2019年8月31日土曜日

公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

公共政策をめぐる戦い

【公共政策では、市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想をめぐって論争される。なぜなら、この大きな枠組みが個別の認識と、特別な利害関係を考慮した現実的政策に影響を与えるからである。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

公共政策をめぐる戦い
(1)利害関係
 実際には、特別な利害関係を考慮した現実的政策が争われている。
(2)表向きの主張
 表向きの主張では、効率性や公平さに焦点があてられる。すなわち、あくまでも自分たちの利益ではなく、他の人々の利益にもなるという主張がなされる。
(3)枠組み思考の重要性
 市場や国家や市民社会の役割のような、重要で基礎的な思想が、大きな“枠組み作り”を行い、個別の認識は、この枠組みの影響を受ける。

 「不平等の政治学
 ここまで、どのようにしてわたしたちの認識が“枠組み作り”の影響を受けるか説明した。だから、今日の戦いの多くが不平等の枠組み作りの戦いであることは驚くにあたらない。美と同じく公平さも、少なくとも多少は見る人の見かたに左右されるし、最上層の人々は、いまのアメリカにおける不平等が公平なものに見えるような、少なくとも許容範囲内のものに見えるような枠組みになっていることを確信したいと思っている。不公平だと認識されると、職場の生産性に響くおそれがあるだけでなく、不平等を緩和しようとする法律が制定されることにもなりかねないからだ。
 公共政策をめぐる戦いにおいては、特別な利害関係を考慮した現実的政策がどのようなものであろうとも、一般大衆の会話では、効率性や公平さに焦点があてられる。わたしが政府の役職に就いていたころ、産業への助成金を求める嘆願者が、財源が豊かになるからという理由だけで助成金を求めるのを耳にしたことは一度もない。むしろ、嘆願者は公平という言葉を使って――そして、そうすることがほかの人々の利益にもなるという表現を使って――自分たちの要望を伝えてきた。
 同じことは、アメリカで不平等を拡大させた政策についても言える。“枠組み作り”についての戦いは、まず、わたしたちが不平等をどう見るのか――不平等はどのくらい大きいのか、その原因は何か、どのように正当化できるのか――が焦点となる。
 それゆえ企業のCEO、特に金融部門のCEOは、自分たちの高給は社会に大きな貢献をした成果だから正当化できると主張してきた。このような貢献を続ける意欲を持つには高給が必要だということを、他人に(そして自分自身に)納得させようとしてきた。だからこそCEOの高給は報奨金と呼ばれているのだ。しかし、金融危機が、そういうCEOの主張はごまかしだということを白日のもとにさらした。4章で触れたように、報奨金という名称の報酬は、とても報奨金と呼べる代物ではなかった。業績がよければ報酬は高くなったが、業績が悪くても報酬は高いままだった。変わったのは名称だけだ。業績が悪いと、報酬の名称は“慰留金”に変えられた。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第6章 大衆の認識はどのように操作されるか,pp.231-232,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:公共政策をめぐる戦い)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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放射性廃棄物の管理を難しくする理由(a)毒性が非常に強い。(b)半減期が非常に長い。(c)熱を発生し続けるので、小さく集めて管理できない。(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。(高木仁三郎(1938-2000))

放射性廃棄物の管理を難しくする4つの理由

【放射性廃棄物の管理を難しくする理由(a)毒性が非常に強い。(b)半減期が非常に長い。(c)熱を発生し続けるので、小さく集めて管理できない。(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。(高木仁三郎(1938-2000))】

