2019年11月14日木曜日

様々な国民、民族、グループ、個々人は、様々に異なる諸価値を持つ。同時に、人間には普遍的な諸価値も存在し、我々は異なる文化を理解できる。また、人間が過去犯してきた恐るべき残虐行為等の原因も解明できる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

様々に異なる諸価値と普遍的な価値

【様々な国民、民族、グループ、個々人は、様々に異なる諸価値を持つ。同時に、人間には普遍的な諸価値も存在し、我々は異なる文化を理解できる。また、人間が過去犯してきた恐るべき残虐行為等の原因も解明できる。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)様々に異なる文化と普遍的な諸価値
 (1.1)様々に異なる文化と諸価値の存在
  人びとは文化から大きな影響を受けており、その文化には様々な大きな差異が存在する。
  (a)様々な国民、民族の間に大きな差異がある。
  (b)様々なグループの間に大きな差異がある。
  (c)個々人の間に大きな差異がある。
 (1.2)人間が普遍的に持つ諸価値
  (a)大多数の場所と状況で、大多数の人間がほとんどいつも現実に共有しているような価値が存在する。
  (b)これは、一つの経験的な事実である。
  (c)例として、善と悪、真と偽の概念を持たない人びとは存在しない。
  (d)ただし、価値や信念は、意識的、明示的に示されるか、あるいは単に、態度、ジェスチュア、行動の中に示されているのかの違いはある。
(2)異なる文化を理解するということ
 (a)想像力を使って相手の思想と感情に入り込む。
 (b)あなた自身が、相手方の環境におかれたらどのように世界を見るだろうかと想像する。
 (c)逆に、他の人々の環境では、あなた自身をどう見るだろうかと想像する。
 (d)たとえあなたが、相手方が嫌いであっても、盲目的な不寛容と熱狂主義は減少するだろう。
(3)事例。
 過去の多くの紛争、暴力行為、恐るべき残虐行為を、どのように理解するのか。
 (3.1)それは、狂気から、非合理的な憎悪から、攻撃的性向から、精神病理的な異常から引き起こされたと考えることは、事実をとらえてはいない。
 (3.2)人がある文化の中で、どのように思考し、感情を持ち、行動するのかを解明する必要がある。
  (a)例えば、途方もない虚偽が、著述家によって体系的に宣伝され、人々がそれを信じ込むようになる。
  (b)虚偽は理論化され、人々の感情に影響を与える。

 「―――普遍性の原則と文化相対主義との間には矛盾があるとは思いませんか。
 バーリン あるとは思いません。さまざまな国民や社会の間の差異は誇張されがちです。われわれの知っている社会の中で、善と悪、真と偽の概念を持っていないものはありません。われわれの知っている限り、例えば勇気はわれわれの知っているすべての社会で尊敬されてきました。つまり普遍的な価値があるのです。これは人類についての経験的事実で、ライプニッツが事実による真実(verites du fait)――理性による真実(verites de la raison)ではなく――と呼んだものです。大多数の場所と状況で大多数の人間がほとんどいつも現実に共有しているような価値があります。意識的、明示的にか、あるいは態度、ジェスチュア、行動の中に示されているのかの違いはあっても。他方で大きな差異があります。個々人、さまざまなグループや国民、あるいは文明全体がお互いにどのような点で異なっているかを理解し、想像力を使って相手の思想を感情に「入り込み」、あなた自身が相手方の環境におかれたらどのように世界を見るだろうか、あるいは他の人々との関係であなた自身をどう見るだろうかと想像するのに成功したならば、少なくとも成功したと思えるだけのことをしたならば、その時にはたとえあなたが相手方が嫌いであっても(すべてを理解する tout comprendre は、決してすべてを許す tout pardonner ではありませんが)、盲目的な不寛容と熱狂主義は減少せざるを得ないでしょう。想像力が熱狂を募らせることもありますが、あなたの状況とは非常に違う状況を想像力で洞察していくことは、結局は熱狂を弱める筈です。非常に極端な例ですが、ナチ党員を取り上げてみましょう。彼らは気狂いで、精神病理的事例だと、人々は言いました。あまりにも出まかせ、安直で、傲慢な説明だと思います。ナチの党員は口からの言葉や印刷された文字で説明を受け、下級人間と称してしかるべき人間(Untermenschen)が存在しており、彼らは有毒の生物で、真の――つまりゲルマン的ないしノルディック的な文化を掘り崩しているという説を信じました。下級人間がいるという命題はまるきりの嘘で、経験的な偽りであり、ナンセンスであることを証明できます。しかし誰かからそう言われたために、そしてそう説明している人を信頼したためにそれを信じたならば、きわめて合理的な意味でユダヤ人を絶滅することが必要だと信じる心境に到達している訳です――それは狂気から出たものではなく、またたんなる非合理な憎悪や軽蔑や攻撃的性向でもありません――そのような要因があればもちろん助長はするでしょうが。いま挙げたような特徴は、ごくありきたりのもので、人類の歴史を通じて多くの紛争や暴力行為の原因でした。いいえ、あのような感情は途方もない虚偽、弁士や著述家が体系的に教え込む虚偽を一般の人々に信じ込ませるという手段を通じて、組織的に作り出されたものです。それは明白な虚偽ですが、理論として明確に表明され、それが犯罪となって表面化し、さらに恐るべき残虐行為と破壊的な大破局へと連なっていくのです。思考力のある人を気狂いだとか病理的だとか言う時には、注意しなければならないと思います。迫害は正気でもやれるのです。それは、ケタ外れの虚偽の信念を真実と信じ込むことからだけ発生します。そして言語に絶する結末にまでいたるのです。熱狂的な人々が害をなすのを防ぎたいと思うならば、彼らの信念の心理的なルーツだけでなく知的なルーツまで理解しなければなりません。彼らが間違っていることを彼らに向かって説明しなければならないのです。それに失敗すれば、彼らと戦争をしなければならなくなるでしょう。しかし説得の試みはいつもやらねばなりません。」(中略)「合理的な方法、真理への道は、それ自体として価値があるだけでなく、ソクラテスが教えてくれたように、個人と社会の運命にとって基本的に重要です。その点については、西欧哲学の中心的な伝統は正しかった。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化相対主義と人権,pp.62-64,みすず書房(1993),河合秀和(訳))
(索引:価値,普遍的な価値,想像力,異なる文化の理解)

