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2020年5月5日火曜日

16.ある一般名詞が指し示す対象の集合があっても、対象に共通な特徴や性質、共通のイメージが存在するとは限らない。哲学は純粋に記述的なものであり、数学や科学の方法を不用意に用いることは誤りである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

一般的なるものへの渇望

【ある一般名詞が指し示す対象の集合があっても、対象に共通な特徴や性質、共通のイメージが存在するとは限らない。哲学は純粋に記述的なものであり、数学や科学の方法を不用意に用いることは誤りである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】

一般的なるものへの渇望
(1)共通的な特徴や性質があるとは限らない
 (a)ある一般名詞があり、この言葉が指し示す対象の集合があるとする。
 (b)全ての対象は似てはいるかもしれないが、共通な特徴や性質があるとは限らない。
 (c)共通的な特徴や性質が必ず存在し、それが言葉の意味だと考えがちであるが、これは誤りである。
(2)視覚的なイメージがあるとは限らない
 (a)様々な個々の「葉」が存在する。
 (b)様々な「葉」に共通な、ある特徴や性質がある。
 (c)共通な特徴や性質だけを含んだ、視覚的イメージのようなものは、存在するとは限らない。
 (d)この共通的なイメージが存在し、それが「葉」の意味だと考えがちであるが、これは誤りである。
 (e)言葉の意味が、何らかの心的機構の状態ではあるとしても、それが視覚的イメージのような心的状態だと考えるのは、誤りである。
(3)哲学は、純粋に記述的なもの
 (a)科学においては、自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させる。
 (b)数学においては、異なる主題群を一つの一般化で統一する。
 (c)哲学の方法を、科学や数学の方法と同じであると考えることが、形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。
 (d)何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは、哲学の仕事ではない。哲学は事実として純粋に記述的なものである。

 「この一般的なるものの渇望は、それぞれ或る哲学的混乱と結びついている思考傾向が幾つか合わさったものである。

その思考傾向には次のようなものがある―――
 (a)普通、或る一般名詞に包摂される対象のすべてに共通した何かを探す傾向。―――例えば、すべてのゲームに共通なものがなければならない、この共通な性質こそ一般名詞「ゲーム」をさまざまなゲームに適用する根拠である、と我々は考えやすい。

しかしそうではなく、さまざまなゲームは一つの《家族》を形成しているのであり、その家族のメンバー達に家族的類似性( family likeness )があるのである。

家族の何人かは同じ鼻を、他の何人かは同じ眉を、また他の何人かは同じ歩き方をしている。

そしてこれらの類似性はダブっている。一般概念とはその個々の事例すべてに共通な性質だという考えは、言語構造についての他の素朴で単純すぎる考えとつながっている。

この考えは[例えば]《性質》はその性質を持っている物の《成分》だという考えと同じ類のものである。その考えでは、例えば美は、アルコールがビールやワインの成分であるように、美しい物の成分であり、したがって、何であれ美しい物で混ぜものにされさえしなければ、我々は純粋無垢の美をもちえたことになる。

 (b)また、我々の普通の表現形式に根ざした或る傾向がある。一般名詞、例えば「葉」という名詞を学び知った人なら、それにともなって[必ず]個々の葉の像とは別な、何か葉の一般像なるものを獲得している、と考える傾向である。

その人は「葉」という語の意味を学ぶときいろいろな葉を見せられるが、個々の葉を見せるのは単に、「彼の中に」或る種の一般的イメージと思われる観念を産みだすための一法だった、と。

我々は、[今や]彼はこれら個々の葉すべてに共通なものを見てとっている、と言うのだ。もしそれが、彼は尋ねられればそれらの葉に共通な或る特徴や性質をあげる、という意味なのならば誤りではない。

しかし、我々は、葉の一般観念とは何か視覚的イメージのようなもの、だがただすべての葉に共通なものだけを含んでいるもの、と考えがちなのである。(ゴールトンの重ね写真。)  

この考えは再び、語の意味とはイメージあるいは語に対応する事物であるという考えとつながっている。(簡単にいえば、語をすべて固有名のように考え、ついでその名の担い手を名の意味に取り違えることである。

 (c)また再び、「葉」「植物」等々の一般観念を把握するときに何がおきているのかについての我々の考えは、仮説的な[生理学的]心的機構の状態の意味での心的状態と、意識の状態(歯痛等)の意味での心的状態との混同に結びついている。

 (d)一般的なるものへの我々の渇望には今一つ大きな源がある。我々が科学の方法に呪縛されていること。自然現象の説明を、できる限り少数の基礎的自然法則に帰着させるという方法、また数学での、異なる主題群を一つの一般化で統一する方法のことである。