放射性廃棄物の管理を難しくする4つの理由
(a)毒性が非常に強い。
(b)半減期が非常に長い。
(c)熱を発生し続けるので、小さく固めて集めて管理できない。
(d)化学的性質が違う多くの元素を含むので、処理や保管が難しい。
 「放射性廃棄物の特徴は、まず第一に毒性がプルトニウムと同じように非常に強いことです。第二に非常に長生きです。第三に非常にやっかいな特徴として、熱を発生し続けるという、発熱性の問題があります。廃棄物が熱を発生しなければもう少し処理がしやすいのです。一カ所に固めて置いておけばいいのですが、それができないのは発熱性があるからです。原発から出てくる廃棄物を一つにまとめたら小さくなるという話がありますが、一つにまとめられない。もしまとめたら、そのとたんに内部から溶けていきます。地中に埋める場合でもこの点が問題になります。
 さらに、成分が雑多という第四の特徴があります。成分が雑多というのは、化学的性質が違う多くの元素がからんでくるという意味です。セシウムという元素もあればルテニウム、プルトニウム、ストロンチウムなどの元素もある。産業廃棄物もやっかいですが、たとえばクロムならクロムの性質をうまく理解してそれにあった器に入れたり化学処理を考えてやればいいのですから、クロムを閉じ込めたり処分することができます。放射性廃棄物がやっかいなのは、化学的性質を単一に決めることができない点です。学校時代に習った元素の周期律表の端から端までの雑多な元素を含んでいますから、その全部にあった処理方法はなかなかないわけです。それがいろいろなトラブルを起こしてしまう原因です。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第二巻 脱原発へ歩みだすⅡ』反原発、出前します! Ⅳ 核燃料サイクル、pp.387-388)
(索引:放射性廃棄物の管理の困難さ)

脱原発へ歩みだす〈2〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
検索(原子力市民委員会)
ニュース(原子力市民委員会)

難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

法全体に内在する拘束力

【難解な事案を解決するとき、裁判官たちの感ずる拘束を表現する比喩の例:「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(3.3.5)追記。

(3)立法趣旨とコモン・ローの原理
  裁判官は、制定法の立法趣旨、および判例法の基礎に存在するコモン・ローの原理、すなわち政治的権利を根拠に難解な事案を解決し、法的権利を確定する。法的権利は、政治的権利のある種の函数と言えよう。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))
 (3.1)立法趣旨
  ある特定の制定法ないしは制定法上の条項の「意図」ないし「趣旨」
  (3.1.1)権利は、制定法により創出される。
  (3.1.2)特定の制定法により、如何なる権利が創造されたかが問題となる難解な事案が発生する。
 (3.2)コモン・ローの原理
  判例法上の実定的法準則の「基礎に存し」、あるいはそれへと「埋め込まれた」原理
  (3.2.1)「同様の事例は、同様に判決されるべし」とする原理。
  (3.2.2)一般的法理が具体的に如何なる判決を要請するかが不明確な難解な事案が発生する。
 (3.3)難解な事案において、立法趣旨、コモン・ローの原理が果たしている機能
  (3.3.1)制定法は、法的権利を創出し消滅させる一般的な権能を有する。
  (3.3.2)裁判官は、判例法上の実定的法準則に従う義務が一般的に存在する。
  (3.3.3)政治的権利は、立法趣旨、コモン・ローの原理として表現される。
  (3.3.4)如何なる法的権利が存在するか、如何なる判決が要請されるかが不明確な、難解な事案が発生する。
  (3.3.5)裁判官は、立法趣旨およびコモン・ローの原理を拠り所として、自らに認められている自律性を受容し、難解な事案を解決する。
   (a)裁判官たちは、以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。
   (b)裁判官たちは、新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、次のような比喩で表現する。「法全体に内在する新たな法準則」「法の内在的論理に拘束力を持たせる」「裁判官は、法それ自体が純粋に作用するための機関である」「法にはそれ固有のある種の生命が認められる」。
  (3.3.6)したがって法的権利は、政治的権利のある種の函数として定義されることになる。

 立法趣旨  コモン・ローの原理……政治的権利
  ↓      ↓          │
 制定法   判例法上の        │
  │    実定的法準則       │
  ↓      ↓          ↓
 個別の権利 個別の判決………………法的権利