ある思想史家の回想―アイザィア・バーリンとの対話


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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精神の諸能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などを学ぶことの意義は、(a)人間知性の成功と失敗例、(b)解決済と未解決問題の区別、(c)信念の暗黙の根拠、(d)言語の真の意味、(e)正しい論理などを考えさせ、解明へと動機づけることである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

心理学の教育

【精神の諸能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などを学ぶことの意義は、(a)人間知性の成功と失敗例、(b)解決済と未解決問題の区別、(c)信念の暗黙の根拠、(d)言語の真の意味、(e)正しい論理などを考えさせ、解明へと動機づけることである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.4)心理学 追加。

 (5.3)論理学
    論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.3.1)論理学の役割
   (a)自分の考えを言葉にしてみることによって、曖昧な考えを明確な命題に書き換え、互いに絡み合った推論を、個々の発展段階に書き改めるように強要する。
   (b)暗黙の前提
    こうすることで、暗黙の前提、仮定に注意を向け、明らかにすることができる。
   (c)論理的一貫性
    また、個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせる。
   (d)誤謬の発見
    以上のようにして、自分の考えに曖昧な形で含まれていた誤りに、気づくことができる。
  (5.3.2)規則と訓練
   人間の行為は、規則を覚え訓練することにより、技能が向上する。思考の訓練も同じであり、論理学によって正しい方法を身につける必要がある。
  (5.3.3)演繹的論理学と帰納的論理学
   (a)演繹的論理学の手助けで、間違った演繹をしないようにする。
   (b)帰納的論理学の手助けで、間違った概括化を犯さないようにする。
    (i)特に人は、自分自身の経験から一般的結論を引き出そうとする際に誤る。
    (ii)また、自分自身の観察や他人による観察を解釈して、ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯す。

