre)「触れる」(tangere)等といわれ、種々な形を帯びている限りの想像力だけに働きかける時は、「想起する」(reminisci)といわれ、新たな形をつくるためにそれに働きかける時は、「想像する」(imaginari)或いは「表象する」(concipere)といわれる。最後に、その力が独りで働く時は、「理解する」(intelligere)と言われる――これがいかに行われるかは適当な場所で一層詳しく説明するであろう。さてこのゆえに、かの同一の力が、それらさまざまの機能に従って、純粋悟性、想像力、記憶、感覚、と呼ばれる。けれども本来それは、精神(ingenium)と名付けられるものである――それが、想像の中に新たな観念を形成する場合でも、すでに作られた観念に向かう場合でも。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『精神指導の規則』規則第一二、pp.76-77、[野田又夫・1974])
(索引:認識力、想像力、外部感覚、共通感覚、想起、記憶、想像、表象、理解、純粋悟性)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)


ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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