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2020年4月19日日曜日

39.歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))

狂信的な信仰の害悪

【歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。しかし、倫理的に異論のない善き意志と善き信仰、また啓蒙や合理主義の理念も、それが狂信的な信仰になるならば、常に禍であり、多元的な社会秩序とは相容れない。(カール・ポパー(1902-1994))】
参考:歴史に「意味」を与えるのは私たち自身である。例えば、永遠平和の理念は国際政治上の目標として承認されている。たとえ未だ厳しい現実と課題解決の困難さが存在しても、目標設定の価値を過小評価してはならない。(カール・ポパー(1902-1994))
 「さて、〔歴史に〕意味を与えるという理念の第二のより重要な意味の検討に移りたいと思います。〔歴史に〕意味を与えるとは、われわれが、自らの個人的な生にばかりではなく、われわれの政治的生に、つまり、政治的に考える人間としてのわれわれの生にひとつの課題を与えることです。とりわけ、歴史の無意味な悲劇を耐え難いものと感じ、またそこに未来の歴史をより有意味なものにするために最善をつくせという要求を見る人間としてのわれわれの生にひとつの課題を与えることです。しかし、この課題は難しいものです。というのも、善き意志と善き信仰が悲劇的にわれわれを惑わすことがあるだけに、ことに難しいのです。そして、わたくしはこの講演のなかで、啓蒙の理念を弁護しているので、まず啓蒙や合理主義の理念もまた実に怖るべき結果を導いたことを指摘しておく義務があると感じています。
 カントはフランス革命を歓迎しましたが、そのカントに、自由、平等、友愛の名のもとで、もっとも嫌悪すべき残虐行為がおこなわれうることを、つまり、かつて十字軍の時代、魔女焚殺の時代、三十年戦争の時代に、キリスト教の名のもとで行なわれたのと同様の嫌悪すべき残虐行為がおこなわれうることを教えたのは、ロベスピエールの恐怖政治でした。しかし、カントはフランス革命の恐怖の歴史からひとつの教訓を引き出しました。その教訓は何度繰り返されても十分ということはないものです。つまり、狂信的な信仰は常に禍であり、多元論的な社会秩序の目標とは一致しがたいものであるということ、われわれの義務は、どのようなかたちの狂信にも――その目標が倫理的に異論のないものであっても、ことにまたその目標がわれわれの目標であっても――抵抗することであるという教訓です。
 狂信のもつ危険、そして狂信に対しては常に対抗すべきであるという義務は、おそらくわれわれが歴史から引き出すことのできるもっとも重要な教訓のひとつでしょう。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第2部 歴史について,第10章 知による自己解放,pp.228-229,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))
(索引:狂信的な信仰,意志,信仰,啓蒙,合理主義,多元的な社会秩序)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2018年5月9日水曜日

想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところまで高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

想像力と信仰

【想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところまで高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
(a) 悟性と理性は、決定と判定を生む。
(b) 意志と欲望と感情は、行動と実行を生む。
(c) 想像力は、感官と理性の代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。
 感官が、想像力に映像を送ってはじめて、理性が「真」であると判定を下す。
 理性が、想像力に映像を送ってはじめて、理性の判定「善」が実行に移される。すなわち、想像はつねに意志の運動に先だつ。能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴えることによるのである。
(c') 想像力は、感官や理性からの「真」や「善」の伝言の使者に過ぎないのではなく、それ自身決して小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。すなわち、感官や理性の伝言を超えて、自ら「真」や「善」の権威を僭称する。
(d) 信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なのである。

 「人間の精神の諸能力に関する知識には二つの種類がある。

すなわち、その一つは人間の悟性と理性に関するものであり、他の一つは人間の意志と欲望と感情に関するものである。

そしてこれらの能力のうちさきの二つは、決定あるいは判定を生み、あとの三つは行動あるいは実行を生む。

なるほど、想像力は、双方の領域において、すなわち、判定を下す理性の領域においても、またその判定に従う情意の領域においても、代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。

というのは、感官が想像力に映像を送ってはじめて理性が判定を下し、また理性が想像力に映像を送ってはじめてその判定が実行に移されることができるからである。それというのも、想像はつねに意志の運動に先だつからである。

ただし、この想像力というヤヌス〔二つの顔をもつローマの神〕はちがった顔をもっていないとしてのことである。というのは、想像力の理性に向けた顔には真が刻まれ、行為に向けた顔には善が刻まれているが、それにもかかわらず、
 「姉妹にふさわしいような」〔オウィディウス『変身譚』二の一四〕
顔なのであるから。

なおまた、想像力は、ただの使者にすぎないのではなく、伝言の使命のほかに、それ自身けっして小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。

というのは、アリストテレスの至言のように、「精神は身体に対して、主人が奴隷に対してもつような支配力をもっているが、しかし理性は想像力に対して、役人が自由市民に対してもつような支配力をもっている」〔『政治学』一の三〕のであって、自由市民も順番がくると支配者になるかもしれないからである。

すなわち、われわれの知るように、信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なのである。

それからまた、能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴えることによるのである。」

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一二・一、pp.207-208、[服部英次郎、多田英次・1974])

(索引:想像力、感官、理性、意志、宗教、信仰)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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