 (5.4)心理学
  (5.4.1)精神の能力の解明
   (a)精神的能力のなかのどれが単純なものであり、どれが複合的なものであるか。
   (b)高度な精神作用は、どの程度まで観念連合によって説明がつくのか。複合的能力の構成要素は、一体何であるのか。
   (c)観念連合以外の基本的な諸原理を、どこまで認めなければならないのか。
  (5.4.2)精神と物質の関係
   (a)物質は、精神の能力との関係においてのみ存在する観念であるのか。
   (b)あるいは、物質は精神とは独立して存在している事実なのか。もし、独立しているとすれば、その事実についてわれわれはどんな性質の知識を持つことができるのか。
   (c)知識の限界はどこにあるのか。
  (5.4.3)人間の自由意志の問題
   (a)人間の意志は自由であるのか。
   (b)それとも、人間の意志は、種々の原因によって決定されているのか。
  (5.4.4)時間と空間
   (a)時間・空間とは、現実に存在するものなのか。
   (b)時間・空間とは、感性的能力の形式なのか。
   (c)時間・空間とは、観念連合によって作り出された複合観念であるのか。
  (5.4.5)心理学の教育の効用
   (a)精神の能力、精神と物質の関係、自由意志の問題などについて、論争が実際にあることを知り、その論争の両陣営でどのようなことが主張されてきたかを概括的に知ることによって、以下の効用がある。
    (i)成功例と失敗例
     人間の知性の成功と失敗例を知ることができる。
    (ii)解決済と未解決問題の区別
     既に完全に解決のついた問題と、未解決な問題とを知ることができる。
   (b)論争があるような問題について考察することは、解決に向けての向上心を燃え立たせ、思考訓練にもなり、以下のような効用がある。
    (i)信念の根拠
     われわれの心の中の最も奥深い所にある確信の、根拠はいったい何なのかを考えさせる。
    (ii)言語の意味の解明
     習慣的に用いている語句の真の意味内容を考えさせる。また、言語の正確な使用を、益々強く求めるようになる。
    (iii)正しい論理の使用
     与えられた証明が正しいのかどうかを判断するとき、より注意深く、より厳密になる。

 「例えば、観念連合の法則がその一つであります。心理学は、そのような法則から成り立っている限り、――私はここでは法則そのものについて語っているのであって、議論の多いその適用についてではありません――化学と同じように実証的かつ確実な科学であり、科学として教えられるのにふさわしい学問であります。ところが、われわれが、以上のような既に容認されている真理の範囲を超えて、哲学の色々な学派の間で依然として論争されている諸問題、例えば、高度な精神作用はどの程度まで観念連合によって説明がつくか、他の基本的な諸原理をどこまで認めなければならないか、精神的能力のなかのどれが単純なものであり、どれが複合的なものであるか、そしてこの複合的能力の構成要素は一体何であるか、という類の問題、とりわけ、いみじくも「形而上学の大海」と言われた領域にまで乗り出して、例えば、時間・空間とは、われわれの無意識の印象のように、現実に存在するものなのか、あるいはカントによって主張されているようなわれわれの感性的能力の形式なのか、あるいはまた、観念連合によって作り出された複合観念であるのか、物質と精神はわれわれの能力との関係においてのみ存在する観念であるのか、あるいは独立して存在している事実なのか、もし後者であるならば、その事実についてわれわれはどんな性質の知識をもつことができるのであるか、またその知識の限界はどこにあるのか、人間の意志は自由であるのか、それとも種々の原因によって決定されているのか、更に、この二説の真の相違点は一体どこにあるのか、というこの種の問題、つまり、最も思考力に富んだ人々や、このような問題に専念して研究してきた人々の間でさえも未だに見解の一致を見るに到っていない問題に立ち入るならば、高度な思索を要求する領域に特に専念していないわれわれがこれらの問題の根底を究めようといかに努力しても、いかなる成果も期待しえないし、またその様な努力がなされるとも思われません。しかしながら、かかる論争が実際にあることを知り、その論争の両陣営でどのようなことが主張されてきたかを概括的に知ることも、一般教養教育の一部なのであります。人間の知性の成功と失敗、その完璧な成果とともにその挫折を知ることや、既に完全に解決のついた問題とともに、未解決な問題があることに気付くことも、教育上有益であります。多くの人々にとっては、このような論争の的となっている問題を概括的に見るだけで十分であるかもしれませんが、しかし教育制度というものは多数の人々のためにのみ存在するのではありません。それはまた、思想家として人の上に立つべき使命を担う人々の向上心を燃え立たせ、彼らの努力に手を貸す役割を果たさなければなりません。そして、実は、このような人々を教育するためには、あの形而上学的な論争によって与えられる思考訓練ほど有益なものは他にほとんどありません。と言いますのも、そのような論争は、本質的には、証拠の判定、信念の究極的根拠、われわれの心の中の最も奥深い所にある確信に根拠を与えるための諸条件、更にまた、われわれが幼児期以来あたかもすべて知り尽くしているかのように用いてきた語句で、しかも人間の言語の根底に位置するものであるにもかかわらず、形而上学者を除いては誰も完全に理解しようと努めなかった語句の真の意味内容に関わる問題であるからであります。形而上学的問題の研究の結果、どんな哲学的見解をもつようになるかは別として、その種の問題の議論を通じて、人は必ずものごとを理解しようとする意欲が更に強まり、思考と言語の正確な使用を益々強く求めるようになり、証明が一体どんな性質のものであるかを認識しようとする際、より注意深く、より厳密になります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(6)心理学(精神科学),pp.56-58,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:心理学,精神の諸能力,精神と物質,自由意志,時間と空間)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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