2019年8月20日火曜日

「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

善には善を

【「善には善を」は、正義の原理である。なぜなら、恩恵に対する返礼は、自然で合理的な期待であり、それを裏切ることは、救済が正当化されるような重大な危害を与えるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(b.3)へ追記。

 (2.4)正義と便宜や機略の間には、本質的な違いがある。
   正義と、便宜や機略との違い。(a)強い拘束性、(b)互いに危害を与えることの禁止、(c)危害を受けることへの恐れ、(d)規則を互いに認識することの利益、(e)違反の影響の大きさ、(f)報復の感情を伴う(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)強い拘束性
  「全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則」という性格が、正義に、便宜や機略を超える神聖性と強い拘束力を与えている。従って、正義が満足されてからはじめて、便宜や機略は傾聴されるべきである。
  (b)互いに危害を与えることの禁止
   正義は、人類が互いに危害を与えることを禁じる規則を含んでいるが、この規則は、人生の指針となる他のあらゆる規則よりも、人間の福利にとって不可欠なものである。
   (b.1)直接的で不当な侵害行為
   (b.2)自由への不当な干渉
   (b.3)自然的あるいは社会的に理にかなった根拠に基づいて、人が見込んでいる何らかの善を、その人に与えないこと。
    (b.3.1)恩恵を受けた人は、その恩恵に対して返礼することが、自然で合理的なこととして期待されている。すなわち「善には善を」は習慣的に、十分に確信され信頼されている原理である。
    (b.3.2)相手が必要としているときに、恩恵に対する返礼を拒否することは、合理的な期待を裏切ることであり、相手に重大な危害を与える。
    (b.3.3)事例として、友情に背いたり、約束を破ったりすることは、重大な危害を与える。
  (c)危害を受けることへの恐れ
   人は、他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことはつねに必要としている。
  (d)規則を互いに認識することの利益
   正義の規則は、他の人に互いに教えあい、認識させることが必要で、明白な利益がある規則であると、最も強く感じられている規則である。
  (e)違反の影響の大きさ
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、もし正義の規則が遵守されることがないならば、各人が他の全ての人を敵とみなして、絶え間なく自分の身を守り続けなければならなくなるだろう。
  (f)報復の感情を伴う
   正義が、違反者を処罰したいという感情に起源を持っていることによって、悪には悪をという報復の感情が、正義の感情と結びつくようになる。この感情は、自己を守るという衝動、他の人を守るという衝動、復讐の衝動を基礎に持つと思われる。

 「善には善をというのも正義の命じていることである。そして、その社会的功利性は明らかであり、それは自然な人間の感情を伴っているが、これは一見したところ、正義・不正義のもっとも基本的な事例において存在し、正義の感情に特有の激しさの源泉となっている、危害や侵害とのはっきりとした結びつきをもっていない。しかし、この結びつきは明白でないけれども実在していないわけではない。恩恵を受けながら、必要とされているときにその恩恵に対して返礼をすることを拒否する人は、もっとも自然で理にかなっている期待のうちの一つを裏切ることによって、そしてその人が少なくとも暗黙的には抱くように仕向け、それがなければ恩恵がもたらされることはまずなかったと思われるような期待を裏切ることによって、実際に危害を与えている。人による害悪や不正のなかで期待を裏切ることが重要な地位を占めていることは、それが友情に背いたり約束を破ったりするという二つのきわめて不道徳な行為の主要な違反要件になっているという事実に示されている。習慣的に、また十分に確信して信頼しているものに必要としているときに裏切られることほど、人が受けうる危害が重大なものはほとんどないし、これ以上の大きな危害を受けるものはない。このように善を与えないだけのことであるが、これ以上に重大な不正はほとんどないし、これ以上に被害を受けた人や共感を抱いている傍観者に憤りを感じさせるものはない。したがって、各人にふさわしいものを与える、つまり悪には悪を与えるとともに善には善を与えるという原則は、私たちが定義した正義の観念に含まれているだけでなく、人を評価する際に正義を単なる便宜性よりも重視させる、あの激しい感情の適切な対象にもなる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.340-343,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:善には善を,正義の原理,合理的な期待,恩恵に対する返礼)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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