 「裁判官達は、以前の判決が解釈以外の何らかの仕方で、論争の対象となる新たな法準則の定式化に寄与することを認める点では同意しているように思われる。彼らは以前の判決の効力の内実につき意見を異にする場合でさえ、その判決に牽引力が認められることについては意見が一致している。これに対し、ある問題に関してどのような投票を行うべきかを決定する際、立法者はきわめてしばしば背景的倫理や政策上の諸問題にしか関心を払わない。立法者は、その投票が議会の同僚議員のそれと、あるいは過去の議会のそれと矛盾しないことを示す必要はない。しかし裁判官が、このような独立的な性格をもつことは非常に稀である。裁判官は、自己の法創造的判決に対して自ら与える正当化を他の裁判官や公務担当者が過去において下した判決と関連づけようと努めるのが常である。
 事実、有能な裁判官は、彼らの職務を一般的な方法で説明しようとする場合、彼らが新たな法を創造していると自覚するときでさえ感ずる拘束を、そして彼らが立法者であれば適切ではないような拘束を表現するために、何らかの比喩的表現を探そうとする。たとえば彼らは、法全体に内在する新たな法準則を見出したと述べてみたり、政治よりは哲学に属するような方法を通じて、法の内在的論理に拘束力をもたせるとか、裁判官は法それ自体が純粋に作用するための機関であるとか、あるいはたとえ法の生命は論理よりは経験に属するものであっても、法にはそれ固有のある種の生命が認められるなどと述べたりする。ハーキュリーズは、これら周知の比喩や擬人的表現に満足してはならないが、同時にこれらの表現に含まれた最良の法律家へと訴えかける含蓄ある内容を無視するようないかなる司法過程の記述にも満足してはならない。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.139-140,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:法全体に内在する拘束力,法に固有の生命)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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(a)権力の不平等性,(b)不平等を隠蔽する仕組み,(c)善の達成の手段,(d)支配と略奪の道具、これらの属性を持つ、一連の持続する制度化された諸関係の中で、人間は、自らの善と他者たちの善の双方を達成する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

制度化された諸関係

【(a)権力の不平等性,(b)不平等を隠蔽する仕組み,(c)善の達成の手段,(d)支配と略奪の道具、これらの属性を持つ、一連の持続する制度化された諸関係の中で、人間は、自らの善と他者たちの善の双方を達成する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)人間は、一連の持続する制度化された諸関係の中で、自己がある立場を占めているのを見出す。
 例えば、
 (a)家族や家庭
 (b)学校
 (c)ある実践における師弟関係
 (d)地域コミュニティ
 (e)より大きな社会
(2)制度化されたネットワークにおいて、自らの善と他者たちの善の双方を達成するためには、以下のことが必要である。
 (2.1)つねに、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついていることを認識する。
 (2.2)私たちは、権力の実情に即して生きる術と、それに抗して生きる術の双方を学ぶ必要がある。
 (2.3)制度化されたネットワークの諸特性
  (a)権力の不平等性
   権力は、つねに不平等なしかたで配分されている。
  (b)不平等を隠蔽する仕組み
   不平等な権力の配分を、隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えている。
  (c)善の達成の手段
   このネットワークなしには、私も他者たちも、自分たちの善を達成する力を獲得できない。すなわち、開花という私たちの目的を達成するうえで欠かせない手段である。
  (d)支配と略奪の道具
   同時に、支配と略奪の道具として機能することで、私たちの善の追求をしばしば妨げる。
  (e)最悪の状態
   与えることと受けとることに対して課せられる諸規則が、権力の諸目的に実質的に従属しているか、さもなければそれらに奉仕させられているような最悪の状態が存在する。
  (f)最善の状態
   最善の状態とは、与えることと受けとることを律する諸規則が、そこに向けて方向づけられている諸目的に、権力が奉仕しうるようなしかたで、権力の配分が達成された状態である。