哲学者の目の前にはいつも科学の方法がぶらさがっていて、問題を科学と同じやり方で問い且つ答えようとする誘惑に抗し難いのである。この傾向こそ形而上学の真の源であり、哲学者を全たき闇へと導くのである。ここで私は言いたい。

それが何であれ、何かを何かに帰着させる、またそれを説明するというのは断じて我々の仕事ではない、と。哲学は事実として[もともと]「純粋に記述的」《である》のだ。

(「感覚与件( sense data )は存在するか」といった問を考えて見給え。そして、その問に決着をつける方法は何であるか、と問うて見給え。内観?)」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『青色本』、全集6、pp.46-47、大森荘蔵)
(索引:一般的なるものへの渇望,哲学,数学,科学)

ウィトゲンシュタイン全集 6 青色本・茶色本


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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2018年6月21日木曜日

3.明晰に思考し、明晰に表明し得ることの領域を限界づけることで、自然科学が論議可能な領域も限界づけられ、また同時に、表明し得ないものの本質を、明らかにする。これが、哲学の仕事である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

哲学とは何か?

【明晰に思考し、明晰に表明し得ることの領域を限界づけることで、自然科学が論議可能な領域も限界づけられ、また同時に、表明し得ないものの本質を、明らかにする。これが、哲学の仕事である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(1) いやしくも考えられ得ることは全て明晰に考えられ得る。表明され得ることは全て明晰に表明され得る。
(2) 哲学は、思考可能なものを限界づける。これは、自然科学が論議可能な領域も限界づける。
(3) (2)により、思考不可能なものが限界づけられる。
(4) 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。

 「四・一一三 哲学は自然科学が論議可能な領域を限界づける。
 四・一一四 哲学は思考可能なものを限界づけ、これにより思考不可能なものをも限界づけねばならない。哲学は思考不可能なものを、内側から思考可能なものによって、限界づけねばならない。
 四・一一五 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。
 四・一一六 いやしくも考えられうることは全て明晰に考えられうる。表明されうることは全て明晰に表明されうる。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』四・一一三~四・一一六、全集1、p.54、奥雅博)
(索引:哲学、表明し得ないもの)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年6月3日日曜日

人生の時は一瞬にすぎず、その運命ははかり難い。人は、この宇宙の真理を深く自覚し、与えられた運命をいつくしみ、自分の内なる真実の声に従うことができる。これこそ最善の人生であり、死さえ克服される。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

哲学とは何か

【人生の時は一瞬にすぎず、その運命ははかり難い。人は、この宇宙の真理を深く自覚し、与えられた運命をいつくしみ、自分の内なる真実の声に従うことができる。これこそ最善の人生であり、死さえ克服される。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
(1) 人生の時は一瞬にすぎず、人の実質は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体は腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、すべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、その運命ははかりがたく、死後の名声は忘却にすぎない。
(2) 我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。この宇宙を支配している真理を深く自覚し、自分自身の内に与えられた最善の真理を守り、これが損なわれぬように、傷つけられぬように、生きることである。
(2.1) あらゆる出来事や、自己に与えられている分は、この宇宙の永遠の運命により与えられているのであって、喜んでこれを受け入れること。
(2.2) 他人が何をしようとしまいと、我々は、何ごともでたらめに行わず、何ごとも偽りや偽善をもってなさず、自分自身の内なる真実の声に従って生きることができる。これによって、快楽と苦痛を統御し得るように保つことができるであろう。
(2.3) 万物は変化し解体する。もし、個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素にとって少しも恐るべきことでないならば、人にとっての死もまた、安らかな心で待つことができるだろう。「それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。」
 「人生の時は一瞬にすぎず、人の実質(ウーシアー)は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組合せは腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。
 一言にしていえば、肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわち内なるダイモーンを守り、これの損なわれぬように、傷つけられぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある。またなにごともでたらめにおこなわず、なにごとも偽りや偽善を以てなさず、他人がなにをしようとしまいとかまわぬよう、あらゆる出来事や自己に与えられている分は、自分自身の由来するのと同じところから来るものとして、喜んでこれを受け入れるよう、なににもまして死を安らかな心で待ち、これは各生物を構成する要素が解体するにすぎないものと見なすように保つことにある。もし個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素にとって少しも恐るべきことでないならば、なぜ我々が万物の変化と解体とを恐れようか。それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第二巻、一七、pp.33-34、[神谷美恵子・2007])
(索引:哲学、ダイモーン、死、ウーシアー)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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2018年5月2日水曜日

真理の探究を続けることが、真の知恵、人間の生活の完成と幸福にとっていかに重要かを、認識してほしい。多くの優れた人たちが、この研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真の哲学と未来への希望

