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2018年5月9日水曜日

想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところまで高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

想像力と信仰

【想像力は、感官や理性の代理人となり真の判定、善の実行を助けるが、想像力自身に真や善の権威が付与されるか、それを僭称している。信仰の問題で、想像力は理性の及ばないところまで高まる。比喩と象徴、たとえ話、まぼろし、夢。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
(a) 悟性と理性は、決定と判定を生む。
(b) 意志と欲望と感情は、行動と実行を生む。
(c) 想像力は、感官と理性の代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。
 感官が、想像力に映像を送ってはじめて、理性が「真」であると判定を下す。
 理性が、想像力に映像を送ってはじめて、理性の判定「善」が実行に移される。すなわち、想像はつねに意志の運動に先だつ。能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴えることによるのである。
(c') 想像力は、感官や理性からの「真」や「善」の伝言の使者に過ぎないのではなく、それ自身決して小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。すなわち、感官や理性の伝言を超えて、自ら「真」や「善」の権威を僭称する。
(d) 信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なのである。
 「人間の精神の諸能力に関する知識には二つの種類がある。すなわち、その一つは人間の悟性と理性に関するものであり、他の一つは人間の意志と欲望と感情に関するものである。そしてこれらの能力のうちさきの二つは、決定あるいは判定を生み、あとの三つは行動あるいは実行を生む。なるほど、想像力は、双方の領域において、すなわち、判定を下す理性の領域においても、またその判定に従う情意の領域においても、代理人あるいは「使者」の役割をつとめる。というのは、感官が想像力に映像を送ってはじめて理性が判定を下し、また理性が想像力に映像を送ってはじめてその判定が実行に移されることができるからである。それというのも、想像はつねに意志の運動に先だつからである。ただし、この想像力というヤヌス〔二つの顔をもつローマの神〕はちがった顔をもっていないとしてのことである。というのは、想像力の理性に向けた顔には真が刻まれ、行為に向けた顔には善が刻まれているが、それにもかかわらず、
 「姉妹にふさわしいような」〔オウィディウス『変身譚』二の一四〕
顔なのであるから。なおまた、想像力は、ただの使者にすぎないのではなく、伝言の使命のほかに、それ自身けっして小さくない権威そのものを付与されるか、そうっとそれを僭称している。というのは、アリストテレスの至言のように、「精神は身体に対して、主人が奴隷に対してもつような支配力をもっているが、しかし理性は想像力に対して、役人が自由市民に対してもつような支配力をもっている」〔『政治学』一の三〕のであって、自由市民も順番がくると支配者になるかもしれないからである。すなわち、われわれの知るように、信仰と宗教の問題において、われわれはその想像力を理性の及ばないところに高めるのであって、それこそ、宗教がつねに比喩と象徴とたとえ話とまぼろしと夢によって、精神に近づこうとした理由なのである。それからまた、能弁によって行われるすべての説得や、事物の真のすがたを色どり偽装するような、説得に似た性質の印象づけにおいて、理性を動かすのは、主として想像力に訴えることによるのである。」
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一二・一、pp.207-208、[服部英次郎、多田英次・1974])
(索引:想像力、感官、理性、意志、宗教、信仰)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


フランシス・ベーコン(1561-1626)
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