 
 「フーコーは、私たちに次のことを気づかせてくれた思想家たちの長い系譜――アウグスティヌス、ホッブズ、およびマルクスは、もっとも著名な彼の先駆者たちである――に連なる最新の思想家にすぎなかった。すなわち、彼らが気づかせてくれたのは、制度化された〈与えることと受けとることのネットワーク〉とは、つねに、権力が不平等なしかたで配分されている社会組織であり、しかも、そのような不平等な権力の配分を隠蔽し保護する巧妙な仕組みを備えた社会組織である、ということである。そうである以上、そのようなネットワークへの参加は、つねに、不当な差別や不当な搾取をこうむる可能性と結びついており、現にしばしばそうした可能性は現実のものとなる。私たちがそのような事実をきちんと認識していない場合、私たちの実践的判断や推論はかなり的外れなものとなってしまうだろう。そうしたネットワークへの参加を通じて、みずからの善と他者たちの善の双方を達成するために私たちが必要とする諸徳は、〔当該社会における〕権力の配分のされかたや、権力の行使が陥りがちな腐敗の諸形態に関する認識を踏まえつつ発揮される場合にのみ、本物の徳として機能するのである。これは私たちの人生全般についていえることだが、この点においてもまた、私たちは権力の実情に即して生きる術と、それに抗して生きる術の双方を学ぶ必要があるのだ。
 そういうわけで、家族や家庭、学校やある実践における師弟関係、地域コミュニティやより大きな社会といった、一連の、持続する制度化された諸関係の中で自己がある立場を占めているのを見出すことが、また、ふつうは時の経過とともにその立場が移り変わっていくことが、ヒト〔の生〕に特有の条件である。そして、そのような制度化された諸関係は、二つの様相を呈して現れる。〔すなわち、一方で〕それらは、これまで私が描写してきたような、〈与えることと受けとること〉という種類の諸関係であるかぎりにおいて、それらなしには私も他者たちも自分たちの善を達成する力を獲得できなかったし、そうした力を維持することもできなかった、そうした諸関係である。つまり、それらは、開花という私たちの目的を達成するうえで欠かせない手段である。しかしながら〔他方で〕、それらはまた一般的に、支配と略奪の道具として機能することで私たちの善の追求をしばしば妨げる。そうした既存の権力のヒエラルキーや権力の用途を具体的に表現している諸関係でもあるだろう。
 その場合、私たちは概して、そうした二重の性格を備えた社会状況のうちに身を置いていることになる。そして、そのような二重の性格は、私たちの諸々の社会関係の構造を支配し、それらを作動させている諸規則や諸規範を、私たちがあまりにも安易に、「その諸規則」とか「その諸規範」などと呼ぶとき、私たちの目から覆い隠されてしまうものである。ときとして二種類の規則群〔私たちの善の達成に寄与する規則群と、私たちの善の達成を妨げる規則群〕は並存しているだろう。あるいは、同一の規則ないしは規則群が、あるときは一方のしかたで、またあるときは他方のしかたで機能するということもあるだろう。一方の規則群と他方の規則群が真っ向から対立しあっている生活様式もあるだろうし、一方の規則群が他方の規則群に従属させらている、もしくは、吸収されてしまっている生活様式もあるだろう。これら二種類の規則の間の、このように多様で、しばしば変化しつつある関係が反映しているのは、〔個々の規則間の〕大小さまざまな葛藤や闘争のその帰結である。〔その場合〕最悪の帰結とは、与えることと受けとることに対して課せられる諸規則が、権力の諸目的に実質的に従属しているか、さもなければそれらに奉仕させられている状態である。また、最善の帰結とは、与えることと受けとることを律する諸規則がそこにむけて方向づけられている諸目的に権力が奉仕しうるようなしかたで、権力の配分が達成された状態である。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第9章 社会関係、実践的推論、共通善、そして個人的な善,pp.141-143,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:制度化された諸関係,権力の不平等性,不平等を隠蔽する仕組み,善の達成の手段,支配と略奪の道具)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。この目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

生存するという目的

【法や道徳、社会の理論の構築のためには、(a)生存するという目的を仮定する必要がある。この目的は、(b)社会により異なる恣意的、慣習的な諸目的や、(c)人によって異なる特定の諸目的とは、本質的に異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(9)追記

 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 考察するための事例。
 (1)全ての出来事は、自然を支配している諸法則に従っている。
 (2)地球が、自然を支配している諸法則に従って、自転している。
 (3)地球が、自然を支配している諸法則に従って、温暖化している。
 (4)時計が、自然を支配している諸法則に従って、止まっている。
 (5)時計が、自然を支配している諸法則に従って、正確に動いている。
  (a)目的と機能
   時計の目的に従って、時計の諸構造の機能を説明することができる。
  (b)目的は人間が導入した
 (6)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、腐ってしまう。
 (7)どんぐりが、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。
   人間は、自然の中に目的を導入し、自然、生命、自らの身体と精神や社会を、目的と機能の言葉で説明する。この目的は、人間が創造できるにもかかわらず、また同時に、何らかの自然の諸法則に基礎を持つ。(ハーバート・ハート(1907-1992))