【真理の探究を続けることが、真の知恵、人間の生活の完成と幸福にとっていかに重要かを、認識してほしい。多くの優れた人たちが、この研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
(1) 今後発見されるはずの真理の大部分は、ある特殊な経験に依存し、この経験は決して偶然に出会われるものではなく、極めて知能のすぐれた人たちによって、配意と費用とをかけて求められるようなものだ。
(2) このような特殊な経験を行う能力と、これらの経験を利用して哲学の探究を行う能力の両方が必要だが、これは簡単なことではないだろう。
(3) また、過去行われてきた哲学は欠陥が多く、優れた人たちは哲学に対して悪い考えを抱き、哲学にあまり大きな期待を抱いていないように思われる。
(4) しかし、真理の探究を続けることがいかに重要であり、そしてこれらの真理が知恵のどのような段階に、生活のどのような完成に、またどのような幸福にまで導き得るかを、十分に認識することができれば、多くの優れた人たちが、かように有益な研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。
 「また、これらの原理から導き出し得るあらゆる真理を、かように導出してしまうまでには、幾世紀もが流れるかもしれないことも、私は充分に心得ています。なぜならば、今後発見されるはずの真理の大部分は、或る特殊な経験に依存し、この経験は決して偶然に出会われるものではなく、極めて知能のすぐれた人たちによって、配意と費用とをかけて求められねばならず、そしてこれをうまく利用することのできる同じ人が、そうした経験を行う能力を有つということは、困難であろうからであります。さらにまた、大部分の知能のすぐれた人たちは、彼らが現在まで行われてきた哲学のうちに認めた欠陥の故に、哲学全体に対して悪い考えを抱き、よりよい哲学を求めることに、専念できないだろうからであります。しかしながら結局、これら(私の)原理と、他の人々のあらゆる原理との間に見出される差異、ならびに前者から導き出される諸真理の堂々たる系列とが、これら真理の探究を続けることがいかに重要であり、そしてこれらの真理が知恵のどのような段階に、生活のどのような完成に、またどのような幸福にまで導き得るかを、彼らに認識せしめるならば、私はあえて信ずるのですが、かように有益な研究に従事しようと試みない人、或いは少なくとも、成果をあげてこれに従事するものに好意を示し、その全能力をあげて援助することを望まない人はないでありましょう。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを云々。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、p.29、[桂寿一・1964])
(索引:哲学、特殊な経験、実験)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2018年1月22日月曜日

哲学とは知恵の探究、人間の知り得るすべての事物の完全な知識の探究を意味し、生活の思慮、健康の維持、技術の発見にも及ぶ。これは(1)人間精神が把握できる明白かつ自証的な真理と、(2)原因、原理に基づく演繹過程を基礎とし、単なる「処世の才能」ではない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真の哲学とは?

【哲学とは知恵の探究、人間の知り得るすべての事物の完全な知識の探究を意味し、生活の思慮、健康の維持、技術の発見にも及ぶ。これは(1)人間精神が把握できる明白かつ自証的な真理と、(2)原因、原理に基づく演繹過程を基礎とし、単なる「処世の才能」ではない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 哲学とは、知恵の探究を意味し、人間の知り得るすべての事物の、完全な知識の探究を意味する。完全な知識とは、単に「処世の才能」ではなくして、真理である最初の原因、原理から導かれるようなものである。これら真理は、(1)明白かつ自証的でその真理性を疑い得ないほどに、人間の精神が把握できるものと、(2)原理に依存する諸事物の認識を、原理に基づいて演繹する明白な全過程とに、基づいている。これら完全な知識である真理は、生活の思慮についても、健康の維持やあらゆる技術の発見にも及ぶものである。
 「即ち、この哲学なる言葉は知恵の探究を意味し、知恵とは単に処世の才能ではなくして、生活の思慮についても、健康の維持やあらゆる技術の発見についても、人間の知り得るすべての事物の、完全な知識を意味すること、そしてこの知識がかようなものであるためには、それが最初の原因から導き出されることが必要であり、従って、本来の意味で哲学する、と呼ばれることの獲得に努めるためには、これら最初の原因即ち原理の探求から始めねばならぬこと、またこれら原理には二つの条件がなければならぬこと、即ち一つは、それらが明白で自証的であって、人間の精神が注意深くその考察に向けられるときには、その真理性を疑い得ないほどであること、他は、これら原理に他の事物の認識が依存し、従って原理は事物なくしても認識できるが、しかし逆に原理なくして事物は認識され得ないということ、そしてその後に、これらの原理に依存する諸事物の認識を、原理から演繹し、その実際行われる演繹の全過程のうちに、完全に明白でないようなものは、何も残さぬようにしなければならぬ、と言ったことがら(を説きたかったの)であります。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、p.12、[桂寿一・1964])
(索引:哲学、知恵の探究、完全な知識、原因、原理、明白かつ自証的、演繹)

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哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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