  (a)目的と機能
   成長して樫の木になることが「目的」だとしたら、この目的のために中間段階が「良い」とか「悪い」と記述することもできるし、どんぐりの諸構造とその変化を、目的のための「機能」として説明することもできる。
  (b)目的は人間が導入した
  (c)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間が、説明のために目的を導入したとしても、どんぐりは自ら、自然を支配している諸法則に従って、樫の木になる。目的自体も何らかの自然の諸法則を基礎に持つ。この意味において、目的は、どんぐり自身のなかに含まれていたとも言い得る。
 (8)人間が、自然を支配している諸法則に従って、滅亡する。
 (9)人間が、自然を支配している諸法則に従って、目的を創造し、それを実現する。
  (a)目的と機能
   人間は、自分自身の目的を創造し、それを実現しようとする。健康と病気の区別と、身体の機能および精神の諸機能。善と悪の区別と、社会の機能。
  (b)目的自体は何らかの自然の諸法則を基礎に持つ
   人間は、自ら意識的に目的を創造できるため、なお、目的自体が何らかの自然の諸法則に基礎を持っていることが信じられなかった。すなわち、何が良いか悪いかを決めるのは人間であり、自然を支配している諸法則からは独立しているのだと考えた。しかし、これは誤りである。
  (c)目的
   (c.1)生存すること
    (c.1.1)事実
     たいていの人間は、通常生き続けることを望むという事実がある。しかし、これは単なる偶然的な事実であると反論することができる。
    (c.1.2)仮定としての目的
     人間の法や道徳、すなわち人間が共同していかに生きるべきかを解明するためには、生存することを目的として仮定して理論を構築する。なぜなら、「ここでの問題は生き続けるための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである」。
   (c.2)生存以外の諸目的
    生存すること以外の目的、人間にとっての善、人間にとっての特定の良き生き方といったものには、様々な意見があり、意見の深い不一致も存在する。
    (c.2.1)人間が作った、単なる慣習である規則や目的。
     個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなものがたくさん見られる。
    (c.2.2)人によって異なる特定の目的。
  (d)目的を実現する手段
   (d.1)危険と安全、危害と利益、病気と治療
    生存という目的を阻害するか、促進するか。生存することが、他の諸目的とは異なる特別な地位にあることは、生存することが、世界や人間相互のことを記述するのに用いる、思考や言語の構造全体に反映されていることから実証できる。
   (d.2)良い、悪い
    生存以外の目的に対しても、目的に役立つかどうかで良い、悪いと語ることができる。
   (d.3)必要と機能
    生存という目的のために「必要」なもの。例えば、食物や休息。目的を実現するための「機能」による説明が可能である。例えば、血液を循環させるのが心臓の機能である。これは、単なる因果的説明とは異なる。

 「さらに、この目的論的な見方の多くは、人間に関するわれわれの考え方ないしは話し方のいくつかに残っている。それは、われわれがある事柄を人間に《必要なもの》と認めて、それを満たすのが《良い》と判断し、また、人間《によって》加えられたり人間がこうむるある事柄を《害悪》であるとか《危害》であると認めるさいに潜在している。たとえば、死にたいという理由から食べたり休息したりするのを拒む人は、たしかにいるかもしれないが、われわれは、食事や休息を、人々が規則的にしたり、あるいは単にたまたま望んだりするよりも、もっとそれ以上のものであると考える。食物や休息は、必要なときにそれを拒む者がいるとしても、やはり人間に必要なものである。こうして、食べて眠ることは、すべての人間にとって自然であると言われるばかりでなく、すべての人間はときどき食べかつ休息すべきであるとか、そうすることは自然にかなった良いことであるとも言われるのである。「自然にかなった」という言葉は、このような人間の行動に関する判断に用いられるのであるが、それは、これらの判断と以下の二つの判断との違いを明示しうる力をもっている。すなわち、思考や反省によって発見されえない内容をもった単なる慣習もしくは人間のつくった規則(「あなたは帽子を脱ぐべきである」)をあらわすにすぎない判断、また、あるときある人が抱き、別の人なら抱かない何か特定の目的を達成するために必要とされるものを単に示すにすぎない判断との違いを明示しうるのである。同じような見方は、身体の器官の《機能》という観念のなかに、また、それと単なる因果的性質とを区別するさいにみられる。われわれは、血液を循環させるのが心臓の機能であるとは言うが、死をひき起こすのがガン腫の機能であるとは言わない。
 これらの粗雑な例は、人間行動に関する普通の考えのなかに、今もなお生きている目的論的な要素を明らかにするために挙げられたのであるが、それは、人間が他の動物と共有する生物学的事実という低い分野から引かれたものである。何がこの種の考え方や表わし方を意味あらしめるかは、まったく自明と言ってよいであろう。すなわちそれは、人間の活動の固有の目的は生き残ることであるという暗黙の前提である。そして、この前提がまた、たいていの人間は通常生き続けることを望むというきわめて偶然的な事実にもとづいている。そうするのが自然になかってよいといわれる行動は、生き残るために必要とされる行動である。人間に必要なもの、害悪、身体の器官あるいは変化の《機能》という観念も同様な単純な事実にもとづいている。もしここで止まるならば、われわれはたしかに、自然法についての非常に薄められた説明しかもたないことになろう。というのは、この見方の古典的な主張者達は、生き残ること(《自己存在の堅持》perseverare in esse suo)を、人間の目的とか人間にとっての善という、それよりずいぶん複雑でまた議論の余地ある概念の中で、もっとも低い次元のものにすぎないと考えたからである。アリストテレスはその概念に、人間知性の公平な要請を含めたし、アクィナスは神に関する知識を含めたが、そのどちらもが将来争われるかもしれないし、またこれまでにも争われてきたような価値を表明している。しかし他の思想家達、なかでもホッブズやヒュームは、すすんでその照準を一段低いところへすえた。つまり彼らは、生存というつつましい目的のなかに、自然法という用語に経験上妥当な意味を与えるところの明白な中心的要素を認めたのである。「人間本性は、個人の結合がなければ決して存在しえない。そしてその結合は、衡平と正義の法に考慮が払われなければ、決して見られなかったであろう。」
 この単純な思想は実際、法と道徳双方の特徴におおいに関係があるのである。しかもこの単純な思想をとり出し、一般的な目的論的見解のより議論の余地ある部分、つまり人間にとっての目的とか善が、ある特定の生き方としてあらわれ、それについて人々の間で事実上深い意見の不一致を招くような部分から、それを分離することが可能なのである。さらに、生存ということに関連して、それは、前もって決められたものであって、人間固有の目標であり目的であるから、人は必ずそれを欲するものであるという考えは、今日の考え方からみると形而上学的にすぎるとして放棄することができる。その代わり、一般に人間が生きたいと思うことは単なる偶然の事実であって、ひょっとするとそうでないかもしれないと考えることができるし、しかも、生存が人間の目標あるいは目的であるという意味は、人間が生存を単に望んでいるという以上に出ないのである。しかし、たとえこのように常識的に考えても、生存ということは、人間行為との関係においても人間行為に関するわれわれの思考においてもやはり特別の地位を占めるのであり、その地位は正当的な自然法理論において生存が重要でしかも必要であるとされていることと相応するのである。というのは、単に大多数の人間がどんな悲惨な目にあっても生きていたいと思うだけでなく、このことが世界や人間相互のことをのべるのに用いる思考や言語の構造全体に反映されているからである。生きたいという一般の人の願望を除外しては、危険と安全、危害と利益、必要と機能、病気と治療というような概念は意味をなさなくなるであろう。というのは、これらの概念は、目的として受けいれられている生存に役立つかどうかによって、ある事柄を同時に記述し、評価する手段であるからである。
 しかし、人間の法と道徳をめぐる議論にもっと直結したという意味では、生存を目的として受けいれることが必要であるという考えにくらべると、はるかに単純で、はるかに哲学的でない考え方が存在する。われわれは、この議論を進めていくさいに、生存を仮定されたものとして取り扱うことにしよう。というのは、ここでの問題は生き続けるための社会的取り決めであって、自殺クラブの取り決めではないからである。われわれは、これらの社会的取り決めのなかに、理性によって発見できる自然法であると位置づけられるようなものがあるかどうか、またそれは、人間の法や道徳とどのような関係をもつのかを知りたいと思う。人間が共同して《いかに》生きるべきかについて、このような、もしくは何かほかの問題を立てるためには、一般的にいって人間の目的は生きることであると仮定しなければならない。この点から出発すれば議論は簡単である。人間本性および人間の住む世界に関するいくつかの非常に明白な一般原則――まさに自明の真理――を熟慮してみると、それらが妥当するかぎり、いかなる社会組織でも、それが存続しようとする以上もたなければならない一定の行為のルールのあることがわかる。このようなルールは、法と慣習的道徳が社会的統制の個別の形態として区別される時点まで進んだあらゆる社会の法と慣習的道徳に、しかも実際には両者に共通の要素となるのである。そのほかに、法と道徳の双方に、個々の社会に特有のものや、恣意的もしくは単なる選択の問題にすぎないようなものがたくさん見られるのである。人間、その自然的環境、目的に関する基本的な真理に基礎をおくこのような普遍的に認められた行為の原則は、自然法の名の下にしばしば提出された、より大げさでより疑わしい理論と比べてみると、自然法の《最小限の内容》と考えられるであろう。次の節において、われわれは、この謙虚だが重要な最小限の内容が拠って立つ人間本性の目立った特徴を、5つの自明の真理といった形で考察しよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第1節 自然法と法実証主義,pp.208-210,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:生存するという目的)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

欺瞞的な主張

【政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b)追加。

欺瞞的な主張
(a) 政治的な主張においては、結果を伴わない修辞的で一般的な主張の欺瞞に、注意すること。実際に何を得ることができるのか。法的、制度的に何を変更して、何が保障されることになるのかを問うこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

(b)政治的な主張においては、具体的な法的・制度的な保障を要求しない、単なる抵抗、蜂起、反乱、革命を求める主張の欺瞞に、注意すること。それは始まらず、始まっても成功せず、成功しても救済策ではない。

 「抵抗が必要であると想定するのは、悪政の存在を想定することであるが、抵抗の保障ということは、人民に抵抗をその弊害に対する救済策だと思わせて、悪政に満足させようともくろまれているに過ぎない。実は、抵抗は決して救済策ではない。その理由には、二つある。第一の理由は、すべての人々は自分の身体と財産を内乱の危険にさらすことを嫌うために、抵抗する以前に非常な悪政に進んで服従することである。しかし、その上、革命は、それが起こった時でさえ、それ自体として何らの利益を生み出しはしない。革命は、善政に対する永久的な保障を樹立するのに貢献する限りにおいてのみ有益なのである。このような効果がないならば、革命のすべての犠牲は、全くの害悪である。それなのに、善政に対する保証に常に懸命に抗議してきた『エディンバラ・レヴュー』は、抵抗の原理を抑圧に対するわれわれの唯一の保障として支持している。それは、なぜであろうか。それは、抵抗の原理が、原理のように思われるその他のすべてのものと同様に、本当は保障にはならないのに、人民の目先のきかない人々の好意を得るようにもくろまれており、しかも貴族階級の臆病な人々以外は驚かせないからである。貴族階級の中で恐怖の余り全く理性を失った人は別として、他の人々はすべて、彼らが恐れる理由のある唯一の抵抗である蜂起の成功が普通の政府の下ではめったに起こらないこと、また、彼らの側にごく普通の慎重さがあるならば大抵の場合起こるのを防ぐことができると知り抜いている。従って、彼らは、人民が効果的ではない救済策に注目を集中して、効果的な救済策から目をそらすことに満足しているのである。
 『エディンバラ・レヴュー』の筆者の政治に関するすべての言辞は、彼らが人民が悪政に対抗する保障を求めることを阻止しようと願っていることを立証している。彼らが或る法律または制度を称賛するのは、それが善政に貢献するからではなく、自由にとって有利だからである。彼らが政府の政策を非難するのは、それが圧政への扉を開くからではなく、それが非立憲的だからである。このような言辞は、すぐあとで明らかにするように、善政の問題をあいまいにしようと欲する人々にとって、極めて便利なのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『「エディンバラ・レビュー」批判』(集録本『ミル初期著作集』第1巻),1 若きベンサム主義者として(1821~26),4 「エディンバラ・レビュー」批判(1824),pp.144-146, 御茶の水書房(1979),杉原四郎(編集),山下重一(編集),山下重一(訳))
(索引:欺瞞的な主張)

J・S・ミル初期著作集〈第1巻〉1809~1829年 (1979年)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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